家庭という世界はしばしば「理屈よりも情が規範となりえる」のだ。
「何を言うの、子を思わない親はいない」「子どもはどんな親でもかけがえのない親」と。まるで親を親としてイメージする事ができない人を見た事がないかのように強い反撃である。家庭の人のこの思いの強さ、瞬間的な、親否定をする人への怒り・・・これは何だろう。なぜ家庭育ちの彼らは「どんな親でも思えてしまうのだろうか。
「子どもはどんな親でも親が大好きなのよ」というコトバは親によって育てられた事のない養護施設児童にとって理解しにくい言葉だ。特に物心付いた頃にはすでに施設にいた児童にとっては「どんな親でも」の「どんな」という言葉から、自分の過去データから引っ張り出せる具体的な親の像が検出されなければ、その言葉はコトバでしかなくただの記号、リアクションに困る事となる。
しかし、少しばかり周囲の家庭育ちの人々を「そのつもり」で観察するようになった為、施設育ちには理解しづらい「どんな親でも親が一番好き」である子どもの親への愛着についても、少しは頭で判るようになってきた。
夫が幼い頃、周辺の子どもに対して分け隔てなく接していた憧れのおばさんがいたそうだ。お菓子をどの子にも均等に配り、どの子にも優しい言葉かけをし、どの子にも深い愛情を注いでいるように見えた。
ひるがえって彼の母親は、彼と彼の兄弟にしかその優しさを向ける事はなかった。彼の母はわが子だけが興味の対象なのだ。※彼女が他人の子に意地悪するわけではないです。
彼は「人間的に尊敬できない母だ」「彼女は不平等で、他人の子より自分の子だから」と笑いつつも、でも「自分を思う母心だけは疑った事がない」と、母親について述べた。
彼にとっては母が人間的にどうであるかは二の次で、彼にとって重大なのは母が自分だけ(兄弟がいれば、兄弟も含め)を見てくれるたった一人の親であるかどうかなのだ。この部分が限りなくいつも完璧だった彼の母親は、彼の目には「全くしょうがない親だ」と言いながらも、どの子にも優しい近所のおばさんなどより、ずっと彼の中では強い愛着の対象者なのだそうだ。
夫が子どもの頃、少しでも傷をつけて家に帰ると事情もろくに聞かず相手の家に怒鳴り込んでいったそうだ。でも事情がわかり、最初に喧嘩を仕掛けたのが夫だという事がわかると苦笑いしつつ、でも瞬間的に沸騰して相手の家に怒鳴り込んだ事自体、悪い事だとは思っていないようである。
これが施設ならこういうマチガイは起こらないのに。
それはともかく、そのような出来事も彼は人間としては理屈も理性ものぶっ飛んだ、自分を愛してくれている母親像を固定化させるエピソードとして、彼の内面に残ったそうである。
子は親に人間的正しさよりも自分だけを見てくれる事を要求し、親も子どもの正しさよりも、どんなわが子でもわが子であるという認識を伝えるべく行動する。集団生活や、社会的モラルについては後から学べるが、親と子の絆の構築は幼い頃にこそ大事に紡ぐ必要があるという認識を、わたし個人は共感できるかどうは棚にあげ、この話から得られた。
冒頭で述べたどんな親の「どんな」というのは、イメージが沸くくらい共にいた人である。乳児院・施設へ長期放置した親は「どんな親」に加入できない、育ててこそ「どんな親」なのである。
| 養護施設を出てからの問題 | 06時35分 | comments:7 | trackbacks:0 | TOP↑
ありがとうございます
あさかぜさん、状況を知らないままの手探りの会話ですが真摯に答えてくださり感謝します。そして必要を超える説明をさせてしまいましてすみませんでした。
>わたしは生きている限り、わが子のサポーターであり続けたいと願いますし、そうあるよう努力し続けるつもりでいます。そうすることが、わたしにとって最大の生きがいであり、最高の幸せであるからです。
このコトバにうれしく思いました。そして「自閉症」の児童に関する説明もありがとうございます。わたしは立場が、どうしても遺棄や放棄の結果、児童養護施設で過ごした体験から、物事を考えています。
すこし不安に思いましても状況説明をしてくだされば、新しいファクターが与えられ、そこから又考える事ができます。あさかぜさんの真摯さに、わたし達も記事を、不器用かもしれないけれど、ストレートにシンプルに書いていこうと思いました。
又、何か気付いたらコメントを下さいね。本当にありがとうございました。
| レイ@あさかぜさんへ | 2007/01/31 09:11 | URL | ≫ EDIT