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家庭というのは、非言語的要素の固まり

こもれび


 わたしが生まれて初めて出会った普通の家庭は、わたしの情報処理能力の限界をはるかに超えている。彼ら一般家庭で育った人々は、別に研究者が論文を書くためのデータ集めをしたり、分析・解析したりする時のような必死さを必要としない。彼らは全くもって簡単に家庭をイメージできてしまう。だから家庭で育てられた人の言葉は短いし、時に言葉など必要としていない。家庭の人でも再定義が必要な人々については、機能不全家庭の出身者が多いという事にも同時に気づかされるがここでは割愛。

 わたしは必死に明文化しなくては何事も理解できないまぬけなロボットの人工知能を持っていて、一つ一つ定義してやらなければ、"ぬくもりを与える"という命令一つで十分誤動作してしまう。

 夫などは「母のぬくもり」というキーワードをひとつ与えれば、彼自身に関連のある過去のデータ・ベースからイメージをピックアップし(わたし視点で)さらっと語り始めるのだ。

 彼は彼自身のセンサーで母のぬくもりを受け取り、再現し、堪能する力を会得している。そして堪能したその無形の母のぬくもりを、結婚相手であるわたしにも表現する事を求め、一族の血縁である子どもへ伝達する事を求める、でもそれは彼にとっては当然至極な一生のサイクルの一部分なのだろう。

 「あたたかい家庭」「家庭のぬくもり」「家庭の団欒」と一言言えば、彼はすぐに遠い目をする。
 Now Lording・・・

 その間、彼は過去のデータベースにアクセスしているのだろう。そしてアクセス完了した彼は、これら短いキーワードとイメージをフルセットにしてエモーショナルな表現で、母の愛について、よどみなく、文字通りわたしの知らない世界の出来事を語りだすのだ。

 それは、わたしの目には彼はいちいち定義づけしたり、キーワードを突き詰めなくとも、もっと気楽に彼の子ども時代のデータベースの中の一つのイメージファイルにアクセスする事で、それを「当然の事として」語っているにすぎないのか、わたしの目にはそれは長い間、とても不思議な光景だった。

 におい、あたたかさ、優しい声、ミルクの味、同じ顔。

 これらに言葉は必要ないし分析もいらない、情報処理なんてバックグラウンドで勝手にやってくれと言わんばかり。子どもは「身を任せていても捨てられない世界」が人生の最初にあれば、それを原点にして歩き出せる・・・。幼い子どもがその大人に身を任せる事、その事に不安を覚えずにいられる事が確認済みなら、心に原風景を携え、ルーツを持った人間として歩いてゆける、漕ぎ出してゆける。そしてその"安心"を次の子どもへ手渡す事ができる。

 わたしは、親と子、家族間という、この瞬間の二者間の膨大な非言語的情報伝達を言語化するなどとうてい不可能だと感じる。何しろわたしの知らない世界だ。

 でも親密な親による非言語化コミュニケーションを当然の事として受けてきた夫は、わたしが、非言語化に立ち向かうべく莫大な量の主観を文章化し、ウェブサイトやブログで発信し続けているのを見て、おおまかにこう表現した。

 「君は家庭一つ作るのに、まるで大学の社会学の研究者や学者、あるいはロボット工学を目指す人のように、定義、再定義、分析、結果、命令、感情の表出を延々とやり続けないといけないの? いちいち考えるような内容じゃないのに」と驚いている。

|  養護施設を出てからの問題 | 10時02分 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑














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