誰もいないか、もしくはい過ぎて誰が誰だか分からないか
愛着を築く時に「危険」な瞬間があると思う。特定の誰かがまず出来て、その事実さえも定着しないのに、そのうえその人と距離が近づいたような気がした時、愛着を作る場は「戦い」の場へ戻される。
つまり昨日、何となくこの子が慣れてくれたようで、家族に一歩近づいたかなと思った瞬間に、次の日には元の冷たい態度へいつの間にか戻っている、その態度の豹変にショックを受けるだろうという事。とくにそういう態度を示す里子がいないとは限らないと個人的に思う。
なぜなら、
その瞬間、里子は自らの内面にある「通常」があるのに、今までとは違う「新しい価値観を親しげな親から押し付けられた」ように感じてしまい、その結果、今までの世界を捨てなくてはならなくなるから。施設という価値観で育ってきたのに、今度は家庭の価値観へ全ての意識を切り替えないといけない、これも大変な心理的負担だ。
今までは誰か1人に愛着を示す事は正しい事ではない世界に住んでいた子どもにとって、急に現れた人に愛着を示す事が全てタブーを侵す事に感じられたり、又、全く人との接し方を知らない子も多い。
たとえば自分を例に出すと、親役の人(便宜上こう言う)がかもし出す「親しそうにして当然」という態度を見た時、子ども役の自分は無性にいらだったり、怖くなったりして、拒絶感と、本来的ではないという感覚が鋭敏になる。そして、次の瞬間には「自分はあなたの関係者じゃない」事を相手に教えてあげなくちゃいけないという必死な気分になってくる。
大人の自分でも愛着を作れなくて周囲を混乱させているのだ、施設から来た小さな子の態度にも通じる理屈ではないかと思う。
とはいえ里子本人に悪意は全くないのである。
でもその「悪意がないとはとうてい思えないその態度」に親の内面には怒りが沸いてくるだろう。里子としてはたんに親と名乗る人に、間違った距離感覚を教えているだけなのに(施設でしつけられたように)家庭しか知らない里親は激しく傷ついてゆく。
自分の場合は、誰か特定の人による慣れない親密感と特別感に基づいた接し方をした時、又は親密度が「発展」しそうになると、なにか自分は「マチガイ」をしているのではないかと自動的な思考回路に入ってしまう。内容は分からないが、マチガイをしていると瞬間的に気持ちが引き戻されるので、相手の人はその度にこの感覚こそがマチガイだと教えてくれる、でもその感覚を捨てたら自分ではなくなる・・・。自分を変えるのは容易ではない。大人の自分だからなおさらである。
でも自分だって必死だ。自分の中にインプットされているオートプログラムは「正しい位置を歩いていないよ」という危険信号と、本来歩くべく道筋を伝えてきて、それをGPS代わりに、元々正しい道だったと感じる道へ戻ろうと焦る。その状態を、わたしは「反復性無愛着症候群」だなんて造語を呟いている。
「元々正しい道、位置、周囲に誰か特定者がいるのか、いないのか」というものがいつ、どこで、何歳頃にインプットされたか分からないが、一番自分が馴染む他人との距離間は「となりの銀河系」レベルだという事。
誰もいない、もしくは居過ぎて誰だかわからない、果てない宇宙と満天の星空のようにつかみ所のない抽象的世界にいるのに、誰かがやってきて「自分はあなたと関わっている人」という雰囲気を見せられると逃げなくちゃいけないと思う。
誰もいない、もしくはい過ぎるので脳ミソの処理が追いつかない。
だから、憎むにしろそうでないにしろ、誰か特定の対象者がいて、裏切ったとか裏切ってないとかを言い続ける人に対して、何か、どこかうらやましさを感じなくもない。それでいながら自分は、誰ともかかわりのない立場にいて、人間群像を高みの見物で眺めてるようなところがあり、そこがおそらく冷たい心の部分だろう。
施設育ちの人でも、誰か特定の対象者に対して育てられ方の恨みつらみ、憎しみ、愛情などを持っていて処理しきれないという事は、わたしからみたら、どこか、やはり人間らしいのかもしれないと思う。
里親さん、ステップファミリーの方々はきっと「愛着づくりの現場」を温かな場所だなんて思っていないだろう。わたし自身、いい大人になって、今目標にしているのは、今絆づくりをしている人(Wolfさん、Maria固定)への心のモチベーションを保つ事だから。すぐに忘れてしまう、すぐにリセットしてしまう、すぐに相手も多くのたくさんの人の中に埋もれてしまう。
そして特別感を一時期必死に育てても、その特別感から真っ先に薄らいでゆき、そのうち、誰が誰かわからなくなってゆく・・・。まるでアルツハイマーのようかもしれない。
だから、何度も何度も「接着」「固定」しなおさなくちゃいけない。何度も何度も自分とあなたは関係者であると教えなくちゃいけない。そうしないと、自分も含め、相手も多くの群集の中の顔の分からない存在へ戻ってしまう。
だから絆作りは戦いだという事が分かってきたのだ。
少なくともわたしがいた児童養護施設は徹底的に無愛着を促進していたと捉えています。
| 整理中の課題&記事 | 06時54分 | comments:5 | trackbacks:0 | TOP↑
かなり昔にトラバしていたようで、すみません。
はじめまして、ちひろさん。少し記憶が弱くて、ちひろさんのURLに行きましたら自分からトラバしているのが残っていました。わざわざ来ていただいてすみません。
>>誰もいない、もしくはい過ぎるので脳ミソの処理が追いつかない。
>印象に残る、意味深い表現ですね。
>なんとはなくわかるような気もしますが・・・
>少しでもよく解るようになりたいです。
心が忙しいという感覚です。あと、ざわめきが多すぎて何を自分が取捨選択すれば正しいのかとかが判らなくなるような感じ・・・というか選択権がないままのような気もしている。
大勢の中で今も暮らしているようなざわめきが心の中にある居室空間の原点なので、1人で家にいるときでさえ、1人になれた気がしないような・・・。
うまく言えません、やっぱり。うまく言えないのにコメントしてしまいました。
| レイ@ちひろさん、はじめまして | 2007/09/08 13:19 | URL | ≫ EDIT