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ひとりで生きてる感じは、小学生の頃にはとっくに身に付いてる

問題は、里親家庭に引き取られたり、せっかく結婚したり、絆相手が出来ても反復する戦場の心理があるために、つい大事な相手を必要以上に傷つけてしまうという事だ。


昔、ある、家庭で育てられて虐待を受けていた人が「誰か助けてくれる人が現れるのを待っていた、ウルトラマンを待っていた」と言っているのを読み何故かその気持ちを分かってあげられなかった。


自分で何とかしてきたという自負があるから、誰かが助けにくる事は想像外だった。でも、言いたいのは家庭と施設の問題の比較ではなく、その内容。施設では対象者がいないという事だ、でも家庭はどんなむちゃくちゃな相手でも対象者だけはいる。怒りを向けるにしても愛着を持つにしても、もしかしたら助けに来てくれるかもという淡い期待も。。


わたしは、その人の言葉を読んだ時、施設に棄てられているし誰も居ない事は前提だったから「自分の命を自分で守る以外に生き延びる術はない」と確かに自覚していた。何故そう思うのかも、どういう境遇だったのかも断片の記憶以外は全く覚えがないのだけど、この時の研ぎ澄まされた感覚だけはすぐに戻ってくる。


そんな子が家庭へ引き取られたりすると、ともかく戸惑う。この平安に戸惑う、そして時間が経つにつれ、訳の分からない不安が押し寄せてくる。こうも平和が長く続く筈がないと心のどこかで警戒心が頭をもたげる。文字通り心臓が高鳴る。


施設から来た子は単に無愛着であるだけでなく、常に刺激を求めてやまない戦場の戦士のようなものだ。家庭の人は、よほどの機能不全家庭で無い限り、この世の戦争はどこか遠い世界の話だろうと思うだろう。


だから、この家庭へやってきた子がイライラと不安そうに当たりを見回し、急に親が触ると跳ね除けたり、キッと睨みすえたり、奇声を発して感情が混乱したりするのを目の当たりにすると、何がなんだか分からないだろうと思う。この狂ったような子をどうしたら?と思うだろう。


でも子どもは子どもで思っている。


何故この家庭の人たちには緊張感がないのだろう。何故このめちゃくちゃ不安な気持ちを、この里親さんは共有してくれないんだろう。あなたは、わたしをひきとったんでしょう?何故平安をごく普通に享受しつづけてるの?


そんな事さえもが怒りの理由となってしまう。本来なら家庭は平和であるべきなのに、その平和をめちゃくちゃにしたくなる時がある。その心理と戦う事は施設育ちの重い課題。戦いだけが全てだった施設育ちは、いきなり平和な家庭へ身をおき、自分の本分が生かされない不安を覚え、本来なら戦う相手ではない、自分を愛する人を傷つけないと気がすまなくなってくる。


それほどに、戦う気持ちが、人生の一番最初の頃に決定付けられてしまったと感じる。


でも、本当は決定付けられてなどいない・・・・。
自分が、がんばって、相手を信じさえすれば、決定は反故になる。

という、ような事を養護施設の元・措置児童としてはごく普通に思うのだけどそのような思い方が普通の家で育った人たちとはズレまくり、施設では虐待を受けてなくとも自力で生きるという感覚が身に付いているのかと自問自答している。


※名指しですみませんがWolfさん、よかったらレスをお願いします。戦記じゃない方が良かったら記事を移動します。無愛着児童が大人になると自立した人間になるかも知れないですが、施設職員が怒らないところで普通の人は怒るので困惑します。

|  整理中の課題&記事 | 17時48分 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑














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