「部屋会議」と称する批判、自己批判、自己反省の時間
「施設育ちの発言を施設育ちは気になるものなんですよ。同じような育ちだから、違うと思う部分を整理するために話しかける、それっていけない事でしょうか。」と施設育ちのある方が言った。
この文章を読んだ時、恥ずかしいのだけど懐かしい思いがした。なつかしい?なにが?この文章のなにが?
しばらく考え込んでいて・・・。
ぼんやりと霞が掛かったような雰囲気だけが感じられて、そうだ、確か「部屋ごとの会議が定期的に行われていた」という事を思い出し?たようだった。まず変な懐かしさだけを思い出して、その後、はっきりしないけどその場面の雰囲気だけが胸に迫るというような感覚、これも記憶の一種か?
その時に議題として上がるものが何であれ、必ずや最後は反省大会のような様相を呈していて、誰か責められた子が「ごめんなさい、私が悪いんです、もうしません」と言いながら、握りこぶしを正座した太ももの上に置いていて、そのこぶしの上に涙が落ちるのをみんなが見ている・・・。そこまで反省してようやくその子は、集団への謝罪を受け入れてもらえる。
相手の悪い所をとことん指摘しあう、良い所も指摘したのかもしれないが、悪い所を言う時の方が子ども達の興奮はいやがうえにも高まった。わたしはどうしても仲良くなれない子がいても、必ず話し合いをさせられた。ただ気が合わないという理由は施設にはない。会議の時、まるで予定調和のようにその子と握手して仲良くさせられる。
「施設育ちが他の施設育ちの違う部分を整理する為に話し合う」なんていうのはワナだと感じる。
「B子が他の子と違う部分、みんなが迷惑しているところをとことん話し合う」という言葉と同じ意味だと思う。養護施設の子は家庭の子が自由に発言していても気にならない、でも養護施設の子が発言しているのを見ると非常に気になり、その間違いを探そうとする。
集団から逃れられないのかもしれない、意識しないと。集団で生きている感覚が無自覚だと、相手が養護施設出身者だと思ったとたんに、会議 が始まるのだ、その無駄な会議、自分の感覚も人の感覚も同一化しようとする、しかし、人は個性を持っている。違う考えを持っていて当然なのだ。
しかし、違う考えを持つ人間を異端児と思う集団で生きる人は、どうしても相手の考えを改めさせたくて仕方ない、だからこそ、何処までも 会議 を必要とするのだ。もうその会議の席に着かなくてもいいというのに。
| 整理中の課題&記事 | 12時47分 | comments:6 | trackbacks:0 | TOP↑
Maria、毎日のように話しているからといって話し切っているわけじゃないと感じて不思議な気分。電話で語りきれない話をテキストで語り合う、これで話の領域がすごく広がると思った。Mariaは会話相手としてすごいから頼もしい。
| レイ@Mariaへ | 2007/01/15 08:55 | URL | ≫ EDIT