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養護施設の子どもたちは職員たちの職場に住んでいる

今日はまたまた誰もコダワラナイ問題をこだわってみようと思う。

夫に限らず、少しばかり家庭で育てられた他の人と話した事があり、今更わが身に置き換えてみたところ、改めて養護施設の子は児童ではあるが子どもではないとの印象を強くした。

生物学的な年齢が子どもなのは「児童」も「子ども」も同じ。という事を理解するのに多少の困難がある。そもそもこんな困惑の仕方をするのは施設育ちの自分が「子どもらしい感覚」とは何だ?と自らに問いかけているからである。だから少し文章化してみようと思う。

施設にいた事によるものか、児童という自分たちを知ってたと思うが、子どもという括りの者は養護施設の何処にもいない(子どもを見た事がない)感覚なのだ。学校にも施設にも児童は常に複数形で存在しているが、施設には子どもはいないのだ。

夫に聞いてみると「児童」としての自分は、学校のような公の場ではそのように振舞わねばならないし気持ちも引き締まって甘える気がなくなる、周囲が子どもだらけの時、自分を殊更意識しない、子どもは大人がいなければ子どもになれない。しかし彼は家に帰れば「児童」から「たんなる子ども」へ戻っていったそうだ。もちろんこの間、彼は全て無自覚で行動していた。

となると・・・。

「公」である学校から「私」である家庭へ戻れるから、学校でがんばれるし、公である会社で働き、私である家庭へ戻って寛ぐ。その感覚がスタンダードに身に付いていれば、家庭にはリラックスできるプライベートな空間を求めるだろうし、優しさやのんびりした空間を求める。また転校も転勤もない固定さればメンバーと一生関わりたいと思うのだろう。

つまり、これがパーマネンシーとプライベートな感覚をその人の意識にもたらし、そのような大きすぎる変動のない場所が子育てしやすい場所という事にもなる。動物の世界でも赤ちゃんを育てる巣穴をころころ変えたりしないものだ。そしてその場所は「私」である事を許される場所でもあり、それが普通の家庭であると言える。

しかし養護施設では、

学校から戻った学童としての児童は、今度は、職員たちに管理される児童へとなる。施設の子ども達の生活のどこにも「子ども」で居られる私的時間もなければ私的な空間もないのだ。

職員の職場で親のない子ども達は生活している。

彼らの仕事の成果がそのまま現れる施設の子ども達は児童であり、管理せねばならない対象者として扱わねばならない。

施設で1人の職員に愛着を作らせないのは仕事にならないからであり、仕事場で「公私を混同したら職業人としての意識が低いという評価」に繋がるからでもある。ごく普通に考えてみて家庭の観念を仕事場に持ち込む事にそもそも無理がある。

そして職場における転勤や移動は当然で、職場における児童が卒園したり入所したりするのも当然なのだ。だから「施設に子どもがいない」のも当然といえば当然。

それなのに私的な空間も時間も持てずも固定された関係性も持てない場所を家庭というのは無理がある。何しろわたしは、施設で育てられた通りに振る舞い家庭育ちの夫を怒らせているのである。それも正しいと思ってやっている事ばかりを怒られている、理不尽だなと思う事の一つだ。社会に出ても困らないように育てられたというのは勘違いだった。

たぶん、

「乳幼児は原則里親家庭へと望む理由の一つ」に、子どもでいられる子ども時代を持ってほしいという気持ちがあるのではないかと思う。大人になって子どもの感覚を学ぼうとしても実際手遅れだ。

相対的にも自分は子どもであるという時間を積み重ねてもらいたい。「公」「私」を区別できる感覚を持ってもらいたい。子どもらしさというのは常に自覚を促しながら切磋琢磨して学んでいくものじゃないし、家庭というものも大人になってからその観念を頭に叩き込まなきゃならない種類のものではない。本来的には無自覚で、家庭に居ながら受け取り続け、大人になった時に、時代を経たギフトのようにその箱を開いて親に有り難味を感じるものだと思う。

親の年齢になればなるほど、親に感謝の念が溢れてくると普通の家庭の人が言うのを聞くと、施設育ちは施設育ちで、親の年齢になればなるほど、誰が自分を育てたかさっぱり分からなくなってくる。根無し草感を感じた事は今までなかったが、親になる年齢になった時、根の張ってない現在を知る。

誰でもいいから、自分を育てた責任者出てこいと思う。でも誰が担当者か分からないのが施設というもの。誰か固定できる存在がいればダメな親でも憎めるだろうし文句も言える。でも対象者が居ないんじゃどうしようもない。

児童であったとしても子どもではなかった、学校も施設も常に「公」なのだ、「私」を知らないわけだから、今現在、「私」を意識しようとしてもできないのは当たり前なのだ。しかも勉強しなくてはならない、勉強嫌いなのに家庭を勉強するのはほとほと面倒な事なのだ。

だから、いきなり里子として家庭に迎えられ、児童から子どもへならなきゃいけない施設っ子のその内面的な混乱は大変なものだと思う。家庭はそれほど施設の子の感覚からは遠すぎる。

|  整理中の課題&記事 | 07時15分 | comments:4 | trackbacks:0 | TOP↑

文章化は難しいですね

わたしもいつもうみぼうずさんの文章が分かりやすいので、とても理解が進みます。専門用語を並べると分かった気分になるけれど、専門用語にあたる内容を結果的に噛み砕いて語っていければうれしく思います。

とはいえ、もちろん難しいですね。

| レイ@うみぼうずさんへ | 2007/01/10 08:10 | URL | ≫ EDIT

なぜ、施設養護では、不足なのか、一般にはなかなかわかりにくいところ。それを、具体的に書かれています。家となる施設に学校から帰っても、子どもになれないのですね。

| うみぼうず | 2007/01/09 18:49 | URL | ≫ EDIT

対象者の普遍的な不在

 
 こんにちは

>息子は子ども時代の全てを養護施設で育ってません。が、生物学的親が居ても子どもらしく過ごす事は出来てこなかったようです。
 
 そうですね、ぞーうさんの子どもさんは、家庭でも親が親としての機能を果たしていなかったと思います。さらに、養護施設でその不足を補う事はできないしという事で、彼が本腰を入れて相手に向かおうとする為の落ち着いた場所を得られずにきてる気がします。

 ぜひ、何とか繋いで下さればと思います、とはいえ、ブログを拝見する限りにおいては大変孤軍奮闘されておられるご様子なので、大変手前勝手な言い分となりますが・・・。

>それでも施設に比較すれば良い点が多いのでしょうが

 漠然とした話にしたくないので、わたしの場合、施設より家庭の方が良いと思う点は、少なくとも対象者が存在しているという点において、イメージがつかみやすいという点が良い点だと思います。

 息子さんのように家庭で育てられた事がないわたしなので、これ以上のコメントはうまくできないけれど、放置する親がいたとしても、その親が放置しているという事は認識できます。

 でも施設にいると、冗談じゃなく本当に誰が自分と関わって、誰が自分を放置したのかさえ分からないという混乱がおきているような気がします。

 おそらく養護施設の集団生活は子供の心のキャパシティを軽く超えてしまっていると思います。じっくりと1人で関わってくれる人がいないという点で、養護施設で育つ事を否定しています。

| レイ@ぞーうさんへ | 2007/01/09 17:09 | URL | ≫ EDIT

賛同します

トラバさせて頂きました。
(こちらのトラバも許可にしてるのですが…)

>乳幼児は原則里親家庭へ
↑賛同します。
息子は子ども時代の全てを養護施設で育ってません。
が、生物学的親が居ても子どもらしく過ごす事は出来てこなかったようです。

児童養護施設に入所している子ども、
親が子どもを子どもらしく育てられない家庭、
(それでも施設に比較すれば良い点が多いのでしょうが)
家庭で育つ事が当たり前に感じていた私ですが、
その重要性、そして親にあたる人物の資質。

日々の積み重ねを大切にしていきたいです。

| ぞーうさん | 2007/01/09 15:20 | URL | ≫ EDIT














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