PREV | PAGE-SELECT | NEXT

≫ EDIT

「指導の範囲内」と「しつけの範囲内」

 わたしは、指導員による指導は見えるところでやるもんじゃないと思ってた。でも同時に、体罰が虐待へとエスカレートして風聞になり、施設が査察・調査を受ける事になっても職員が一言「指導の範囲内」という言葉を使えば、問題意識が希薄になってしまうのだよと、焦る。

 わたしは「指導の範囲内という言葉を魔法の言葉」にしたくない。

 家庭では「しつけの範囲内」という言い方をするようだが、施設での「指導の範囲内」という言葉の響きの方が一見、権威があるように感じられる。ごく普通の家庭の親がしつけの範囲内だと主張しても、体罰を疑うのになんら苦労はしないのに、児童養護施設職員が仕事中に「指導の範囲内」であったと言えば、何となく鵜呑みにする心の動きがある。みなさんはどう感じるか分からないけれど、自分はそう感じていた。その事に気づきつつあるから、こうして文章化を試みている。

 その一方で、家庭で虐待死の事件が起こるたびに

 「もっとスマートにできないものか」と。
 「家庭の人はプロじゃないんだなあ」と。 

 と、その無骨なやり方を軽んじるような言い方をしてしまう。本当なら子どもに起きた出来事にショックを受け、怒りの声をあげるのが先なのに、それよりも上記のような言葉が内面からぼんやり浮上してくる。

 これを言葉にして吐き出せば、とんでもない問題発言になる。いつも黙っているから誰も気づかないだけの事だ。ただ、家庭での痛ましい事件が起こると、ボーっとごく普通に浮かんできてしまう語録というものが自分にはあると強く自覚したいと思う。そしてそれを変えていかなくてはいけないと思う。

 養護施設では虐待されてもなかななか虐待死へ繋がらない。事故死、病死というさらに見えない死に方をしている子ども達もいるが、今は触れない。ただあからさまに虐待死する施設の子の記事が出てこないので、いつもすごいなと心のどこかで感心している。

 家庭の親はやりすぎてしまう、その結果子どもを死なせてしまう。でも施設職員はプロなのでそんな下手なやり方はしない。子どもを虐待する時、ある意味芸術的に首の皮一枚の寸止めの手法を持っていると感じている。施設内の虐待事件として記事になっているのは、いづれもあからさまな暴行事件ばかりだし、今は家庭から措置されている子が多いので外へ施設内の体罰が漏れてしまう。

その虐待が発覚した施設でさえ見つけられる事のなかった子どもたちがいると信じて疑わないのだけれど。

 これはあくまで自分勝手な心象風景である。わたしが子どもを産んだらどんなうまい手を思いつくのか想像も出来ず、子どもが出来ない苦しさよりも子どもがいない事で子どもを守っているような変な安堵感がある。自分を信じてはいない、少なくとも子どもに対峙する自分を信じてはいない。

|  整理中の課題&記事 | 05時55分 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑














http://escapeorgoodfight.blog85.fc2.com/tb.php/17-b74136b7

PREV | PAGE-SELECT | NEXT