PREV | PAGE-SELECT | NEXT

≫ EDIT

集団から距離を置く事は、集団を客観視する事だと思う

わたしは、確かに集団にちくちく刺さるような見えないトゲを背中に感じて生きていた。でも、何を悪いことをしたのか全く分からなかった。ただわたしは、一人静かに「自分になる時間」を作り出そうと躍起になっていた。

もし「自分になる時間」を持てず、Mariaが言うようにバケツの中のガサゴソうごめき続ける音を聞き続けるとしたら、わたしはわたしを作れない、わたしを自覚できない、わたしがわたしである事を感じられないとしたらどうなるだろう。

養護施設では、一人一人の自我を育ててくれる大人はいない。自我を育てる為には、自分自身で違和感に気づき、自分自身で自分の気持ちに向き合うより他にない。

欠点も良い点も関係なく、これはわたし、我思うゆえに我ありという、思考と我(われ)が常に共にあるような考えを育てることができなかった。

わたしは、心の発達には、先に、我を感じる必要があり、そして作り出され確立した我(われが「社会性という集団の中」で自分を見失わずに、きちんと自我を保ち続ける事が、本当の意味での自立だと思っていた。

あの頃、きっとわたしは集団を客観視する必要性に駆られていた。
わたしは集団の中の個として、ファシズム的な迎合に安易に至れないものを感じていた。

しかし、児童養護施設では、そのような思想を「反社会的分子」であるかのように扱うきらいがあり、わたしはしばしば揶揄を込めて、周囲の子らから

「孤独癖」と呼ばれた。

でも内心、彼らを軽んじていたわたしがいる。

「集団の威を借りずに、あなたはたった一人で何を語れるというの?」と。

わたしは、孤独癖と揶揄されていたけれど、集団生活に取り込まれた人たちは確かにそう言うしかない状態なのかもしれないとも大人のわたしは少し思う。自分がたった一人で神に対峙した時に、まっすぐに自分の心を語りつくせるようにと、わたしは、右へ習えというよりも

まず、

集団世界を、客観視するところから人生をスタートしたのだ。でも、そうできない集団に席を置き続け、集団から逃れられない人たちがいる事も知っている。わたしはそれはできなかった。

わたしの原風景は「鳥瞰図」を教えてくれていた。それは、神が高い場所からあまねく世界を見つめている海外の絵本にシンクロしたせいかも知れない。

わたしがわたしとしてモノを考える為には、集団のオキテは棚に置くしかなかったのだ。

わたしは、客観的すぎるゆえ、時々、心が冷たいという印象を与えるようだけれど、それはそれで仕方ない事だと思う。

|  stop!施設内虐待・別館 | 11時41分 | comments(-) | trackbacks(-) | TOP↑

PREV | PAGE-SELECT | NEXT