幽霊船の航海日誌


 昭和2年10月31日、アメリカのワシントン州沖で幽霊船が発見され、ワシントン州ビューゼットサウンド湾へ曳航された。乗員がすべて死に絶えたまま漂流していたこの船は和歌山県西牟婁郡和深村に船主が住む良栄丸で大正15年12月7日に千葉県の銚子を出航して以来、行方知れずになっていた。11ヶ月の漂流の間に乗り組みの12人の中で一体、何があったのか。良栄丸には航海日誌が残されていた。ここにその全文を再録する。漢字の旧字体などは読みやすいように新字体に直してあるが文章そのものには手を加えていない。誤字や誤表記もそのまま。なお「江」の表記は「え」と直してある。×表記は欠字。
 
 大正十五年十二月九日 午前零時三崎港より八航海の出帆、銚子沖合に向ふはずのところ天候の都合により一時銚子港に入港する事になり、六日午前八時着、七日午後一時出帆致し六時間沖にて里数凡二十五里沖にて、八日午前三時より商売致し九日同じく致したるにあか魚二百貫、サメ四ヶ釣りマグロの都合で十日朝カラ×時間沖にだしたるにマグロなくしてサメ十五釣り、十一日又も地方よるべしはずで三十時間舟を走らせしが山見えず速潮に乗たのである、十二日午前頃突然機械クランク部が折れ一寸思案にくれた仕方なく宜敷上げしが折悪しく西の風にて自由ならず、舟を流す事にした
 
 十一日午前の時より十四日午前九時まで雲り勝ちにて少しも風なく流した、朝めし終り九時半ノーイスより少し風ふきだし午後一時より追て風強くなり約六七マイルは走つて居る、この時は一同は大喜びである、中には夜が明けたら山が見える亡霊×かと思ふといつの事やら、先食物は大切にといふ事になつた
 
 十四日午後三時半船長はそれをとるはずで自分一人で仕度し勇吉はめし焼きの仕度、夜の十二時より北の風もつとも強くなり、舟のカゲは二人にて交対といふ事になつてゐる
 
 十五日朝めしを食事中ノース方面より紀州舟によく似た二十トン位の舟見付、早速フライキをあげしところ、見えさりしかそのまま行き去つた十五日午前九時から午前十二時船長は、吾は承知であるが皆は気の毒であると話して居る食物
 
 米四俵一石六斗、醤油三升、す四合、大根四本、ごぼを六本、いも五百匁、みそ一貫目、茶一斤、かんぴよ百目、メカ魚二百貫、サメ魚二十本、イカ三百枚
 
 これ皆干物にて丸四ヶ月は大丈夫、また食のばすといふ船長の意見皆これに決心した、十五日午前一時に至りイースト風追手となり、ウエスに向けて馬力をかけた、六時に至り風もつとも強くなり小雨あり、毎日オカイサンばかり、ただ汽船を待つばかり、午後八時半寺田、松本かじ番になつてゐる
 
 十六日午前七時サウス方向より東洋汽船会社の住×丸進行し来りこれ神の引合せなりとてフライキ二本、火をだすやら大さわぎする内汽船は×ゆきすぎた、然し大して沖でないといふ事はその道でわかつて居る、朝から晴天であるが風は同じく追手である、又も帆をあげウエスに突進午前九時半かじは寺田、桑田外の者は干物用意、水凡一百貫、十四日午前十二時より十六日八時まで四十四時間ウエスに走り、十六日午前十時又もサウエスより今度は我等同商売の肥州舟見付色々信号致せしもそのかひなく約三十分の後見えなくなつた、風は少しもなく海鏡の如く又西風になり雲行き残念ながら流れ次第、船長見張つて居る、十六日午後六時八時至りサウエースより少し風来り十時に至り追手となる帆はブンブン鳴つてゆくかもめ鳴く声きけば舟乗カ業もやめられぬ、雨は相かはらず降つて居る、地方へ来たのか、潮色赤く、でも山が見えず、顔色は青く
 
 十七日朝六時風はもつとも強くなり追手であるが塩が遅いので船進まずこの潮目を越すには困難である、三崎出帆より今日で十三日間船に出会ふ度に御馳走するので食料品の予定がちかつてくる、風はノーイースより曇り勝、天気の日はかつを漁の仕事で休む間もなく働らいて居る何をいふても二百貫以上の魚置き場に困つて居る十七日午前零時カジ横田天気予報南の風曇り雨模様あり、十七日午後六時波静かにして風も少しおだやかになり、潮上り潮に変つた、十六日午後十時より十七日午後六時までウエスに十八時間走り、十四日より計六十二時間走る、十二日より流した時間十七日午後六時まで七十八時間、西又八丈方面へ乗だす事になつて東へゆく志、船長はあるが勝手が不案のため金比羅神宮に依頼して御みくじを頂く事になり西のみくじによつて西に向ふ決心をしたのである、何分助かるかどうか不明であるが思へば思へばこの舟は去年の秋のわづらひに三勝とちがつてはなほ困る、一ツそしづんでしまふたらこをした苦労はあるまいものこらへてたべ半七さんお気にめさぬと知りながらみんな私がりんき故そひぶしはかなはずとおそばに居たいとしんぼしてこれまで居たのがああお身のあだ、ああチンチンチンチンよをハア、子までなしたる三勝どのさぞかしわしをとなげく折柄表よりハイツ免下さいと…
 
 背は皆夫テジヨの者ばかり三勝半七、関取り千田川、芸者松吉チン、小栗判官テルテ姫、その次は舟乗の嫁さん連中
 
 夫が板一枚下は地極で働いてゐる、留守は直さら女気の手紙くる度毎にとびたつ思ありかたしと毎日朝晩手を合せて居るに、何故今度はたよりがないほンにきこへぬ良栄丸もしもころしたその時は小供のセーヂンした上でかたきうたいで置くべきかと思へば舟業いやになる
 
 十八日午前一時より風なくして流し七時に至り西風もつとも強くなり舟はドンドン流れ次第十八日午前八時西の風なく朝からイカリ一丁ほり込み、日中干物仕事、午後四時ヤカタに休み色々相談金カ山沖に居る見当、北の風晴れ、十八日午後一時、午後十二時に至りボ風となり、アンカ二丁ほり込み風の変るを待つ、凡金カ山沖である見当
 
 汽船に出合ふ見込なく思切つて八丈島方面へ乗り出す相談を始め、何分三四ヶ月もかかる承知でゐるのである、これも途中で舟に出あへば仕合せである。
 
 十九日午前八時風西、波高し十八日午前一時より十九日午前六時まで〆三十時間西風に流した、十九日午後一時又もイカリ三丁ほり込みこれでも舟は立ち上る、五時に至り少し静かになり曇り勝
 
 金華山沖より八丈島に向ふといふ、小さい帆で幾日かかるやら思へば心細くなる、一つちごたら舟ともろとも運命を終ふのである、十九日午後四時金華山沖にて十九日午後九時風ノーウエスとなり、夜の明けるを待つ、二十日朝八時に至り風北にしておだやかなり、西風毎日強い故思ひ切つてアメリカへ乗出といふ太い事を船長が相談を致した所、まだ落合つかず兎に角アンカ三丁上る事にした、十八日午前一時より廿日午前六時まで五十四時間流した、責任のない人はどうでもよいが嫁内小供のある人は実にお気の毒である、又国元の方でも一方ならぬ大さわぎある、何にしても約束であるとあきらめ居てる
 
 親のばちが子にくる、昔々古人の伝へこの十二名は誠に因念の悪いものである万一助かつたればそれこそ今度は皆大難を通越し運勢朝の昇る如しサヨナラ
 
 廿日午後六時に至り晴天にして風北のあらし
 
 二十一日まで七十八時間流した、二十一日午前七時より帆をまき上げ風南にして波ひくし、サウエスに走り、風の都合で沖へだしたりなだへいれたり、とにかく西へ西へと行く方針である、廿一日午後四時風変り流した、廿一日午後一時より追手にてウエス走り営業中であれば流して×天キである、この丁子で三日も吹けば必ず山が見えるはずである
 
 廿二日午前六時まで十八時間ウエスに走つた、午前九時まで二十一時間走り二十二日午前九時より又も西風にして流し始めたイカリ二丁ほり込み
 
 廿三日同じく流れて居る、二十二日万坊といふ魚を突取り色色として食ひ遊んで居た、二十三日午前五時万坊目方二十貫位どう考へても西へ舟をだす事出来ず東へいつたとしたらアメリカまで四ヶ月、然しここで船を待つの男らしくない、又船に出合ふのもおそい
 
 廿四日朝から晩まで遊び次第流れ次第、十二時万坊一本、四十八時間流した、廿二日午前九時より廿四日午後九時まで、二十五日午前九時まで七十二時間流れ、西に向ふ事出来ず、東に走る事にした、廿六日いよいよアメリカへ乗り出す事に決定しイカリを上げ風を七三に受けてノーイスにカヂを向けて進みだした、二十六日十一時
 
 廿七日午前六時、廿八日同じく流れた、廿八日午前六時ウエスに向つて追手ますます強く夜に入りて直も追手となりこの調子で十日も吹けば、どこかの島へつく事必定なり、このかつを十本も釣りこれ皆節にして置き大喜び、米がなくとも大丈夫
 
 沖の大海へ出たら浪が風も何もないこれはもう外国と日本の中程まで流されたなんて色々な事をいふて居る内南風少し吹きだしたのである、何分先に立つ人も方針のとりやうないので頭をいためて居る、万一助舟に出合ふ事あるかと口ではいはねど心の内とうこの後は悪い事は致しませぬ、又無理も申ませと金比羅様にお願して、これも聞えぬお札なら、一そう海へトンボいやいや思ふまい思ふまいみんな私が心から、世のいましめに神様が、お遊ばす事ぢやとあきらめ下さんせアー、コリヤコリヤ
 
 二十八日午前九時より午後十時まで十三時間走る、二十九日朝からイカリあげ午前までノーイウエスに走り、風変りササウエスに走り、これ皆風の都合で方向を替へたのである、朝から目鉢魚、午前十一時まで十本釣り午後は風つよく休業致した、二十九日午後六時サウスに走り、廿九日午前六時より三十日午前六時までサウスへ廿四時間走る、同六時まで
 
 三十日、同じくサウスへ走り上灘へ×んで居る予定であるが沖へ出て居るかもしれん、三十時間走り、三十一日、三十六時間サウスへ走り三十一日午後四時まで四時より流した
 
 あけましてお目出たう年玉の御寿を幾千代かけて御祝納め候なり大正十六年一月元旦計流れ二八○時、ヴエス一六六時元日の事とて赤めしにコーヤのさいで目でたい祝をすまし色色思ひ思ひに話して夜にいつた午後七時風が静かになり流した、二日ウエスへ走り午後三時よりウエスに走り初めた三日サウスへ走りお正月三日間天気良好にして目出度終り、舟は流し居る、四日午前六時より走り出し午後になり流した、雨天にて天水をとり、風は石、どうしても方向の計が見当がつきかね、何と考へても致し方ない時節を待つ事にして五日流した、六日同じく流した、七日朝から東走り、八日朝からノース走り午後六時まで十二時間約六十マイル走り、九日午前六時よりサウス走変更して流した、十日午前六時よりイス走り、十一日魚釣りて流した、十二日午前六時ノース走り、十三日同じくノース走り五十マイル、十四日午前より六時までサウス走り、十五日午後六時までサウス走り夜中十二時まで、十六日午前六時よりノース走り、十八日午後より乗込十九日流した、二十日サウス走り、二十一日流、二十二日、二十三日、二十四日流、二十五イース走り五貫目の魚釣り大喜祝だ、二十六日流した、二十七日ウエス走り外国通に出合焼火で信号せしところ見えざりしため行き去つた午後九時又流、二十八日晴天にしてイース風少し走り×に向つて汽船の航跡を走つて居る何といふても魚一尾も食はないので困つて居る、二十七日西が吹くは吹くは船長始め皆自ら覚えてはじめてであるとて夜も十分にねむり良、アンカ三丁ほり込みヨーヨー床についた廿八日流した、万坊魚三枚釣り、廿九日朝からイース走り、三十日午前三時半帆柱の中間折り又も西風に流した卅一日イス走り九十マイル
 
 二月一日イス走りにて追手魚一ヒキ釣り上げ今晩の御馳走にする、二日午前九時までイス一百マイル走り、三日五十マイル走り午前十時まで、旧正月にて目出度御祝、晴天にして風なく唯汽船を待つのみ、四日イス走り追手にて午前六時九十マイル五日午前六時まで七十マイル、六日午前六時まで七十マイルイスサイス、七日東風午前零時より流し午前十二時よりイス走り、八日午前一時流、九日風なくして流した、十日戎命日午前六時サウス走り、十一日午前十時魚釣上げ凡五貫目サウス走り凡そ四十マイル午後一時より流し、十三日午前六時まで寺田君は五日より病気で居たが十四日間にて全快した十三日午後六時十四日少し小風にて走り、十五日流した、十六日サウス走り五十マイル、十七日イス走り朝六時魚釣上げ午前十一時五貫、六貫の魚三尾釣上げめで度笑ふ、その皆のさわぎ実に何にたとへる事も出来なんだ十七日午後四時まで四十マイル、十八日イス五十マイル走り、十九日イス走四十マイル、廿日イス走七十マイル、廿二日イス走、廿三日サウス走廿四日サウス走、廿五日、廿六日、廿七日イス走り、廿八日終り、三月一日ノース走り、二日イス走り、三日イス走り、四日イス走り、謹賀新年神戸市南度筋三八の二岩本寅次郎様良栄丸にて井澤捨次
 
 五日本日朝食ニテ料食ナシ九日細井伝次郎病気のため死亡す、直江常太郎も三月七日頃より床をはなれず、吾らも身動き出来ぬ、大鳥一羽釣上十日西の風晴なるか流舟とす、十二日サメ一尾つり上本日正午直江常太郎病気のため死亡す、十七日朝の中風なき故帆の手入致す流す、井澤捨次死亡す、廿二日おつとせいが船のそばに浮き上りし故皆再びあまり沖で無いとの意見である、辻内七日前より病気、廿七日西南の風暴風はやや止まりしが風悪しき故流す本日寺田、横田両君死亡す、大鳥一羽釣る、廿九日北北西の風雨午前三時より南南東に走り風強きため四マイル平均位、桑田藤吉午前九時死亡、三谷寅吉夜間死亡すさめ一本釣上る、四月一日西北の風雨後曇風やや強きが悪いため流す、二日風強し、四日流す、五日西風晴る浪静流す、大鳥を船長一匹突き晩食の御馳走になる、六日兼ねて病気致しをりし辻内午前零時頃病死す、十四日風西北晴風なくして流す、さめ一本釣る、詰光勇吉君午前中死亡病死十九日病気なりし上手君午前死亡す、廿三日帆悪しきため流船のまま帆修す、さめ一匹つる、廿四日NSの風曇り天気だ、廿五日浪静風少し帆悪しきため帆の手入れす船流すさびしく汽船待つのみ大鳥の馳走す
 
 廿六日NNWの風晴、帆の修理出来る、小生生れて始めて船の帆柱に上り死にもの狂にてツロード・ブロツクをなほすさめ釣あぐ、廿七日晴天、帆巻きあげたるも風なきため帆まきたるまま流す、たきぎこしらへる、あらしになる、百四十日も船世帯故我等二人も活気なく、ただ時のくるを待つのみ、廿九日天水をとる五月二日午前より午後六時小生も病気故一人にてかぢ取苦しいが命にかへられぬため次第当直す、五日NNW風、午前中風悪しく流船す午後二時より北風強くなり南に走る、六日船長大病となる、七日西南の風強いが流船、我もかねてのカツケ病のため、正午より食事もとれぬ位になり小便にもゆけぬ、八日西南の風強い流す二人とも病気身動き出来ず、九日曇風強し、帆を巻いたまま流す二人とも病気、十日曇北西の風、風強く浪高し帆を巻きあげたるまま流船、船はかぢとりなしに走りつつある、二人とも病気、十一日曇北西風風やや強く浪高し帆まきあげたるまま流船す、南と西に船はドンドン走つて居る、船長の小言に毎日泣いて居る、病気
 
 
「良栄丸」後記
 
 当項を設けてより1年ほど経ったある日、ワシントン州在住の邦人の方からクロニクル・テレグラムなどの現地紙の良栄丸発見当時(1927年)の記事を頂戴する機会を得たので、感謝の念を込めつつ、ここにその一部について内容を読み解いて掲載してみようと思う。
 
 11月3日の現地紙記事ではシアトルからの情報として、日本の遭難漁船「Ryo Yei Maru」が発見された際の事について記してある。乗組員12人の名前などの紹介をしており、これは第一報ではなくて良栄丸についてある程度の調査の上での記事である事がうかがえる。また良栄丸の発見者が現地裁判所にサルベージ代の請求を出すなどの記述もある。乗組員のうち8人の遺骨はデッキで発見されて2人は水葬された模様である事、そして医師の見立てとして最後に生き残った2人が死に至る前に人肉食が行われた可能性がある事が示唆されている。そして米海軍関係者の話として、日本から1000マイル(1609km)離れた海上で航行不能となっている日本漁船(良栄丸との確認はとれていない)をアメリカの船が発見して3時間ほど横付けして位置などの説明をしたものの、その日本漁船は救助を拒否した出来事が1927年の1月上旬にあったという出来事を紹介している。
 
 現在に至るまで良栄丸怪談として伝わる人肉食の話はこの現地報道を大元としているが、良栄丸から発見された航海日誌には当項に紹介した内容を見てもわかるとおり、そうした記述は存在しない。医師の見立てが事実とすれば、航海日誌の最後の日付以降に2人生き残った乗組員の双方かいずれかが錯乱してそうした事に及んだという事になるだろう。しかし良栄丸に関しての人肉食の話として存在する記録は、この現地医師の見立て以外にその「証拠」となるものは実在しない。なお吉村昭が航海日誌をベースに独自の取材も加味して「船長泣く」という短編を発表しているが、当然ながらここにも人肉食を匂わせる記述は一切登場しない。
 
 11月4日の現地紙記事ではシアトルからの情報として、アメリカ側がカワムラ領事に良栄丸の日本への返還を申し出た事や、良栄丸の発見者がサルベージで得る金を犠牲者の遺族へ送金する事を提案していたが、結局、サルベージの権利を放棄した事などが記されている。そして11月3日に良栄丸乗組員2人の葬儀が行われた事も記されている。
 
 12月6日の現地紙記事では日本や中国など黄色人種(記事中にそうした表記あり)の漁師の船にまつわる迷信などを紹介、航海日誌についても触れてあり、その中で記されている「Konpira」(金毘羅)の話などにも触れている。全体のトーンとしてはアメリカ人には理解不能な迷信について好奇心から取り上げたもので、遭難の事実関係を知るには余り意味のないものとなっている。船乗りには昔から独特の俗信があるのは世界共通であり、そうした関心も多分にあったとも推察されよう。
 
 12月20日の現地紙記事では、結局、良栄丸の返還を日本の遺族が望まなかったので現地の浜辺で12月19日、良栄丸が焼却された事が記されている。良栄丸の船体は1万7000ドルの価値があったそうである。
 
 なお良栄丸の焼却に関しては日本の新聞でも当時、報道されて半焼けとなった船体の写真と共に掲載された。シアトル在住の日本人らの手によって乗組員の遺骨や遺品は3700円あまりのカンパと共に日本の遺族へと送られた。後日談として昭和3年(1928年)2月17日、千葉県の野島沖でアメリカの貨物船が爆発事故を起こして14人が死亡、21人が救助されて神奈川県の三浦三崎に着いたが、同地で建造された良栄丸へのアメリカ人の厚誼を新聞報道などで知っていた三崎の漁民らが総出で心尽くしのもてなしをし、アメリカ人船員らが大変に感じ入ったという話がある。幽霊船と騒がれた良栄丸は日米友情の架け橋の友好船となったのだった。
 
余談だが、戦後にも良栄丸遭難事故というのは起こっている。これは高知県土佐清水市の第2良栄丸が昭和35年1月12日に静岡県の沼津を出港、1月21日夜に遭難したもので、乗組の12人のうち3人が不明となり、9人は自力で小笠原諸島の無人島の姉島に泳ぎ着いた。90時間後に巡視船むろとに救助されている。

参考
井澤捨次/松本源之助「良栄丸日誌控」 1926〜1927
クロニクル・テレグラム紙など内外各紙記事 1927〜1928、1960


前の画面へ戻る




1