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読む政治:検証・普天間移設 流転変転(その2止)

 ◇「徳之島で頑張りたい」こだわった首相

 ◆第4幕 官僚の「復権」

 鳩山首相が「腹案」を口にしたのは3月31日の党首討論だった。「現行案と同等かそれ以上に効果がある」という自信ぶりだった。だが、4月21日の党首討論で再び言及した「腹案」は、大きな変貌(へんぼう)を遂げていた。

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 最初の「腹案」は、「徳之島に普天間のヘリ部隊の半分以上を移転し、残りは県内移転」だった。指示を受けた北沢氏は構想を3月27日、長野市内での講演で明かす。「普天間に60機あるヘリコプターを2カ所ぐらいに配置を換える」。残りはシュワブ陸上部に500メートル程度のヘリ離着陸帯を造成し、移転させる計画だった。

 しかし、米国は首をたてには振らなかった。29日、岡田氏はゲーツ長官とワシントン郊外の国防総省で会談し、シュワブ陸上部とホワイトビーチ沖合の沖縄県内2案に加えて「徳之島移転案」も提示。ゲーツ氏は「運用上実行可能で、政治的に持続可能な案を」と逆に枠をはめた。政権交代にかかわらず継続できる計画という意味だった。

 非公式折衝で米側は「海兵隊の運用の一体性から陸上部隊とヘリ部隊の距離は65カイリ(120キロ)以内」と要求。沖縄と徳之島の間は170~180キロ。「米側はガンとしてのまなかった」(防衛省幹部)という。

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 「徳之島移転案」はついえたかに見えたが、首相はこだわった。

 「徳之島で頑張りたい」。4月8日、徳之島案を持ち込んだ牧野氏が「一体どうするつもりですか」と迫ると、首相はこう言明し、同席した平野氏が「自分が動く」と応じた。平野氏が推進したホワイトビーチ案は、ゲーツ氏が岡田氏との会談で否定。首相官邸はこれで徳之島案に一本化された。

 普天間問題は日米の共同責任だ。分かち合ってもらえないなら、普天間から出ていってもらうしかない--。首相は訪米前の11日と12日朝、平野氏と公邸で協議した際、こう決意を示した。米国を説得し、地元の理解を得て強行突破する姿勢でようやく固まった。だが、翌日のワシントンでの日米首脳会談で再び暗転する。

 かたくなな米国に首相は焦りの色を深めた。17日には民主党鹿児島県連が徳之島案の白紙撤回を求め、18日には徳之島住民ら1万5000人が参加して大規模反対集会が開かれた。防衛省は徳之島への部隊移転案を断念し、工法を埋め立てからくい打ち桟橋方式に変更し現行移設先の辺野古沿岸部・沖合に建設する案へと回帰した。

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 政治主導の代替案が次々と消える中、「5月末」決着へと主導権を握ったのが米国と官僚機構だった。4月に入って首相は新たな「タスクフォース」を設置し、仕切り役を政治家の副長官ではなく、官僚トップの滝野欣弥官房副長官に委ね、「全力で県外を追求してほしい」と指示していた。

 滝野氏は元総務事務次官で地方自治体ににらみがきくが、安全保障の経験はない。滝野氏が頻繁に相談したのは小泉、福田内閣で副長官を務めた二橋正弘氏だった。「何をやっていいのかわかりません」と戸惑う滝野氏に、二橋氏は「ゲーツ長官の右腕となる交渉相手を割り出すことだ。カギはペンタゴン(国防総省)だ」と助言した。

 タスクフォースには腹心の佐野忠克首相秘書官と須川氏も組み込まれたが、岡田、北沢両氏と、「米国の要求を満たすには現行計画しかない」と割り切っていた外務、防衛官僚が「復権」。一気に現行計画回帰への動きを加速させた。

 米国も決着へと動き出した。交渉の正式ルートは「米国の意向」(首相周辺)で岡田氏とルース氏の一本に絞られた。岡田氏は、北沢、平野両氏が代替案を探るのを横目に、「最後は外務省が仕切る」と息をひそめて見守った。ワシントンでは岡田氏の評価が高く、「米国は首相官邸を捨てた」(政府高官)との見方が強まった。

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 首相は追い込まれ、孤立した。

 4月21日の党首討論で再び「腹案」に触れた首相は「地元よりもまず米国に理解されるかどうか、水面下でやり取りしないといけない」と、米政府との合意を優先させる姿勢を鮮明にした。「腹案」の内容も「移設先は辺野古で現行計画の修正。徳之島は訓練の一部移転」と、ガラリと変わって「現行案」に限りなく近付いていた。

 ◆第5幕 辺野古回帰へ「決断」

 5月3日、岡本元首相補佐官がひそかに首相公邸で鳩山首相に面会した。昨年12月、岡本氏から提案された「環境配慮型埋め立て」工法の説明を受けるためだった。97年当時の梶山静六官房長官に提案し、「お蔵入り」になっていた。岡本氏が説明したのは、技術的観点から独自に再検討した修正版だった。

 「辺野古回帰」を決断した首相は、移設計画に新味を加え、世論にアピールできる材料を探していた。翌4日、首相は沖縄を初訪問し、「県外断念」を正式に表明したが、稲嶺名護市長との会談で「辺野古の海を汚さない形での決着」に言及したのは、「岡本案」が念頭にあった。

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 首相は新たな「沖縄の負担軽減策」を求めて走り出す。

 「海兵隊の実弾射撃訓練を受け入れている場所は、すべて普天間のヘリ部隊訓練も移転できる。技術的に北海道でもできる。地元をお願いして歩いてもいい」。5月17日、鈴木宗男・衆院外務委員長は首相にこう伝えた。首相は「そういった空気になればありがたい」と喜んだ。

 日米共同声明発表に向けた実務者協議の最終局面で浮上したのが「普天間代替施設の自衛隊と米軍の共同使用」。将来的な自衛隊の管理をにらんだものでいわば「常時駐留なき辺野古」だった。「これは鳩山首相の案だった」と、防衛省首脳は明かした。

 しかし、どれも評価は芳しくない。工法は「『埋め立ては自然への冒とく』との自らの発言と矛盾する」と批判され、訓練移転は「総論丸投げ」の首相に地方自治体が困惑。自衛隊共同使用は「沖縄の自衛隊に対する複雑な感情を理解していない」と冷ややかに受け止められた。

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 米側との交渉は最後まで厳しい局面が続いた。現行計画に基づいて進められてきた環境影響評価(アセスメント)を巡り、「2014年までの完成」目標への影響を避けたい米側は「現行アセスの範囲内で可能な修正」を要求。しかしそれでは「環境配慮型埋め立て」工法の余地がなくなる。

 5月20日の関係閣僚会議では激論になった。

 北沢氏「米国の言う通りにしないとまとまらない」

 岡田氏「いや、交渉の余地はある」

 岡田氏は「米国寄り」とされたが、最後は首相が掲げる「環境工法」を後押し。共同声明では「著しい遅延がなく完了できる方法」との表現に落ち着き、岡田氏は「アセスをやり直す可能性が残せた」と語った。

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 5月22日に日米両政府は「辺野古」で合意したが、これに社民党は反発を強めた。26日、平野氏は重野安正幹事長らに「辺野古」を抜いた政府対処方針案を示し、理解を求めた。同党の連立離脱を回避するための私案だったが、照屋寛徳国対委員長は「党首がどう判断するかだなあ」。報告を受けた福島氏は日米合意に「辺野古」が明記されれば政府対処方針に署名しない考えを譲らず、社民党は連立離脱へとなだれ込む。

 「極めて残念だ」。福島氏が署名拒否の態度を変えず、罷免された28日夜、国民新党の亀井静香代表は無念さをにじませた。4月下旬、首相に電話で「社民党を大事にした方がいい」と忠告していたが、それはかなわなかった。

 ◇沖縄の民意、軽視の代償--担当記者が見た8カ月

 「沖縄はまたしても切り捨てられた」。米軍普天間飛行場移設問題で、政府が日米合意を優先し、移設先を前の自民党政権と同じ「(同県名護市)辺野古」と対処方針に明記したことに、名護市の稲嶺進市長は憤りをあらわにした。この言葉に、鳩山由紀夫首相が自ら招いた「危機」の本質がある。政権交代前に比べて「本土対沖縄」の対決構図を一層鮮明にさせてしまった。

 首相は5月28日の記者会見で「どんなに時間がかかっても、日本の平和を主体的に守ることができる日本を作りたい。沖縄の基地問題の真の解決もその先にある」と語った。「日本独自の防衛力を高めて在日米軍基地を減らす」との発想で、持論の「常時駐留なき安全保障」にもつながる。

 日本は1951年、独立と引き換えに沖縄を本土から切り離し、米軍統治下に委ねた。その後朝鮮戦争を背景に沖縄には米軍基地が集中的に建設され、本土では憲法9条の下で「専守防衛」の自衛隊が整備された。沖縄への基地集中は、本土復帰後38年を経た今も変わっていない。

 首相は日米同盟を重要視し、さらに深化させるとの考えを再三強調している。その前提で「沖縄頼みの日米安保」を解消するには、防衛予算拡充なり、集団的自衛権行使なり、自主防衛路線にカジを切ることが必要だ、との指摘が与野党双方からあがる。しかし、社民党との連立の下で路線転換は困難だ。今回の「社民党切り」は、首相らしさへのこだわりかもしれない。

 しかし沖縄の心情は、永田町の政治情勢とは無関係だ。沖縄県民にとって「基地問題」はイデオロギーではなく、日々の生活に切実にかかわる問題だ。8カ月間に及ぶ迷走は、普天間問題に全国的な関心を集める一方で、本土と沖縄の基地を巡る意識のギャップも浮かび上がらせた。政府の対応のまずさが、日米安保の中核を担う沖縄に本土政府への不信感を根付かせた。

 政府内には、沖縄や鹿児島県徳之島に対し、振興策を提示することで受け入れに柔軟姿勢を引き出そうとの思惑がうかがえる。しかし振興策や公共工事など仕事が落ちることで容認姿勢を示す一部の地元住民だけを見ていると、足をすくわれる。自民党政権は10年で1000億円の北部振興策が無駄に終わったことで学んだ。鳩山政権は、過去浮上した四十数カ所の移設先候補地の検証と同様、「振興策頼み」による失敗も学ばなければ分からないのだろうか。

 「辺野古回帰」を決めて以降、「仲井真弘多知事だけが頼りだ」との声もよく聞く。しかし、「沖縄の民意」の総体を正確にとらえることは難しい。知事の足元で煮えたぎるマグマに、11月の知事選結果で初めて気付くようでは遅い。今後政府は長期的課題として「県外、国外移設」に取り組まざるを得なくなるだろう。【上野央絵】

毎日新聞 2010年5月31日 東京朝刊

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