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民族こそ同胞と書く友愛そのものじゃないのか?
勿論、彼はアメリカのことを念頭において言っているのだとは思う。しかし、友愛が国家を作る
という発想は安っぽすぎる。(というかデリダにかぶれすぎだ。)
デリダよりも魯迅の「故郷」を思い出す私が古臭いのかもしれない。
年を取って柄谷は惚けたと思うな。そりゃあ。「友愛」の前に「危機意識」があったはずだ。
その「危機意識」をもたらしたものこそ言わなきゃいけない。感情が対象もなしに成立する
ことはない。へたをすると、パトリオット→ネーションと言っているだけだぞ。それ。
ヨーロッパでは、フランス革命という危機意識がネーションを生んだみたいな話。
(何をもって身内とするか。感情の対象がどうして同一になったのかをすっとばして、尻取りして
るんじゃないか?小林の晩年を衰弱から来る悟りとかつて揶揄してたのに自分がそうなってるっ て。)
あと、柄谷の説明も?だけど、それ以降の君の説明は更に??
国家は国家であるから国家である。に過ぎないよ。そんなこと。国家が自己生産するものだ。以上の
ことではない。自己生産できるのはそういう慣習があるからで国家は慣習を作り出せはしない。むし
ろ慣習を利用する。
祝日に国旗を掲げるという慣習は後のせだけれど、その元は祭りのときにはちょうちんを飾ること
だ。その慣習の出自を「友愛」という感情に求めるのはいまいちすっきりしない。
日本における日本人の概念のあいまいさなんて自明なことだと思ったけど、ヤマト民族と言われる度
に感じる違和感はまだなくならないよ。だから単一民族なんて後のせに決まっている。
まだ縄文系日本人 弥生系日本人 アイヌ系日本人 渡来系日本人の方がよい。
日本が明治に多民族国家として計画されたから…そもそも、日本帝国の主権者が天皇であったのは、
そういう目論見があったからに他ならない。
半島は主権者がいたよね。だから、侵略といわれれば仕方ないといえる。
日本は独立化、保護国化、領土化と国際承認をえる形でそれを行わざるをえなかった。
中国は主権が分裂していた。だから、溥儀を立てた日本はある意味で主権を簒奪した形になってい
る。(しかも、清は漢民族の国ではないから更に話はややこしい。)満州国をそういった意味で、
独立国として国際的に承認することは難しいが、状況の不安定さからいって、日本が軍を駐屯したり
その権益を主張すること自体は当然だ。というリットン報告書は国際的基準を満たしている。
柄谷のいう「友愛」という感情の出所こそ慣習にあるとわたしは思うけどね。感情だけがふわふわと漂うわけがないじゃない。
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