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特集ワイド:2010この現実 大学生/上 呉智英さん

 <この国はどこへ行こうとしているのか>

 ◇失われた知的虚栄心--評論家・呉智英さん

 大学は事実上「全入時代」に突入した。学力低下は言うに及ばず、時代の波を受けて、学生気質も様変わりしているようだ。社会の未来を担う大学生たちの、現状はどうなっているのか。【井田純】

 「ひところ、大学生なのに分数ができないとか何とかいう話があったけど、今はもうそんなもんじゃない。すごいことが起きてる」

 よく響く声に、独特の早口。40年前の大学生のころからなじみの街、西池袋にある小さな喫茶店で、呉智英さん(63)が話し始めた。差し出された名刺には、表に「評論家」、裏には複数の大学名と「客員教授」「講師」などの肩書が並んでいる。

 「現代大学生論」を伺うと、まず披露してくれたのは、大学教育の現場で呉さん自身の体験したことだった。

 かつて講義を持っていた愛知県内のある私立大学での話。アルファベット26文字を全部書ける学生はゼロ。九九ができないばかりか、それを指摘されるとむくれてしまう女子学生。99年に刊行された宮崎哲弥さんとの対談集「放談の王道」では、講義中に大学生の携帯電話がしきりに鳴ることを嘆いていた呉さんだが、もうそんな事態ではないらしい。

 講義は「名古屋学」と題した地域文化論。学生には、日付、名前などとともに講義名を記入した出席カードを提出させる。

 「ところが、何と『名古屋』の『屋』を書けない学生がいるんだよね。別の字を当てているんじゃなく、『屋』の途中で終わってて、最後の『土』の部分がない。しかも2人も。名古屋の大学で、名古屋学の授業に、なんで『屋』が書けない学生がいるんだっ!」

 どん、どん、どんどんどん! 勢い込んでたたいた喫茶店のテーブルが揺れ、声のトーンも高くなっていく。

 ■

 80年代以降、義務教育課程で進められた「ゆとり教育」。生きる力の育成を掲げて、従来の学習内容が削減された。「ゆとり世代」にはいくつか定義があるが、今年大学を卒業した新社会人は、高校時代に内容を削減した学習指導要領で学んだ「第一世代」といわれる。今、キャンパスで学ぶ大学生たちはその下の、「ゆとり教育」がさらに進んだ世代に重なる。

 「ゆとり教育の影響は、大いにありますよ。ただ、文部官僚の言い分にも一理ある。詰め込み教育はいけない、子どもの個性を尊重しろと言ったのはマスコミで、国民の多くがそれに賛成したじゃないか、と。『公僕である自分たちはそれに従うのが当然だった』と言われれば、その点は確かにその通りだよね」

 変化は学力に関してのみ表れたわけではない。プライベートを重視し、失敗を恐れ、競争を好まない--などと指摘されているゆとり世代の学生気質を、呉さんは「知的虚栄心がなくなった」と表現した。これは、いわゆる「偏差値の高い」大学の学生にも見られる傾向だという。

 「僕らのころは、仲間の間で『この本読んだか』なんて話があると、読んでないと言うのが恥ずかしいから、読んだようなふりして帰りに慌てて買った。それから2、3日で読んで、『あれはつまんない本だ』なんて言って。裏にあるのは知的虚栄心だけど、これが、この10年、20年で学生の間から消えていってる」。70年代ごろまで、大手出版社はこうした知的虚栄心に応えるかのように「世界文学全集」「世界の名著」などのシリーズを競うように刊行していた。今、本格的な全集はほとんど見られず、古典も「超訳」などの、手軽で実用的なスタイルが受けている。隣のテーブルには大学生らしい男女4人組。バイトの話題や、仲間のうわさ話で盛り上がり始めた。

 日本が物質的な豊かさを獲得した結果、社会をどうする、歴史とどうかかわる、というグランドデザインは語られにくくなった。「理想」を求める大きな物語が成立しなくなり、若者の知的エネルギーは、身近な「実務」へと向かった。「実務の時代っていうのは、つまり、金をもうけて何が悪い、っていうことだよね。それも何か寂しくないかい、と思うんだけれども」

 「封建主義者」を自認する呉さんが講じてきた「論語」から引くとすれば--

 <子曰く、群居終日、言、義に及ばず、好んで小慧を行う。難いかな=衛霊公篇15-17>(終日仲間で群れていて、話すことといったらつまらぬ世間話ばかり、義についての話など一言も出ない。そのくせ、小賢しい知恵だけはすぐ働かせる。全く度し難いことだ)=「現代人の論語」より

--この辺りだろうか。

 ■

 「いや、それがいいか悪いか一概には言えない。おれたちが学生のころは、たかだか18、19歳の子どもが、一知半解の知識で、世界と、歴史とかかわりたいと考えた。それによって頭が鍛えられる、ということも確実にあった。けれども、若者が抽象的な理想論を振り回した揚げ句、連合赤軍事件のように陰惨なことが起きた、とも言えるわけだし」

 武装闘争による共産主義革命を目的に71年に結成された連合赤軍。同志へのリンチ殺人で14人が死亡した。全容は、72年のあさま山荘事件で組織が壊滅した後、発覚した。

 呉さん自身も、65年大学入学の全共闘世代である。早大在学中は非セクト系活動家として学生運動に身を投じ、ストライキ闘争にかかわって刑事訴追された経歴を持つ。

 学生運動の季節は遠く去り、世界では80年代末から社会主義体制の崩壊が続いた。日本ではオウム事件が起きた。理想を追うことへの挫折感が共有され、価値観の相対化が進んだ。これからの大学生は何を目指し、どこに向かうべきなのだろうか。

 「大学生へのメッセージ、難しいねえ。若者気質や大学だけの問題じゃなく、時代全体、社会全体が反映されているわけだから」

 大げさに言えば、と前置きして、呉さんはローマ帝国の崩壊を引き合いに出した。

 「あの何々帝さえいなければ、という次元の話じゃなくて、全体が必然的に動いていくんだよね。今の状況は、社会が豊かになり、ある良識が社会を支配した結果、日本人と日本国全体のメンタリティーの中で起きてきたものだから。簡単に処方せんが出たり、何かのマイナーチェンジで対応できるものじゃない」

 答えは、これからの世代自身の中にある、ということか。ソフト帽を粋にかぶり、池袋駅へと向かう足取りは不思議に軽やかに見えた。

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 ■人物略歴

 ◇くれ・ともふさ

 1946年、愛知県生まれ。早稲田大法学部卒。近代主義批判や知識人論のほか、マンガ評論でも知られる。「封建主義者かく語りき」「バカにつける薬」「犬儒派だもの」「現代人の論語」など著書多数。近く「言葉の煎じ薬」も刊行の予定。 

毎日新聞 2010年5月13日 東京夕刊

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