鳩山由起夫首相の尖閣諸島帰属問題意識について
古い話から。
東京オリンピックが開催されたのは1964年の秋、10月10日であった。これを記念した体育の日は現在ではその日に固定されてはいない。この年、東京の夏は、間近に迫る世界大会を前に活気にあふれていたが、重苦しい国際ニュースもあった。
1964年8月2日、ベトナム北部トンキン湾にいる米海軍駆逐艦に対して、北ベトナム軍の哨戒艇が魚雷と機関銃で攻撃した。ベトナム戦争時代であり、北ベトナム軍は南ベトナムの軍だと誤認した。これがトンキン湾事件で、米国が本格的にベトナム戦争に介入するきっかけとなり、翌年から北爆(無差別爆撃)が開始された。現在ではこの事件は米国による陰謀であることがわかっている。ポスト安保闘争としてベトナム反戦運動を体験した団塊世代が、米国の関与する戦争をなんでも陰謀ではないかと見たがるのにはこうした背景がある。
ベトナム戦争を始めたのは米国民主党である。ジョン・F・ケネディ大統領が開始し、リンドン・ジョンソンが継続した。米国世論がベトナム戦争への対応で二分されるなか、1968年にその未来を決めるべき大統領選挙が行われた。民主党の候補はヒューバート・ホレイショ・ハンフリーで、共和党の候補はリチャード・ミルハウス・ニクソンであった。支持者数は両党に及ばないが、アメリカ独立党はジョージ・コーレイ・ウォレスを立て、副大統領候補にカーチス・ルメイ(参照)を指名した。無差別爆撃こそが決め手と考えたのだろうか。
1969年大統領に選出されたのはニクソンである。そして彼のもとでベトナム戦争は終結に向かうことになる。これと並行して、米国民主党政権では一顧だにされなかった沖縄返還の道が開けるようになった。
ちなみに、よく日本はサンフランシスコ条約で1952年に独立を果たしたと言われるが、これには沖縄は含まれていない。沖縄なしで日本が成立するという誤解がいまだに日本に広まっているためであろう。
沖縄は太平洋戦争終了後ずっと米国統治下に置かれていた。普天間飛行場に駐留する米海兵隊も米国統治下の沖縄に「あそこは日本ではないから」という理由で岐阜県と山梨県から移転されたものである。「米軍は日本から出て行けということで、日本ではない沖縄に基地機能が移転されたこと」を思うと、日本ではないテニアン諸島に米軍を移転せよという主張は、なんのことはない米国植民地主義を肯定する日本ナショナリズムであることがよくわかる。
日本の自民党佐藤栄作首相とそのスタッフの尽力により(参照)、1969年、沖縄返還が約束された。返還が実現したのは1972年である。今年は本土復帰から38年になる。鳩山首相のようによく間違える人がいる(参照)。
かくて話がようやく話題の尖閣諸島になる。当然だが、1972年以前の尖閣諸島を管理していたのは米国であるが、これは米国統治下の沖縄にある琉球政府が担っていた。
沖縄が日本に返還されることが決まった1969年、国連アジア極東委員会(ECAFE)が尖閣諸島海底に石油が埋蔵されている可能性を示唆した。これを受けて、中華民国、つまり台湾国民党政府は、その海域を自国領土と見なしていることから、米国ガルフ社に石油採掘権を与え、台湾国民党政府自らも尖閣諸島魚釣島に上陸し、中華民国国旗である青天白日旗を掲揚し、国際報道を行った。
この事態に琉球政府は困惑した。琉球政府としては、尖閣諸島は石垣市の所属と見なしている。1969年5月、石垣市は尖閣諸島に住所番地を記載したコンクリート標柱を設置、翌年1970年9月、尖閣諸島魚釣島の青天白日旗を撤去した。
日本としては、すでに沖縄返還が確約されているとの立場から、同じく1970年9月、尖閣諸島が日本の主権下にあることを宣言した。
米国のこの時の対応は微妙なものである。米国としては、尖閣諸島の帰属は琉球政府にあるとするに留めた。
台湾国民党政府としては、当面の状況認識として尖閣諸島の領有の主張を米国に阻まれた形になったため、対抗するコメントを出すことができない状態になった。いわば、政府の弱みを露呈したことになる。こうしたとき、中国圏ではかならず弱みを突く政治工作が始まるのが法則である。
1971年、台湾国民党政府および在米留学生による保衛釣魚台運動が開始される。現台湾馬英九総統も学生時代には保衛釣魚台運動を支持する論文を書いている。
台湾ナショナリズム 東アジア近代のアポリア |
経過からでもわかるように、保衛釣魚台運動は、愛国主義に正義を借りた国民党政府批判が本質であると言える。その後、保衛釣魚台運動は大陸中国からも繰り出されくるようになる。保衛釣魚台運動は愛国主義で煽動する自国政府批判という定番の構図が浮かび上がる。
1971年12月には、今度は中国人民共和国、つまり、大陸共産党政府が、尖閣諸島の領有権を主張した。尖閣諸島が中国大陸棚上にあることや、竹島問題でもありがちのなんやかやの古文書を持ち出す理屈である。
最近、保衛釣魚台運動について少し動きがあった。5月1日付け共同「尖閣防衛へ世界連盟計画 華人結集、来年上陸目指す」(参照)より。
台湾で尖閣諸島(中国名・釣魚島)の領有権を主張する団体「中華保釣(尖閣防衛)協会」の黄錫麟秘書長は1日までに、世界各地の華人団体を結集して世界中から船などで同諸島上陸を目指す「全球保釣大連盟」を結成する計画を進めていることを明らかにした。
米国から日本への尖閣諸島の施政権返還を決めた沖縄返還協定調印から40年となる来年6月17日に、同連盟から傘下団体に上陸を呼び掛ける。上陸活動が国際的に拡大すれば、阻止活動を行う日本当局は対応に一層苦慮しそうだ。
黄秘書長によると、連盟結成は香港の団体が提案し、4月半ばに推進を決定。同秘書長が中心になって、中国本土やインドネシアなどの団体と連絡を取り、既にアジア地域では連盟結成への同意を取り付けた。
すでに行動は開始されている。26日付け日経新聞「台湾の団体、尖閣諸島に接近 海保が阻止 」(参照)より。
日本の対台湾交流窓口である交流協会台北事務所などによると、尖閣諸島(中国名は釣魚島)の領有権を主張する台湾の団体、「中華保釣協会」のメンバーが乗り込んだ漁船が25日午後、尖閣近海の日本の排他的経済水域(EEZ)に入り、日本の巡視船の警告を受けて引き返していたことが26日わかった。同団体は「釣魚島への上陸を目指していた」としている。
日台間では今月6日、奄美大島西方沖の日本のEEZ内で事前通告なしに調査活動を実施していた台湾当局の調査船を日本の巡視船が発見。巡視船の警告に加え、今井正・交流協会台北事務所代表が台湾の楊進添・外交部長(外相)に抗議したにもかかわらず、14日まで同水域内にとどまる事件が起こったばかり。
日本の鳩山由紀夫首相も友愛精神からなる「東アジア共同体構想」からだろうか、こうした運動に答えている。普天間飛行場撤去問題に関連して突然開催された昨日の全国知事会議の要旨、産経新聞「【普天間】首相と知事会のやり取り」(参照)より。
東京都・石原慎太郎知事「尖閣諸島で日中が衝突したら日米安全保障条約は発動されるのか。沖縄問題の前に日本の領土を守る抑止力があるかどうかを米国に確かめてほしい」
首相「(尖閣諸島の)施政権は当然日本が有しているが、日中間で衝突があったときは、米国は日本に対し安全保障条約の立場から行動すると理解しているが、確かめる必要がある。米国は帰属問題は日中間で議論して結論を見いだしてもらいたいということだと理解している」
いろいろちゃぶ台返しがお好きな民主党なので、自民政権で麻生前総理が詰めておいた確約もすでに覆しているのかもしれない。
鳩山首相は「確かめる必要がある」としているが、昨年の2009年2月26日の衆院予算委員会で、自民党の麻生前首相は、尖閣諸島への安保条約適用を米側に確認するとし、外務省が改めて米側に再確認した経緯がある。「尖閣諸島に安保適用/米公式見解」(読売新聞2009.3.5)より。
日本が攻撃された場合に米国が日本を防衛する義務などを定めた日米安全保障条約が尖閣諸島に適用されるかどうかの米側解釈の問題を巡り、米国務省は4日、適用されるとの公式見解を示した。読売新聞社の質問に答えたもので、当局者は「尖閣諸島は沖縄返還以来、日本政府の施政下にある。日米安保条約は日本の施政下にある領域に適用される」と述べた。このオバマ政権としての見解は日本政府にも伝えられた。
尖閣諸島の帰属問題については、学者さんには各種の議論があるものの、鳩山首相が米国の思惑として示唆するような、「日本と中国の当事者同士でしっかりと議論して、結論を見いだしてもらいたい」という見解を戦後一貫して日本政府は取っていない。
政治主導の民主党なので、尖閣諸島の帰属も、民主党の観点から見直したいのかもしれない。
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