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これは、バーバーが有名なハンチントン「文明の衝突」と同時期に出されたもので、「歴史の終わり」(フクヤマ)は来ていない!という主張である。
マックワールドとは、マクドナルドに加えマックPCやMTVなどアメリカ産の均質的なポップカルチャー的商品やサービスを速やかに提供してくれるグローバルな消費生活と市場経済によって支えられる世界のことだ。
アメリカ的生活様式の浸透によって、逆に西欧近代への反発を引き起こし、伝統的な価値、共同体的な理念を取り戻そうとする宗教的・民族主義的に閉塞しようとする傾向に向かってしまう。このような”聖戦”は元はイスラム圏のものだったが、アメリカ内部のキリスト教原理主義者なども”文化戦争”を仕掛けているとバーバーは見なす。
この話から思い出したことがある。
かつて、西洋は”未開の地”に対して啓蒙と福音を口実にまずキリスト教宣教師が入り込む。次に、アカデミズムを口実に文化人類学者が入り込んだ。ここまでやると後は簡単であった。
伊達さんご指摘の件に関して、注意しないとならないのは、バーバーのような指摘です。平和的友好的な装いでもって始まるということが重大です。
民主主義でもって終焉を迎える(という妄想)を消極的に喜びつつ享受する危険性は、アメリカ産の普遍主義に汚染されてしまうことです。旧ソ連がなくなると悪の枢軸、そんな風に”民主主義”輸出(→派兵)の口実を変えては来たけれど、それもだんだんなくなりつつある。その結果、先遣隊として重要になるのは消費文化・アメリカ的ライフスタイルによる侵略ということになります。
ロールズの理論は、アメリカという国家を前提にしており、それをそのまま世界という枠組みに当てはめることに批判があった。それに対しロールズは、「万民の法」(1993)において『寛容の限界』という視点を提出している。それは、リベラルな社会が「リベラルでない」社会に対してどのように接すべきかという視点である。
世界的枠組みにおいては、普遍主義は限界にまでその領域を引き下げることになるだろう。その限界の見極めをロールズは主張する。
民主主義の一方的な押し付けは確かに悪いかもしれない。
だが、例えば、ミャンマーのような国と内政不干渉で付き合うということは、どう考えても不正義に加担することになるのは間違いない。
普遍させる最小の枠組み、
逆から見ると「寛容の限界」をどう見定めるか、それは簡単なことではないでしょうね。
マクドナルドこそが”基地”であるとは、もう誰も思わない、思えない。
沖縄が日本人にとって、なかなか熱くならない理由はそれほど簡単なことではないと思います。
スピードスケートの選手で中学生がいましたよね。
彼女が、「選手村で美味しかったものは?」と聞かれ迷わず「マック!」と答えていました。そんな”味覚”が沖縄を注視する”視覚”を獲得することはありえないでしょうorz
畜 群 は深い。
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