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何かとんでもないことを言っているようですね。
ビジネスマナーっていつ、私は猫君と契約したのでしょう。
少なくとも、眼前にいたらグーでニ三発は実際の効力おある暴力を振るうと
思いますので。
牧畜から遊牧は生まれるが、遊牧から牧畜は生まれません。
牧畜をするためには、単に囲い込んだだけではだめなので、ムラの地図や水のみ場の地図が必要に
なります。(それが分業っていうもので、羊飼いが自分のところの羊の面倒を見ているわけではない
という常識があれば、それがどうして慣習として成立したのかを考えるってことはできるはずです
ね。)
あと、われわれが地図とよんでいるものとその地図が同じでなくてもよいということは押さえておく
べき。
ええと、猫君?近代的主体を進めれば革命の主体になるんじゃないの?というかそれ転倒だよね。
革命という行為を合理的に説明しようとすれば、計画する主体という個人のあり方、主権のあり方
にたどりついてしまうのだよね。
で、どうして、私がそういう主体を<高く評価している>というドクサに達したわけ?
基本的に主体的であろうとしていることに批判的で、だからこそ、「システムが…」という君の
ことを小ばかにして批判しているわけ。そのことにまったく気づかないでいたとしたら、読めない
のも一つの技術なのかと呆然とするだけですよ。システムうんぬんなんて、システムをコントロール
できる立場の人間がいえるのであって、社会システムは相当に一般人には扱えない。
(なぜなら、その社会で一つの場所や立場をもち無意識の内にその代表として行動してしまうからだ)
主体
>subjectum(サブジェクト)は、下に投げられたものという語構成のラテン語で、アリストテレスのヒュポケイメノン(ヒュポ+ケイメノン 下に置かれたもの、基体)の直訳に由来し、属性がそこにおいて属すべき基体を意味した。
はい。ギリシア人ですよね。アリステレス。おしまい。
ものすごく簡単なことなんだけれども、
科学が成立した以降に生まれたアメリカでは学問は科学の形式を整えなければならなかった。
科学の説明に神は必要ない。
ID仮説もだから、神ではなく「知性ある存在」なんて言い方をしなければならない。
カントがそれでも神を要請される存在としてその存在を否定しなかった。
それは神というものの文脈がまだ学問的だったからだし、科学というものの考え方が考え方の
一つにすぎなかったからだ。
アメリカで哲理を研究するのに神を持ち出すわけにはいかないだろ。
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