矢野市議に加害者にしたてあげられた少年


平成12年4月26日―東京地裁八王子支部。
原告矢野の訴え(慰謝料・治療費等計119万4630円)が棄却された。
矢野市議に暴行を加えたとして、訴えられていた少年(当時17才)の勝訴であった。

ことの起こりは、平成7年7月16日午前3時20分ごろ。
朝木明代氏が書類送検されてから4日後のことだった。
(以下、裁判での矢野氏の説明をもとにしている)

『東村山駅近くの「草の根」事務所から自転車で帰宅途中の矢野穂積氏が、道路に寝ていた若い男に襲われ暴行を受けたという。
この時、矢野氏は、犯人の顔を鮮明に記憶した。
一度は逃れた矢野氏であったが、正福寺近辺で、同じ若者に再び襲われた矢野氏は助けを求め叫び声をあげ、現場に20才前後の若者グループが駆け付けた。
犯人は逃走。若者がバイク等で追跡し、男の名前を特定した。犯人は、この若者グループと顔見知りであった。

駅前交番の警官が救急車を呼び、その後東村山署からも2人の刑事がやってきた。
矢野は東大和病院に運ばれて応急処置を受けた後、2つの現場で状況検分に立ち会った。
平成7年7月18日、矢野氏は東村山署に被害届を提出している。』

この事件について、「夕刊フジ」「週刊新潮」「週刊ポスト」「週刊朝日」が取り上げた。
「週刊ポスト」(平成7年8月4日号)は、「(犯人は)武道経験のある男です」との矢野氏のコメントを掲載。
さらに、「この男(犯人)が学会関係者ではないか、と矢野市議は見ている」と続けた。
裁判での矢野氏本人の説明によれば、既に犯人は特定されていたはずである。
とすれば、週刊ポストの記事、あるいは、裁判での矢野氏の主張のどちらかに嘘がある…ということになる。

その後、この事件は、朝木明代市議殺害の根拠として扱われるようになる。
「週刊新潮」(平成7年10月12日号)「創価学会の関与が判明した東村山女性市議転落死の周辺」では、「黒い野球帽の男」との2段見出しで、矢野氏のコメントを中心にとりあげている。
(以下裁判での矢野氏の説明をもとにしている)

『平成7年9月21日夜10時ごろ、東村山駅前の居酒屋で矢野氏、直子氏、小坂渉孝氏、朝木巌氏の4人で夕食をとっていた(週刊新潮の記事によると、矢野氏、直子氏、支持者の3人のはず。ここにも証言の変転が。)ところ、野球帽を被った若い男数人が、偶然、矢野氏の斜め向かいに座った。
矢野氏は、すぐに男が犯人であるとわかった。
若い男は、矢野の視線に対して、帽子を深くかぶり直すなどして視線を避けていたが、髪や顔の特徴から犯人である事は間違いなかった。
矢野氏は110番通報し、男を連行していった。』

裁判資料によれば、少年は警察の取り調べに対して、容疑を全面否認したという。
矢野の名前も顔も、一切知らなかったと答えた。
警察は、念入りに、さらに2,3回事情を聞き、勤務先の社長からも話を聞いた。
その結果、警察はこの少年を「暴行事件とは無関係」と判断し逮捕されてもいない。

平成7年9月21日夜、友人と食事をしていて、突然見ず知らずの中年男から暴行事件の犯人であると警察に突き出されたこの17才の少年は、平成10年9月、遂には、暴行事件の被告として、「見ず知らず」の矢野氏に告訴されることとなる。

少年は、実名こそ出されなかったものの、多くの週刊誌で取り上げられ、乙骨正夫著の「怪死」においては、イニシャルまで公開されていた。

裁判において、矢野氏は、矢野氏の主張によれば犯人の顔を目撃したという若者グループに法廷での証言を依頼した。若者は、矢野氏の申し出を断っている。

平成10年10月に始まり、8回の口頭弁論をへて平成12年4月26日に判決が下された。矢野氏の請求は棄却。

少年が、警察に突然突き出されてから4年半がたっていた。
地裁の判決によれば、矢野氏による冤罪事件が明確となったということだろう。
何の利害関係もない、面識すらない一般市民を加害者にしたてあげ、マスコミで騒ぎ立て裁判で告訴する…。
矢野氏により、一人の少年の4年半は、全く違うものに変えられてしまったといえよう。

 

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