ラッシャーさんから学んだこと
ラッシャーさんが亡くなった。またプロレス界が、寂しくなった。
今週月曜日の5月24日、プロレスリング・ノアのラッシャー木村さんが亡くなりました。68歳でした。6年前に脳内出血で倒れ、入院生活が続いていたラッシャーさん。2004年7月10日のノア東京ドーム大会では、ビデオメッセージにより引退を発表されていました。その後、元気な姿にお目にかかれぬまま、お別れとなってしまいました。今週は、各局の報道番組や情報番組で、ラッシャーさんを追悼するニュースが流れました。かつて金網デスマッチで活躍し「金網の鬼」と恐れられたラッシャーさん。IWA世界ヘビー級の王座にも輝いたり、数多くの団体で激闘を繰り広げてきた経歴を振り返ると、改めてその偉大さを感じます。
私が、日本テレビ・アナウンス部・プロレス班に配属になったのは、1996年でした。この時は既に、ラッシャーさんは全盛期を過ぎ、前座の試合で新たな魅力を発揮されていました。ジャイアント馬場さん、百田光雄さんと共に『ファミリー軍団』を結成し、永源遥さん、マイティ井上さん、渕正信さんらの『悪役商会』と、コミカルな要素を含んだ抗争を続けていました。この両軍団の戦い『ファミリー軍団VS悪役商会』は、通称『ファミ悪』と呼ばれ、『休憩前のもう一つのメインイベント』として人気を博しました。ですから、私にとってのラッシャーさんと言えば、こうしたユーモラスな姿が思い浮かびます。
ラッシャーさんの思い出といえば、やはり試合後の『マイクパフォーマンス』です。会場に来たファンにとっては、楽しみの一つでした。実は、そのラッシャーさんのマイクパフォーマンスから、私は多くのことを学びました。
まず、ラッシャーさんはマイクパフォーマンスにおいて、絶対に噛むことはありませんでした。試合直後で息も上がっていたでしょうし、喋りは本業ではないにも関わらず、言い間違えたり、言いよどむことは無かったのです。大きな会場でのマイク使用というのは、自分の声が予想外の反響を起こしてしまうため、我々アナウンサーにとっても非常に難しいものです。ラッシャーさんのマイクパフォーマンスを聞く度に、自分への戒めとしてきました。
また、ラッシャーさんの語り口は、実に優しいものでした。プロレスラーのマイクアピールというと、早口で怒鳴るものが多いのです。その為、実際にプロレス会場でマイクアピールを聞いていても、内容が良く聞き取れないことがあります。しかし、ラッシャーさんは違いました。ゆっくりと、穏やかに語りかけるものでした。一方的に言い放つのではなく、聞く側の人間のことを意識したラッシャーさんの喋りは、我々アナウンサーにとっては、正に『教科書』でした。
さらに、ラッシャーさんのマイクパフォーマンスには、季節や地域の話題が豊富に含まれていました。例えば、春には桜を話題にし、夏は「熱中症に気をつけましょう」と呼びかけました。秋にはマツタケの話を持ち出し、冬にはサンタクロースのネタで笑いを誘いました。また、全国各地の会場では、必ず『ご当地ネタ』を披露。ジンギスカンや、味噌カツ、お好み焼きといった各地の味覚に触れたり、広瀬川、桂浜、桜島などの地名を組み込んでいました。『どんな話をすれば、その地域のファンが喜ぶか』を意識されていたのでしょう。一年中いつでも、全国どこでも使えるような同一文面のマニュアル的な話よりも、その季節限定、その地域限定の話のほうが、人間味がありますよね。私も、ラッシャーさんに習い、プロレス実況の中には、『季節と地域』の話題を入れるようにしました。
こうして、アナウンサーである私は、プロレスラーであるラッシャーさんから、喋りの基本を教えて頂きました。そんなラッシャーさんの現役最後の試合は、2003年3月1日の日本武道館大会でした。2003年3月1日の武道館といえば、プロレスファンなら誰でも知っている『伝説の三沢・小橋戦』がメインイベントで行なわれた、あの3・1武道館です。その日、ラッシャーさんは第一試合に出場し、試合後いつものようにマイクを持ちました。その日、ラッシャーさんは、こう語り掛けました。
皆さん、こんばんは。
ご機嫌如何ですか。
今日から3月ですね。
でも、まだ寒いです。
早く、桜が咲くと良いですね。
本日は、お忙しい中、また雨の中、多数ご来場いただきまして、
本当に、本当に、ありがとうございました。
結果的に、これが最後のマイクとなってしまいました。ラッシャー木村さん、今までお疲れ様でした。
ラッシャーさんから学んだことは、忘れません。安らかにお眠り下さい。