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平野さんの「法的措置」発言には怒りがおさまらない。たとえあちらさんの立場に立って考えてみたとしても、よりによって選挙の直後になんということを言うのかと。暴言以外のなにものでもない。およそ「民意」というファクターが考慮の中にない、あまりにも権力的な発言。
これに対し、どうも、たった一つの基地を返還しろというだけにすぎない話に、自民の一部も含め、いろいろキイキイ言っている連中がいるようです。麻生政権時代に反麻生の声が大きくなってきた時にも、困った右派の一部(ネトウヨ系)の連中が、「麻生さんに反対するならそれに代わる人を提示しないと無責任」というレトリックを編み出した。一見すると、論理的に中立にみえるけど、よく考えればこれは「麻生さんは正しい。これを代えろたらとんでもないことになる」という麻生全面擁護の論理だとすぐにわかる。あんまりアホらしいので、これに乗せられる人はいなかった。これをキイキイ言ってた人が、麻生批判と同じように沖縄の人々の犠牲を批判する声が大きくなるにつれて、今回も同じ論理で頑張っておられるようだ。簡単に言えば、「おいおい、逆ギレかよ(笑)」ということ。
かつて欧州でソ連とアメリカが巡航核ミサイルの配備合戦を演じ、レーガンがソ連の脅威をガナリたてた時、欧州の人はとうとう怒り出して「おまいら、どっちもいい加減にしろ!」ということになり、空前の反核闘争につながり、基地が民衆に包囲されていった。その後、ソ連はとっとと自壊し、実はすでに脅威どころかボロボロだったことが判明している。彼らが自壊したのは軍事で負けたからではなく、存在が反人民的だから負けたのだ。ようするに軍拡論者はそもそも視点が間違っている。
私らが北朝鮮の核武装をやめろと大きな顔して言えるのも、その政権をぎゅうぎゅう締め付けて崩壊させようと言えるのも、自分たちが核を持たず、人権の擁護を掲げて、国家権力のためには民衆を犠牲にすることは許されないと考えるからだ。だから堂々と北朝鮮を否定することができる。これが私たちの選択肢であり、これはソ連の崩壊、東欧革命で正しさは実践されてると考える。
ところが一部の、米軍に加えて「日本も対抗上、核を持つべき」とかいう主張は、かつての米ソ核軍拡競争のような道を選ぶべしということ。そしてその競争に勝つためなら、民衆に犠牲が出ることもやむをえないんだと。金はやるから我慢しろと。こういう色眼鏡をかけている人の目には、この軍拡競争に「どっちもいい加減にしろ!」と悲鳴をあげる人が、全部「向こう側」の味方に見えるらしい。問題はそんなことではないのだ。
このどちらの道を選ぶのかというのが、問題の議論にあたって一番最初に問われる本当の選択肢だ。それ以外のすべての議論はその次の問題。
追記:投稿をふくらましてブログのエントリにしたので、リンク先を変更。茶畑さんご紹介の抗議先も転載させていただきました。ありがとうございます。
http://bund.jp/md/wordpress/?p=4476
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