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実はグチャグチャ、実は正反対
そういう本質を持った発言が奇妙に連続する。だが、なぜかその細部を煮詰めすり合わせるような議論・対話になることは決してない。単に言いっぱなし。コンパの告知だけ。
外国人排斥反対の中身はどうなのか。難民はOKだけど、移民はアカンというものなのか。
偽装難民を徹底して排斥するために「>色々な法的整備もしなくちゃいけない」とする。法は整備するが、その適用は日本的に曖昧にするのがいいのか。どうして、カルデロンという具体的な事例に言及しないで言い放せるのか。
お花畑では、実はてんでバラバラなのをお互い薄々気づきながら、そして気づいているからこそ、日本的曖昧さを常にまとわせ単発的連続という 連 帯 に持ち込む。
絵に描いた餅のような”空虚な”総論だけにすればつながるとでも思っているのか。
手段やプロセスなど誰も考えない。方法論など何一つない。
重要なのは、何を捨てるか、何をあきらめるのか、そういうことしかない。
それがまるでないものとして話すすべては我々の敵である。そういう奇麗事が現実には最も大きな悲劇をもたらすのだから。
カルデロンを見逃すことは、難民を真に助けることの足を引っ張るということを三浦氏は言っていることになる。日本的誤魔化しはどうでもいい。論理的にはそれしかない。
なぜ、一つ一つ具体的なことを徹底して考えすり合わせることをしないのだ?
>もう少し頭使って悩んで欲しい。
ここでは、考えることや悩むことがその正反対だと決め付けられ排除されるようだ。
宗教的な説話ならいいらしい。原資を無視したばら撒きマンセーみたいな話なら、頭を使った話になっているのは実におぞましく滑稽だ。
連続すれば連帯するわけではない。
(デモで)いくら一緒にあるいても、日常を現実に生きることはそれとは無関係にカルデロンはどうするのかということに他ならない。法はビシビシ整備するが、その例外を増やすというトンデモでお花畑的に解決するのか?
運動ではなく こ と ば のためだけに二次会はあるべきだ(った)とまっぺんさんは言っている。仰山党では、患部がそれを強調する。言質は取ってある。言質を取っても、てめーは運動などしないで何をほざくんだと言う輩が次から次へと出てくるに違いない。
要は論理など何もない。それが証拠に、運動ではなく「ことば」だとしたまっぺんさん自身がここでつるし上げられるような事態にはまるでならないからだ。所詮、その程度の運動なのだ。
論理より親分w
米帝がキューバからの難民?偽装難民?移民?をどう扱っているのか、そういうことを同じところで考えようとはしない。
wet-foot, dry-foot ということならカルデロン事例は無問題になるということだ。しかし、ここには偽装がどうとかそういうことは何一つない。そんなことを見破ろうとすることが絵に描いた餅であり、いろんな意味で地獄を作るんだから。
何を捨てるか、何をあきらめるのか。
それが正義であり、MLが教えてくれている唯一のことなのだ。
宗教による詐称説法はぜひ止めて欲しいと心から願う。
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