1995年 阪神・淡路大震災は起こった。
神戸の街は崩壊したが、被災者は悲しみを乗り越え復興のために前向きに生きた。
一方、震災後、練習もままならなかったオリックス・ブルーウェーブだが、「がんばろう神戸」を合言葉にユニフォームの右袖に「がんばろうKOBE」のワッペンをつけ、被災地神戸の復興のシンボルとして「優勝」という目標を掲げた。
シーズン開幕を迎えたブルーウェーブは、被災地という状況でありながら神戸での開幕戦に踏み切る。
そこには、神戸にとどまり、市民とともに戦おうという想いと、何よりもそんなチームを被災者である市民が応援してくれたという背景があった。
そして迎えた開幕戦、交通事情の悪さにもかかわらずグリーンスタジアム神戸(現スカイマークスタジアム)には3万人の観衆が訪れる。
その応援に応えるかのように開幕戦勝利を飾ったチームはその後も快進撃を繰り広げ「優勝」という栄光を勝ち取り、市民を勇気づけた。
1995年リーグ優勝、それは「がんばろうKOBE」という合言葉を胸に、チームとファンや市民が一丸となった結果である。
15年前を振り返ると、リーグ優勝を果たし、選手個人の輝かしい成績も残されている。
「がんばろうKOBE」を合言葉に戦ったあの年。
素晴らしい成績の裏には、忘れてはいけない出来事、語り継がなければいけない歴史もたくさんある。
福岡の自宅から神戸に戻れたのは震災から10日後だった。直行したのは神戸市役所。ロビーは被災者でいっぱいだった。痛々しさと生々しさ。お見舞いの意味もこめてみなさんと握手をしていたら、「頑張ってください」と言われた。住むとこや食べることを心配しなければならない状況で、「頑張ってね」と言われる。「頑張らなきゃ」と思ったな。
ホームゲームをやるとすれば、周辺の地域と思っていたが、宮内(義彦)オーナーが「こういうときだからこそ」と神戸での開催を決めた。交通網も整備されていなかったが、決断をした宮内さんは偉かったと思う。
スタジアムに来ることさえ難しい状況でファンは集まった。今はグラウンドとスタンドの一体感をつくるため、メジャー式の球場になっているが、あんな取って付けたものじゃない。当時は本当に一緒にやっていた。(ベンチ入りの選手の)25人で戦っているのではなく、何万、何千人で相手を圧倒した。選手からも自発的に「神戸のために」という話が出てきた。地元は大変なのに野球をさせてもらっている。「がんばろう神戸」のワッペンもあるが、自分たちはどうしたらいいか、という気持ちが自然に芽生えた。
コンディションは最悪だった。優勝できたことが不思議なぐらい。当時はおとなしい子ばかりで頼りなかった。それが気持ち一つで変わる。人間の瀬戸際の強さを感じた。
プロ野球選手が気持ちを一つにするなんてなかなか難しいこと。復興への思いが団結心を生んだ。すごいと思った。みなさんから「元気づけられた」と言われたが、逆だった。神戸で試合をしていなければ、絶対にリーグ優勝はなかった。
使命感があったのだと思う。普通、優勝は球団のためであり、選手のためのもの。影響を及ぼす範囲は小さい。だが、95年は社会的意義があった。通常の通念とはまるで違った。
街が昔の景観に戻り、当時の大変さは緩和され、みなさんが元気を取り戻してきたと感じる。ただ、生死にかかわる出来事だった。平和だからこそ、あの状況をしのいできたことを時々は思い出さないといけない。
『使命感 胸に「がんばろう神戸」を合言葉に希望のリーグ制覇』
神戸新聞2005年1月12日より抜粋
地震の直後、球団では、神戸以外の地方球場で興行する話が出ていた。こんな惨状で野球を見にくる人はいない、今シーズン神戸で野球をするのは夢物語だ、ということだった。私は反対した。「こんなとき神戸を逃げ出して何が市民球団だ。一人も来なくてもいいから、スケジュール通り絶対、神戸でやれ」と。そうしたら、全員が市民と一緒に復興しようという気に変わっていった。開幕試合には三万人もの方が見に来られ、逆に選手たちを感動させた。がんばろうKOBEに魂が入った。
『-震災を語るー がんばろうKOBEに魂京阪神全体での活性化を』
神戸新聞より抜粋
「1.17」も毎年、オリックスの練習場で迎え、当時の仲間と共に静かに目を閉じる。
「あの時は、神戸のファンと一緒になって野球ができた。今でも忘れられない」
阪神・淡路大震災が起きた95年、神戸に本拠地を置いたオリックスはリーグ優勝を飾った。ユニホームの袖に「がんばろうKOBE」のワッペンを着けたナインは、被災地の「希望の灯」となった。田口は回想する。「世界一よりも重みのある優勝だった」
『-兵庫人 挑むー 第15部 白球の記憶 無名の英雄
価値を高め生き抜く 故郷での「潤い」力に』
神戸新聞2008年6月15日より抜粋。
神戸に「行く」ではなく、「帰る」と、イチロー選手は表現する。阪神・淡路大震災については「忘れない」ではなく、「忘れられない」。十年前、神戸市西区学園東町にあるプロ野球・オリックスの合宿所「青濤館(せいとうかん)」で震災に遭った。ここ数年、1月17日には神戸で黙とうを捧げる。イチロー選手にとっての「1.17」とはー。
「もちろんあの時間、みんな寝ていて、何かものすごい音がしたんです、最初。トラックが突っ込んだのかと思ったら、直後に揺れが始まった。部屋が確か4階だったのですが、屋根か床が抜けるかと。ただ事ではない。命の危険を感じましたね。結局、青濤館は大丈夫だったんですが、パンツ一枚で食堂まで行きました。誰かの顔を見るとほっとするので、みんな集まったんですよね。しばらくしたらテレビがついて、高速道路やビルが倒れていた。自分が体験したあの揺れよりひどい所であれば、当然そうなるだろうし、テレビの画面を見ても不思議ではなかった。知っている人たちに電話しました。皆、無事だった。実家に連絡すると、おやじは歯磨きしていたみたいで、まったく分かっていない。慌ててテレビをつけていました。」
2月1日からの沖縄・宮古島でのキャンプはもちろん、2ヶ月半後の開幕も危ぶまれた。「キャンプは無理だろうと、すぐ思いました。それどころでないという雰囲気。地震の直後に、(チームの中で)自分たちはどうしたらいいか話し合ったんですけど、結局、行き着いたところは、僕らは野球をしなくてはいけない、ということ。通常通りの開幕に向けてやることが、僕たちが一番やらなくてはいけないことだという結論になりましたね。そのために、じゃあ、どうしたらいいか、それぞれが考えた。キャンプは1月31日に関西国際空港に行ける者は集まるということになったが、最終的にみんな集まった。うれしかったですね。野球をやろうと、皆が思っていた。」
「がんばろうKOBE」のワッペンを袖に付けてブルーウェーブは快進撃した。
「あの日のことを、僕らは、被災した人たちは、いつだって忘れることはないんですが、もう一度、しっかり自分の記憶、気持ちの中にとどめる日ですよね。それと、前に進んでもらいたい。後ろ向きにならずに。10年たったわけですし、忘れるという意味ではなく、気持ちを切り替えられる区切りになると思うんですよね。僕は、次に起こることは何か、いま何をすればいいのか、いつも考えます。無駄というか、生かされないことの方が多いんですが、考える労力を惜しむと、前に進むことを止めてしまうことになる。それぞれの生活の場で、考える内容や質は変わるでしょうけれど、考えてみてほしい。僕も新しい年、無駄なことをたくさん考え、そこから新しい何かが見えてきたらうれしいですね。」
『-イチローインタビュー(下)ー
《前へ進もう》震災後の結論「野球をしなくては」神戸という街。一生付き合っていく。』
神戸新聞2005年1月3日より抜粋
このサイトを通して、忘れてはいけない歴史を振り返る。
15年前、神戸の市民と共に勝ち取ったリーグ優勝。
選手だけでなく、ファンが支えてくれたからこそできた優勝。
「がんばろうKOBE」を合言葉に、オリックスは神戸の復興の光となった。