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1945年1月27日、サイパン島を出撃した第73爆撃航空団にとって第6回目となる中島飛行機武蔵製作所への任務は完全な失敗に終わり、出撃74機中9機を失うという大きな対価を支払うものとなった。
この日基地を飛び立ったB29の中にウィアーウルフ(狼男)と呼ばれたシリアルナンバー42-63423号機の姿もあった。しかし、若干25歳の大尉Elmer
G.Hahnを機長とし、11人のクルーを乗せたウィアーウルフは再びサイパン島にその姿を見せることはなかった。 墜落直前のウィアーウルフ 鈴木正一伍長 * 鈴木伍長の日記*
第73爆撃団は、中島飛行機武蔵製作所あるいは三菱重工発動機製作所名古屋工場のいずれかを、もし天候が悪ければ、東京あるいは名古屋の都市地域をレーダー爆撃するように指令されていた。そのため2機が天候観測機として先発し、
ターゲット357中島飛行機武蔵製作所を目標とするように後続機に報告、74機のB29は東京にその針路を定めた。
ウィアーウルフはこの日、17機編隊の一機として、ランドマークであり、東京への旋回点でもある富士山に向け飛行を続けていた。
一方、帝都防空の任にあたった陸軍飛行第244戦隊は、名古屋方面の防空に備えて浜松飛行場にその分遣隊を展開させていた。浜松飛行場を飛び立った市川忠一少尉率いる3機の三式戦闘機飛燕は、静岡上空でB29群を捕らえ、これに襲いかかった。市川隊の攻撃目標となったウィアーウルフは、3番機鈴木正一伍長(3週間後の2月16日対艦載機戦闘により足利市で撃墜戦死)の攻撃が致命傷となり、富士宮上空で空中分解、墜落した。鈴木伍長はその日の行動を以下のように記している。
一月二十七日 土曜日
敵機襲来 良シ今日コソ帝都ノ空ヲ紅ニ染メント誓イテ機上ノ人トナル
我ガ小隊何処迄モピタリト見テオッテ気持良シ 而シ八千位ヨリ釘田伍長編隊離脱致シ着陸ス 残念至極
三機ニテ浜松上空待機ス 立川上空ニ進メノ命ニテ富士山上空ニ至ルニ状報 御前崎方向ノ一目標有リ
敢然之ニ三機攻撃シソノ一機確実ニ撃墜ニ至ラシメ快感ヲ味フ
富士飛行場ニ不時着シ燃料補給シ一路帰隊ス
機体は、機首部が富士宮市源道寺、動体部と翼が同市阿幸地、尾部が富士宮陸軍墓地に落下した。墜落する機体からは四つのパラシュートが開き、市民は各自鎌や棍棒等の武器を手にゆっくりと降下してくる四人行方を追った。当時国民学校3年だった俳優 里見浩太朗もその中にいた。
「昭和20年1月私が小学校3年生の時でした。B29による東京大空襲があり空襲警報の鳴り響く空をB29の編隊が腸がひっくり返りそうな爆音を響かせながら西の山から富士山の向こうまで続いてしまうほど飛んで来たのです。私は母と兄と3人で防空壕の中に潜んでいました。やがて数時間過ぎてB29の編隊は富士山から西の山に向かって悠々と帰っていくのです。その時、かん高い急降下の音とともに1機のB29が黒煙を噴出しながら下がってきたと思ったとたん、大音響と共に空中分解をして機体は3つに分かれ真っ赤に燃えながら落ちてきたのです。私は、恐怖心と物珍しさから思わず防空壕を飛び出してしまいました。燃えて落ちるB29と共に何人かの米兵が落下傘で脱出したのが見えました。その時母が大きな声で”あぶない”と叫びながら掛け布団を私の頭からすっぽりかぶせ、私はその重みで地面にたたきつけられました。実はそのB29の3つに分かれた尾翼の部分が現富士宮2中の校庭のすぐ横に落ちたのです。(そのときはまだ2中ではありません)そこには、軍人墓地があり、まるでその墓地にひれ伏すような形で墜落していたのです。当時私の家は、浅間神社の西門のすぐ近くでしたので、走って見に行ったのです。焼けただれた機体からまだ時折機関銃の弾が爆発して四方に飛び散っていました。私は、身体中をガタガタと震わせながらその光景を見つめていました」 |
若宮町陸軍墓地に墜落した垂直尾翼 |
機長Hahn大尉は富士宮市春日町半黒田の日本皮革工場東側水田に、機関士兼電気技師Edman少尉は富士宮下萬野富士宮青年学校西側水田に、機銃手Myhra軍曹は阿幸地の水田にそれぞれ着地、鬼畜といわれた敵兵を初めて目の当たりにする市民と対峙した。
3人は現場に到着した富士宮警察署員に拘束され、富士宮憲兵の。され、名古屋憲兵隊の指導により、即日尋問のため東京に送られることとなった。1942年4月18日ドーリットル中佐による本土初空襲を受けて、42年7月28日発せられた「陸亞密第二一九〇号 帝国領土、満洲又ハ我作戦地域ヲ空襲シ我権内二入リタル敵航空機搭乗員ニ関スル件」により、調査の後、軍事施設のみを爆撃した搭乗員は正式捕虜として俘虜収容所に収容し、無差別爆撃を行った者は軍律会議を開廷し、死罰(銃殺)することが陸軍の方針だった。
一方クルーの残りのメンバー、Lowe中尉、Franzler少尉、Overmire二等軍曹はパラシュートが開かず、富士宮市源道寺芝添に落下、機体後部に乗っていた残りの4人は機体から脱出できず、それぞれ墜死した。
東京送りとなったウィアーウルフの4人は取り調べのため、九段にあった憲兵司令部留置所に拘留された。墜落時火傷していたMyhra軍曹は治療を受けられず症状がさらに悪化、埼玉県朝霞市振武台陸軍病院に2月9日送られ、翌10日四肢火傷兼敗血症により死亡した。
2月16、17日の艦載機空襲、3月10日の東京空襲を体験したウィアーウルフの3人は、同じく1月27日に参加し、茨城県鹿島市に撃墜されたB29-#42-24769のクルーと共に憲兵司令部屋外に設置された古い厩舎を改装した監房に移され、尋問の日々を送った。#42-24769のクルーが初出撃で撃墜されたため、4月3日東京俘虜収容所本所に正式捕虜として収容されたのに比べ、ウィアーウルフの3人は爆撃参加回数がそれぞれ異なっていたため、軍律会議に送致予定となり、3月31日渋谷区宇田川町の東京陸軍刑務所内に設置されていた東京監禁場に転監となった。
昭和20年1月19日帝国陸軍撮影渋谷駅(所蔵:国土地理院) |
1942年11月軍律違反外国人を収容するために設置された東京監禁場は、刑務所第四号監に設けられ、木造平屋瓦葺で監房は、間口一間奥行二間の二坪の17室で構成されていた。 本土無差別爆撃が本格化するにつれ、B29撃墜数も次第に多くなり、降下拘束される搭乗員もその数を増した。最終的に日本側の記録では62名、戦後のアメリカ軍による推定では65名の搭乗員たちが17室に詰めこまれていた。 1945年5月25日東京市街地に対する最後の大規模空襲が464機(出撃498機)のB29によって行われ、東京陸軍刑務所も火災に包まれた。 当時、搭乗員以外の在監者は464名で、その中には宮中和平工作事件に関連して検挙された元駐英大使吉田茂の姿もあった。吉田は空襲警報を聞きつけて登庁した刑務所次長越川正雄少尉に連れ出され、いち早く隣接した代々木練兵場に避難した。 同じく空襲警報を聞き駆けつけた所長田代敏雄大尉は、第五号監(初犯)の収監者130名を防火班とし、消火にあたらせた。しかし、所内落下焼夷弾や隣接民家からの延焼により、消火活動は不可能となり、田代所長は在監者の解放を命令した。神本啓司看守が第四号監に向かった頃には既に監舎全体に火が回り、7監房を開鎖するにとどまった。 一夜明けた刑務所は灰燼に帰し、四号監内には36遺体が残されており、構内には26遺体が散乱していた。搭乗員にただ一人の生存者もいなかった。これらの遺体は構内に掘られた大穴に一括して埋葬された。 終戦後東京陸軍刑務所関係者5人が横浜裁判に起訴され、全員絞首刑の判決(全員終身刑に減刑)を受けた。この裁判で被告として起訴された神本啓司看守は、釈放後法務省司法法制調査部により実施された「事件の真相」の聞き取り調査に次のように回答している。 |
現在、東京陸軍刑務所の跡地には渋谷区役所、渋谷税務署などが建ち並び、その一隅にこの場で刑死した17人の226事件処刑者の霊を鎮める観音像が建立されている。しかし、62名もの犠牲者を出したB29搭乗員たちのことを知るものはほとんどいない。搭乗員たちが非命を遂げた四号監跡は渋谷区立神南小学校校庭となり、子供たちの歓声につつまれている。
*鈴木伍長及び同日記写真につきましてはHP陸軍244戦隊の桜井隆様より提供を受けました。謹んで御礼申し上げます。