(写真提供:弦巻勝氏)
ネットについて 09.11.28記
不思議な世の中になりました。インターネットなるものが流行し出したのです。当然将棋界も大きく影響を受けます。多くの人々はネットはデジタルと思っているようですが、実はアナログの尊さを知った人が勝つのだろうと思っています。人間です。心です。
人工知能が勝つか。人間の心が勝つか。
人間です。しかし誰が大事で誰が邪悪かの見方は人それぞれでしょう。
私はかねがね、ネット社会に於いては「この二人」だけは友人であり仲間でありたいと願っている人がいたのです。そのひとりが久米の仙人こと久米宏さんです。
将棋倶楽部24は現在30万人の会員とも言われています。あなたも指したことがありますか?いつでも誰でも24時間無料で指せる。それが将棋界最大の電子道場の倶楽部24です。
この電子道場と久米宏さんを日本将棋連盟の一員にすることが私の夢でした。テレビに出ている人と同姓同名ですが別人です。
久米さんの「欠点」は金銭について全く欲が無いことです。私のホームページ立ち上げの時からの知り合いです。私は機械オンチですが、久米さんの実力と倶楽部24の値打ちだけは知っている。そこら辺りが私の数少ない良さでしょうか。
将棋倶楽部24を日本将棋連盟に売って欲しいと申し出たのです。果たしていくらが妥当でしょうか。
久米さんの応答
「売りません。たとえ一億や二億でも売りません。只でなら差し上げます」
どうですか。こう言われると私も困ります。一応の金額は提示しましたが断られたのです。
若いネット委員会を立ち上げました。中川大輔理事が担当で、これからは若さです。私は彼等に置き土産をプレゼントしたかったのです。
平成18年11月16日、結局タダ同然で倶楽部24は日本将棋連盟の道場になり、久米宏さんは電子メディア部の特別顧問に就任していただくことになりました。私の数少ない功績の最たるものです。
柿木義一さん 09.12.5記
久米宏さんが仙人なのは先週書きました。その久米さんが「柿木君は人が好すぎる」と言うのですから上には上がいる。
柿木システムは将棋ソフトに関心のある方なら誰でもご存知の筈です。数々のシステムを開発したりしました。驚くのはその金に対する執着の無さです。
ある時、順位戦のシステム構築を柿木さんに頼みました。ひょっとすると1000万円と言われるかも知れないと覚悟していると、「実費で結構です」と言う。ほんの数万円ですね。
現在はどの新聞社も多くは柿木システムを使っています。使い勝手が良い上にタダですからね。勿論お金を払っている社もありますが、無料で使用している社の方が多い。当り前ですけどね。
コンピュータ選手権が年一度あります。柿木将棋はその歴史そのものかもしれません。ずっと出場しているのです。
その人柄、技術力を私は高く評価しておりました。この人こそ社団法人日本将棋連盟になくてはならぬ人であると確信しました。
「久米宏さんと共に特別顧問になって頂きたい」。私の申し出は、今まで通りフリーでいて頂きながら、電子メディア部のアドバイザーになってもらうことです。良いでしょうということになりました。その交渉は先輩である久米さんに頼んだ。
「米長会長、駄目でした」
「なんで?」
「毎月の手当てなんです。どうしても高いから駄目と言われてですね。月10万と言ったらまだ駄目。無料はどうでしょうか」
「そうはいくまい。とにかく1万円でも5万円でも受け取ってもらわないと困るんだよ。無給というのと、安いけど有給というのは違うんだから」
こんなやりとりがあった末、柿木特別顧問が誕生したのです。
電子メディア部 09.12.12記
久米宏、柿木義一の両先生を迎え入れることが出来たのは幸せです。将棋倶楽部24も手中に収めた。さあ、これからだ。
ネット委員会は渡辺明竜王、片上大輔、遠山雄亮、北島忠雄の各委員。担当理事は中川大輔。職員も交えてディスカッションをします。シリコンバレーの梅田望夫先生もお呼びして会議もある。
その熱氣を感じたのは柿木さん。
「米長先生。この事業はうまくいきます」
「とんでもない。職員も棋士も素人ですから」
「いやいや。この熱氣が大事なんです。ひたむきな氣持ちで前向き。必ず実を結びます」
一応の方針は定まりました。インターネット中継は、権利は主催社。連盟はお手伝いをする。ケイタイ中継は、権利は主催社。連盟は原則何も要求しないのは従前通りです。
ケイタイは課金します。もし利益があがれば主催社と協議。というより契約を交わします。ケイタイは倶楽部24と連動して対局も指せるようにしますが、これは別料金です。
このような会議を繰り返していた今年は、ネット事業スタート前夜として私の回想の中でも特筆ものです。
事業を興し、一定の成果をあげ、それを若者に置き土産とする。楽しいです。
掲示板 09.12.27記
このホームページも2010年3月24日で満10歳になります。当初は富士通社の「サクサク君」で立ち上げました。初心者用の、誰でもホームページが作れるということで考えられたものでしょう。大きな文字で、1項目当たりが600字くらいでした。これがスタートだったのです。
しばらくすると「何か物足りない」と思うのは人の常です。双方向性がインターネットの特徴のひとつですから掲示板というものを考えるようになります。そこで掲示板を取り付けたのです。
日本では法整備がまだ不備です。言論の自由と誹謗中傷が分からない人がいる。当然面白半分の書き込み、粘着型も登場します。私はこういう人を相手にするのが実は職業柄必要なんです。
余りにひどいと、こちらから連絡を取ります。匿名ですから誰だか分からない筈なんですが、とにかく連絡をつけるんですね。驚いたことに名乗り出てきます。元々善人で米長ファン故の書き込みです。そこで私は食事をすることを条件にしてお会いして味方にしていったのです。
この辺の詳しいいきさつ、どうして連絡したかとうとうは後日出版の本をお読み下さい。
確信犯。身元が分かっていて堂々と書き込んで来る人もいます。一応の勉強を済ませました。それに会長職が忙しく、書き込みの攻防を楽しむなどの時間が取れなくなってしまいました。そこで現行の対局専門の掲示板に変えました。
■対局型掲示板
私と一日一手ずつ対局するというものです。
局面から一手あなたが書く。多数決を原則として、あなたの手を決め翌日又一手指す。
局面の更新は週一回が原則です。新聞の観戦記と同じようにしているのです。局面が10手以上進んで次の局面ということです。
手を書き込まず、ただ観ている人の方が圧倒的に多いです。あなたも一度お立ち寄り下さい。
正月雑考 10.1.1記
回想録はどこからどう手をつけてゆくか分かりません。この10年間のものはホームページのバックナンバーを見てみれば、凡そのことは分かります。
それらをもう少し本音、事実、書き難いことをスレスレに書こうかというのが回想録の主眼です。
書きたいこと、言いたいことが多すぎる。
書けないこと、言えないことが多すぎる。
どのようにすべきか、正月に考えてみます。
米長哲学1・消化試合 10.11記
思いつくまま、とりとめもなく書き綴ってゆきましょう。
昭和39年はオリンピックの年でした。20才の新鋭米長四段。一応は久々の大型新人という人も居ましたが、今では15才くらいで四段でないとそんなに昇段が早い方ではありません。
順位戦は当時は12局でした。勿論C2ですが、今と違って降級点はなく、そのまま落ちたのです。落ちると将棋による収入は断たれてしまう。ある意味ではC級2組の降級を賭けた一局はタイトル戦以上の勝負かもしれません。
その年の米長四段の12局目。勝っても負けても関係なく消化試合の最終局でした。相手の市川伸さんは勝てば生き残り、負ければ落ちてしまう。崖っぷちの一局でした。このような時どうするか。
@負けてやる。相手が喜び、恨みを買わず、それが人情というものであろう。
A只ではつまらない。いくらかもらう。いわゆる八百長ですな。
Bきっぱりと勝つ。
これが世にいう米長哲学、米長理論です。
@を選んだ人は残念ながら勝負の世界に不向きです。しかも勝たせてやった人からは恩とかお礼とかは全く期待出来ず、やがて後悔することになるでしょう。いかにも善人風に思えて、これが人生の敗着になります。
Aを選んだ人。超現実主義者です。@を選ぶくらいならAの方がスッキリしていて却って良いのかもしれません。勝負事に八百長というものはあるのでしょう。当事者になることもあるかもしれない。もしも当事者になったら「星は勝っても売ってはならない」。私が星を買いたいとか、あるいは売ってくれる人が居たとします。良くないことですが、買ったのなら、これはこれでまだましです。星を売って金銭を受け取る。これは最悪です。買うことまでは許されても、売った者には幸せは訪れないことになっているのです。
「春は売っても星売るな!」
Bが米長哲学です。何故Bなのか。それは非情ではないか。相手には妻子も居れば生活もある。血も涙も無いのか。
これについては勝利の女神、人生の幸、不幸とを合わせて、来週お話し致しましょう。
<訂正>
上記の文中に誤りがあります。
@順位戦は降級点制度が既に導入されていました。
A従って私の対戦相手は降級点を取りましたが、その後も対局をしていました。
どうして私は錯覚していたのか、記憶違いも甚だしい。私は40才の時には原文の通りと思っていました。もっとも対局する時さえ相手はそのまま落ちるものと思い込んでいたのですから仕方がありません。落ちはしなくても給料、対局料は相当に減ったのは事実です。
当時は三段リーグが出来て間もない頃で、ちょくちょく制度が変ったのです。いろいろな事と混同しており、ここに訂正してお詫び致します。
■消化試合(訂正)
下記の文章に重大な訂正があります。原文はそのままにしておき、指摘された所を訂正します。掲載してから複数の方から注意されました。原文通りにお読みいただいてから訂正文をお読み下さい。
米長哲学2・対大野源一戦 10.1.16記
A級とB1級は現在も即陥落です。私が七段の時の順位戦です。A級入りは2人ですが、又しても私は消化試合で、相手は大一番ということになってしまいました。
昇級に関しては次の二局次第です。
大野−米長(大阪対局)
芹沢−中原(東京対局)
大野源一先生が私に勝てばそのままA級カムバック。もしも負けると芹沢博文対中原誠の勝者が昇級。私のサジ加減ですね。大野先生は60才のA級カムバックということもあってマスコミ陣も大勢見守っている対局でした。
対局の2日前に芹沢さんと飲んだ。
「ヨネ。無理しなくても良いんだ。目の前に居る人間を幸せにするのが人情というものだ」
「私は必ず勝ってきますから貴大兄も頑張って下さい」
「ありがとう。それだけで充分だ」
このような会話がありました。ここに人生哲学、勝負感が全く異なる二人の会話がある。勿論私としては勝つために精いっぱい頑張るつもりでした。結局私は勝ち、芹沢負けで中原昇級ということになったのです。
回顧録の中でも、この一局は有名ですが、私としては20才の頃の方が強く印象に残っています。それは同じ勝負でも「勝って幸せになる」のを封じた一局よりも「負けて不幸になる」方が比重が大きいからでしょう。
対大野戦は余りにも有名で、「米長哲学」はこの後の若い人達にも徹底されるようになりました。消化試合に全力投球することが勝負師として最も大切なことである。
では、なぜ全力投球すると運が良くなるのでしょうか。あるいは勝ちを譲ると勝運が逃げるのでしょうか。
実は運ではありません。それがそのまま実力そのものなのです。その理由を次週に記します。
米長哲学3・スランプと運 10.1.24記
将棋はなぜ負けるのか。ひとつは弱い。これは技術ですから将棋の勉強をするよりありません。
問題はスランプ。これは本来の実力が発揮出来ないために勝てない、負けてしまうというパターンなのです。
飛車を切って攻めれば良かったのに。これは安全策のつもりが震えている、氣が小さいからです。
折角序盤で優位を築きながら逆転負けをする。これは更に分析が必要です。スタートから時間も神経もすり減らしてしまうので、終盤でスタミナ切れというのが原因のことが多い。
カミさんとケンカしている。この場合は攻めが荒くなることが多いです。じっと守るというよりは無理攻めになる。イライラしているからでしょう。
この一局勝てば昇段出来る。あるいは負けると降級する。手が全然伸びなくて全く自分の将棋が指せていない。よくあるんですね。
他にもいろいろありますが、心技体とは良く言ったもので、これはスランプ脱出法の秘訣を示しているのです。精神状態が本来の自分を見失わせてしまう。そこで無心、明鏡止水などの言葉が生まれてくるんですね。
将棋の技を磨き、心の修養をし、健康に氣をつける。心技体それぞれに氣配りして対局に臨むことが極めて大事なことです。
盤上没我。対局に際しては、盤上の真理を求めるため、邪念を払うことが求められます。
将棋盤の片方に自分が着座して、盤上の最善手を求めて盤面を凝視する。これが出来れば百戦百勝でしょうが、精神面か技術面に問題があって、そうはいきません。
問題
将棋盤の向こうの相手はどうなんでしょう。嫌いな人、苦手の人ならば心が穏やかで居られない。
女流棋士。タイプの人でミニスカート。私は実力の50%も発揮出来ないような氣がします。
相手を見ない、考えない、影響されない。自分だけでも精一杯なのに、相手のことで振り回されては敵わない。もうお分かりでしょうか。相手の事情は所詮俗世の金、地位などに過ぎないことです。
全てを心から捨て去り、盤上の真理のみを追究することになりますと「幸運の女神」が「ステキ」などといって寄ってくるんです。だいたい私の実力で30年近くもA級から一度も陥落しないで居られたのは全て女神のおかげです。私は20才の時、女神に好かれたような確信がありました。
将棋界では後輩に米長哲学が受け継がれてきたことがうれしいです。引退したといってもまだ女神は私を好いてくれているようです。この間会ったらそう言っていました(^^)。
消化試合は必ず勝て。
盗聴、盗撮 10.1.30記
とりとめもなく書くといっても困るんですね。LPSAと将棋連盟との協議会が中断されたとLPSA側が一方的に発表しました。当然私が悪者にされるのはいつものことだからしょうがない。しかし今回は棋戦主催社の中から「余りにもひどい」という声が上がっています。
そこで、私は事実を確認してから記者会見を行う予定です。それは将棋会館になるかプレスセンターになるかは分かりません。
第一の質問
6人だけの協議会になりました。私は駒込へ行くのだから密室ではなくLPSA所属の全女流棋士に実態を見聞きして欲しいと要望を出しました。しかしこれはNOと言われました。
6人きりの話し合い。これが盗撮されていたのです。LPSAの特別関係者、鵜川氏が述べるところでは、後日問題が起きないための証拠というためらしい。
これは紳士、淑女のやることでしょうか。恐いことです。駒込のビルの中へ行くと盗聴、盗撮がいつもあることを用心しなくてはならないのですな。犯罪ではないでしょうか。
第二点
立会人がHP発表を促すかのように言ったというのは本当なんでしょうかね。
私の要望は、その録画を東京将棋記者会とLPSAの全女流棋士に観てもらい、会談の中味について万機公論に決すべし。それをオープンにしてもらいたい。
丁度1時間強です。面白いものを全員が等しく見ようではないか。女を泣かせたのは庄田理事のせいかどうかというのもはっきりと分かります。
第三点
元相談役であってLPSAとは無関係と言い張る人が、石橋幸緒女流はじめとする人達以上に情報を入手し、無断録画のことを知り、HPアップに関することを知り尽くしている。特別関係者ですね。
以上を確認したうえで対応を考えております。
阿倍野時代@ 10.2.6記
あっちこっちに話が飛びます。関西の将棋会館はかつて阿倍野区北畠にありました。私が20才の頃はそこが対局場でした。借家で古い日本家屋です。初めての時は「将棋連盟関西本部」という古ぼけた表札を見過ごした程でした。
将棋連盟も棋士個人も金が無い頃です。大阪での対局は殆ど順位戦で、夜の12時は過ぎます。汚いと言っても良いくらいの対局場の家の中で泊まると無料だったかいくらか払ったかです。たいていは麻雀を打ったりして徹夜。天王寺から歩いて30分くらいの所でした。通りの角に酒屋があってビールや酒を買っておくというのが定跡。
それにしても昔の先生方は大酒飲みが多かったです。松浦卓造、灘蓮照、二見敬三、本間爽悦。思い出すだけでも5人や10人は名前が出てきます。
それに良くケンカがありました。今なら旨い魚などがおかずなんでしょうが、当時はケンカがおかずでした。私のような関東の若者にもからんできたりします。書けないことは山程。回顧録と言ってもやはり書くべきでないことが多すぎます。
宿直というか留守居役というか、角田三男先生と奥さんが住み込みでした。角田先生は麻雀が好きで下手。三人麻雀が主流で国士無双が安く、七対子が一番高いというのも独特のルールでした。
角田夫人はルノアールの美人画に出てきそうな体型でした。ある時、芹沢、角田夫人が打っていた時のこと。な、な、なんと芹沢博文の大先輩の奥様に発した言葉は凄い。「ポン」と言って手を出した瞬間でした。
「ワリィけど麻卓に足出さないでくれ!」「これ私の手でんがな。失礼な」
あれで良くケンカにならずに打ち続けられたものです。今よりも棋士同士が人間的にもっとずっと密度が濃くて近かったような氣がします。人間的というのでしょうか。楽しい時代でした。
阿倍野時代A 10.2.14記
私が四段になった頃、東京オリンピック、そして新幹線開通と日本は大きく変りました。東京−大阪間はひかりが4時間、こだまが5時間でした。食堂車もあって、新幹線の移動は貴公子というかリッチな氣分というか、米長少年(既に青年か)の将来は夢いっぱいです。
「米長先生は大阪ではどんな所で遊んではるんでっか」
「はい。なんといっても通天閣です。ずぼらやというふぐ屋で軽く一杯やってからジャンジャン横丁をブラブラ歩きます」
「えっ?その辺りが多いんですか」
「ずうっと歩いてゆくと飛田(とびた)という所へ行きます。店に上がり込んでですね・・・」
「もうよろし。米長先生、もしも私のような質問をファンにされたらですな。北か南で少々飲むと答えて頂けませんでしょうか」
私のファンだった人との会話です。北は新地、南は難波だとか。どうして大阪の中心地通天閣がアカンのか分かりませんでした。
新大阪で降りた後は地下鉄で天王寺を越えて西田辺駅まで行くのです。切符も駅で買うんではなく、駅の売場の前のオバハンから買う。どうしてそうなっているのか知りませんが、駅で買わずにオバハンからなんですね。いつ頃からかパタッと居なくなりました。
ジャンジャン横丁は歩いていると「ニイチャン寄ってかない」などと女性から声がかかります。色っぽいというか毒々しいというか、四方八方からモテるんですね。途中に囲碁と将棋の道場があって満員でした。通りから大勢が対局を見ていて、人間臭い感じです。私も入って囲碁を打ったことがありました。将棋という訳にもいきませんものね。負けた方が一局15円支払うシステムだったと記憶しています。
飛田なる所は江戸時代の遊郭そのままの佇まいの街並みです。暖簾があって、その奥に美女が座っているのです。その女性が声をかけることはありませんでした。客引きもいない。もっとも飛田へ行くこと自体が客引きをする必要のない男ということでしょうか。
飛田から天王寺まで歩いて帰ってきます。阿倍野と天王寺がほぼイコールというのも30才になってから分かったこと。梅田と大阪が同じなのも後で知りました。阿倍野辺りにはラブホテルが林立していて女性が立っていました。いわゆる「立ちんぼ」です。なかにはニューハーフも居て、大阪の夜は東京と違って人間同士が近かったような氣がします。今考えてみますと、確かにファンには「北か南です」と答える方がいいかもしれませんね。
山陰 10.2.21記
初めての大阪は私にとってはいろいろな勉強になりました。私としては折角大阪まで行ったのだから、少し旅行してみたいと考えました。当時は回遊券というのでしょうか、中国地方専用チケットがあったのです。これは京都、大阪までの東京からの往復と、中国地方のJRは特急も含めて乗り放題というチケットです。遠くまで行かないと損をしたような氣になるのは貧乏性だからでしょうか。友人と二人で対局後にブラリと旅に出ました。
今考えてみますと、どうしてそんな所まで足を伸ばしたのか、時間があったのか不思議です。
先ずは京都から天下の三景・天橋立へと出かけました。智恵の文殊にお参りして頭が良くなったような錯覚をしたのですな。砂州を渡るとお寺があって、そこからはかがんで股のぞきをするという景色は美しかった。
次には兵庫県、豊岡へ行き玄武洞なる奇岩を見ました。今なら城崎(きのさき)温泉へ浸りたいと思うのでしょうが、当時はそんな老人の如きものには興味がありませんでした。
香住(かすみ)。ここで円山応挙の絵のある応挙寺へと立ち寄ったのですが、どうして芸術に関心のない私がそんな行動をとったのか今もって分かりません。
一番高かった宿は鳥取県三朝温泉。温泉ではありますが安宿。季節も晩秋でしたので、蟹を別料金で注文しました。これが唯一の贅沢だったかも知れません。それでも20才の若者達にはまだ資金がありました。米子から隠岐の島へ渡りました。
隠岐は4つの島で成り立っているのを初めて知る。国賀の海岸は断崖絶壁で驚きました。その絶壁の上は芝生になっていて、のんびり牛が草を食んでいたりしてのどかです。
一泊して境港に引き返した後は、萩まで行ったのです。萩は山口県ですが、鳥取と山口の間にある島根県は通過だけでも半日なんですね。
その前に出雲大社へお参り。これでモテる筈でした。頭は良くなる、女性には縁がある筈でしたが、現実は大分違いました。
出雲大社よりも日御崎というところがきれいだった印象が残っています。出雲へは10回以上行きました。その都度出雲大社へはお参りに行きますが、日御崎は行ったことがない。若さと時間、金という三条件を当てはめるとこのようになるのでしょうか。(つづく)
山陰その2 10.2.28記
萩へ着いたのは夕方でした。島根県というのはずい分広いなぁと思いました。宿屋で夕食を済ませてから街を浴衣に丹前でブラリ。大きな川があって橋を渡った記憶があります。どうして覚えているかというと寒かったからです。晩秋の萩です。
翌朝は萩焼の窯元を見学。買う氣も無いのに興味だけはあるのです。家の庭に夏みかんの木が植えてあって実がなっていましたが、食べるのには早そうでした。
秋芳洞と秋吉台
今回の旅行の一番遠い場所でした。生まれて初めて入る鍾乳洞。不思議な洞窟です。その洞窟から外へ出るとカルスト台地。これも広大な荒野というか原野というか雄大な景色でした。
ここでお金も使い果たして金の切れ目が縁の切れ目。夜行で大阪まで出ました。寝台車の料金は別ですので夜行よりありません。というよりも昭和40年ジャストくらいの頃はスキーや登山などは若者にとっては夜行は当り前でした。
広島は大きな都市でした。ここで待ち時間を利用してホームで「おでん」を食べました。友人と二人合わせて残り金全部食べた。というよりはそのくらいしか残りはありませんでした。一応腹を満たしてあとはぐっすりです。
かくして貧乏旅行は終了したのです。
10周年記念 10.3.20記
さまざまな こと思い出す ブログかな
松尾芭蕉風に言えば上の句のようになります。3月20日はこのホームページの誕生日です。今年は10年目になります。回想はいろいろありますが、現在は4月からの新体制による政策実現におおわらわです。過去より未来です。
4月2日にはコンピュータや女流棋士についても何らかの発表をしますが、その手順と、それからの進め方については念には念を入れております。私は余りタッチはしていませんけどね。
本来ならオフ会やら面白いイベントを考えるところですが、こうして未来へ向けて前進しているということが一番なのかなとも思っています。
会報
棋士や女流棋士などに発送する文面の差出人は、理事会と書く場合と、会長米長邦雄のケースがあります。ところが世の中にはいろいろな人がいるものです。理事会だけでは正式な文書ではないと申される。8名の理事会で決めた文章というのは長い慣例なのですがね。
それではと代表者の会長米長邦雄で差し出す。この場合は理事会ではなく社団法人の代表ということとなるのですが、「個人で出した文書」と言ったりする。
このような人達のために、今回棋士や女流に送付したものは理事8名連記。これなら文句は出ないでしょう。8名連記は初のケースです。3月18日発送の文章がそれです。
女流とコンピュータ 10.3.27記
3月25日に里見香奈女流名人の就位式がありました。トップページの写真がその時のものです。
会長挨拶の中からコンピュータと人選についてのところを記します。
「コンピュータとの相手は里見女流名人が良いと思いましたので声をかけました。すると彼女は家族と相談した上で次のように答えたのです。
『尊敬している清水市代さん、女王の矢内さん。お二人とも辞退されたのなら前向きに考えさせていただきます』
この答えに理事会全員、関係者はびっくりしました。本当に『いい女だ』。という訳で、4月2日の対局相手は、タイトル保持者の3人の中からの誰かになります」
当日は女流棋士が随分来ていました。女流棋士は美人が多く、心遣いもありファンに好かれる人が多いです。小、中、高校生のアマチュアも女子で将棋が強い子が沢山います。大体10%くらいは女子です。
うっかりするとプロの女流が負かされてしまいそう。とにかくプロは実力が全てですから、アマに負けないように頑張って欲しいです。アマの方もプロをギャフンと言わせるように盛んになって欲しい。
女性が将棋界を賑わす時に会長で、私は幸せです。
訓話 10.4.3記
毎年4月1日は会長が全職員に訓辞をする。今年は新人を4人採用しました。私の訓辞のメモを記します。
職員の皆さまへ
年度始め所感
新年度に際して将棋界の現状と将来像、諸君が何をすべきかを記します。
○普及は第一の職務
将棋の普及、特に子供ファンの増加は将棋の将来を決定付けます。
アマチュアの声を良く聴き、クレーマーにもきちんと対応する。
電話の応対や態度等々は出来るだけ丁寧にお願いします。
○実力向上
プロ棋士が各棋戦で戦っているのは対局を通じて技術を高めることにあります。職員は研究にいそしみ対局に打ち込んでいる棋士には敬意を払っていただきたい。
○人間としての成長
職場は仕事のみにあらず。人間関係をはじめとして人間としても成長することが最も大切なことです。他社から引き抜かれるような人間力、職能を身に付けるよう頑張って下さい。又、部下をそのように指導するのは上司の務めでもあります。
将棋連盟のこれから、財政、普及、理事手当て等についきましては次回です。
「駒桜」は全員一丸となって協力せよと指示。今週は桜が満開のHPの感があります。回想録の中でも一番楽しい時だったということになりそうです。
女流棋士は楽しいです。しかし将棋界を取り巻く環境は厳しいです。
うれしい思い出 10.4.9記
2010年4月7日。椿山荘に於ける名人戦第一局前夜祭は史上空前の盛り上がりでした。桜が満開で美しいこと。午後6時からのパーティには400名近くの人が参集しました。
羽生善治名人に三浦弘行八段が挑戦。そのパーティでは壇上に両対局者と朝日新聞社は秋山耿太郎社長、毎日新聞社は朝比奈豊社長が出席。三番手に日本将棋連盟米長会長、そして協賛の大和証券グループからは吉留社長。ご来賓は川端文部科学大臣、そして原口総務大臣。
4人の挨拶と両大臣の祝辞は大変愉快でした。場内が笑いに包まれていました。
数分の持ち時間で皆さんを笑わせるのは大変です。米長会長は両新聞、両大臣、両対局者、それに協賛企業を織り込みました。私の謝辞、祝辞、挨拶の中では最高の出来栄えだったかもしれません。「今日の挨拶は良かった」と多くの人から話しかけられました。その氣になるのが私の悪い所です。
川端文科大臣は日本の将棋こそ世界に冠たる文化であると力説。滋賀県の有権者の方は是非応援して下さい。
原口総務大臣は「私は米長門下です」と前置き。総務省あげて将棋界をバックアップしてゆきたいときっぱり。佐賀県の有権者の皆さま応援を宜しく。
大和証券は面白い。羽生―三浦のタイトル戦の時は株価が上がった。今回もそうなるだろうと予言。皆ドッと笑いました。
乾杯のあとは場内で約1時間半何も食べずに次から次へと話をしてゆくのです。大体30人から50人くらいでしょうか。
名人戦は共催3年目です。この前夜祭の熱氣は将棋界の財産です。この空氣、熱氣こそが財産である。この日の全員が「何か」を感じたことと思います。
翌日の対局時前には川端大臣、両新聞社社長も着座。米長会長を誰かが何かが応援してくれているような氣がしました。
将棋漬け 10.4.16記
回想とは言っても私の日記や週刊ヨネナガが回想そのものになってゆくことでもあります。
桜も散った4月下旬。ようやく将来の展望が見えてきました。
公益法人改革(谷川浩司委員長)
モバイル事業開始(渡辺明委員長)
この二点の他に女流棋士会ファンクラブ「駒桜」の今後です。女流棋士達が一生懸命ですので、駒桜も軌道に乗ることでしょう。
私の日常では将棋が90%以上になっているのに驚いています。プロ棋士ですから本業は将棋であることには違いないんですが、半分くらいは将棋から離れている人生でした。政治、教育をはじめ異業種の人とのおつき合いは将棋抜きが殆どだったのです。今は将棋にどっぷりとつかっています。
永世せいき 10.4.23記
普段話せないような、信じられないこともあります。2010年4月20日。ニッポン放送番組審議会でのこと。
「米長永世せいきのご意見を・・・」と言われたのです。永世棋聖なのですが、永世性器とは何事か。
そこは大人同士。やりとりあって平然として私が意見を述べました。
新人研修(一) 10.5.1記
サラリーマンの世界では新人社員の大半は一年間で勝負がつくとか。上司によって決まってしまうのだそうです。
日本将棋連盟は新人4人プラス1、5名を会長の私が月2回くらいのペースで研修することにしました。約1時間です。第一回は4月21日。「君は何故採用されたか」
165名の応募がありました。そこから絞込み、最終面接官の中には会長もいて採用を決定しました。
何を重くみたか。私が重点を置いたのは「運が良いか」の一点です。
人間は自分自身の運を損なう者がいます。若さや老いとは関係なく運氣はあるんですね。大体は、妬み、嫉み、恨み、憎しみ、僻みなどを持ち合わせていると不運になります。運の悪い男は共通していてモテません。もっとも女運も悪いのですから当然ですけどね。そこで自分でも相手にしてくれる女性が好きになる。もっともそうでないと世の中はうまく回らないのかも。
このような心の中が顔に出てきます。面接のやりとりはそれを確かめるだけのものであります。
次に大切なのは、自分が幸せであると同時に他人をも幸せにすることです。もうひとつは運の悪い人とはつき合わないこと。運の悪い人は、なんでも人のせいにします。他人の悪口を言います。謙虚さがありません。人を攻撃して自分は正しいと思っている。こういう人とはつき合わないか、ケンカをするのが良い。
つき合わない、かわす、避ける。仕事上などでどうしても関わらなければならない時もある。仕方がないでしょうね。
ケンカする。これは相当な実力と見極めが必要です。初心者というか運氣のなんたるかを知らない人には勧められません。
私も運の悪い人達に攻められることが多くあります。時には無視し、時にはお相手をする。人生が面白くなります。
次に笑いと謙虚さです。以上が揃っていればこそ日本将棋連盟の将来は明るいです。
入社の時の氣持ちを忘れるでないぞ。
約40分話してあとは質疑。厚みある人生、貸し方の人生も説いておきました。
人生の節目 10.5.16記
5月10日から16日までの一週間は本当に忙しい日程でした。
○5月26日の棋士総会の準備
○文化予算を将棋界はどのようにすれば計上してもらえるか
○参院選に出馬すべきかどうか
以上3点は将棋界にとっても私個人にとっても人生が一変する程の出来事ですから回想録に残しておきます。
棋士総会。これは毎年行われるものですからそう難しい問題がある訳でもない。
文化予算。これは智恵、工夫、政治力も必要でしょうが、最も大事なことは社団法人の力量です。心をひとつにして普及活動にいそしむ。されば幸せの道も開かれましょう。
参院選。民主党にはあきれたという人が多いんですね。さりとて自民党も今さらイヤ。数え切れない程の新党が出来ました。毎回のように声はかかりますけど私は出馬見送りです。しかし今回は血が騒ぐ。義を感じるからでしょうか。
いずれにしましても日本将棋党総裁のままでいたいです。日本の伝統文化を予算を伴って振興を図る、という政党があれば考えたいと思います。
ツイッター 10.5.23記
5月21日は川端文科大臣と原口一博総務大臣に五段の免状を差し上げました。
原口大臣はツイッターをされています。私が始めたことを知り大いに驚き、喜んだようでした。「フォローさせていただきます」
話をしますと匿名の掲示板などに比べてツイッターは暖かみ、温かみを感じますと大臣。私もそう感じます。
ツイッターというのはつぶやきです。私は1日に2回くらいつぶやく。これを取りあげる人がいて、その人が「米長がこんなこと言ったぞ」などと広めてくれるんですね。人の悪口や、うっかりミスも全て自己責任です。あまりでたらめなことは書けません。
ツイッターを始めて感じたことは、フォローする人もフォローされる人も仲間ですね。温かみを感じるというのはそういうことなのでしょう。
ツイッターを始めての利点。「ホームページがあることを初めて知りました」という人も居て、連動するようになりました。
私もツイッターを始めてからは、フォローしてくれている人のツイッターやホームページをのぞきに行くようになりました。今までのブログ等は日本将棋連盟のホームページ以外は殆ど見に行かなくなりました。
これからもツイッターとホームページの両立てで行きますので両方宜しく。
総会の質疑(一) 10.5.29記
回想録は事実を書いたコーナーであり生々しいものです。場合によりますと削除することがあります。時には人の悪口に近いものもありますが悪しからず。
2010年5月26日の通常棋士総会。事前に収支決算書を会員に配布し、説明会を何回か開き、将棋界のあるべき姿がはっきりと分かってきたようでした。
最初の質問は全く意外なところからでした。
日本将棋連盟のホームページに、LPSAに反応するものを掲げるのはいかがなものか。汚らしいものは相応しくない。このような発言があったのです。
それに対する女流担当理事の回答は以下の通りです。最後のURLで事実関係の一部は分かることと思います。
「私達とてそんなものは出したくない。しかし日本レストランシステムの大林豁史会長とLPSAの中井広恵代表幹事のやり方は余りにもひどい。仕方なく事実の経緯をありのままに掲載したのです」
事の顛末は下記のURLをお読み下さい。出席者、質問者納得して議事進行。
三人のか弱い女流棋士の名前を一方的に出してホームページ上に晒し出す。このような非道なことは許されることではない。日レスの大林会長とLPSAの中井代表幹事の方に非があり、理事会は女流3名を守り、かばうために公表せざるを得なかったのです。
日本将棋連盟理事会及び事務局は今まであまりにも紳士的すぎました。これからは毅然とした態度で臨みます。
それにしても何百万円も使うて男を下げるいうんは詰まらん話やなあ。そこへいくと京急デパートは違います。
京急デパート
夏に行われるデパートの将棋まつりです。ここには両団体の女流の対抗試合が組まれています。デパートの好意、神奈川県連合会の皆さんの熱意、佐伯、中村修師弟の人柄。この三点セットがこのような状況を生み出したのです。
第4回日レス杯に関する見解
http://www.shogi.or.jp/topics/2010/05/4-5.html