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基地問題など

【米軍普天間飛行場の名護市への移設問題】

辺野古へ移設 判断は/名護市長選告示

2010年01月21日

 地域の振興策と引き換えに米軍基地を受け入れるのか、拒むのか。1996年に普天間飛行場の移設先に浮上して以来、沖縄県名護市は苦渋の選択を突きつけられてきた。17日に市長選が告示されるが、これまでの市長選は移設容認派が3連勝。政権が交代し、新たな移設先も模索される中、基地をめぐって二分されてきた市民はどんな決断をするのか。
(肩書は当時)

 ■97年市民投票
 市民が最初に判断を迫られたのは97年12月の市民投票だった。普天間飛行場の返還合意から1年半余。大田昌秀知事、比嘉鉄也市長とも、まだ移設への賛否を明らかにしていなかった。

 比嘉氏は実質的には自民党とともに「賛成」が多数になるよう後押ししたが、共産、社民などのほか、公明も反対で、結果は、条件付きを含めた「反対」が53%と過半数を占めた。

 だが、投票の3日後、比嘉氏は橋本龍太郎首相との会談で受け入れを表明し、引き換えに振興策の実現を求めた。会談後には「住民を賛成、反対と二分させた責任を重く受け止め、政治生命を終わらせたい」と市長の辞職を表明した。

 ■98年市長選
 出直し市長選は98年2月。比嘉氏ら賛成派は前市助役の岸本建男氏を擁立。移設阻止を訴える前県議の玉城義和氏との事実上の一騎打ちとなった。

 玉城氏が基地問題を争点に据えたのに対し、岸本氏は「前市長の受け入れ表明で決着がついた」「県知事の判断に従う」と議論を回避。振興策を前面に掲げ、競り勝った。

 玉城氏を支援する大田知事は投票日2日前に反対を表明。市長選後も反対姿勢をとり続けた。しかし、大田氏は同年11月の知事選で、県内移設を容認する経済界出身の稲嶺恵一氏に敗れた。稲嶺氏は99年11月、辺野古を移設先に選定。12月、岸本氏は「基地使用協定の締結」など七つの条件を付け、受け入れを表明した。

 「人生で最も困難な選択」と語った岸本氏に、小渕内閣は10年間で1千億円の北部振興策を約束。翌2000年には名護市でサミットが開かれた。

 ■02年市長選
 2002年の市長選は、市民投票でリーダー的存在だった前市議の宮城康博氏らが岸本氏に挑んだ。

 自民のほか、98年の知事選後に移設容認に転じた公明からも推薦を受けた岸本氏は「私が落選したら(振興策は)全部止まる」と訴え、大差で再選された。

 02年7月、小泉内閣と県、市は辺野古沖を埋め立て、軍民共用の飛行場を建設することで合意。三者の足並みはそろったが、地元の反対運動で本格的な移設作業には着手できなかった。

 05年10月、在日米軍の再編協議を進めていた日米両政府は計画を修正。反対運動があっても、基地を拠点に工事が進められるように、と辺野古にある米軍キャンプ・シュワブの隣接海域を埋め立てる計画を決めた。

 ■06年市長選
 しかし、この一方的な計画変更に県と名護市は反発。06年1月の市長選では、3人の候補者がそろって「反対」を掲げた。

 ただし、体調不良で引退を決めた岸本氏の後継で自民、公明の推薦を受けた前市議長の島袋吉和氏だけは「移設案の修正と新たな振興策で地元の納得が得られれば」と柔軟な姿勢を示した。民主、共産、社民などの推薦を受けた元市議長の我喜屋宗弘氏は「新基地を受け入れる余地はない」。前市議の大城敬人氏も県外、国外移設を唱えた。

 反対派の票は割れ、島袋氏が当選。その島袋氏は同年4月、V字形に滑走路を2本配置し、集落上空の飛行を回避するとした修正案に国と合意した。

 稲嶺知事は反発し、同年11月の知事選で後継として当選した仲井真弘多知事も当初は「賛成できない」と述べ、滑走路の位置を沖合に出すよう主張していたが、徐々に政府と足並みをそろえ、環境影響評価(アセスメント)も進められた。

 しかし、「県外、国外移設」を掲げる民主党への政権交代で事態は一変。鳩山内閣は迷走を続けた末に、移設先の決定を5月まで先送りした。

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