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2006年08月04日
広島原爆投下のプレス・リリースを書いたPRの実務家
アーサー・ペイジ(Arthur W. Page,1883-1960)
こんにちは、井之上喬です。
皆さん、この暑さの中いかがお過ごしですか。
日本時間1945年8月7日午前零時「16時間前、アメリカの飛行機が日本軍の最重要陸軍基地、広島に一発の爆弾を投下した」との文で始まる声明文が発表されました。広島の原爆投下を知らせる声明文です。この文章は20世紀を代表するパブリック・リレーションズの実務家、アーサー・ペイジ(Arthur W. Page,1883-1960)によって作成されました。今回は、アメリカでは英雄視される彼の人生を追います。
■ハーバード時代から編集長
アーサー・ペイジは、1883年9月10日、ウォルター・ペイジとウィリア・ペイジの次男としてアメリカ合衆国ノース・カロライナ州アバディーンに生まれました。1885年、家族はニューヨークへと移り住みましたが、毎年夏にはノース・カロライナに住む父方の祖父の家で母たちと過ごし、南部の和やかな気質を醸成していったようです。
1899年プリンストン大学の付属高校に入学。3年生の時、ディベート大会で優勝し、その後、優秀な成績で卒業。父親や兄に倣って1901年、アーサー・ペイジはハーバード大学に入学。歴史を専攻し、アメリカやヨーロッパの歴史を学びました。大学2年から寄稿を始めた学内機関紙、Harvard Advocateでは4年生で編集長となり精力的に活動しました。
大学卒業後の翌年06年、アーサー・ペイジの父ウォルターと彼の友人が創業したDoubleday, Page and Co.を親会社に持つ雑誌社、World's Work Magazineに校正者として入社。ペイジはほどなく記者となり、政治やビジネスに関する記事を数多く手がけ「パブリック(一般社会)を動かすものは何かを理解し、その手法を駆使して記事を書くこと」を学びました。
プライベートでは12年にモリー・ホールと結婚。翌年には長女モリー・ジュニアが、15年には長男ウォルター2世、17年には次男アーサー・ジュニア、20年には三男ジョンが誕生しました。
アーサー・ペイジの父が駐英米国大使としてロンドンへわたった13年、ペイジは同雑誌社の編集者へ昇格。続いて16年にはその親会社Doubleday, Page and Co.のノンフィクション担当副社長に抜擢されました。ペイジはこの2つの役職を通してハーバード・クラブやセンチュリー・クラブなど数々の社交クラブに所属し、政界や財界に多大な影響力を持つ人との人脈を広げました。メンバーには、32代米国大統領のハーバート・フーバーや33代米国大統領フランクリン・ルーズベルトなど名だたる顔ぶれでした。
■米国初のPR担当副社長の誕生
しかしながら27年、Doubleday, Page and Coの経営方針で経営トップと折り合いがつかず、同社を退社することになります。そんなペイジに大きな転機が訪れました。当時AT&T社長であったハーバード時代の同窓生、ウォルター・ギフォード(Walter Gifford)に請われ、それまでの責任者であったジェームス・エルスワース(James Ellsworth)の後任としてアメリカ初のパブリック・リレーションズ担当副社長に就任したのです。
アーサー・ペイジは単なるパブリシストやプロパガンディストであることを望まず、企業の政策立案担当者として役割を果たそうとしました。そして47年に退職するまでの20年間、自らの哲学をもって当時アメリカ最大の企業、AT&Tにおけるパブリック・リレーションズの管理システムを確立しました。
その成果は27年10月20日テキサス州ダラスで開催された、the National Association of Railroad and Utilities CommissionersでのAT&T社長によるスピーチにも表れています。ここでAT&T社は「顧客に対して最良のサービスをできる限り低価格で提供する」とした現在のAT&T社における経営哲学の礎となる方針を明確に打ち出したのです。
ペイジはこの頃から、「公益を重んじた経営によって企業とパブリックの双方が利益を得、企業は効率的な活動を展開できる自由を確保する」と考えていました。また彼はPRを「コミュニケーションを通して組織体や個人が理解を促進するための、広告やパブリシティより効果的な手法」として捉え、そのコンセプトを「ペイジの7つの原則」として提唱しました。その原則とは次のとおりです。
1.真実を語ること
2.言行一致
3.顧客の声を聞くこと
4.将来を見据えたマネジメントを実践すること
5.企業の本質は従業員の行いに表れると理解する
6.社運はパブリック・リレーションズの成否にかかっているとの意識で活動に取り組むこと
7.常に冷静で忍耐強く、そしてユーモアを忘れずに取り組むこと
この原則にみられる彼のPRコンセプトは、双方向の思想が芽生えたばかりの20年代、30年代の米国におけるPRの歴史的背景を考えると、極めて進歩的でその核心を突いた鋭い感性には目を見張るものがあります。
41年に勃発した太平洋戦争を受けて、ペイジはAT&Tの副社長の傍ら政府との関係性を強めていきます。ここでも彼は上記の原則を基に、パブリック・セクターにおけるパブリック・リレーションズのシステムの確立を行いました。
■マンハッタン計画への関与
きっかけは第二次世界大戦中 陸軍長官を務めていた友人のヘンリー・スティムソンでした。父親の仕事の関係もあり人脈に恵まれていたアーサー・ペイジは、後に大統領となるドワイト・アイゼンハワーやカーネギー・コーポレーション社長のフレデリック・ケッペルなど米国を代表するリーダー達と親交を持っていました。特にスティムソンや時の大統領F・ルーズベルトとは家も近く家族ぐるみで付き合う間柄でした。
ある日スティムソンに請われたペイジは米国陸軍省のスペシャル・コンサルタントを務めることになったのです。彼は海軍や陸軍におけるPR機能をシステム化し、世界に配置されたアメリカ兵士のモラル維持のためのPRプログラムを構築しました。また、ノルマンディ上陸作戦における情報戦略にもアドバイスしたといわれています。
スティムソンはまた、42年に始まった米国の原爆開発プロジェクト「マンハッタン計画」の総責任者でもありました。スティムソンは原爆に関する協議を行う暫定委員会を設置しましたが、ペイジはその会合に出席していたとされています。ペイジの伝記を書いたノエル・グリース(Noel L. Griese)によれば、ペイジは原爆使用に関する最終勧告が作成された5月31日の会合にも出席しており、この会合には後の国務長官ジョージ・マーシャルや原爆製造研究チームを主導した物理学者、ロバート・オッペンハイマーの顔もあったようです。
広島原爆投下の声明文は当初、軍部の職員やニューヨーク・タイムズのウィリアム・ローレンス(William L. Laurence)により7500ワードに及ぶドラフトが作成されました。しかし納得のいく文章は生まれず、ペイジが担当することになりました。ペイジの作成した文章は1160ワードで、インパクトを保ちながらも抑制の効いた簡潔なものでした。45年4月12日に急逝したルーズベルト大統領の後を継いで33代米国大統領に就任したハリー・トルーマンによる文章の訂正は、ほんの数箇所であったといいます。
その声明文は米国東部標準時の6日午前11時(日本時間7日午前零時)、ホワイトハウスからトルーマン米大統領の名前でイーベン・エアーズ(Eben Ayers)報道官代理により発表されました。その時トルーマン大統領はポツダム会談を終えて巡洋艦「オーガスタ」で帰路の途中でした。
「16時間前、アメリカの飛行機が日本軍の最重要陸軍基地、広島に一発の爆弾を投下した。
この爆弾の威力はTNT2万トンを上回るものである。これまでの戦争の歴史において使用された最大の爆弾、イギリスのグランドスラム爆弾と比べても、2000倍の破壊力がある。(中略)つまり原子爆弾である。」
後にペイジはアメリカ政府から戦時中の功績を讃えられ、Medal of Merit賞を授与されています。
47年にAT&T社を退職し60年に亡くなるまで、ペイジは政府や多くの企業のコンサルタントを務めました。
当時の国務長官であったジョージ・マーシャルにより提唱された欧州復興計画、マーシャル・プラン採択のためのロビー活動を展開したり、共産圏となった東欧諸国への支援活動に関わるなど、世界に自由と民主主義を広めるための活動に奔走しました。他にもフィランソロピーのためにカーネギー財団やハーバード大学の理事を務めるなど、慈善事業団体のためのカウンセリングを行いました。彼のパブリック・リレーションズの理念は、その後1983年に設立されたペイジ・ソサエティに継承されています。
■彼を「巨星」と呼ばない理由
アーサー・ペイジが生きた時代背景を考えれば、熱狂的な愛国者として自由と民主主義を広めるためにとった彼の行動は一概に否定できるものではありません。しかし、原子爆弾という恐ろしい破壊力を持った兵器が使用されたことで、人類の戦いの質が永遠に変化してしまったのも事実です。原爆使用の最終決定は当時のトルーマン大統領によるものであったことは確かです。しかしペイジはアメリカがこの未知の核兵器に対してどう対応すべきかについてアドバイスを行っていたといわれます。
世界で唯一の被爆国である日本に生れた私は、原爆使用における彼の思考や行動が本当に「正しかったのか」と彼に問いただしたい気持ちを禁じえません。
これまで紹介したように、アーサー・ペイジは早くからパブリック・リレーションズの本質を捉えこれを実践しました。彼はまぎれもなく、世界恐慌や大企業への規制強化の時代にAT&Tで活躍し、同社を幾度となく危機から救い、パブリック・サービスにも積極的に取り組んだ米国のPR発展史に名を残す優れた実務家です。しかし今回、私は彼を敢えて「巨星」とはいわず、米国で活躍した1人のPRの実務家として紹介しました。
さまざまな要因が重なったにせよ、日本には広島、長崎と2つもの原爆が落とされ30万人以上の尊い命が奪われました。あの夏から61年、世界は今も核の脅威にさらされ続けています。あの恐ろしい惨劇が二度とこの地球上で繰り返されてはなりません。この思いを強く胸に、犠牲となった人々のご冥福を心よりお祈りします。
投稿者 Inoue : 2006年08月04日 19:39
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