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そういえば、そんな人物もいたなァ

 
「針生一郎死去」との報道あり。
朝日では「反権力の美術評論家」の見出しで写真入りで報道している。
針生一郎と言っても一般には馴染みのない人物。
私とて暴対法反対運動に関係していなければ、知らない存在だったろう。
 
平成4年、所謂「暴力団対策法」なる法律が成立しようとしていた。
これは「法の下の平等」を逸脱し、所属・身分によって特定の網を掛ける法律である。
これを許せば、右翼と称される政治団体にも規制がはいる。
また、アウトローを地下にもぐりこませてマフィア化が進み、治安の悪化に拍車がかかる。
と、いうことで反対運動を行っていた。
 
1月に行われた日本共産党行動派の新年会に参加。
集会のあとで、前代未聞の右翼・左翼・任侠の3派合同によるデモ行進が行われ
マスコミ等で大きく取上げられた。
集会では壇上で来賓・主催者が挨拶。
その中で、「日本知識人会議」(これも、随分と傲慢な名称だが)の針生一郎が話しだした。
その中で、何を思ったのか天皇制のルーツは朝鮮半島にある。差別の根源である、とか延々と話だした。
そして、終わると皆拍手している、私の周りにいる一水会の人間も自然の流れに従ってか拍手。
こもまま黙っている訳にはいかない。
即座に立ち上がって、「ちょっと、待ってください。我々は暴対法反対の一点で、今日此処に来ている。
天皇制反対などと言うのであれば、我々は一緒にはできない」と正論をぶち上げた。
 
主催者から来賓として呼ばれていた針生が何も知らないまま、いつもの調子でしゃべりだしたというのが
実態のだったようだが、この日のデモ行進を伝える翌日の新聞紙面では、私の発言を捉えて
「一部足並みに乱れがあった」とか書かれていた。
 
後の懇親会では鈴木邦男から、「槇君ダメじゃないか。みんな怖がってたよ」、と言われたが
本気で「ダメだよ」、と言っていた訳ではないだろう。
その時は鈴木も来賓として壇上にいた訳だから、針生のような侮辱発言に対して、
居並ぶ右翼陣営が沈黙していたのでは沽券にかかわる。
私の一声で右翼は救われた、と言っていい。
 
当時は山口組や会津小鉄会の関西の任侠団体が参加。
関東の住吉系は距離を置いていた。
当局に言いくるめられた、と言われている。
暴対法は山口組を弱体化して関東進出を阻止させるためだ、という事で
関東のヤクザは反対運動に加わらなかった経緯がある。
因みに当時の運動の核になったのは山口ではG組だった。
 
ここでいう日本共産党とは代々木の共産党から分派した日本共産党行動派であり、組織は全く別。
徳田球一の一派であり、針生同様に除名された過激派の人々である。
主に「人民戦線」の名称で活動している。
 
その後も、この暴対法反対運動は3派共闘で継続していたが、法律が施行されたことで立ち消えになった。

針生一郎氏死去 前衛美術評論の草分け

5月26日21時15分配信 産経新聞

 前衛美術評論の草分けで、文芸や社会評論まで幅広く手がけた針生一郎(はりう・いちろう)氏が26日午後0時2分、急性心不全のため死去した。84歳だった。葬儀・告別式は未定。喪主は長男、徹(とおる)氏。

 東北大を卒業後、東大大学院で美術を専攻。大学院在学中に花田清輝、岡本太郎らの「夜の会」に参加し、評論家としての素地を作った。昭和28年、共産党に入党したが、35年の安保闘争で共産党指導部を批判して除名処分に。その後は文学、美術、建築、デザインなどジャンルを超えた文化全体で批評活動を展開する一方、国際美術展などの企画にも携わり、若い芸術家に大きな影響を与えた。

 和光大教授、岡山県立大教授などを務めた。主な著作に「修羅の画家」「針生一郎評論(全6巻)」など。

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