原爆投下(一)
また広島県警察本部が昭和20年 ( 1945年 )11月30日に県内各警察署に調査を命じ、12月中旬にまとめた数によれば、死者 78,150 、重傷者 9,428 、軽傷 27,997 、行方不明 13,983 、罹災者 17,6987、合計 306,545 でした。 平成2年 ( 1990年 )5月16日の各新聞は、一面トップで厚生省が実施した原爆死没者の実態調査結果を報道しました。それに依れば当時の広島市の人口296,000人のうち、原爆による死没者は 201,990人 でした。 これは被爆直後に広島に入った海軍の調査団による、 死者約20万人 という被害推計とほぼ一致していました。
原爆死没者の数え方の矛盾平成14年8月6日には過去一年間に死亡したか、又は死亡が確認された 4,977人 の名簿が新たに原爆慰霊碑に納められましたが、原爆死没者の合計は 226,870人になるそうです。しかしその人達が被爆後数年ない10数年以内に死亡したのであれば原爆死没者として扱うことに納得できますが、被爆後 57年間も生き続けた人が原爆死没者つまり、被爆を原因とする死者として数えられることに私は大きな疑問を持ちます。 現在被爆者の平均年齢は 71才 で、14才の時に被爆したことになりますが、被爆者 ( 健康 )手帳を持っている人が、仮に 百才まで生きた としても、死後は 原爆死没者 に数えられるという非常に矛盾した制度なのです。
寿命の差について被爆しようと、しまいとガンは昭和 54年以来、脳卒中を抜いて常に日本人の死亡原因の 第 1位 になっています。過去数十年間の原爆死没者と称する人のほとんどは、寿命が尽きたことによる自然死 ( 病死 )として扱うべきなのです。さらに外国からもこれまで指摘され続けてきた被爆者と、それ以外の者との死亡率 ( 寿命 )の違いも明白にすべきであると考えます。広島市や国の関係機関がそれを公表しない理由は、戦後の一時期を除き何十年間も 両者に差が見られないからである 、との憶測を呼んでいます。 そのうえ現在も、被爆者健康手帳の申請があとを絶たないという事実があります。被爆当時広島市内とその近郊の村に住んでいたか、投下後2週間以内に爆心地から4キロ以内に救護活動、親族探しのため立ち入ったという事実があれば、 被爆者健康手帳が貰え医療費が全額無料になります。 更にガンなどの病気や治癒率低下の原因が原爆の放射線であって(?)、( 戦後57年間治療を続けたという意味ではなく )、現在も治療中であり原爆症と認定されると、 毎月14万円 を超える医療特別手当が、死ぬまで 年金とは別に支給されるからです 。 その認定患者数は厚生労働省によると全国では現在でも 2,200人 です。戦後57年も経つというのに、平成14年7月には8都道府県の 76名 が、新たに被爆者健康手帳の申請をしました。人間の金銭欲には、限りがない証拠です。
既に石油などの軍需物資の備蓄を使い果たし、昭和 20年4月に沖縄特攻に赴いた戦艦大和の出撃以後は軍艦を動かす燃料も底を尽き、飛行機もほとんど飛べず、軍需工場は破壊され、多くの都市は灰燼に帰し、食糧も底を尽き、すでに近代戦を戦うのに必要な産業基盤や生産能力を失い、降伏間近な状態にありました。 6月には沖縄をめぐる攻防戦も終了し、ブラッドレー米国統合参謀本部議長が昭和20年 ( 1945年 )の7月に提出した報告書によれば、 日本は既に事実上敗北しており、降伏 を準備しているとありました。日本政府がソ連を通じてひそかに和平 ( 降伏 ) 交渉の意志表示をしていることを、アメリカは知っていたのです。スチムソン陸軍長官によれば
1945年 ( 昭和20年 )7月の時点で、すでに日本の海軍、空軍兵力は 事実上存在しない。残っているのは進攻艦隊に、こうるさく抵抗する程度の戦力であると述べていました。
敗戦の年 ( 昭和20年、1945年 ) の9月に日本を調査に訪れた、前述の ニッツ率いる米国戦略爆撃調査団も、 という最終報告書を、翌年( 昭和21年、1946年 )7月にトルーマン( 当時 )大統領に提出しています。 U.S Strategic Bombing Surbey,Summary Report ( Pacific War ) ,1946、の 26頁参照
正義と文明の正体に戻るには、ここをクリック。 敗戦の年の十月中旬に大統領特使として日本を訪れた エドウイン・ロックは トルーマン大統領宛の報告書の中で、 今東京にいる米軍将兵たちは、日本があれだけの抵抗ができたことに驚いている。経済的な混乱があまりにひどいのを見て、原爆が敗戦を早めたといってもそれは ほんの数日であり 、実は日本人は戦争から抜け出すために原爆を口実に利用した、と述べた アメリカ人もいるほどである。と述べていました。 空母機動部隊の指揮官として戦艦武蔵を沈めるなど日本海軍を敗北に導いた ハルゼー提督は、公の席上で 最初の原爆 ( ネバダ州における実験 ) は不必要な実験だった。( 広島、長崎への ) 投下は間違いだった。このような武器を、不必要なときになぜ世界に公開したのか?。原爆は多数の ジャップ を殺した。しかし ジャップはかなり前から ロシアを通じて和平の打診をしていた
と発言しました。
では日本が降伏間近であることを承知しながら、なぜ米国は原爆を投下したのでしょうか?。 それは以下に述べる理由からですが、当時の金額で 20億 ドル ( 7千2百億円 ) という巨費を投じて作った原爆で、ニューメキシコ州にある原爆実験場であった トリニテイーサイト の砂漠の砂を、昭和20年 ( 1945年 )7月15日の第 1回原爆実験に続き、2 度目、3 度目の実験で空中高く無駄に吹き飛ばすよりも、日本の人口密集都市に投下して、そのすさまじい 破壊力を直接人体で実験し、確認するため でもありました。
[ 対ソ連戦略上の理由から]原爆投下は米国にとって第 2次大戦後の国際政治情勢を視野に入れた、ソ連への軍事的優位性を示す為の デモンストレーションであり、核兵器という新しい兵器の実験に過ぎなかったのです。 歴史学者である マーチン・シャーマンは 原爆は予期される戦後の対立において、ソ連を打ち負かす最大の切り札であった。( 著書、破滅への道、原爆と第二次大戦 )と述べています。 歴史学者 バーンスタインの分析によれば、
ソ連を威嚇すること が根本理由であり、ソ連の影響力が日本、満州 ( 中国東北部 )、朝鮮、中国に及ぶことを阻止するために、ソ連が アジアでの戦争に全面的に参加する以前に、核兵器の使用によって日本を降伏させる戦術をとった。としています。
つまり原爆は日本に対してではなく、 ソ連 ( 当時 )に対する威力誇示 のために使用したのでした。さらに付け加えれば投下した最大の理由は、 日本からの原爆による報復攻撃を受ける可能性が ゼロ だからでした。
4:有色人種に対する蔑視、偏見からルーズベルト大統領 ( 当時 ) の主席補佐官 ウイリアム・レーヒー提督は、開戦後間もない昭和17年 ( 1942年 ) 1月に出した覚え書きの中で 日本の野蛮人 と戦う際は、かつて戦争 ルール として認められていたことを全て放棄しなければならい。という当時米国内で言われていた言葉を引用しました。
[ 原爆投下 決断の理由 ]トルーマン米大統領は ポツダムにおける対日戦争終結のための会議に出席中に原爆実験成功を知り、それを日本に対して使用することを直ちに決断しましたが、その際の日記にこのことは遺憾であるが必要なことなのだ。なぜなら 日本人は野蛮人であり、無慈悲、残酷、狂信的だからと記していました。相手を野蛮人と見なせば、又そういう理由にすれば何をしても許されるという、人種差別、蔑視、偏見に基づく一方的な考え方でした。 1927年に大西洋単独無着陸横断飛行をした リンドバーグの 「 第2次世界大戦日記 」 によれば、
我々には勇敢な行為であっても、彼ら ( 日本兵 )がそれを示すと 狂信的な行為 ということになる。我々は声を限りに彼らの残虐行為をいちいち数え立てるが、その一方で 自らの残虐行為 を包み隠し、ただ単なる報復措置として 大目に見ようとする 。と述べていました。
[ 投下の言い訳 ]戦争終了後に トルーマン大統領は原爆投下により、非戦闘員を大量虐殺した倫理性を問われて次ぎのように答えました。日本上陸作戦で失われる 百万人以上の米軍の犠牲を回避し、戦争を早期に終結させるためであった。しかし前述の マッカーサー報告書の 「 オリンピック作戦では、沖縄戦以上の損害は出ない 」 とする予想とは大きく食い違っていました。 「 戦争を終わらせる 」 とは美しい言葉に聞こえますが、その実態とは敵に勝つことです。 敵に勝つために 作りたての原爆 ではなく、 同じ理論からすれば 米国が以前から多数所有していた 毒ガス を使用しても良いことになります。米国は日本の 60もの都市 を空襲しましたが、その際に 「 毒 ガス 」 を使用していたらもっと早期に戦争が終わったはずでした。なぜそうしなかったのかは、第 1次大戦の際に ヨーロッパ戦線で 「 毒ガス 」による死者が多数出たため、「 毒ガスの使用 」は「大量殺人兵器の使用を禁止する」戦争法規に違反し、ヨーロッパ諸国の不評を買うからでした。 「 原爆 」は大量殺人兵器として 「 毒ガス 」よりも瞬時に殺す為に、 より人道的な兵器 であるとでもいうのでしょうか?。実は当時の金で 20億 ドル( 敗戦後の為替相場で換算すると、7,200億円 )もの巨費を投じて作り上げた原爆を、日本が降伏する以前に、人間以下とみなされていた 有色人種に試したかった からでした。
ナチス ・ ドイツが ユダヤ人を人間として扱わなかったように 、 米国も 日本人を人間として扱わなかったからだと述べています。
( その 2 ) ジャップがひどい目に遭うことについて、 特別な感情はなかったと語っていました。 つまり相手を 自分と同じ人間であるとは全く思っていなかったので、 10 万人〜20 万人 の人達を残虐な方法で一度に焼き殺しても、可哀想だとか罪の意識を全く感じなかったのでした。教育の無い連中ならばともかく、ある程度の教育をうけていながら、当時の政府指導者を含むアメリカ人 ( 白人 )は有色人種に対して、これほどまでの蔑視、差別感情、思い上がりをしていたのでした。
( その 3 ) 普通の日本人は知性が低く、無知である。たぶん人間なのだろうが、 人間であることを示すような点はどこにもないとありました。
( その 4 ) 同じ敵国でありながら、ドイツ系 アメリカ人、イタリア系 アメリカ人に対しては強制収容の対象としませんでした。これは米国の先住民である インデアンに対して彼等の持つ土地を収奪するため、人里離れた場所に インデアン居留地 ( リザベーション ) を作り 強制隔離した政策 同様、長年の有色人種に対する蔑視、差別政策の延長線上から取られた措置でした。
( その 5 ) 戦後16年も経ったその当時でさえも、戦前から続く イギリス人の有色人種に対する蔑視、人種差別 はそれ程ひどかったのです。ヨーロッパや米国の一流 ホテルや レストランでは、その当時たとえ予約をしても チェックインの際に、満室あるいは予約を受けていない等を口実にして、如何に社会的地位が高く、立派な人物でも有色人種である限り宿泊、飲食は断わられるのが普通でした。
( その 6 ) ある国の国連大使が ニューヨークにある超高級 ホテル( ウオルドルフ ・ アストリア ・ タワーズ ) で パーテイーを催した際に、ウ ・ タント事務総長が招待状をもらい出席しようとしたところ、ホテル側が 有色人種を理由に彼の入館を 拒否したのでした。 この事件に対して米国政府に抗議の書簡を送ったのに対して、自由、平等を標榜する米国は、ホテルの態度には遺憾に思うが、私企業である ホテルや レストランの運営方針については、政府の権限が及ばない旨の回答を寄せただけでした。( ウ ・ タント回想録 )
( その 7 )
( その 8 ) 欲望という名の電車 ( The car named desire ) という映画の舞台にもなった、Deep South ( 南部の中の南部 ) といわれる人種差別の強い ルイジアナ州にある ニューオルリンズの市内電車の車内は、前方が白人席で後方が黒人 ( 有色人種 ) 席に分けられていました。その境界には木製の仕切り板があって、両人種の乗客の混雑具合によってその仕切り板を車掌が前後に移動し、スペースを調節することで、 白人黒人分離の原則 を貫いていました。 バスでは黒人が後方に座り、前方から座る白人の中に立つ客があった場合は、黒人は誰にいわれなくても立って 白人に席を譲るのが南部社会での常識 でした。ところがある日、そうしなかった黒人女性が現れましたが、N A A C P ( 全国黒人向上協会 ) の書記を勤める 42才の ローザ・パークスでした。1955年 ( 昭和30年 ) 12月1日の夕方、アラバマ州の州都 モンゴメリーで、バスの中で白人に席を譲らなかったという理由で彼女は警官に逮捕されました。 この事件が契機となり長く全米を揺り動かす黒人による、バス・ボイコット運動に発展しました。その結果1956年 ( 昭和31年 ) 12月に連邦最高裁から バス会社に対して、 車内での人種隔離禁止命令 が出されて、黒人側の勝利に終わりました。 しかしその当時、黒人 ( Colored ) は大学を卒業しても知的職業からは閉め出され、肉体労働しか与えられず、黒人の失業率も高く、環境の悪い黒人専用居住地区に住み、黒人専用のレストラン、床屋、商店などを利用していましたが、それが 当時、自由と平等の国と謳歌された、アメリカの真の姿でした。
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