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【社説】

「無辜の不処罰」めざし 週のはじめに考える

2010年5月23日

 裁判員制度が始まって一年。「疑わしきは被告人の利益に」の鉄則は国民に知られ、浸透しつつあるのですが、あらためて整理し、考え直してみます。

 まず、こんなクイズはどうでしょう。被告と被告人は同じか違うのか?

 答えは、法律用語のうえでは違う、です。被告は民事訴訟での原告の相手、被告人は検察官から刑罰を科すべきだとして公訴を提起されている者を指します。

 被告人の相手は国家

 そうです。被告人の相手は国なのです。新聞は被告と略称していますが、憲法などには被告人と書いてあります。一人の人間が国を相手にすれば必ず大きな不利があり、従って黙秘権が保障され、疑わしきは被告人の利益にという刑事裁判の鉄則もあるわけです。

 少々古い話ですが、英国で「冤罪(えんざい)」で死刑が執行された有名な事件がありました。一九四九年、ロンドンでのこと。下町のアパート最上階に住むトラック運転手ティモシー・エヴァンズ(25)の妻(20)と娘(1つ)の死体が裏庭の屋外洗面所から発見されます。警察がエヴァンズを調べると「妻が無断で借金し、責めたらけんかとなり絞め殺した。二日後、娘も殺した」と供述。治安判事に犯行を認めた。しかし法廷では一転、アパート階下に住むジョン・クリスティー(51)という男が犯人だと自白を翻したのです。

 裁判は陪審でした。彼の否認は退け、重いものを引きずる音や目撃証言などから有罪評決を下し、上訴も棄却。翌年エヴァンズは絞首刑に処せられたのでした。

 ところがその後、壁板の裏や床下、庭からクリスティーの妻を含む女性の死体が次々見つかったのです。エヴァンズ裁判の誤判は濃厚となり、のちに英国政府は誤りを認めました(クリスティーは自分の妻殺害の罪で死刑執行)。

 英国事件と足利事件

 この誤判を機に英国は死刑廃止へと向かうのですが、当時の専門家は、エヴァンズの虚偽自白について、普通の人には理解しにくいだろうが、取り調べを終わらせたい気持ちなどから迎合したようだと分析しています。

 半世紀以上も前のことですが、最近の足利事件のケースなどをつい思い出してしまいます。違う国で時を経て似たような過ちが起きるのは、それが構造的であり、しかも一般には理解しにくいからではないでしょうか。

 構造的というのは、密室での取り調べはやはり威圧的に感じさせるものであり、自白すれば帰してやるなどという“誘導”に人は弱く、取調官は一定の見込みをもって自白を取ろうとしていることなどです。理解しにくいというのは例えば、やっていない人がやったと言うはずがないという“常識”が社会では固く信じられていることです。

 日弁連の調査によると、富山県氷見市の強姦(ごうかん)等冤罪事件では男性はパンと牛乳の昼食だけで丸一日調べられ、帰宅後、死んだ方がましと除草剤を牛乳に混ぜて飲んだといいます。鹿児島県志布志市の選挙違反事件ではやはり連日長時間の取り調べに耐えかね、多人数が「自白」しました。自白調書があると、法廷でいくら否認しても裁判官は、罪を逃れようとしている、と逆の印象へ向かうことがあるそうです。

 三重県名張市の毒ぶどう酒事件(一九六一年発生、五人殺害)では、奥西勝死刑囚(84)が再審請求中です。逮捕当時、警察署内でマスコミが行った会見で彼は「大きな事件をちょっとした気持ちから起こし、何とお詫(わ)びしたらいいかわからない」と答えました。後に刑事のメモを暗記して話したと述べています。一審は証拠や証言の不自然さから無罪としたが、高裁では死刑に逆転、最高裁は上告を棄却しました。

 会見した元記者は「なぜあんなことを言ったのか、目を見てもう一度聞きたい」と述懐したそうですが、極限の人間心理の不合理は説明不能かもしれません。

 誤判防止には、取り調べの全面可視化と証拠の全面開示がまず必要です。自白は本当か、証拠に矛盾はないか。つまり疑わしきは被告人の利益に、を実現するためです。もう一つ言い換えるなら、十人の真犯人を逃がしても一人の無辜(むこ)の人間を罰してはならない、という英国の格言になります。

 司法不信を招くより

 諸外国に比べ、日本は凶悪犯罪がまだ少ない方です(日本の殺人発生件数は英独仏の約三分の一、米国の約六分の一=二〇〇七年統計、犯罪白書から)。社会の秩序と治安を真に守ろうとするなら、真犯人を逃すことよりも、無辜の人を罰して司法の不信を招くことをより恐れるべきです。英国の苦い体験は、いつ思い起こしてもいいのではないでしょうか。

 

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