“最後の炭住街”解体作業始まる
“最後の炭住街”解体作業始まる 05/26 19:40

福岡県は、かつて国内有数の石炭の産出量を誇り、日本の近代化を支えてきましたが、そうした時代を伝える建物などは、年々少なくなっています。

田川市では、市内で唯一残る大規模な炭鉱住宅街が解体されることになり、きょう、元住民らが見つめる中、作業が始まりました。

昔ながらの長屋形式の炭鉱住宅です。

玄関を入ると、すぐ右側に4畳半の和室。

隣の炊事場は土間。

田川、そして日本の繁栄を物語る風景が姿を消そうとしています。

田川市の松原地区。

1936(昭和11)年に、当時の三井田川鉱業所の鉱員のために建設された木造住宅150棟あまりのうち、今も34棟115戸が立ち並んでいます。

こうした炭鉱住宅(炭住)は、かつて市内で6,000戸以上を数えましたが、戦前からの大規模な炭住街は、今はこの松原地区に残るだけです。

「ここにかまどがあった。こっちは水入れ、水を汲んできて入れていた。ここ(4畳半)にちゃぶ台を置いて、作った料理を運んで、みんなでにぎやかにご飯を食べた。子供も多かったしね」(炭住の元住人・谷延鎮義さん)

採炭夫だった谷延鎮義さんは、1948年にこの炭住に入り、その後50年あまり、ここで暮らしました。

「長屋方式のほうが隣近所とすぐ会話ができるし、人間関係というのが確立できていた」(谷延さん)

筑豊炭田最大の炭鉱を擁した田川市、最盛期には人口10万人を超え、「炭坑節」発祥の地と言われています。

しかし、1964年に三井田川鉱業所が閉山、今は人口はおよそ5万人にまで減っています。

数多くの炭鉱労働者や、その家族たちの思いが詰まった炭住で解体工事が始まると聞き、長年ここで暮らした人たちが次々に集まってきました。

「1人のミスでみんなが吹っ飛んでしまうような仕事なので、口もきいたことない、顔も良く知らなくても仲間意識が生まれる。知らない人が飯食ってけとか、飲んで帰れとかね(笑)」(炭住の元住人・矢田政之さん)

「自分の親から怒られたことは少ないけど、よその親父から怒られたことは多い」(谷延さん)

炭鉱労働者の生活を今に伝える炭住、『歴史遺産』として後世に残そうという意見も少なくありませんでしたが、維持管理に年間30億円以上かかることから、田川市は保存を断念しました。

「惜しい!ほんとに、俺らの宝物やがこれ」(矢田さん)

本格的な解体工事は、来月上旬から行われることになっていて、34棟すべてが順次取り壊されたあと、市営住宅や緑地公園が整備される予定です。

日本の近代化を支えた筑豊炭田、その風景がまたひとつ消えようとしています。