南北朝時代の諸相 -武家社会を巻き込んだ南北の争乱と『太平記』- 佐藤 貴眞佐   はじめに  今日、南北朝時代と称されている時代は、足利尊氏が擁立した北朝と、後醍醐が1336年に行宮を吉野に移した南朝とが対立している時代であった。北朝とは、南朝と対立した持明院統の皇統のことで、光厳・光明・崇光・後光厳・後円融・後小松天皇6名の皇統を指す。一方南朝とは、大覚寺統の正統性を主張する後醍醐天皇が、北朝と対立して成立させたものであり、一時、河内金剛寺の時もあったが、多くは賀名生など南大和の吉野に行宮が置かれた皇統である。つまり、後醍醐・後村上・長慶・後亀山天皇の皇統である。  明治時代、教育がだんだんと普及した頃に国定の教科書が作られたが、南北朝時代が吉野朝時代に変えられたこともあり、その状態は日本が戦争に負けるまで続いた。やや余談になってしまったが、これから、決して忘れてはならない人物、足利尊氏とその弟直義にも注目して見ていきたい。中先代の乱から四ヵ月後の一三三五年(建武2)十一月、後醍醐は新田義貞に尊氏追討を命じた。長らく尊氏の下風に立ち、軽視されてきた義貞が公然と尊氏を討つ機会を与えられた瞬間である。この時、尊氏は出陣せず、代わって弟の直義が相手になり、直義は惨敗した。なぜ、戦い上手である尊氏が出陣しなかったのであろうか。この時代に書かれたとされる『太平記』には、尊氏が「主上の御恩を忘れ逆らうことはできない。弓を引くことはできない」と言ったとある。  この論文では、南朝と北朝の対立つまり動乱に主眼をおき、それらを『太平記』とからめながら徐々に紐を解き論述していくこととする。 第一章 『太平記』という題名とその構成 1 『太平記』と後醍醐天皇   太平記とは現代語に訳せば、「平和物語」ということになる。しかし、太平記が書かれた当時は、まさしく戦乱の時代であり、”太平(平和)”という言葉とはあまりにかけ離れた、いいかえれば矛盾した時代であった。ではあえて、『太平記』としたのは一体なぜであろうか。これには、「言霊」が関係しているのではないかと推測されている。つまり、「言霊」とは、悪い名前を付けると不吉なことが起こると考える一種の宗教的な信仰のことであるが、この時代の知識人(公家や僧侶)にもコトダマイストなる人が多数いたため、「太平記」という名がついたと考えられる。具体的には、後醍醐が建武という年号を定めた時が、そうであった。すなわち、貴族たちは「建武という年号は兵乱を呼ぶ不吉な年号」と大反対をした。そして実際に兵乱が起こると、だから言ったじゃないかとばかりに抗議し、その年号を変更させたのである。このことについて、和歌森太郎氏はその著書の中で「公家側の意識からすれば、王朝政治の復興というつもりで、「建武の中興」となるけれども(中略)雑訴決断所という新機関が土地問題の処理にあたったが、その手ぎわははなはだ悪いので「建武の新政」の評判は芳しくなかった。」と書いている(共著『史話 日本の歴史12 二つの王権 南北朝と太平記』 作品社内 和歌森太郎『酒の浸みこむ室町幕府』250頁)  以上のようなことから、戦乱記とは名付けられなかったものの、「吉野物語」などの題名であれば可能だったはずだが、なぜそうならなかったのであろうか。それを解くカギとして太平記には、次のような記述がある。 ・後醍醐の最期の様子 <本文>  「唯生々世々の妄執にもなりぬべきは、朝敵尊氏が一類を亡ぼして、四海を泰平ならしめんと思ふこの一事ばかりなり。(中略)玉骨はたとひ南山の苔に埋むるとも、霊魄は常に北闕の天に臨まんと思ふなり。もし勅を背き義を軽んぜば、君も継体の君にてあるべからず、臣も忠烈の臣にてあるべからず」と、委細に綸言を遺されて、左の御手には法花経の五の巻を握らせ給ひ、右の御手には御剣を按じて、八月十六日丑の尅に宝さん限りありしかば、五十二才を申ししに、つひに崩御ならせ給ひにけり。 <大意> 「朕の亡執とは、朝敵をことごとく滅ぼして天下を太平ならしめることだ。(中略)この身はたとえ吉野の苔となろうとも、心は常に京にある。朕の子孫がわが命に従わないのなら、それは決して正当な天皇ではないし、仕える臣も忠臣ではない」と詳しく遺言されて左手に法華経、右手に剣を持ち八月十六日の午前二時頃、ついにお亡くなりになった。(長谷川端『新編日本古典文学全集 太平記③』小学館)。 2 太平記の構成  太平記は以下のような構成になっており、いわゆる第2部と第3部の間ともなりうる、第二十二巻が欠落している。  【太平記の構成図】  第1部(巻一~巻十一) 後醍醐の即位から鎌倉幕府滅亡まで  第2部(巻十二~巻二十一) 建武の新政から後醍醐の死まで          【この間巻二十二欠】  第3部(巻二十三~巻四十) 楠木正行(正成の子)の戦死から足利義満の将軍就任  まで  『太平記』は原本が残っていないので、実際のところは分からないのであるが、上記のように、第二十二巻は存在していない。では一体なぜこのようなことが起こってしまったのであろうか。それはローマ法上最も重要な「十二表法」と様子が似ているような気がする。つまり、十二表法はそれまでローマに存在していた慣習法を成文法化したものであり、十二枚の板にそれぞれ三十条ほどの条文が載っていた。しかし、その当時書かれた板は今となっては残っていない。ところが、ローマ人は十二表法をとても大切にしていたので、子ども達に歌にして覚えさせていた。このようなことから、大体の中味については分かっているものの、すべての条文が残っているわけではない。このことを太平記とからめると、どうやら太平記も誰かが作ったものを多くの人が写し、それが「十二表法」や「平家物語」のように、語られて今も残っているようなのである。  同様に、我が国で701年に文武天皇の命により、刑部親王や藤原不比等ら19名で編集され成立、施行となった大宝律令も現在は残っていない。現在では”復原(復元)”という形でしかなく、律6巻と令11巻が欠けるといった虫食いの状態である。太平記についても、同じくこのようなことから、第二十二巻が欠けるというようなことが起こったのかもしれない。  3 『太平記』という表題とその学説(p.59)  前述したように太平記はどうやら”戦乱記”に近い意であるとされる。なぜ「吉野物語」などの題名がつかなかったのかについては、先に抜粋したように、泰平=太平を願う後醍醐天皇の最期の言葉がカギになっているように考えられるのである。            また、この点に関しては、2.で述べた第二部と第三部の間の大きな断絶と絡めながらいくつかの学説があるので、それらを検討していくことにしよう。第二部と第三部の間に断絶があることについては学者も小説家も等しく異論がないが、断絶したその理由等については諸説の対立がある。まず、小説家の丸谷才一氏は「作者ないし、作者群は、この第三部を書きたくて『太平記』に取りかかつたのでせう」としている。自分なりにこれを解釈すると、丸谷氏の見解は太平記の作者は第一部から第三部まで、同一人物であり、しかも「第一部と第二部は、第三部の伏線であり序論であるつもり」で書いたとするものだ。 4 『太平記』の作者 太平記の構成については、おおまかに述べたが、第一、二部と第三部では作者が異なるとする説と、すべて同じ作者によって書かれたとする説が対立しており、実際のところはどうなのかについては判明していない。しかし、作者と推測される人物については、学説上浮かび上がっている人物が1名いる。それは、児嶋高徳という武士で、武将としては楠木正成に次いで有名だった人物である。ここで、彼について少し説明しておきたい。彼は、1331年(元弘1)に起きた元弘の乱に際して、後醍醐天皇に呼応して兵を挙げて以来、一貫して南朝方についた人物である。この点から考察してみると、『太平記』は後醍醐天皇や楠木正成方の視点から書かれた書物であるから、仮に『太平記』の作者が児嶋高徳であったとしても、つじつまがあう。しかし、一方で児嶋高徳は実在の人物ではないとする有力な学説も存在する。  また、横井清氏はその著書の中で、小嶋法師が作者であるとしている。『桐院公定公記』の中に小嶋法師について「近日天下にもてあそぶ太平記作者なり」という記述があるそうだが、それについて横井氏は「このように訓ずる見方に賛同する」(共著『史話 日本の歴史12 二つの王権 南北朝と太平記』 作品社内 横井清『小嶋法師』135頁)、としながらも、「おそらくは小嶋法師をも含んでの複数の作者群によって成立したものとみるのは定説になっているといってよいであろう。筆者もまた、小嶋法師なる者を実在の人物とみるとともに、それを複数の作者群の一人と考える立場に立っている」としている(引用前掲書)。また、日本で最も有力な辞書と言える『広辞苑』にも、やはり「作者は小島(嶋)法師説が最も有力」とある。 第二章 尊氏対後醍醐と『太平記』 1 両統迭立   南朝と北朝の対立について冒頭で、少し触れたが、ここでは具体的な中味を考察していくことにする。天皇家の家督争いである南朝と北朝の対立は、鎌倉時代からすでにあったのだが、この時は天皇家内部の争いでとどまり、動乱(内乱)にまで発展するものではなかった。  では一体なぜ後醍醐天皇の時代になって急に争いとして激化してきたのであろうか?それは、まず第一に後醍醐天皇の、「理念」を先行した身勝手でわがままな政治の責任であると考えられる。つまり、後醍醐天皇が「幕府を倒したのも、世の中をよくするためというよりは、ひとりよがりの「正義」のためであり、天皇として贅沢三昧を極め自分の子孫で皇位を独占するためであった」(井沢元彦『逆説の日本史』小学館 65頁)のだ。これが、最大の原因であると考えられるのだが、もう1つは後醍醐天皇の人間的な甘さからきたことも考えられる。つまり、中国などの諸外国では、対抗勢力の人間を投獄あるいは処刑し、内乱を防いでいる。張学良が彼の衛兵長である孫銘九大尉を派遣し、蒋介石を逮捕させた時がそうであった。このように中国ならば、少なくとも光厳上皇に対し何らかの処置を施していたはずである。まさしく、後醍醐の甘さ故に、光厳上皇が「院宣」を出し、尊氏が”官軍”になれたともいえよう。それまでは、ただ単に後醍醐天皇に逆らって軍事行動をしているのであるから、”賊軍”ともいうべき存在だったであろうか。 楠木正成が湊川の合戦で討ち死にした後の南朝と北朝の対立はどのようになっていったのであろうか。それを次で見ていくことにする。 2 正成の死後と『太平記』 『太平記』はとにかく正成びいきで書かれている書物であり、また後醍醐天皇方の視点から書かれている。正成が湊川の合戦で討ち死にしたことは先に述べたが、南朝側の後醍醐からみた楠木正成は「最大の戦力」であり「忠臣」であるから、彼を失った打撃は相当なものであった。少し横道に反れるようであるが、湊川の合戦で死んだ正成について『太平記』にはどのような記述があるかそれを見ていくことにする。 ・楠木正成・正季兄弟の死 <本文>  正季からからとうち笑うて、「七生までただ同じ人間に生れて、朝敵を滅ぼさばやとこそ存じ候へ」と申しければ、正成よに嬉しげなる気色にて、「罪業深き悪念なれども、われもかやうに思ふなり。いざさらば同じく生を替へてこの本懐を達せん」と契つて、兄弟ともに差し違へて、同じ枕に臥しにけり。 <大意> 正季はからからと笑って「七回までもこの人間界に生まれ朝敵(天皇家の敵)を滅ぼしたいと思う」と答えた。正成もこれを聞いて嬉しそうに「それは罪業深き悪念だが、わしもそう思う。いざ、二人で生まれ変わって我等の望みを遂げようぞ」と約束を交わし、兄弟で差し違えてその生を終えた(長谷川端『新編日本古典文学全集 太平記②』小学館 316頁)。 正成は湊川の合戦の際、すでに死を覚悟していたことが推測される。かつて、一三三六年(建武3)正月の戦いで足利尊氏が新田義貞軍を攻めながらも、形勢を逆転され惨敗を喫したことがある。この時、楠木正成は後醍醐天皇に対し「尊氏と和睦すべきである」と提言した。『梅松論』は太平記とは異なり、足利方の視点から書かれているので、尊氏を立派に見せるためにこのような記述がなされているのかもしれない(梅松論の作者は不詳であるが尊氏の側近と推定される)。しかしそうは言うものの、尊氏を故意に生かしておいたとは考えにくいので、仮にこの『梅松論』の記述が真実であるとするならば、尊氏のとどめを刺し損ねたことにその原因があるのではないかと考える。つまり、このまま放っておけば尊氏はいつかまた倒幕にやってくるに違いない。もしそうなったら、今度は勝つ自信がないと楠木正成は考えたのではなかろうか。またこの時、尊氏と和睦することにとどまらず、義貞を討伐することをも正成は提案したらしい。伊藤喜良氏によると「正成がこういうことをいったかどうかは不明であるが、学者の多くは事実に近いのではないかとみている」としている(伊藤喜良『集英社版 日本の歴史⑧ 南北朝の動乱』集英社 191頁)。 3 尊氏入京 実際に楠木正成が「尊氏はいつかまた倒幕にやってくるに違いない」と考えていたかどうかは不明であるが、もしそのように考えていたならば、四カ月後にその予感が的中することになる。つまり、この四カ月の間に兵力を調えた尊氏が「新田義貞討伐」を名目にして都に攻め入ってきたのである。もちろん標的は尊氏が幕府を開いて武家政治を始めるのを許さない後醍醐天皇であり、尊氏は後醍醐天皇を追放するために、攻め入ってきたのである。  この時、楠木正成は後醍醐天皇に対し、「いったん都を放棄し比叡山に逃れる」ことを提案している。つまり、京は消費都市であるから相手が食糧不足になるのを待とうということである。しかし、またしても正成の名案は後醍醐天皇のわがままによって却下され、そればかりか、尊氏討伐に迎えと命令を下したのである。これはあくまで私見であるが、後醍醐天皇は軍事力云々よりも天皇の威光によって勝負が決まると考えていたのではなかろうか。また、数十万とされる大軍である尊氏と戦えということは最後まで天皇の為にその生命を全うせよ、すなわち死ねというのに等しいように感じられる。  それはともかくとして、正成は弟の正季らと共に兵庫に出陣した。これが、湊川の合戦であり、楠木正成が死を遂げることになる戦いである。死の場面については先に抜粋したように、自害したとされているが、その時正成らはすべて死亡しているのであるから、そのことを伝えられる人物は一人もおらず、フィクションだと考える説もある。  湊川の合戦で最大の戦力である楠木正成を失った後醍醐天皇は結局、以前正成が提案したように比叡山に逃れることになる。 4 後醍醐天皇と足利尊氏  後醍醐天皇は政治について、かなりの荒療治を行ったが、土地政策についても彼らしい、また現代の我々からみれば到底考えられないようなことをやってのけた。それは一三三三年(元弘三)六月一五日に出した、「個別所領安堵法」あるいは「旧領回復令」と言われる土地制度についての法令である。内容は次の通りである。 ・近日凶悪の輩、事を兵革に寄せ濫妨し、民庶多いに愁う。ここに軍旅すでに平ぎ、聖化普く及ぶ。以後、綸旨を帯びずんば自由の妨げをいたすことなかれ(略) (伊藤喜良『集英社版 日本の歴史⑧ 南北朝の動乱』集英社 159頁)  つまり、南北朝の動乱をいいことに、勝手放題なことをする者がいるが、それはけしからんことであり、今後は後醍醐天皇の綸旨を受けた者のみ自由な行動を許されるという内容である。すなわち、今までの土地所有権については白紙に戻すという内容の法令であるから、鎌倉幕府、六波羅探題が滅亡したばかりの機内周辺は今まで以上の大混乱に陥った。  そこで、尊氏は「元弘没収地返付令」という法令の中で、元弘三年に後醍醐天皇が出した「個別所領安堵法」あるいは「旧領回復令」と言われる土地制度についての法令をご破算、つまり無かったことにして、土地を旧所有者に返還することを尊氏の名前で保証したのである。つまり、後醍醐天皇は先に触れた法令の中で、「土地に関する鎌倉以来のルール」を勝手に無かったことにし、さらに尊氏は「その後醍醐の処置自体」をなかったことにしたのであるから、これは尊氏による完全なる建武の新政の否定ということになるであろう。 おわりに  今回卒論を制作するにあたって、後醍醐天皇とはどんな人物なのかというように、人物中心で調べていった結果、天皇に対するイメージとは到底かけ離れている「わがままで欠徳」な天皇であることが理解できた。具体的には、楠木正成の提案を少しも受け入れず、そればかりか彼に対して尊氏討伐を命じた場面が印象深い。また、新田義貞や楠木正成が今日、このように優秀な忠臣として奉られているのも、天皇が欠徳ならではのことであり、仮に後醍醐が本来とは正反対の人物であったならば、日本の歴史上、彼らの表記についても大部分変わっていたのかもしれない。今回主に第一章で取りあげた『太平記』には、湊川の合戦で死亡(自害)した、楠木正成が化け物となって復活する場面も第二十三巻にあり、読み物としても大変おもしろい。  そして「個別所領安堵法」あるいは「旧領回復令」と言われる土地制度についての法令が、現代の日本で出されたらどうなるだろうか。おそらく、当時とは比較にならないくらいの不平、不満と大混乱が続出するのは間違いないなさそうだ。   参考文献  田口卯吉ら共著『史話 日本の歴史12 二つの王権 南北朝と太平記』 作品社  長谷川端『新編日本古典文学全集 太平記①~④』小学館  井沢元彦『逆説の日本史』小学館   伊藤喜良『集英社版 日本の歴史⑧ 南北朝の動乱』集英社