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私説公開

 投稿者:石垣眞人  投稿日:2008年 7月30日(水)15時56分4秒
返信・引用
  「平成の黙示録」という表題の私説を公開しています。
http://makoto-ishigaki.spaces.live.com にアクセスしてください。

http://makoto-ishigaki.spaces.live.com

 

「寄生体としての国家の廃絶」

 投稿者:杉本  投稿日:2008年 7月30日(水)15時31分0秒
返信・引用
  TAMO2様
貴方のご尽力のおかげで、『国家と革命』
を、ネットで読むことが出来、こうして容易く引用することが出来ます。素晴らしいことです。
そこの三章に次の記述があります。
http://redmole.m78.com/bunko/kisobunken/kokkaku3.html
『国家と革命』
第三章 国家と革命。一八七一年のパリ・コンミューンの経験。マルクスの分析
 一 コンミューン戦士の試みの英雄精神はどういう点にあるか?
・・・・・
第二に、とくに注意をはらう価値があるのは、官僚的・軍事的国家機構の破壊が「あらゆる真の人民革命の前提条件」である、というマルクスの非常に深遠な意見である。

 五 寄生体としての国家の廃絶
「コンミューンのほんとうの秘密はこうであった。それは、本質上労働者階級の政府であり、横領者の階級にたいする生産者の階級の闘争の産物であり、労働の経済的解放をなしとげるための、ついに発見された政治形態であった」。・・・・
 「この最後の条件がないかぎり、コンミューン制度は不可能事であり、欺瞞〔妄想〕であった〔ろう〕」〔選集、第11巻、332ページ〕。
 空想主義者たちは、そのもとで社会の社会主義的改造がおこなわれるはずの政治形態の「発見」を事とした。無政府主義者は、総じて政治形態の問題を放棄した。今日の社会民主党の日和見主義者は、議会主義的民主国家のブルジョア的政治形態をふみこえてはならない限界と見なし、この「手本」を礼拝するあまり自分の額(ヒタイ)をぶちわり、これらの形態を打ち砕こうとするあらゆる志向を、無政府主義だと宣言した。
 マルクスは、社会主義と政治闘争との歴史全体から結論をくだして、国家は消滅するにちがいない、国家消滅の過渡的形態(国家から非国家への移行)は「支配階級として組織されたプロレタリアート」であろう、と言った。」

>「支配階級として組織されたプロレタリアート」のここでの意味は、
>「寄生体としての国家の廃絶」を、これのみが組織できるということなんです。

ロシア革命は、この実験に、挑戦しようとしたが出来なかった・・・
なぜなら、「生産協同組合」を、レーニンは組織しようとしたが出来なかったからです。商品・貨幣が生成する物象的依存の体制を止揚することで、おこなえる社会の肉瑠としての国家を廃止することが出来なかった・・・と総括しなければいけない筈です。この意味で、レーニン主義は継承すべきと私は思います。
 

志向性に重なるものを見ました

 投稿者:TAMO2  投稿日:2008年 7月29日(火)08時21分29秒
返信・引用
  >革命21の問題と私の議論

出社前の短い時間でお返事して恐縮ですが、アチラ(西欧)の言葉で言うならば、
プルードン主義で重なるものを見ました。共同体を緩く、ルーズにしつつ、しかも
なお崩壊させない。そういう芸当、あるいは再構築が求められる時代なんだと思います。

まあしかし、確かに分けて進めたほうが良さそうですね。

時間が取れれば、景清様の文章について書きたいと思います。
(最近、超多忙です。)
 

お褒めに預かり

 投稿者:三浦小太郎  投稿日:2008年 7月29日(火)07時06分31秒
返信・引用 編集済
  おほめにあずかり恐縮ですが、革命21の問題と私の議論とは、今のところは分けたほうがいいと思いますし、まず、この板に相応しいのは前者の問題でしょうから、まあサパタや「村」についての話はまたちょっといつか機会があった時にしましょう

私自身は下町育ちですけど、むしろ下町の隣近所の閉ざされた空間とか大嫌いで(笑)もう逃げ出したくて仕方がなかった。ですから、多分日本共同体みたいなものを美化するのは無意味だと思ってるんですよ。その辺が多分今でも小泉政治を一定支持しているところにも繋がってるのかな。ただ、サパタが夢見たものやサパテイスタの実践や、またもちろんスペイン革命の中にもロシア革命の中にも中国革命の中にも、そういう現実の村落共同体や地域社会の閉鎖性を乗り越えた、何か激動期にしか作れなかったような、自由と共同性が一体になったような瞬間というのはあったはずだと思うんで、そういうまあ古い言葉ですが革命のユートピアみたいなものをどう運動や国家の中で生かしていくかというのはいつも時代も右左を問わず重要な問題なんでしょうね。

アナキズムについては私もちょっと学びなおさねばと思っているので、ご紹介ありがとうございました。スペイン革命についてはちょっと立場は違うかもしれませんが、ヘミングウエイの「誰がために鐘は鳴る」はやっぱりすごい名作だと思いますよ。あれ、映画のイメージで損をしてますよね。まあ共産党の立場に近いんですが、スペイン革命の混沌をよく描いていると思う。
 

三浦さんに

 投稿者:アナ系通行人  投稿日:2008年 7月29日(火)01時18分27秒
返信・引用 編集済
  >国家ではなく、近代ではなく、人々の村こそが革命の目指すべき共同体である、と
>いうのは、近代を超えようとする思想的・政治的実践としては私は最も先鋭的なも
>のだと思うし、それは我が陣営の例えば権藤成卿の思想なんかとも決して遠いもの
>じゃない。

 三浦さん、はじめまして。私とは立場が違うものの、深い洞察力には常に感服
しております。

 メキシコとは違った色彩で、かつ、ロシア革命の対極にあったという意味では、
メキシコ革命に通じる「スペイン革命」の存在がありました。ご存じとは思いま
すが、地上で唯一、近代アナキズムが実効性を持った(?)革命としても、歴史
上に名が残っています。
 ここで貧農らが展開した集産主義は、極めて土着的であり、かつ「国家」(支
配層)からの自立を目指したという意味で、極めて先鋭的な意義があったわけで
すが、当然、ファシスト=スターリニスト連合軍の前に蹴散らされていく運命に
あったわけです。

 日本語の文献がないので、この集産主義と当時のスペインの「村」との関係が
よく分からないままなのですが、「村こそが革命の拠点」という意味での「村」
たり得たことは間違いないと思うわけです。

 翻って、日本の今の村の話です。
 過疎とか高齢化とか、その惨状ばかりが言われますが、しかし本当にそうな
のか。「抵抗の拠点」としての日本の村は、昔も今も捨てたものではないと思
っています。
 雑誌『アナキズム』には、なぜか「村からの発信」という記事が連載されて
います。立場は違うとは思いますが、もしお読みでないなら、一度お読みにな
ってみてください。

 http://a.sanpal.co.jp/anarchism/

 とりとめのない書き込みでしたが、また。
 

国家というリヴァイアサン(怪物)とどう向き合うか?

 投稿者:TAMO2  投稿日:2008年 7月28日(月)23時45分10秒
返信・引用
  三浦様、こんばんは。小生も、権藤成卿翁の農本主義には強い共感を覚えます。しかし、
説明不要のことかも知れませんが、サパタが負けたのと重なるように、日本の戦前右翼の
最良質の理想主義は負けました。負けたからダメ、という意図では決してありません。
かの毛沢東が言うように、「負けて、負けて、負けて、そして最後に勝つ」が歴史の真理
ですから。

小生は、三浦さんよりも恐らく本質的には右翼、いな、極右と言っても良いかもしれない
人間なので、今を生きる者が課題とすべきなのは、近代国家という地球を覆う枠組みを
どう変えていくか、あるいは場合によっては無力化していくことだと考えております。
この立場の差を踏まえた上で以下を。(廃県置藩とか小国寡民とか。)

戦前右翼の思想にそれほど詳しいわけではありませんが、彼らの構想はまさに、西欧に
よって押し付けられた近代国家という怪物共をやっつけようとしていたと思うのです。
さて、それをどうやるべきか、それは21世紀になって却って課題として浮上してきた
と思うんですよね。で、革命21に絡めて。

古典的なマルクス主義ってのは、例えば『国家と革命』が示すように、遠い射程として
国家の死滅を目指します。そのためには、逆説的ですが、国家権力をプロレタリアートが
獲得する一里程を必要と考えます。力を無化するには、力を得なくてはならない、と。
いやまあ、獲得する主体を誰が検証するのだ、とかそういう話はあるのですが(大苦笑)。
これは管制高地(権力)を握って、大所高所からの設計主義的に社会を変革するという
発想と馴染みがいいですよね。小生思うに、これは何億という人間を抱えた組織――国家
――の場合、権威なり権力なりに従わせる必要があり、どうあがいてもそういう設計主義
が必然となると考えております。国家は大きな慣性力をもっています。どうしても、今現在、
無視できない。ならば、それを取ってしまって利用してしまえ、と。そしてそういう
方法は、結果としてスターリン主義国家群に帰着しました。

で、革命21は、そういうやり方ではないですね。むしろ、地域・地域の運動(それは
所謂運動ではなくて、資本の運動(金儲け)をも包括する)の積み上げで国家に対して
包囲網を構築していくようなイメージです。ただ、世の中は足し算の積み上げで成り立
っているわけじゃあない。確実に国家という怪物と対峙し、それを呑み込んでしまうか、
あるいは圧倒的な<力>で破壊してしまうか。いずれはそういうエグいものと向き合う
ことが必然となると思います。

杉本様ご紹介の文章は、現在の取り得るべき包囲戦として理解できるものです。しかし、
その先(未来)がまだ、小生には見えて来ないのです。それは未来への宿題として、
保留するのも良いのですが、しかし、レーニン主義という言葉が敢えて使われていること
に憂慮しています。権力奪取というエグいコトになると左翼陣営でかつて成功して
#しまった#のは、まさにレーニン主義のみですから。
(景清様が書かれたレーニンの文脈がスターリンによって歪曲されていることは、
共産趣味者として理解しているところです。それでもなお、やはり、「レーニン主義」は
「レーニン主義」として一般には捉えられることでしょう。)
----
余りにも多くの論点を含む問題だと思います。まとまりませんが、この辺で一旦。
それにしても、三浦様の提起は素晴らしい。
 

関生支部の闘い

 投稿者:杉本  投稿日:2008年 7月28日(月)12時19分31秒
返信・引用 編集済
  TAMO2さん、景 清さん、連帯労組関西生コン支部の運動への評価を、共産同火花派の諸君達が正当に捉えて下さいました。
私はこう評価しました。
>「投資計画を労働組合がコントロールする」つまり、人格化した資本の意志を労働組合が統制するという、かっては権力奪取後の「プロ独」が行うとされたことを、いまやっているのです。社会の主人公としての行いを、「シャブコン」の生産お断りとしてもやっているわけです。

かれらの位置づけはこうでした。

http://www.hibana.org/h323_1.html
闘う労働運動の発展―共産主義と労働運動の結合を!
流 広志
>関生支部の闘いは、「81年春闘の関西生コン政策委員会(関生支部、同盟、全港湾)と工組との連帯雇用保障の締結、特別対策委員会の設置という政策闘争の前進」に対して、「日経連(大槻会長)は機関紙で、「関西生コンの運動は資本主義の根幹に関わる運動をしている」と発言するなど、独占資本の支配の中枢まで迫る闘いを作り出し、その闘いの中で、多くの労働者を階級闘争の闘士として育て、教育・訓練している。資本主義のもとでは、労働組合の任務は、改良闘争などの資本との闘いによって、労働者を階級闘争の闘士として育てることが基本であるが、共産主義とそれを結び付け、教育訓練して、プロレタリアートを支配階級に高めることが必要である。関生支部のように、産業政策や協同組合の組織化や投資規制や労働市場の統制や管理や規律や経営や品質管理や文化や理論などあらゆることに経験を積み習熟することは、なおすばらしいことである。

>プロレタリアートを支配階級に高める

日々の行動のなかで、政治的、経済的、文化的あらゆる部面で労働者階級を支配階級に高めることが、行われていると、彼らは認めたのです。このような勢力を広め団結していくことこそが肝要なのです。
 

中岡氏のレーニン主義発言について

 投稿者:景清  投稿日:2008年 7月27日(日)15時48分28秒
返信・引用 編集済
  景清です。お約束どおり、この間考えていたことを披露したいと思います。

(1)レーニン主義とは組織論のことである

TAMO2さんは『コモンズ』創刊号の中岡慎太郎あいさつ文中の「マルクス主義、レーニン主義を導きとし」の部分に疑問を持たれたようですね。私も同じ部分にちょっと違和感のようなものをもちました。しかし、それほど強く持ったわけではありませんでした。たしかに厳密に言えば、レーニン主義と革命21の綱領とは合わないはずです。二次会で「新宿の女」さんからの「レーニン主義」の観点からの批判に対して私なりに答えたように、この「革命21」はどうみても「レーニン主義的組織」ではありません。ですから、私は中岡さんのあいさつのこの部分は、単にロシア革命における「レーニンの業績」と、彼の革命家としての生涯から汲み取るべきたくさんの教訓の事をいっているに過ぎないのだな、と理解しています。つまりTAMO2さんのご指摘のとおりレーニン「主義」というのは正確な表現ではない、と私も考えています。

(2)第2回党大会における両派決裂の真相

さて、レーニンをかじった事のある人なら誰でもわかると思いますが、「レーニン主義」とは「党組織論」のことに他なりません。そしてそれは「民主主義的中央集権主義」と表現されるものです。また、レーニン組織論をボリシェヴィキとメンシェヴィキとの組織論の違いとして把握し、前者が正しく後者が間違いであると宣伝するために利用され続けてきたのが、1903年のロシア社会民主労働党第二回大会の両派の分裂でした。過去の解釈では、ボリシェヴィキ派(レーニン)は党を職業革命家の集団にしようとしたが、メンシェヴィキ派(マルトフ)はよりゆるやかな党にしようとした、というもので、この解釈はスターリンによって徹底的に利用されてきたものでした。しかし、これまで日本に紹介されてこなかった当時の資料などをもとに詳細に調べた結果、分裂の背景にはレーニンら若手とプレハーノフら古参との確執があった事がトロツキー研究16「レーニン党組織論批判」に詳細に明らかにされています。実際は両派とも職業革命家集団とその周囲に大衆的影響をもった党組織を作ろうとしていたのは明らかで、その違いは大きなものではありませんでした。トロツキー研究16の中で志田昇氏は次のように書いています―「規約第一条の問題は本来は小さな対立であり、どちらの案が採択されても決定的な問題が生じるわけではなかった。この問題が深刻化した背景には、すでに述べたように人事をめぐる対立があったのである。」(20p)「綱領や戦術など政治路線の上で大きな対立のない組織が真っ二つに分裂し大混乱におちいったことに、はたして必然性はあったのだろうか。この分裂がなければ、ロシア革命はより広範な基礎の上で実現された可能性もあったのではなかろうか。」(24p)

(3)メンシェヴィキの反革命転落はいつか

両派分裂の2年後、1905年のメンシェヴィキ協議会では規約第1条についてレーニン案の採用を決定し、その翌年の統一党大会へと推移していきます。 一旦分裂したあとのレーニンはメンシェヴィキ派から自派を隔絶させ、独自の道を行こうとしていたのに対して、トロツキーは両派の統一を通じてできるだけ多くの革命家が統一したひとつの組織に結集するために努力を続けてきた事が、トロツキー研究36・37「党統一のための闘争」の中に明らかにされています。ここにレーニンとトロツキーとの組織論の違いが見られます。トロツキーのレーニン主義組織論批判は、論文による批判だけではなく、実に10年以上に渡る両派統一に向けた実践の中に見られます。実際にメンシェヴィキが決定的に反革命の側に移行したのは、1917年、有能な活動家が大挙してボリシェヴィキに移行し、残った部分がペトログラード・ソヴィエトから退場していった時からと言っていいでしょう。メンシェヴィキを1903年の段階から「反革命」であったかのように言う議論は、両派の統一のために努力したトロツキーを「調停主義」として排除しようとしたスターリンの権力指向からくるデマと言わざるを得ません。我々は、実はスターリンによって改ざんされ、スターリン主義的バイアスのかかったものを「レーニン組織論」と信じ込まされてきたのである事に注目しなければなりません。日本共産党がそうしたスターリン主義組織論を「レーニン主義組織論」として実践してきた結果、共産党批判の中から生まれてきた革命左翼の多くもまた、この歪んだ「レーニン主義組織論」を採用してきた事実にわれわれは目を向ける必要があります。

(4)レーニン4月テーゼがもたらしたもの

1917年、二月革命によって臨時革命政府が樹立され、ソヴィエトが作られるという事態の中で、情勢は次第に高揚していきます。亡命先から封印列車によってロシアに戻ってきたレーニンは、この革命を、ブルジョア革命からプロレタリア革命へと進めるために四月テーゼを書き、ペトログラードの党中央委員会で議論しますが、圧倒的な反対で否決されてしまいます。そこで、こんどはペトログラード市の全党会議で議論した結果、今度は圧倒的な多数によってレーニンの四月テーゼは採択されることとなります。幹部だけの会議で否決されたレーニンのテーゼは、現場の労働者や市民に最も近いところで活動してきた末端党員によって支持されたわけです。そしてこの四月テーゼによって、ボリシェヴィキは戦略の大転換を成し遂げるわけです。スローガンを「労農民主独裁」から「プロレタリア独裁」へと切り替えた事実はすなわち、今後作られる憲法制定会議により発足するであろうブルジョア民主主義国家ロシアの発展の先に社会主義革命を遠望する路線から、一挙にソヴィエトを権力機関とする社会主義革命への大転進です。これはそれまでの「二段階革命路線」を捨て、「永続革命路線」へと転換したことを意味します。5月にペトログラードに到着したトロツキーは、レーニンと自分との間に隔てるものが何もなくなった事を確信し、両者の和解が成立。それ以後両者は最も緊密な同志関係となるわけです。トロツキーを支持する地区連合党「メジライオンツィ」4000人がボリシェヴィキと合同し、またメンシェヴィキ国際派や左翼エスエルからも次々とボリシェヴィキへと結集していきました。以上の部分は二年前にも同窓会二次会でまとめた事がありますから、それも参考にしてください。
http://redmole.jp/log/2006/2006-12b.html

(5)下からの民主主義と上からの中央集権

レーニンの四月テーゼは大衆の求める方向へとボリシェヴィキの路線を大転換させました。それはまたトロツキーの永続革命論に合致するものであったことから、二人の指導者の同盟が成立しロシア革命が成功したわけですが、われわれはレーニンの四月テーゼがどのようにして全党に採用され、そして人民の支持を得るに至ったかを考えると、これこそ「民主主義的中央集権」のメカニズムが働いたものだと理解できるはずです。四月テーゼは中央の幹部の間では理解されなかった。そこでレーニンは末端党員に呼びかけ、多数決による支持を得たわけです。つまり四月テーゼは大衆的支持によって「民主主義」的に決定され、中央機関を通じて「中央集権」的に遂行されていったのです。ところでTAMO2さんは中岡さんが「レーニン主義」という言葉をつかった事に驚きを示しましたが、私は彼の言葉の中ではそれよりももっと驚いた部分があります。引用します。
-----------------------
但し、集団が目的を達成するため、決定する方針については、充分なる討論の上、必要な時期には最終的な組織方針を決定します。決定については多数決で決定します。またこの決定に反対する構成員については、意見を保留して決定に従う義務があることを承知します。
-----------------------
「(3)新党の性格は、いかにあるべきか」の7の部分です。多数決により決定し、反対意見であっても決定に従う義務があると書いています。これこそ「民主主義的中央集権」そのものではありませんか! つまり中岡さんは、はっきりと民主主義的中央集権を肯定する立場にあるのです。これになぜ党員の皆さんは気づかないのでしょうか。私は不思議でなりません。
http://www.com21.jp/journal/001/001_03.html

(6)労働運動の実践と党運動の実践との差

しかし、私はこの矛盾をとりあげて革命21を攻撃するつもりはまったくありません。この党(まだ準備会ですが)が権力のきびしい弾圧と闘ってきた関西生コン労働者の力強い闘いの中から生まれてきた事を考えると、中岡さんは労働運動の経験を豊富に持ち、闘いの最前線では揺るぎない団結力こそ勝利のための力であることを実践経験の中から学びとっているに違いありません。そうであれば中岡さんの言葉は極めて実戦的で現実的な裏付けによるものであると私は考えます。一方、主に生田さんらによって蓄積されてきたものは「党派運動」のそれであると言わざるをえません。建党協を経験してきた彼女や協同未来に結集する人々の最大の関心事は、労働運動の先に、その勝利を保証するための「いかなる党組織が必要なのか」であったのではないでしょうか。『検証内ゲバ』シリーズ、『検証党組織論』、『誤謬』などを読んでもそのように思えます。協同未来の多くの活動家諸氏は日本共産党のスターリン主義的「レーニン主義組織論」、スターリン主義的「民主集中制」を学んできた人たちです。だからこの両者、つまり権力弾圧に対して集中して闘うことの重要性を学んできた中岡さんと、「民主集中制」のまやかしに絶望を経験してきた未来グループとの出会いと齟齬があるのではないかと私は感じています。またそうした齟齬は、今後の共同の闘いの経験の中で克服されていくものと期待しております。

(7)民主主義は中央集権の内部に存在する

革命21が、「民主主義的中央集権」を否定しリゾーム型組織論を展開しているのは、やはり「民主主義的中央集権」についての理解がスターリン主義によるものであり、トロツキーを通じて学んできた私とは違うからなのだと私は理解しています。また「民主主義的中央集権」は、どう考えても絶対に必要なものです。なぜなら、「民主主義」と「中央集権」とは両者が一対になっているからです。例えば民主主義がなくても中央集権だけで存在できます。しかし中央集権なくして民主主義は存在できません。それはどういう意味でしょうか。そもそも「民主主義」とはなんでしょうか? それは本来、領主など特権階級による政治の独占に対して国民の全てが政治に平等に関与する事の意味ですが、具体的には議決のシステムについて言われる事が多い。つまり「多数決によって全体の意志を決定する」という事です。全体で一つの方向を決めなければならない時、多数決によって議決され、少数意見は多数に従属する事が強制されます。これを「民主主義」と言うわけです。「少数意見が多数意見に従属する」という部分を肯定するのか否定するのか。ここが「民主主義的中央集権」を肯定するかどうかの分岐点です。「多数決主義」とは「民主主義的中央集権」とほぼ同義語に近いのです。

(8)民主主義と中央集権との運用について

多数決主義については、もう少し詳細に見ておく必要があります。それはその多数決主義の適用を「どこまで厳密に実行するべきか」という事を考慮しなければならないからです。多数決の結果を厳密に施行していけばそれだけ中央集権的性格は強くなります。この中央集権的度合いと民主主義的度合いの割合がどうであるかは、その時の権力の反動性によって変化するものであって、反動的な政権下であればあるほど中央集権的で民主的度合いの低い組織が要求され、多少なりとも民主的権利の保障された政権下であれば民主的運営の可能性が高まるということです。帝政ロシアにあっては、民主主義の保証がほとんどできず、ボリシェヴィキもメンシェヴィキもナロードニキや他の組織も全て、中央集権を主軸とした「陰謀家集団」として組織を作らねばならなかったのはやむをえないものがあります。しかし、その中でもなおレーニンは民主的討議を可能な限り追及したことには注目しなければなりません。また帝政ロシアという条件下で制約されたレーニン主義組織論を、現代の日本においてそのまま適用するのは、まさしくスターリン主義組織論に他なりません。

(9)多数決原理と少数者(マイノリティ)

近年、トロツキストの各国組織においても、国際組織においても、この「民主主義的中央集権」についての解釈と適用の仕方が明らかに変化しています。旧日本支部である「かけはし」グループの規約にもその変化がはっきりと現れています。その背景にはさまざまな「マイノリティ」が自らを主張し始めたことによって共産主義者もまたそれに対応していかねばならなくなったからではないでしょうか。もうひとつ、「単一の世界党」をめざしてきた第四インターナショナルの戦略的転換に関係するものと思いますが、自らのインターナショナルとは別に、多元的左翼の結集軸となる「反資本主義左翼」インターナショナルの建設を目指していることが上げられます。これらの理由によって、「多数決原理」の適用の仕方が変化しているように思われます。具体的には「少数者の多数者への従属」という「中央集権」の内容に修正を施し、少数者の側に配慮し、多数決による決定事項についても厳密な遂行を求める場合に限定せず、各自の自主的判断にゆだねる場合も含んだ幅ひろい執行の仕方を追及しているように見えます。

(10)理屈はいいから運動の中で発展に期待

以上、中岡慎太郎氏の発言を通して主要に革命21の組織運営について考察しましたが、組織が実際に運動に関与していかなければ、こうした組織運営上の問題などを論じてもあまり意味はありません。私はこの組織におおいに期待していますが、今後、革命21がどのように発展していくかは、組織自体の努力も多いにありますが、周囲がどのようにこの組織に対して考えて行こうとしているのかもまた重要なファクターとなるでしょう。そこでやはり私が一番気になるのは、私が現在もシンパシーを抱いているトロツキストの動向です。『かけはし』最新号にはフランス支部がいよいよ反資本主義新党を呼びかけ、その第一回の会議が6月末にあった事が報じられていた事です。LCRに対して非LCRの人々がその3倍も結集したとのことです。日本においてもこうした反資本主義党建設は極めて重要です。そしてそれに真剣に挑戦しているのが革命21であるなら、トロツキスト諸君はなぜこの組織に近づこうとしないのか。私はそれが残念ですね。
 

Re: メキシコ革命

 投稿者:まっぴょん  投稿日:2008年 7月27日(日)14時24分29秒
返信・引用
  > No.3953[元記事へ]

三浦さんの視線の鋭さにはいつも敬服します。
TAMO2さんにお返事する前にちょっと、サパティスタのことなど考えている事を。

メキシコ・チアパス先住民の運動、サパティスタ運動が近年クローズアップされてきた要因にはいくつかあると思いますが、そのひとつには彼らがインターネットなど「文明の利器」をうまく使い、自分たちの存在を世界に発信していることがあげられます。もちろん、単に世界に発信しているだけではダメであって、その彼らのメッセージの中に世界の人々に共通する問題がなければ共感を得ることはないでしょう。

共感を得たものの重要な点は、先住民の人権、そしてそればかりでなく、彼らの生活を含んだ地域一帯の環境そのものを権利として押し出している事が、いま深刻化している環境問題の背景にあるものと重なっているんではないでしょうか。17世紀以来、近代文明は資本主義経済の上に構築されてきました。そしてそれは実利第一主義と攻撃的な手法とによって世界の隅々にまで入り込み、あらゆる地域の人々をその文明の中に同化してきた。それは多くの場合現地住民、その文化との衝突を伴うものでした。

そして今、その行き着く先が見えてきた。つまりこの文明が世界を滅ぼす危険が迫ってきている、という事です。もはや大きくなりすぎた生産性、そのために使われる地球資源の膨大な消費、その結果として生み出される膨大な廃棄物などが、地球の浄化能力の限界をはるかに超えるものとなってきました。これは世界の心ある人々の心を動かさずにはいられません。例えば茶畑さんが提起した「みどりの党」なども、そうした経緯で生まれてきたものです。

一方、自然と調和し生きてきた先住民は、これまで極めてエコロジカルな生活スタイルでありました。その上に、この攻撃的で実利第一主義な文明世界が忘れ去ってきた人間関係の調和というものも持っていた。チアパスの住民はこうしたものを武器として世界の人民の中に「味方」をつくり出してきたんじゃないでしょうか。

・・・あと、「国家」を単位とする帝国主義時代から、多国籍企業を経済的主体とするグローバリゼーションの時代に移行してきた事による、闘いの方法の変化にも関係あるんじゃないかとも思っています。つまり「国家権力奪取」を当面の第一目的とするこれまでの革命路線(政治革命)から、地域住民の生活そのものを組織化する方向(社会革命)を主要な目標にする運動への変化として見ることもできそうです。

もっと突っ込んで考えてみたいけど、とりあえずこのくらいにして、「レーニン主義」についての方を書きます。
 

隣町さんのアジト発見

 投稿者:革命的名無し  投稿日:2008年 7月27日(日)07時36分39秒
返信・引用
  http://8424.teacup.com/kaise2/bbs
ここで大人しく引きこもっていれば2ちゃんで突っ込まれることもなかったのにw
 

メキシコ革命

 投稿者:三浦小太郎  投稿日:2008年 7月26日(土)10時48分54秒
返信・引用 編集済
  サパテイスタについて、私は詳しいわけではないので、以下は私の解釈の上でのサパテイスタ評価として聞いて欲しいんですが、TAMO2さんの

「21世紀サパティスタの蜂起を受けた問題も浮かび上がります。なんだかんだ
言って、サパティスタは一地域の解放に成功したに過ぎません。その事実は、また、
歴史的に繰り返されてきた課題――全国的規模、ひいては世界的規模の権力奪取の
問題――を浮かび上がらせます。」

という指摘に関しては、私は「一地域の解放」だからこそ素晴らしい、という解釈なんですよ。以下、どの程度TAMO2さんやこの板の皆さんの関心とリンクできるのかわからないのですが、一応私なりの意見を

私はロシア革命よりも、メキシコ革命こそ真の意味で近代を乗り超える、二十世紀の幕開けに相応しい歴史的事件だったと考えているんです。特にエミリアーノ・サパタ、ゲバラではなく(ゲバラをけなしたくて言っているんではなくてね)彼こそが南米革命の精神的象徴であり、かつ、南米の状況を越えて、欧米近代そのものを行動によって撃った人間だったと思うんですよ。

サパタはモレロス州の貧農層の訴えをベースに、さらに近代植民地下で残酷に追い詰められたインデイオの精神までもをを深く理解し、キリスト教と近代国家こそが民衆にとっての弾圧組織である事をよく判っていたと思う。彼はあくまで「インデイオの土地と自由」つまり、白人植民地化以前の歴史を取り戻す事を目的にしていた。ですから、同じ独裁体制打倒の運動家でも、より近代的なメキシコ民主主義国の建設を目指す勢力を、結局真の意味で民衆を知らないエリート集団で、階層的には土地所有者であること、彼らのリベラリズムは全て輸入思想で、メキシコの貧困層や農民、インデイオの苦しみや夢を理解できない政治家やインテリだとして距離を取り、一時期はパンチョ・ビリヤ軍(これも実は殆ど山賊英雄、まあメキシコのロビン・フッドみたいな人)と共に首都を占領しつつも、権力を握ることも国家建設も拒否して故郷モレロス州に舞い戻ってしまう。

結果的には、政治力や近代的な軍事力を備えた、近代国家建設を目指すオブレゴン将軍とかにビリャ軍は破れ、サパタも故郷で追い詰められて裏切られて暗殺されてしまうわけだから、まあ政治的には敗北者って事になるんでしょう。しかし、決して国家権力を目指さない、あくまでインデイオの「村」を守り抜くことによって、権力による堕落やスターリン主義を拒否する、いや、それを超えて、近代国家そのものを民衆の次元から相対化し実践を通じて乗り越えようとするという姿勢は、多分サパテイスタにも受け継がれているはずだと思う。国家ではなく、近代ではなく、人々の村こそが革命の目指すべき共同体である、というのは、近代を超えようとする思想的・政治的実践としては私は最も先鋭的なものだと思うし、それは我が陣営の例えば権藤成卿の思想なんかとも決して遠いものじゃない。

もちろん、私はこういう試みは評価はするけど根本的には難しいと思っていますし、サパタが破れたようにサパテイスタの試みも何処まで成功するかはむしろ悲観的です。私自身は、近代国家以外に最終的には人間はまだ選択肢を持っていないという国家主義の立場ですからね。しかし、サパタの敗北後、メキシコにおいて最も優れた政治家のカルデナス大統領の政策の中には、近代国家を守りつつ、この様な民衆の意志をその中で反映させようという意思が確かに感じます。その意味で、サパタの実践を通じた思想を国家の側が常に忘れない事は、近代国家そのものがより豊かな可能性を持つことに繋がるはずで、メキシコ革命はその意味でも永遠の価値を持つと思います
 

【AMLより】アメリカ緑の党の話題

 投稿者:まっぴょん  投稿日:2008年 7月21日(月)11時49分30秒
返信・引用
  「アメリカ緑の党」の大統領選候補シンシア・マッキニー、劣化ウラン問題に言及

2008年7月21日
皆さん

 「アメリカ緑の党」の大統領選候補に指名されたシンシア・マッキニーが、その受諾演説の中で、アメリカが直面しなければならない“数多くの厳しい現実”として、イラク戦争、貧困、人種問題、住宅抵当危機などとともに、劣化ウラン兵器、白燐弾、クラスター爆弾についても言及した、というニュースです。
 YouTubeの下記サイトにスピーチがアップされています。[劣化ウラン兵器問題についての言及は、開始後8分ぐらいのところです。]
 (http://www.youtube.com/watch?v=N14HYcopWEU)

 シンシア・マッキニー氏は、米下院議員(民主党:アトランタ選出)を、1993-2003および2005-2007の計12年間つとめ、1998年には、劣化ウラン法案を下院に提出しています。2006年8月広島で開かれたICBUW(ウラン兵器禁止を求める国際連合)第3回国際大会にも来てくださる予定でしたが、残念ながら、選挙のために実現しませんでした。[参照:『ウラン兵器なき世界をめざして―ICBUWの挑戦』(合同出版、2008年4月)82頁]

嘉指信雄   NO DUヒロシマ・プロジェクト http://www.nodu-hiroshima.org/
 

チベット弾圧への抗議の替え歌1曲の紹介について

 投稿者:伊藤 篤  投稿日:2008年 7月21日(月)07時04分59秒
返信・引用
  「チベット、希望」(*元歌は、フォーセインツ及び岸洋子の歌「希望」 1969年のヒット曲)
1.希望という名の あなたをたずねて 遠い国へと 地図をながめる
  あなたはいつも わたしの憧れ 未知なる文明 夢の薬園
  けれど武力で 侵略されている 黙って見てなど いられはしない
  いつかあなたに 安らぎ戻るまで 我らの叫び 終わりのない歌
2.希望という名の 幸せ求めて 今日もたゆまず 戦う人たち
  あれから常に 自由が奪われ 明日はどんな 災難来るやら
  あなたの嘆きが 時折聞こえる 海を越えて こだまひびいてる
  ラサの街にも 平和が返るまで 切ない祈り とぎれのない歌
3.希望という名の 輝く大地 涙ぐみつつ また地図を見る
  なぜ今わたしは 行きたいのだろう 巡礼の歌 低く聞こえる
  三蔵法師の 昔の伝説 偉大な聖地の 極楽浄土
  チベット、希望 取り戻すために つらい闘い 今またはじまる
 

Re: 外部注入論

 投稿者:杉本  投稿日:2008年 7月20日(日)23時30分29秒
返信・引用 編集済
  > No.3948[元記事へ]

TAMO2さんへのお返事です。
>マルクス、いな、むしろエンゲルスは社会革命の熟成により、政治革命が後に起こると発想していたと思います。この図式に従うならば、まさに、古典的マルクス主義の図式に近いものが、革命21のプログラム素案にあると思いました。

いやだなーTAMO2さん未来の次の論文を見ていないでしょう。
武委員長の論文です。
http://www.commirai.org/journal/0073/0073-04.htm#00
 自主再建・自主管理・新規事業への規制
最近では、もし会社が潰れ、社長がいなくなっても労働者・労働組合が自主再建・自主管理する。メーカーなどは、これを大変嫌がっています。労働組合を潰そうとしても、潰れるはずがない。業界が混乱しても労働組合が自主再建している。これが雇用政策としても仲間の団結を促
進する面においても有効な武器になりますし、労働組合に結集する一つの魅力となります。
 また、新規事業に対する規制を労働組合が加える。私は30数年前、イタリアとフランスに労働組合の代表として視察に行ったのですが、このとき、イタリアのある労働組合が、出来上がったホテルのオープンを止めていた。私はそれをバスから見て、「あれはどうゆうことだ?」と質問したら、イタリアの当時の労働組合は、無責任な設備投資は雇用不安につながる、だから設備新設に対する事前協議と合意がなければ労働秩序が無秩序になってコストが下がるということで、出来上がったホテルのオープンをストップさせていた。
 これをヒントにして、関生型のやり方としては、設備投資をする場合には事前に協議・合意を得なければならない、とした。1980年、合意なくしてできた工場に対して不買運動や業界全体の中でそれを認めない運動を展開して、その当時10億円ほどかけて出来上がった工場を閉鎖させた。これは、「かるも島闘争」という歴史に残る闘争です。投資計画を労働組合がコントロールするという制度によって、雇用の安定化を図っていく。中小企業の過当競争を抑制する、ということです


ここでの核心的主張を私がこう表しています。
http://www.commirai.org/journal/0076/0076-05.htm#00
「投資計画を労働組合がコントロールする」つまり、人格化した資本の意志を労働組合が統制するという、かっては権力奪取後の「プロ独」が行うとされたことを、いまやっているのです。社会の主人公としての行いを、「シャブコン」の生産お断りとしてもやっているわけです。だからこそ、日本共産党から訣別されたわけです。物象化論に依拠しての古い剰余価値論の総括無くては、かれらの闘争の意義も見えてこないものと思います。このような関生の闘いの普遍化は、労働組合に止まらず、「互助・協同の精神」にあふれる市民にも求められていますよね。

どうでしょうか?階級的政治的意識は外部からもたらされていましたか?
外部からの支えではなく、充分に、国家権力・日本共産党の社会帝国主義と<関生党>は闘えている筈です。
もっとも、日共の指導のもとに回帰した人々が、自然発生性に拝跪していたという総括は成り立ちませんよね。社会帝国主義=日共との党派闘争がせまられたのですからね。

>全国的規模、ひいては世界的規模の権力奪取の問題

これはもうベネズエラ――中米から南米でおこっている経済的・文化的・政治的一大階級闘争の絵巻の概括にかかっています。(選挙による政権保持<ニカラグア−ベネズエラの例>が即国家権力の奪取でないことはこの例からも明らかです。)
 

別課題:ネグリの影響も見えますね

 投稿者:TAMO2  投稿日:2008年 7月20日(日)21時39分54秒
返信・引用 編集済
  単語だけじゃなく、文意としても。ネグリは、例えば『未来派左翼』でサパティスタの
闘い方を称揚しています。そして、主として都市住民の潜勢力に依拠した<共>の構築
にコミュニズムの可能性を見ています。サパティスタはリゾーム型組織の一つの形、
都市での<共>は、小生思うに、提供可能なものの「持ち出し」という形でのネット
ワークの形成だと考えております。それは、それでいいのです。そうやって社会革命を
進行させるということ(関生の事業はまさにそういうことだと理解しています)、
これはあらゆる革命の基礎を作ることであり、大いに賛同できる所であります。

マルクス、いな、むしろエンゲルスは社会革命の熟成により、政治革命が後に起こると
発想していたと思います。この図式に従うならば、まさに、古典的マルクス主義の図式
に近いものが、革命21のプログラム素案にあると思いました。

ただ、そうなると、歴史的に繰り返されてきた課題が浮かび上がってくると思います。

政治革命を永遠の未来に追いやったベルンシュタイン修正主義問題=政治革命とどの
ようにリンクさせていくのか、ということです。あるいは、自然発生性(外部注入論)
の問題。

また、21世紀サパティスタの蜂起を受けた問題も浮かび上がります。なんだかんだ
言って、サパティスタは一地域の解放に成功したに過ぎません。その事実は、また、
歴史的に繰り返されてきた課題――全国的規模、ひいては世界的規模の権力奪取の
問題――を浮かび上がらせます。

・・・・と、ここまで書いて。

多分、景清様の文章が絡んでくると思いますので、それまで待つこととします。
 

なるほど、階層的発想ですね

 投稿者:TAMO2  投稿日:2008年 7月20日(日)20時24分17秒
返信・引用
  杉本様、ご丁寧な解説ありがとうございます。

「レーニン主義」という 違和感を齎す言葉の位置づけが 結構はっきりしたと思います。
杉本様のご説明に従うならば、レーニン主義は「導きの糸」ではなく、「参照項」と記す
べきだと思いました。

小生が心配したのは、「レーニン主義」という言葉によって、新党の手が縛られること
です。

景清様、文章を楽しみに待っております。
 

心配事について

 投稿者:杉本  投稿日:2008年 7月20日(日)16時51分33秒
返信・引用 編集済
  TAMO2様
マルクス−レーニン主義の主張について、「民主集中制」を批判しているのに、矛盾するのではないのか?との提起ですね。
しかし、中岡晋太郎氏は、マルクス−レーニン主義を語る前にこう述べています。

「新党の性格は以下にあるべきか
4革命とは体制を闘いによって打ち倒し、新らしい協同組合型社会を作るものであり、今日の社会内体制運動野中から、今日の資本主義の社会・経済・政治・文化制度を根本的に変革することにあります。」

この内容は、プログラム素案を請けたものです。

http://www.com21.jp/journal/001/main_point_plan.pdf
プログラム素案の骨子案
(1)「20世紀社会主義」の挫折の総括
 先人たちの歴史的経験が、遺している教訓とその核心は、以下のことである。
 一つは、マルクス的コミュニズムの核心である協同組合型社会(アソシエーション)は、国家によって上から育成する道ではなく、「国家権力を自由な諸個人からなる生産者自身に移す」事によってしか生成されない。
(3)われわれの確信
 「資本主義の根幹に触れる闘い」と資本と国家に恐れられ、ゆえに、80年代と今日における二度にわたる大規模な国策弾圧にさらされてきた「関生型労働運動」の闘いに、「協同組合型社会(アソシエーション)」への新たなコミュニズムの可能性を、具体的実践的に発見した。
・・・・・
2、・・・・ この社会革命は、これまでの政治革命主義を克服し、政治権力を獲得してから初めて始まるのではなく、労働者民衆の資本と国家による日常的な支配と闘う対抗運動を通じて、対抗権力・対抗社会(協同諸組織・運動とその自立・自治)を地域に形成していく日常的実践が、革命の基盤・基礎であると、考える。」


レーニンが、政治権力の奪取を目的としたこと、政治権力の力で社会革命をなそうとしたことを、民主集中制批判と唯一前衛党批判でしているのではありませんか?そしたらレーニン主義の主張の文脈が違うと判断願えるわけです。

だから、TAMO2様は、
<「関生型労働運動」の闘いに、「協同組合型社会(アソシエーション)」への新たなコミュニズムの可能性を、具体的実践的に発見した。>
この総括への意見をこそ述べなければ、ならないはずです。この総括を豊富化することこそが、各地に革命主体を作り出す手立てとなるはずです。

私は、革命21の一参加者ですから、参考程度にお聞き届け願いますよ。
もっとこのような議論が噴出することを願っているのですけどね。景清さんはまた組織論の独自の観点からの提案がおありでしょうから、その点から論議が深まればと思います。
 

革命21に期待する者として

 投稿者:景 清  投稿日:2008年 7月20日(日)12時34分25秒
返信・引用
  今回はカゲ・キヨシの名前で投稿します。

TAMO2さん、非常にグーな意見です。
それ「中岡慎太郎」さんの文章でしたね。私も同じ疑問を持っていました。
これについて、いつか文章を書こうと思っていたので、いい機会ですから書いてみようと思います。
もちろんこれは私の個人的見解であって、革命21からもぜひ主張を聞いてみたいものです。
ただ、いま私は非常に忙しいので、少し時間をください。
だいたい以下のような章立てで文章を書くつもりでいます。

(1)レーニン主義とは組織論のことである

(2)トロツキーによるレーニン組織論批判

(3)民主主義的中央集権は否定するべきか

(4)中央集権は民主主義の内部に存在する

(5)綱領的希望に依拠し組織的希望を持つ

・・・という感じです。タイトルだけで中身がわかっちゃうかも知れませんね。(^◇^)
私が書いた文章といくつかの『かけはし』に乗った論文、
それから参考文献として以下を紹介しておきます。

トロツキー研究16「レーニン党組織論批判」

トロツキー研究36・37「党統一のための闘争」
--------------------------------------------------

『検証 党組織論』に寄せて
「リゾーム型組織論」は集団的意思決定に民主主義を保証しうるか 平井純一(かけはし2004.07.12号)
http://www.jrcl.net/frame04712e.html

民主主義的中央集権をどのように総括すべきなのか
『検証 党組織論』を読んで 景 清(かけはし2004.4.19号)
http://www.jrcl.net/frame04419m.html

投稿 寺岡論文・ルッセ報告、党組織論をどう読むか
「複数の革命党」への変化 景 清(かけはし2006.5.1号)
http://www.jrcl.net/frame06051f.html

寄稿『かけはし』平井論文を読んで
反資本主義左翼建設 ―それは労働者人民にとって共通の課題である 景 清(未来2006年11月号)
http://www.commirai.org/journal/0074/0074-05.htm#00
 

革命21についての心配事

 投稿者:TAMO2  投稿日:2008年 7月19日(土)22時07分2秒
返信・引用
  お久しぶりです。内情などではなく、紙面を読んだ上だけの話。組織論としては、所謂
レーニン主義とはかなり異なっていると思うのだが、しかし、マルクス主義、レーニン主義
を導きとし、とある。(冒頭のごあいさつ、(3)新党の性格は、いかにあるべきか)

マルクス主義についてはともかく、『なになす』に代表されるような意味でのレーニン主義
なる、物凄く 狭いイメージが出来上がっている言葉を使うことは相応しいことなのだろう
か。

躓きの石にならなければいいのですが。
 

了解しました

 投稿者:茶畑進  投稿日:2008年 7月18日(金)16時00分16秒
返信・引用
  まっぺんさんの仰ることに反論はありません。今度東京に行ったとき模索にでもよってコモンズを買ってみたいと思います。秋にみどりの新団体が出来たら、そのとき改めて議論を深めていきたいですね。とりあえず私からはこの議論は打ち止めにしたいと思います。  

以上は、新着順601番目から620番目までの記事です。 27  28  29  30  31  32  33  34  35  36  |  《前のページ |  次のページ》 
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