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なるほど・・・。

 投稿者:迷惑行為者  投稿日:2008年 5月25日(日)16時44分8秒
返信・引用
  放火ってそんな気持ちでやるんだね。  

>ビン

 投稿者:元連帯する会行動隊  投稿日:2008年 5月24日(土)20時13分0秒
返信・引用
  硫○入りの触発だったらもってかえれなかったねw

20当日の私達はツリ部隊だった。松明もってウロウロ。
みんな腹が立ったんだぞ!
 

うらやましい

 投稿者:トチロー  投稿日:2008年 5月23日(金)04時36分19秒
返信・引用
  > 3.26で、両手に持ったビンを結局持ち帰った私も、5.20では数え切れないほど投げた。

いいですねえ。今度投げるときは、僕も誘ってください。
 

>やる気(根性)が問われた場面

 投稿者:イレギュラーず  投稿日:2008年 5月20日(火)00時24分15秒
返信・引用 編集済
  それぞれにそうした場面はあったでしょうね。

私は2月要塞ですが、その要塞戦の過程でも<問われる>場面はありました。

とうとうやってきた要塞への敵の攻撃という、現地から帰郷するわが労働者たちがもたらした情報にそって、要塞防衛の慌ただしい準備に入った時のことです。私の大学は誰が要塞に入るかは比較的あっさり決めましたが、直ちに入った作業の横で、ぐずぐずしている最大拠点校のメンバーたちを目撃。結局、かれらは要塞には入りませんでしたが、入るかどうかはどうでもいいことです。

本には書かれないことはいっぱいあるはずです。そうした人やことに気づかされた30年です。
 

成田空港・開港30周年

 投稿者:鍋山  投稿日:2008年 5月19日(月)19時20分51秒
返信・引用 編集済
  明日だね、5月20日
3.26で、両手に持ったビンを結局持ち帰った私も、5.20では数え切れないほど投げた。
各マスコミでさまざまな特集が組まれている。

NHK総合「首都圏ネットワーク」
http://www.nhk.or.jp/shutoken/net/
■05月19日(月)成田空港30年(1)「国際空港間競争」
■05月20日(火)ニュースアップ  「成田開港30年・中継」
成田空港30年(2)「発着枠拡大へ 地元の反応」
■05月21日(水)成田空港30年(3)「厳重警備の空港」
■05月22日(木)成田空港30年(4)「空港建設の歴史をどう見る」
■05月23日(金)成田空港30年(5)「これからの成田空港」

【東京新聞】 検証ナリタ 開港30周年
http://www.tokyo-np.co.jp/feature/narita/

朝日新聞千葉版は、
「開港前夜」・「対話へのみち」ときて、「闘争が残したもの」に入った〜
http://mytown.asahi.com/chiba/newslist.php?d_id=1200043


毎日もやっていた〜

毎日新聞・千葉版
【成田空港・開港30周年:わたしは思う】
亀井静香・鎌田慧・報道写真家三留理男・筑波学院大教授大島愼子・ネイチャリスト,ケビンショート
三里塚物産社長平野靖識・加藤紘一・小川國彦
http://search.mainichi.jp/result?p=%E6%88%90%E7%94%B0%E7%A9%BA%E6%B8%AF%E3%83%BB%E9%96%8B%E6%B8%AF%EF%BC%93%EF%BC%90%E5%91%A8%E5%B9%B4&st=s
 

「オヤジたちの証言」を読んで

 投稿者:なべ  投稿日:2008年 5月17日(土)10時40分43秒
返信・引用
  松下君や吉鶴君らと同じ8ー3ゲート被告だった者です。
あるツテから買って一気に読みました。とてもおもしろかった。

30年間分からなかった真相も分かりました。
ただ、吉鶴君の“供述”には事実に反することも有りました。
それは、8ゲートの大隊が一度引き上げ始めて、それからまた進軍する時のこと。
彼は「長時間の行軍なので疲れ切った連中がいて、彼らを拾った結果、トラックには10人くらいが乗っていた」としています。

事実は違います。
おそらく本部は再進撃の条件として大隊長クラスをトラックから降ろせと指令したのだと思います。
で、その少なくなった人数を補充する必要が生じて、急遽、トラックに乗る者の追加募集が現場でありました。私や同じ地域で同じく被告になったW君などは、その時点でトラックに乗った者です。
やる気(根性)が問われた場面なので今でも鮮明に覚えています。

結局、本部は、管制塔グループも含めて、専従たちを温存し、労働者部隊を突っ込ませたわけです。
その後の政治戦など何も考えていなかったんでしょうね。

けれども、私はその後の反処分闘争を含めて、前田君が語るような濃密な人生を送ることができて、本当に幸せだったと思います。

それにしても三里塚小委にJとは。笑っちゃうね。
 

平成5年6月23日

 投稿者:イレギュラーず  投稿日:2008年 5月14日(水)20時18分14秒
返信・引用 編集済
  裁決申請及び明渡裁決申立ての取下げについて

 新東京国際空港建設事業に係る下記土地の裁決申請及び明渡裁決申立てについては、起業者新東京国際空港公団から平成5年6月16日取下げがありましたので、お知らせいたします。

土地の所在   成田市東峰×××
地番      ××番
地目      宅地
事件番号    ××
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
しかし、この文書には千葉県収用委員会事務局長とはあるが、事務局長名はないな〜しかも簡易書留ですね。

この一件において84年中核派によるわが家への「家庭訪問」は許せない、今も!
 

共有地を奪われないぞ!

 投稿者:一坪共有者  投稿日:2008年 5月13日(火)20時48分17秒
返信・引用
   こんばんは!
 共有者のみなさん、まだまだガンバロウ!
 先日のニュースです。空港会社が「協力を要請」するそうな。
 東京新聞電子版から。
【社会】
一坪共有地解消を求め手紙 成田開港30年機に空港会社

2008年5月10日 18時03分
 成田国際空港会社(NAA)は10日、成田空港の未買収地のうち、「一坪共有地」の所有権を持つ国内や海外居住者約1200人に対し、権利売却を求める手紙を6月にも送ることを決めた。NAAが2004年の民営化後、こうした形で協力を要請するのは初めて。

 空港用地の未買収地は現在、計約3万4000平方メートルと東京ドームより1回り小さい広さ。うち一坪共有地は9カ所、約4600平方メートルで、約1200人は6カ所で約2700平方メートルを所有している。
 NAAは成田空港が20日に開港から30年を迎えるのを機に、用地の虫食い状態の解消促進を図り、少しでも完全な形の空港にしたい考えだ。
 NAAによると、約1200人は主に三里塚・芝山連合空港反対同盟旧熱田派の支援者や親族ら。ほとんどが国内に住んでいるが、米国、フランス、カナダ、韓国、フィリピン、パラグアイ、南アフリカの7カ国にも計9人がいる。

(共同)
 

>こちらは、本物の革命の話

 投稿者:イレギュラーず  投稿日:2008年 5月10日(土)00時35分28秒
返信・引用
  私も見に行きます。角川だそうですが。

1980年小田実…日比谷公園界隈に私達東北の「ゴンボホリ」が何と言われようと登場。大衆的街頭カンパで購入した16mmフィルムや映写機は今も健在。
 

『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』

 投稿者:鍋山  投稿日:2008年 5月 9日(金)22時20分42秒
返信・引用 編集済
  『実録・連合赤軍』見てきました。
学生運動や政治運動を題材にした映画は、ほとんど陳腐なものばかりだったが、
かなり出来がいい、真実を伝えていると思います。

『実録・連合赤軍』公式サイト
http://www.wakamatsukoji.org/

〜赤軍派結成〜大菩薩事件〜よど号ハイジャック〜連合赤軍事件
私なんかは同時代だから・・・、赤軍派に知り合いもいたし
でも、「千人の決意した戦士がいれば革命は起こせる」なんて言う中核派
に呆れて四トロへ行ったくちだから、赤軍派の軍事は安直で幼稚に見えて
冷静に事件も見ていた。
それでも、あさま山荘銃撃戦のあとに明らかになった「リンチ致死事件」は
やはりショックだったが。

しかし、新左翼運動のひとつの帰結として、運動の防衛と発展を目指す立場
からの責任として「無関係」とはいえなかった。
「革命的暴力と内ゲバ主義〜連合赤軍と我々の立場」
http://redmole.m78.com/bunko/07/bunko077.html

他人のふんどし〜若い人(私より)の感想
つぶやきさん
http://ichyamada.jugem.cc/?day=20080406
ニャンケさん
http://nyanke.blog.ocn.ne.jp/nyanke/2008/05/post_3fd8.html
「(リンチ致死・処刑は)確かに非情で残酷な行為だ。だがそこに至ってしまう心理をわか
ってしまうことじたいが、わかってしまう自分自身が耐えがたかった。あれは戦旗・共産同の
共同体でも縮小再生産のようにありえたことだし、われわれには同志による同志に対する直接的暴力
による死者がいないというだけのことにすぎないのであって、われわれ自身の歴史に思いっきり
かぶっている。批判を恐れずに極論を言えば、戦旗も連合赤軍も同じだ。」

そんなことには無縁と思われる第4インターでも、
78年三里塚開港阻止決戦(3.26管制塔破壊を含む)に向かう過程で、
「そこに全ての力を注ぎ込む」ことを決定してからの前後〜
最後通牒主義が横行し、権力の弾圧の包囲の中で、やはり軍隊のようになって
いたんだろうね、リンチや暴力はなかったけれども、息苦しかった。


こちらは、本物の革命の話
光州事件をはじめて全面的に描いた映画。韓国で740万人が見たという。
5月10日封切り

『光州5.18』
http://www.may18.jp/
 

あちゃあ!

 投稿者:まっぴょん  投稿日:2008年 4月27日(日)08時22分1秒
返信・引用
  ほんとだ。なんでこんな弱小党派に?  

えっ?

 投稿者:イレギュラーず  投稿日:2008年 4月27日(日)07時56分41秒
返信・引用
  ところで、「かけはし」のJRCLネットがハッキングされたようだ。

>HACKED BY DR.HACK3R
FREE HACK STYLE

と表示される。
 

分からない

 投稿者:イレギュラーず  投稿日:2008年 4月25日(金)00時12分30秒
返信・引用
  >電話で「秘密交通権」(だっけ?)が守られるんだろうか?

というより、「いま、そこにいない弁護士」という地域の現状。

>現状では、起訴前・勾留中で黙秘している場合、弁護士の面会しか認められない。
親は例外か?実際、起訴前にね?は〜

それにしても、自分以外に類が及ばないようにすることが、現実的な黙秘権の行使かな?
 

>「電話接見」 ???

 投稿者:鍋山  投稿日:2008年 4月23日(水)19時24分41秒
返信・引用
  電話で「秘密交通権」(だっけ?)が守られるんだろうか?

現状では、起訴前・勾留中で黙秘している場合、弁護士の面会しか認められない。
その場合、警察等の立会人は同席せず、被疑者と弁護士だけで面会する。
盗聴はありうるけど。

それを電話ですませるとは、
「多忙な弁護人が時間を割いて拘置支所まで出向かなければならなかった。」って、
弁護士会の要求なのか??
「心細い」被疑者のために足を運んで、顔色や表情を見るのも接見じゃないのかな。
 

接見しないと分からない

 投稿者:イレギュラーず  投稿日:2008年 4月23日(水)18時33分23秒
返信・引用 編集済
  >「電話接見」きょう開始 仙台拘置支所の未決者対象
 仙台弁護士会と仙台地検、宮城刑務所は、仙台拘置支所(仙台市若林区)に収容されている公判中の被告や逮捕拘置中の容疑者ら「未決拘禁者」と弁護人が電話で連絡を取り合える「電話接見」制度の導入で合意、22日に開始する。従来は緊急の打ち合わせや伝達事項があっても、多忙な弁護人が時間を割いて拘置支所まで出向かなければならなかった。拘置支所での電話接見制度の導入は、東北で初めて。

 電話接見は平日の午前9時―正午と午後1―5時、弁護人が地検の電話室から拘置支所の面会室に電話し、20分間会話できる。秘密保持のため電話室と面会室に立会人は置かないが、被告・容疑者が外国人の場合は通訳人も同席できる。…(河北新報08/04/22朝刊)

ところで、当時、そんなことはなかった。しかし、はるばる面会に様々な人々がきた。差し入れより旅費の方が多かったと思う。そして起訴前に親も。

そういえば、前田隊長の「夫婦」話が新聞に載った。何て言うことはない、引っ越しのときの周辺住民の話でした。あたり前だろう、普通!全く。

しかし、面会があると、一時面会控え室に入れられるが、そこは拘置所内集会のような有様。至るところに、千社札のように、メッセージがあふれていた(笑)。

新4舎で3.26当日シュプレヒコールを上げなかったとしても、それでも我が同志たちです。
 

毎日新聞は、間違えないようですね

 投稿者:鍋山  投稿日:2008年 4月23日(水)18時07分14秒
返信・引用
  ハッハハ〜〜
【誤報】を集めている人がいるんだね(笑)〜〜
http://209.85.175.104/search?q=cache:1sylHFHedg4J:www.geocities.jp/showahistory/history03/27a.html+%E7%AE%A1%E5%88%B6%E5%A1%94%E5%8D%A0%E6%8B%A0&hl=ja&ct=clnk&cd=141&gl=jp

成田空港管制塔占拠でリーダーが自白(毎日新聞、昭和53年4月10日)
成田空港管制塔占拠事件で逮捕された6人のリーダーと見られる男が犯行の詳細を自白したと毎日新聞が報道、ほかの逮捕者も釣られて自白を開始したのだが、この毎日の報道が完全な誤報であったことが判明、事件を起こした左翼団体の抗議を受けて、訂正記事を出すに至った。

・【6人】とは、管制室に入った人数だね。
・【ほかの逮捕者も釣られて自白を開始した】かどうか、私は知らない。
その新聞を突き付けられたということは聞いた。
・どっちにしても【誤報】じゃないね。権力の弾圧に手を貸したんだよね。

 記者:「前田隊長なんかは完黙なんだろうね。」
 刑事:「前田?けっこうしゃべってるよ。」(高校野球などの雑談)
 記者:「話してる内容は?」
 刑事:「それは、今の段階では言えないよ」
こんなことで、一面に「首謀者前田が自白」と記事ににしちゃったんだろうね。
 

第四インターの「強さ」の秘密

 投稿者:まっぴょん  投稿日:2008年 4月22日(火)19時48分11秒
返信・引用
  どんな組織でも、始めから「強い」わけはありません。
何か思想的に優位だと強いとか、そんなものも関係ない。
「やまとだましい」より「四とろだましい」のほうが強いわけでもない。
しかし1977年から78年にかけての四トロ派はほんとうに強かった。
それには理由があります。

我々はまずデモ隊列を強固にするところから始めた。
75年共青同結成前後のころは、だんだん人数が増えていったので、
デモの時に隊列を10列とか20列に組んで機動隊の規制を跳ね返すという事を度々やりました。
そのためにヘルメットはだんだんドカヘルからバイクヘルに切り替えられていきました。
『宣伝戦線』にも掲載されているデモ隊列の組み方は、実は故高島義一が提案したものでした。
デモは特に先頭を強固に固めて機動隊の規制に挑みかかり、彼らのヘルメットを奪い取り
上へ投げあげる、という事がよくおこなわれました。
後ろからみていると紺色のヘルメットが噴水のようにポンポンと投げ飛ばされていきました。
http://redmole.jp/sendensensen/senden09-9.html

更にわれわれは開港阻止決戦のために77年4・17闘争から約一年間、
三里塚現地においてかなり過激な闘争を繰り返してきました。といっても、
どこやらの党派みたいに「迫撃弾」だの「時限発火装置」だのをこっそり仕掛け、
新聞で「大本営発表」をやるというようなセコい事をしたのではありません。
そんな事をやっても強くならない。我々がやったのはもっと単純で実戦的な方法でした。

われわれは機動隊に向かってエンビンと鉄パイで武装し突っ込んでいく
というゲリラ戦を三里塚周辺で度々やっておりました。
77年5月決戦は、火炎瓶取り締まり罰則が制定されて以来久々の火炎瓶闘争でした。
機動隊襲撃は実戦訓練ですから、中途半端に「ノルマをこなす」意識でやって帰ってくると
「バカヤローもう一回行って来い」と言われ再度襲撃しに行ったと30周年本でも書いています。
これは戦闘訓練であると同時に、実戦で度胸をつけさせるものでありました。
これらの闘争を通じて機動隊は案外弱いものである事を我々は実感として知りました。
またその弱い機動隊に鉄パイプで突っ込んでいく事にも慣れ、キモがすわっていったわけです。
そうすると機動隊を蹴散らして帰ってくる事もできるようになり、それは快感でした。
『宣伝戦線』には機動隊から奪い取ったジュラルミン楯とハンドマイクを戦利品に
三里塚現地をゆうゆうと行進する襲撃部隊の勇姿が掲載されています。
また千代田農協前の接近戦では機動隊を敗退させ、取り残された放水車を火だるまにし、
その上に乗って放水銃を鉄パイプでたたき壊している写真も、すっかりおなじみになりました。
こうして我が部隊は、敵機動隊に比して武装の質においては劣っていても
精神的な面では圧倒的に優勢な最強部隊として形成されていったわけです。
この最強部隊が育成されていった過程も3・26闘争の勝利を確実にする要素の一つとなりました。
http://redmole.jp/sanrizukagazou.html

困難で苦しい、ハードな訓練と、実戦における勝利の積み重ねが我々を強くしていった。
しかしこれって考えてみると、クラウゼヴィッツの教えにかなってますね。
クラウゼヴィッツは強い軍隊を作る条件をふたつ挙げています。
それは「困難と勝利」です。「困難という土壌と勝利という光で育つ」と彼は書いています。

突然闇の中から現れて襲撃し、闇に消えていく第四インターに
敵機動隊側は、すっかり怖じ気づき、恐怖心を植え付けられていきました。
そしてこの一年間で「第四インターは恐ろしい」という伝説が生まれたものと見えます。
3・26当日は三井本部長の逃亡によって警備本部が解体したため
警察の指揮系統が混乱してしまった事もありますが、
インターが突撃してくる姿に機動隊が相当びびりまくっていた事は
戦闘部隊の実戦時の感想からもうかがえます。

空港警察も18発の銃弾を浴びせたとの証言とテープの記録があるそうですが
腰が引けていた状態から震えながら撃ったためにほとんどが下方にそれて当たらず
弾にあたった者も、地面に当たった跳弾が足にあたったものだったそうです。
当時のインターの強さは、今じゃもう伝説だね。(=^^=)
 

>今でも 釜にトンカチさん

 投稿者:鍋山  投稿日:2008年 4月22日(火)18時44分3秒
返信・引用 編集済
  つかこうへいの世界やね・笑
『初級革命講座 飛龍伝』は、何回もリメイクされているようだが、
その中に、初老になったかつての全学連闘士と花の四機の機動隊員が、
「最近の若い者は・・・」と嘆くのだった・・・

松田政男のメッセージ
http://72.14.235.104/search?q=cache:l7M2ZF9rpJYJ:homepage2.nifty.com/ikariwoutae/starthp/subpage09.html+%E5%88%9D%E7%B4%9A%E9%9D%A9%E5%91%BD%E8%AC%9B%E5%BA%A7+%E9%A3%9B%E9%BE%8D%E4%BC%9D&hl=ja&ct=clnk&cd=58&gl=jp
 

今でも

 投稿者:釜にトンカチ  投稿日:2008年 4月22日(火)01時17分55秒
返信・引用
  先日盗難事件でうちに権力が来まして実況見分などされたのですが、被害品の中にDVDもかなりありまして、ラックを双方で見て「ここの段ですね」とか話してると権力が「大義の春」を見つけて「お〜これ、横堀要塞じゃないですか」と窃盗事件そっちのけで開港阻止決戦の話になって「私、このとき8ゲートにいたんです。あの赤ヘルの集団見て、自分たちの宿舎が襲撃されると思ってとにかく楯持ってへっぴり腰で震えてました」などいかにインターの赤ヘル赤ヤッケ集団におびえていたかという話になりました。
それで、某県警の機動隊では「成田はとても恐ろしい所で、中でもインターがとても強い」と語り継がれているらしいです(笑)
ちなみにこの刑事さん来年が定年だそうで、時の流れを痛感した次第というオチで(笑)
 

爆笑

 投稿者:まつき  投稿日:2008年 4月21日(月)19時40分3秒
返信・引用
  >第四インターというのは・・・トロツキー、ケレンスキーがアメリカに亡命したときの組織

うーん、第四インターもメンシェビキ(系)も、「アカ」という点では、いっしょなのかな?。そういう点ではまさに「初心者ネットウヨのレベル」ですね。

そういえば、ソ連崩壊後のロシアで社会革命党が「再結成」されたとニュースで見た気がするけど、その後どうなったんだろう?
 

以上は、新着順661番目から680番目までの記事です。 30  31  32  33  34  35  36  37  38  39  |  《前のページ |  次のページ》 
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