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 招き猫さん、須原の本は

 投稿者:ケンジ  投稿日:2010年 3月17日(水)01時00分21秒
   読んでいません。 構成主義というのは私にはちょっと良くわかりません。
米国で70年代ころによく言われたようですが、あまり注目してなかった事柄です。

 日本の戦前ファシズムがファシズムなのか?なんてことを考えるにはよいヒントを与えて
くれるのかもしれませんね。
 

>再掲

 投稿者:伊達 純  投稿日:2010年 3月16日(火)11時17分32秒
  「今日の都合で魂を売った人々の決定など、 明日にでも崩れるものさ」w  

ケンジさんへ

 投稿者:純情まっすぐ君  投稿日:2010年 3月16日(火)09時13分31秒
  亀レスすいません。
そうでしたか!、懐かしいですね。

運子(雲子?)さんだったかな?、その方の画像掲示板で拝見してましたよ。
慶応の同窓生と偶然に掲示板で遭遇して、大連に家を買っちゃったり、かわいい通訳さんや
コナンさんの綺麗な奥様の写真とか・・・

皆さんとかどうしているのかなぁ?と思っていたところでしたので、相変わらずご健勝のようで
安心しました(笑)
 

龍樹がいったのは

 投稿者:「あ」とよばれしもの  投稿日:2010年 3月16日(火)04時45分51秒
  唯名論にあたる考えで、人間が< >を作り出している。本当にあるかどうかではなく、
作り出した<   >で一喜一憂をしている。作り出したものであるから、もともとか
らあるわけではない。

 空即自色 色即自空

これは唯幻論と同じです。というかたぶん岸田氏は中観派は意識してると思います。
人間の考えることのアーキタイプは古典にあると考えてますから。

http://kishidashu.com/docs/kokkaron/
 

再掲

 投稿者:ヤマさん  投稿日:2010年 3月15日(月)23時42分4秒
  伊達さん

豊島の産廃をみても住民の意思統一が継続するか否か及び住民の積極的な行動があるかないかが問題でしょう。

それがなければいくら外部が動いても糸の切れた蛸になります。

幻滅は覚悟のうえでしょうし、これまで何度も苦汁を味わっていらっしゃると考えますが、恐れず闘えますか。
 

neluさん

 投稿者:ヤマさん  投稿日:2010年 3月15日(月)23時38分25秒
  どうされてます?  

 投稿者:ヤマさん  投稿日:2010年 3月15日(月)23時15分13秒
  わたしはわたしの仕事をしてまいりましたよ。 投稿者:「あ」とよばれしもの 投稿日:2009年11月10日(火)04時27分58秒

なぜか、組合の(どう考えても人選ミスだろ)研究大会で発表、討議をしてまいりました。

どうして、私の「こんな考えでこうしたら、子どもたちはこう育ちました。…なんていうのは
嘘ですよね。せいぜい、子どもたちとこう関わりたい。だから、これをした。こんな封になった
と。ぐたいがせいぜいですよね。というか教師はそれしかできないでしょ。」という提案を
発表しなければならないのか不思議でした。

組合的な価値観の押し付けにしろ、新指導要領の道徳的価値観の押し付けにしろ、現実からの
反動にすぎず、現実の中から生み出されてきた価値観ではないことからそんなものを美術、図工
教育の目標にされては困ると美術という教科の発祥から学校は国民を作る装置であるということ
などを援用し、おそらく、組合的な規定のまとめ方ができないようにぶち壊して来ました。

現場で子どもと苦泥している方は、もっと実践を知りたかったのだろうと思います。
でも、その実践の交流こそが一番危ういということを知ってもらいたかった。
美術、図工畑でもなければ、酒井式指導法がなぜいけないか。はきちんと指摘できないだろうと
思う。しかし、酒井式が全国に広まったのも<実践の交流>なのです。
手短な手前の問題に苦泥することこそ大事であり、そこにしか本当の実践はなく、そして、本当の
実践は<必然的に>失敗することになっているのです。

なぜって、指導する側は自分の意図が達成されることを<成功>と考えます。しかし、授業は結局
は学習者のものです。学ぶ側はそれぞれ勝手に自分に応じて学んでいきます。その学びは意図的で
はありません。本当の実践ほど失敗しなければならないのです。

酒井式原則
http://www2.ocn.ne.jp/~sakushu/sakaisikigenrigensoku.htm
原則が実践になると…
http://homepage1.nifty.com/NOBUHIRO-UEKI/sakaisiki/index.htm
実践を広めるための定式化が行われ…
同じような<作品>がひりだされる。まさに<生産>されていく。

近代を手に入れなければ近代が批判できないのだろうか…?

まあ、教師が教えるというコミュニケーションのあり方をとらえられないのが一番の問題
なんだけどね。教えなきゃいけないものは教えなきゃならないが、教えたからといって
身につくつかないは相手側の事情。相手側の事情によっては、どんなに指導法を変えたって
身につかない。分かれ分かれ、覚えろ覚えろと関わるだけ、<関係性>は悪くなっていく。
<関係性>しか教室にはないという認識ができれば、そんなことはしなくなる。

準備ができてるかどうか、余力があるかどうかがとても大事な見極め。これができるかどうか
がプロかアマチュアかの分かれ道だと思う。結果にこだわるのは実は教育においては<アマチュア>
なのだ。二十歳過ぎればただの人でよい。ただの人の価値こそ本当は尊ばれるべきなのだ。

できないよりはできた方が。だまされないように、わからないよりはわかった方が。
教師や社会のこのような思いこそが、<能力による分配>の正当性を裏打ちしていく。
勘という論理化できないもので生きているのが本当なのに。

(学校という場所にいてこの論理を否定するのは非常に難しく、すすんで使えない先生に
なっていく覚悟がいる。でも、犯罪的な偽善に手を染めるよりはよっぽど気楽だろう。)





う〜む。これを書ける人間が容疑者になれるものだろうか・・・
 

あさん

 投稿者:ヤマさん  投稿日:2010年 3月15日(月)22時55分56秒
  ヤマさんへ 投稿者:「あ」とよばれしもの 投稿日:2010年 3月 7日(日)09時01分41秒

 いやいや、そうではありません。

 これは、、、仏陀のすごいところは、彼自身が、身体の限界を探るような苦行もして
 せいなのかもしれませんが、身体的つまりアプリオリな次元から<苦>というものを
 考えているせいです。

 仏陀はね。ヤマさん。感じること=受苦なのだ。科学的にいえば神経は常に特定の刺激
 を受けるために配置されそれを神経の束であり、ターミナルである脳に伝えています。
 快とは脳が作り出している。しかし、はじまりは苦。という仕組みにあの時代に直感して
 しまっているんです。

 だから、脳を喜ばせればよい。あっち側へいっちゃっても自分だけ救われるならそういう
 ことだ。と。

 どうも仏陀が生きている間の仏教っていうのは世の中を救うという考えを全くもってなか
 ったと考えてよさそうです。何よりも個々の人間を救う考えの集大成だった。

 それが教団として、地位を獲得し、政治的な立場ももった結果、世の中を束ねるための言説が付与されていったと考えるべきでしょう。

 それに反発して徹底したのが龍樹の中観派ということになるのではないでしょうか?
 あれって結局、唯幻論=唯言論ですよね。





> あれって結局、唯幻論=唯言論ですよね。


あさん

これは、なに?

返答のしょうがないないんだが・・・
 

慌てず騒がず

 投稿者:anti-金  投稿日:2010年 3月15日(月)21時16分48秒
  まあせっかく来たのですから、しばらくゆっくりさせて貰いましょう。

http://6010.teacup.com/kinchandazo/bbs

 

アンチさんは

 投稿者:半蔵  投稿日:2010年 3月15日(月)15時08分4秒
  「在日特権」と称されるものについて言及すれば
「お相手」見つかるかもしれませんね
 

な〜に

 投稿者:半蔵  投稿日:2010年 3月15日(月)14時53分31秒
  各自が想いのままに言いたいことをカキしてるだけですよ^^
四トロ二次会だとすぐ削除が入るんでねw
 

招かれて来てみたものの

 投稿者:anti-金  投稿日:2010年 3月15日(月)11時04分19秒
  いまいち殺風景な掲示板ですな。  

これも・・・

 投稿者:半蔵  投稿日:2010年 3月15日(月)07時01分43秒
  聞き手の「翻訳」かな?  

>自分の姿が見えてないこと

 投稿者:半蔵  投稿日:2010年 3月15日(月)06時55分27秒
  ↑自分の姿が見えてるのにマヌケ晒して
歩き続ける姿もイタいね

>要は、「批判者」でしかない
↑「批判者」にもなれぬ「クティティック」じゃんwww

>無に帰すからこそ、冒険ができるのではないか?
>無に帰すからこそ、間違いにも意味があるのではないか?
↑またオナプレ作文かよ・・・不勉強の正当化?
あんたの「クティティカル発言」を「帰無仮説」として
猫さんの「対立仮説」を支持するってことなら
ずっとやってきたことだよ〜ん
 

ことばじりであそんでも仕方ない。

 投稿者:「あ」とよばれしもの  投稿日:2010年 3月15日(月)06時19分23秒
   別にかまわないけれども、

 猫君が自分で自分の姿が見えてないこと。

 よいネタが出たのに、アホがそれをダメにする。という批判は、

 俺にはネタをふる力がない。俺にはネタがない。といっている
 ようなものだとは気がつかない。

 要は、「批判者」でしかない。だから、ムーミン谷のジャコウネコ
 テツガクだということになる。
 「無駄じゃ、無駄じゃ。」と指摘することは、大抵、正しい。
 無に帰すからこそ、冒険ができるのではないか?
 無に帰すからこそ、間違いにも意味があるのではないか?

 検索元を示してくれてありがとう。手間が省けて大助かりです。はい。
 現代人が内面を抱えているかと問われたら、この頃は首を傾げざるをえません。
 「動物」と揶揄されるけれども、動物には内面なんてありませんから。
 

>ctitical、gairl

 投稿者:半蔵  投稿日:2010年 3月15日(月)06時02分25秒
  ↑は「翻訳しえないもの」だから
既にマヌケの「翻訳後」ってことですな
すんげぇア・プリオリ詰まった脳www
 

「クティティカル」な例

 投稿者:半蔵  投稿日:2010年 3月15日(月)04時21分55秒
  >案外、私はもし世界に貢献できる日本人の基本的基盤は何かっていえば、
>結局、自己犠牲というか自分を勘定にいれない行動に<酔える>ってこと
>しかないと思ってます。
↑北教組も「クティティック」を組合員にしちゃぁいけねぇ
論拠は「基本的基盤」で十分だと思うが・・・
 

でも言い得て妙

 投稿者:半蔵  投稿日:2010年 3月15日(月)04時10分17秒
  マヌケのモノローグは
常に「クティティカル」だったしねwww

仰山での
「エリクチュール」のときから
全然進歩ねーじゃん

久々にウケた
腹痛〜ぇ
ぎゃはははは ぎゃはははは (レオさん風)
 

私も「クティティカル」

 投稿者:半蔵  投稿日:2010年 3月15日(月)03時36分4秒
  には気づかなかった・・・
反省orz

「交通」「交通」連呼やったりして知性どころか
いつもの白痴モードに入ってるジャンwww

”gairl”といいアンタ救いようないマヌケだね

教師ヤメロ
カス
 

あーやっぱり知性が足りないのか…

 投稿者:「あ」とよばれしもの  投稿日:2010年 3月14日(日)23時44分7秒
  ポリス(内)と外(他のポリス:奴隷:女:蛮族…)の交通こそが古代ギリシアの
実態だったんじゃねえのかね。

 だからこそ、貿易と戦争が古代ギリシアのキーワードになる。これはどちらもマルクス
 がいう「交通」に他ならない。

神だとかことばだとかは結局、講和(共倒れを防ぐ)ための方便あるいは形式化だったので
はないか?

  そう考えるとアテナの民主制が外を内に取り込む過程であり、同時に外が無くなり内輪
  にばかり目がいくようになる過程であることがよくわかる。

スパルタの理不尽さは運命を外部にし続ける分、安定的だったのだろう。
(だから哲学は発展しなかった。運命で何でも解決しちゃうんじゃねえ。)
 

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