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後、やっぱり人の話を聞いてない。

 投稿者:「あ」とよばれしもの  投稿日:2010年 3月 6日(土)21時26分11秒
   私はもともと、英語の点数はよくない。

 だから、他の教科はほぼ満点じゃなければいけなかった。
 そして、そのためには国語の力と数学の力は絶対に必要だった。

 おかげさまで、きちんとその通りに実行できました。

 英語は趣味の分野でつきあって、少しだけ使える。
 普通にやりとりするなら、難しい言い回しなんかしなくてもよい。

 失われたプライドで発言なんかしてないよ。

 君が何になりたかったのか私は知らない。
 そして、それに今でもなれるならなった方がよい。
 なれないなら、きちんと諦める。
 当たり前のことじゃね?
 

アホらしい。

 投稿者:「あ」とよばれしもの  投稿日:2010年 3月 6日(土)21時20分31秒
   どんなに自分が属する国が誇らしい歴史をもっていたからといって
 それで自分自身の誇りに置きかえるなんてことは、まさに<奴隷>
 だからすることでしょ。

 ご主人様がどのくらい偉いか。が奴隷として他の奴隷に対しての自己
 の地位になると勘違いする。

 奴隷はどこまでいっても奴隷でしかない。
 サラリーマンはどこで何をしても資本家にはなれないのと一緒。

 どうも忘れられ勝ちなのだが、私の専門分野は美学、美術であって、
 そもそもがそういう関係から排除されたものだ。(だからこそ、
 魅了という力が政治に利用されたり、あるイデオロギーが内面化さ
 れることに利用されたりするのだけれど。)

 柄谷が言ってた、古いテクノロジーが内面化されて<自然>となる
 なんていうのは美学や美術では当然のこと。美術における自然とは
 何かということだけで一ジャンルになっている。

 無理やりに君の考えている形式に当てはめようとしているみたいだけれど、
 それはたぶん君の形式なのだ。

 (というか酒井がいっていた共感の共同体を作り出そうとしているのは君じゃね?)
 

自己批判

 投稿者:半蔵  投稿日:2010年 3月 6日(土)19時05分20秒
  幻論添削はマヌケを呼ぶと
述べたことありましたが
柄谷の話で私が呼んじゃったみたいですね
反対のコト言えば反論した気になる
あのオツムはウチの生徒レベルですよw
 

柄谷の話が

 投稿者:半蔵  投稿日:2010年 3月 6日(土)18時40分35秒
  酒井に化けたようですね
ツンドクやてみましょ
 

まっぺんさん、まことさん

 投稿者:招き猫  投稿日:2010年 3月 6日(土)14時25分42秒
  今言ってることは、朝鮮学校や死刑廃止の議論の根底を確認するためのものです。
コンニャクで誤魔化さず、ぜひ反論してくださいね、まっぺんさん


さて、古典の話のついでとして

和辻が稚拙で支離滅裂な論理と嘘で強弁する 文 化 的 統 一 なるものは、「支配者階級に属す少数者によって作られたものであるが、それらの資料に表現された感情は、国民大衆によって共有されたいた」(酒井)と断ずる。
「武家時代の戦記物の類はただ支配者階級の葛藤を描くのみで大衆の生活にはほとんど注意を払っていないが」(酒井)、「村々の民衆は感激」(和辻)したんだって!

階級和解は、古典の共感によって既に達成されてるかもしれないっすよ。


均質志向は、両刃の剣でもあるんですね。
だから情緒的な領域からもっと無機質で冷たくて形式的な領域に移すことを強調しないとならないんではないですか。朝鮮学校の無償化は、このように共感を前提しないことが大事だと思います。二次会の議論はいつも根本で誤りの危険性を抱えていると思ってなりません。


天皇は不要な機関ですが、国家は必要悪な機関かもしれないんです。同様に、自由の王国では指導者なんて要らないというのはどんなもんでしょうかねえ。その甘さが命取りだと思います。ま、そんな風(パラダイス)になることはないと確信してますけど。
 

業務連絡

 投稿者:招き猫  投稿日:2010年 3月 6日(土)14時03分3秒
  半さん

「日本思想という問題」
図書館へゴー。岩波だから本屋さんでなかなかお目にかかれないかもしれない。注文すれば別ですけど。

大虐殺が3万人か30万人かみたいな議論ばっかしてても意味ないでしょ。
認識や思考を練磨してくれるものが必要です。ウヨ話には、ぜひ常備したい調味料としてご確認ください。
 

トホホ

 投稿者:招き猫  投稿日:2010年 3月 6日(土)13時54分13秒
  「あ」馬鹿のオツムというのはw

「・・・・」はすべて引用

まず、嫁w
 

また、嘘

 投稿者:招き猫  投稿日:2010年 3月 6日(土)13時52分19秒
  そもそも、お前が周辺をうろついて嘘やハッタリで絡んでくるのは、お前の間抜けな自尊心が傷ついたからだろ?それを何度か正直に認めていたはずだけど。やられたからやり返す、とか。何かあるわけではない、ただ反対したいから、とか。

そういう心性と向き合ったほうがいい。

お前が今まで垂れてきた妄言のアンソロジーとか編んだろか?wwww
なぜ、支離滅裂なことを言えるのか。狼狽しつつ他言に走るのか。読みもしないものを他人に読めと言う。読んだことのないものの解釈を平気で言う。読んでいないくせに、他人の読解力を言う。

お前は、当然・自然を強調する。だが、それ自体が痛すぎるんだよ。追い込まれると、必ず難しい話で誤魔化し話題をずらしていく。そういうことを繰り返している人間は哂うしかないだろってw

><中性的>に古典を学べるし、<誇り>とは無関係に歴史を学べる

こんなこと言ってるから、哂われる。
お前は、古典や歴史自体を起源から失われた「誇り」の穴埋めにしようと必死になる。

ネトの発言の起源自体をお前自身が 失われたプライド だと正直に認めた過去を忘れたのか?
模試の成績がどうだっとか、そんなことを平気で自慢するような馬鹿の話を誰が聞く。英語がさっぱりできないにも関わらず、英語は昔から得意だったとか、聞きもしないことを自慢する馬鹿なんてめったにいないんだよw

もう、とっくに終わった人間だという自覚をした方がいい。

お前の批判のすべては、スタートから織り込んでいる。遊びだとしても、もっとどんぴしゃの反論をした方がいい。後追いの話ばっかで勉強にならない。つまらん相手だということ以外に何もない。シッシッ


最後に「中性」という暴力が指摘されるのが今のほとんどの書物なんだけど、相変わらず読まんなあ、お前はw
(さあ、必死こいて酒井直樹を読もうぜwwww)


「和辻の国民的ナルシズムは、国民共同体を越えた社会関係を作る可能性を無視し、その共同体を外部に対して開いておくことを拒絶するため、たとえ彼が帝国主義や人種主義への敵意を明らかにしたとしても、結果的には、国民共同体の内部と外部の間の植民地主義的・人種主義的権力関係を支持することになってしまうのである。」(『日本思想という問題』)


>ズレてるなんて意識したことがないです

狂った人間は、やはりここにこだわる。

ずれてる感覚が要るっていう話なんだけどw

ずれまくっている人間が、それでもずれてないと言い張るときにだけ罪は重ねられる。
 

酒井の論述はイイ!

 投稿者:「あ」とよばれしもの  投稿日:2010年 3月 6日(土)13時36分25秒
  >「このような共感の共同体は、外部者を観察の対象や支配の対象として設定することを通じて想像的に構築されるのであり、観察や支配の対象とされた外部者には、その定義から明らかなように、共感が及ぼされることなどありえないのである。
(中略)
同様に和辻も、国民的共感の共同体の輪郭を、まず共感の限界を明示することによって描いてみせたのである。こうして構築された和辻の文化類型学は、私が「主体的技術」(subjective technology)として述べたもの、つまり同胞の苦しみを自ら共にすることができると想像する能力をそなえた国民的主体を制作(poiein)するための文化的政治的技術の総体の一類型であったといえる。しかし、こうした同胞の苦しみに共感しうるという思い込みは、共同体的共感の限界の外に観察対象を作り出すことによって、かろうじて、もたらすことができるようになったのである

 この論述はイイ!なぜなら、その後の猫君が全くこのテキストを読めてないことを照らし
出しているのもあって、本当に笑える。

 共感の共同体においては外部とは敵か奴隷として立ち現れるわけだ。
 しかも、外部を敵として認識するか、奴隷として認識するかは
 内部で勝手に行われる。

 そして、内部の定義に基づいて、その外部を内部では常に扱うことに
 なる。英国人○○ではなく鬼畜米英として扱われるか、唐人として扱われるか。

 和辻が風土を国民性(民族性)の起源に設定したとき、そもそもその風土というものが
 逆に国民性の立場から記されてきたテキスト※(書かれてきた文章の総体)の引用であ
 り、一つの政治的な装置であることは明らかである。

 同じ苦しみを背負った我々というものは常にその苦しみを背負わせたあいつ等を前提と
 しているのではないか?

ってことなんだけど、ここから猫君の想像界への大ジャンプは本当に笑える。

>「「我々」とは異なる人々の声を排除することによって得られる快適さや安心感」

 酒井はそんなこと言ってない。むしろ、異なる人々がいなければ、そして、その
 異なる人々を敵か奴隷に配置することによってしか同じ苦しみを共にする、歴史
 や文化を継承している存在といsての我々はありえない。と言っているのであって
 そもそも安心感とは無関係。むしろ、常に外部を意識するために不安と危機感を根
 底にもたざるをえないことになる。

>「透明な相互承認と博愛の融合としての同質的な全体性の達成にあこがれる「均質志向社  会的な」幻想」

 そもそも、そんなものしたいやつがやれ、いろんな社会があってどこにでもどう属しても
 よいのだ。というのが自由主義者でしょうに。全体性なんて別に必要ない。
 もしも、それを要請するなら、真実などないなんて言わないでしょうに。

 それにこれはまったく酒井の論述とは無関係ではないか?

酒井の文章は難解でも悪文でもない。実にすっきりしている。
これがわからないのはもともと読むということができないにすぎない。あーアホか。
 

すごいねえ。どうも。

 投稿者:「あ」とよばれしもの  投稿日:2010年 3月 6日(土)13時16分28秒
   北海道を私は愛してますよ。
 そもそも、日本的でないことを意識するのは日本的なことの中で暮らすからで、
 目の見えない人が目の見えないことを意識するのは目の見える人のことばから
 なように、そもそも北海道が日本からズレてるなんて意識したことがないです。

 だから、<中性的>に古典を学べるし、<誇り>とは無関係に歴史を学べるわけ
 です。

 辺境のさらに辺境ですからね。

 日本にいると西洋中心の歴史のあり方がまさに儘に鮮やかに分かるでしょう。
 それは世界の辺境だからですね。

 むしろ、私は、東京で暮らすよりもニューヨークで暮らす方にたぶん違和感がありません
よ。

 猫君は本当に社会科音痴なんだ。

 あのさ。現在の国民として今の政治に対する主権を行使するための思考というのは義務
 じゃないかねえ。ありもしないこと、ありえないことへ逃げるならサイエンスフィクショ
ンを書いた方がよい。回りまわって、それが現実になることはいくらでもある。

 そういう道を行かないと決めたら、そういうことは言わない。そういう覚悟だけはしてる
けど。

 愛国心を日本をよりよくしようとする気持ちと定義する怖ろしさがわからないでしょ。
 

貧しいと心まで貧しくなる

 投稿者:招き猫  投稿日:2010年 3月 6日(土)11時59分38秒
  半さん

「あ」馬鹿の問題というのはなかなか面白いんですよ。
もうずっと言い続けているように、彼は北海道を実は憎んでいるんです。北海道という出自にアンビバレンツな思いを抱き続ける。無常とか歴史・伝統、そして古典などを持ち出しながら、それらから本質的に疎外されているという自覚があるからダッチしてしまう。

共感の限界の 内 になんとか自ら=北海道を入れたいという欲望は分かる。
だが、そのためには風土も気候も歴史も持ち出してはならない。もっと無機質で現代的な条件、たとえば国籍や納税などに還元しないとならない。そのようなメカニックな限界設定によってのみ 内 に入ることができる。薄々感じてはいるんだが、なかなかそれを認めないのは既に危機を感じているからだ。だが、在日右翼などに見出される心理機制と同じものが駆動しているがために、惨めな醜態を繰り返すことになってしまう。

排他的に共感の限界を引くことに必死になる。理由も根拠も論理も何もない。とにかく、自分が内になるように線引きしたいだけなのだ。しかし、その屁理屈のすべては線引きによって自らが外部者になってしまう危険性を持っているので次々と繰り出さないとならない。その狼狽振りが滑稽なのである。

日本という全体性につながる道産子の土着がコロボックルだってw

そんな妄言ばっかしか言わない。最初から無理があるから無駄なのにね。

オイラの近くには田舎には珍しい国宝がある。(姫路城ではない) そこでは昔、喜太郎とかがイベントでコンサートとかしてたなあ。
秀吉の一行が通った時に、秀吉が腰を下ろした岩とかどこかにあったなあ。



仲間に入れて下さい、そう低姿勢にならんといけないんだよ、低脳くん
お前が線引きしてどうすんのw ま、どんな線引きでもかまわんけど。
ど真ん中にいるとそんなことどうでもいいことだから。


歴史や文化や伝統
そういうのが貧しいと心まで貧しくなるのかねえ。いやしいのは惨めだよ。
 

コバンザメか

 投稿者:招き猫  投稿日:2010年 3月 6日(土)11時23分57秒
  半さん

「あ」馬鹿が紹介してくれたね。分かりやすいのは、ほとんど検索ばっかだからこんな風に引用できないことがほとんどで基本的に読まない・考えない人間だということだ。

さて、感性は一方でイデオロギーでもある。これは柄谷から引用できるw
また、中村雄二郎は、イメージを中心概念に想像力を論じている。(「あ」馬鹿の引用を待とう!!w)

感性、想像力、イメージ・・・
少しずつずらしながら、それでもって何かを言ってるつもりになることは比較的簡単なことだ。理性批判の系譜は現代における血の営み自体だと言ってもいいかもしれない。フーコーでもデリダでも、理性批判だけをしていたとも思える。デリダは理性を批判するだけでは単にひっくり返しただけで、やはりそれでは理性の強化でしかないと 差 延 とか 脱 構 築 とかいろいろ発明をしてくれた。だが、彼こそが理性の優位性を証明したとオイラは考えてる。

正義とは暴力であるという結論。
友愛しかないという陳腐な定言命法

さて、馬鹿の期末試験もかねてちょっとマイナーなものを出しておく。
ガダマーは数学を範とする西洋的理性には歴史性が欠如していると批判する。我々は歴史性を先入観でもって生きていると断じる。ガダマーがえらいのはそれで終わらないことだ。歴史性や共同性みたいなものを所与された絶対的なものとして提出することを、あのたもたもちゃんでさえもやってのけたことがある。
ガダマーは、テクスト(世界)と対話するということはその先入観をよりどころに始まり、なおかつその先入観を克服するという 解 釈 をいとなむ存在だと人間を定義する。

「あ」馬鹿の問題は無知蒙昧、無教養、基本的学力の低さだと最初から言い続けた。その意味が半さんにはお分かりだろうか。彼は、今まで知ることによるダッチを繰り返してきたにすぎない。普通の人間なら自分の中で熟成醸成させてから出してくるが、知能に欠陥があるために反射的に垂れ流してしまう。垂れ流しつつダッチし、また回帰する。好意的に解釈するなら、始まりつつあると思える。だが、まだまだ不十分なんだから判定は常に「E」としなくてはならない。悲しいのは、あの馬鹿はオイラのコバンザメでしか学ばないということだ。あいつは最初、柄谷なんてまるで知らんかったしねえwwww

さて、最後に酒井直樹を出しておく。彼は、和辻を精密に批判しながら 共 感 の犯罪性を徹底して暴く。

『日本思想という問題』(酒井直樹、岩波書店)から

「このような共感の共同体は、外部者を観察の対象や支配の対象として設定することを通じて想像的に構築されるのであり、観察や支配の対象とされた外部者には、その定義から明らかなように、共感が及ぼされることなどありえないのである。
(中略)
同様に和辻も、国民的共感の共同体の輪郭を、まず共感の限界を明示することによって描いてみせたのである。こうして構築された和辻の文化類型学は、私が「主体的技術」(subjective technology)として述べたもの、つまり同胞の苦しみを自ら共にすることができると想像する能力をそなえた国民的主体を制作(poiein)するための文化的政治的技術の総体の一類型であったといえる。しかし、こうした同胞の苦しみに共感しうるという思い込みは、共同体的共感の限界の外に観察対象を作り出すことによって、かろうじて、もたらすことができるようになったのである。」

「あ」馬鹿がここで披露している馬鹿ウヨ珍説というのは

「「我々」とは異なる人々の声を排除することによって得られる快適さや安心感」

というイデオロギーの流布によって

「透明な相互承認と博愛の融合としての同質的な全体性の達成にあこがれる「均質志向社会的な」幻想」

を反復しているにすぎない。しかし、この馬鹿ウヨが言っていることはただ一つしかなく、その唯一の主張というのは

「排他的ユニークさ」 ということだけである。



ボケ防止を目的の一つにするなら、ぜひ酒井直樹をオススメします。
石原千秋が何度も指摘するように、難解=悪文ですからw
 

ヤマさん、レーニンは

 投稿者:ケンジ  投稿日:2010年 3月 6日(土)11時18分40秒
  後進国だったロシア社会の視点が強すぎて、西欧先進社会への理解が乏しかったの
でしょう。 民主主義社会の可能性への理解が乏しかったのでしょう。

 帝国主義論が出たのは1917年です。まさに第一次大戦のさなかでした。
ロシアでは10月革命へと進んでいきます。

 彼の目から見れば、世界はまさに帝国主義論の世界だったのでしょう。
だけど、当時のドイツの革命家ローザルクセンブルグはレーニンらのロシア革命を厳しく
批判しています。
 そして、その13,4年前には例えば、スエーデンは属領だった、ノルウエー住民の蜂起
に対して、むしろ、独立支援策に転じていき、無血でノルウエーは独立していきます。

 だけど、レーニンの目にはこの隣国の事件は取るに足らない例外的事例にしか移らなか
ったのでしょう。

 しかし、その後北欧社会はスエーデン社民党主導のもとに、福祉社会へと転換して
いきます。 今では世界最高レベルの富裕かつ福祉社会です。
 実は、高度福祉社会と言うのは社会主義政策を大胆に取り入れた資本主義社会なのです。

 このように帝国主義段階の資本主義社会と言っても帝国主義路線一辺倒の硬直した体制
ではなく、はるかにフレキシブルな社会だった、ということで、その原動力は民主主義社
会の人民の民主的自覚にあるのだと思います。
 レーニンにはこれが見えていなかった。

 その後のロシア社会の歴史はご存知のとおりです。

 一方、ノルウエーが平和的に独立していった頃、日本は朝鮮を属領化していきます。
国内では、自由民権運動家は徹底的に弾圧していきます。
 朝鮮でも朝鮮人民の独立への運動だった万歳事件を綴釘弾圧しました。

 日本の為政者たちも帝国主義一辺倒の硬直化した視点しか持ち得なかったわけです。

 実は反帝国主義の立場に立つレーニンと帝国主義段階の資本主義社会のあり方としては
帝国主義路線一辺倒でそれ以外はありえない、と言う硬直化した理解の点でよく似ていま
す。 だから両者とも反対派は徹底的に弾圧していきます。

 その結果生じた社会は日本はまさに絵に描いたような大日本「帝国」社会であり、侵略
戦争が常態化し、滅亡していきました。
ロシアは帝国主義国ではないものの、スターリン個人独裁国家に帰結していったわけです。

 では、スエーデン型の社会はどうでしょうか?
日本はもちろん、他のどの先進国よりも、富裕な高度福祉国家となっていきました。

 さて、現在の日本はどうでしょうか? 果たして民主主義社会でしょうか?
公務員が日曜日にビラ配りをしたら、警察に逮捕されました。
 他の先進国では警察だって労組を作り、労働運動をしてビラ配りや集会をもつのは当然の
権利・人権とされているのにです。

 相変わらずの弾圧体質が深く根付いていると言えるでしょう。
警察権力は戦前の体制を引き継ぎながら一部手直ししていった、というのが実態なのです。
 こういう社会では福祉体制も貧弱そのものです。
要は民主主義が実に貧弱なのですよ。 福祉制度=経済的民主主義ですからね。

ですから、正月の派遣村などという恥ずかしい状況が生まれてくるのです。
 それでは社会の発展は望めません。
実際に、この15年間日本のGDPは500兆円のまま増えていないどころか、去年は
480〜490兆円程度でむしろ15年前より減っているのですよ。

 こういう先進国は日本だけで、OECD諸国の中でも際立っています。
(たった1国、日本だけです)

 まあ、帝国主義論から何を学ぶか?ここの掲示板に集う左翼の方々と、私とはずいぶん
違っているのでしょうけどね。
 

猫君が

 投稿者:「あ」とよばれしもの  投稿日:2010年 3月 6日(土)09時31分5秒
  感性と理性の統合うんぬんとしての…に対して、現実を諦めることで想像力としてそれを
成し遂げることしか構想力なんて規定しえないのじゃないか?

このごろ言わなくなったので、結局、わからなかったのだなと思う。

わからなくてよかった。結構、猫君は現実的な幸せを求めているんだと思う。
ところが現実においてはそれが断念されがちだからあんな文章を書くのじゃ
ないだろうか?でも現実的な幸せ自体を断念してはいない。

 中途半端に生きるのが普通なんだから、それでいいのだ。
 それで何も困らない。
 そう生きるしかないこと。

そういう錆ついた思いで初めて人と人はつながるもんじゃないかねえ。
 

読めるかはともかくとして

 投稿者:「あ」とよばれしもの  投稿日:2010年 3月 6日(土)09時24分0秒
  http://www.kojinkaratani.com/criticalspace/old/special/karatani/gunzo9704.html
http://www.kojinkaratani.com/criticalspace/old/special/karatani/origin_de.html
http://www.kojinkaratani.com/criticalspace/old/special/karatani/origin_en.html

正確には
>>
柄谷行人は,テクノロジー(ここではデジタルに相当)が感性(アナログに相当)を破壊するかのように憂える,この種のノスタルジーに関して次のように述べている。「われわれが『自然的』とよぶものは,きまってひと昔前のテクノロジーである。その意味でわれわれが『人間的』とよぶものもひと昔前のテクノロジーにすぎない」「私はテクノロジーが“感性”を破壊するなどとは考えない。“感性”とは,いわば未発達の(または遅れてしまった)テクノロジーのことだ。その証拠にひとびとが”感性”というとき,たとえば蓄音機や初期の映画やラジオについて語っている。……
それはかつて最先端のテクノロジーではなかったか。江戸時代の版画はもちろん,奈良時代の和紙もそうではなかったか。」(『差異としての場所』講談社学術文庫,313−314 頁,301−302 頁,1996年。

 のような語りです。はい。
 

ヤマさんへ

 投稿者:「あ」とよばれしもの  投稿日:2010年 3月 6日(土)09時01分24秒
  帝国主義が高度な…

っていうのはグローバリズムな資本主義が社会の本体になって国家が企業に金で飼われる。
(これは当て字で誤記ではありません。)ような資本の運動こそが全てを決める社会に
なることです。


 資本→社会→もっと大きな資本→社会…を繰り返すのが資本主義なら、資本の受け皿で
ある社会も拡大しなければならなくなります。(帝国主義)

 それが完了すると、、、資本の受け皿はほかならぬ個々人(消費者)ということになり
企業が人を飼う社会が登場することになります。金さえ出せばなんでもできる。金を得る
ことが能力であり、金を払うことが道徳である。

 そういう<社会主義>ですね。

ところが、古い<共同体道徳>で弱者を救済しろだとか、伝統を守れとか地場産業(商店
街)を保護しろだとか旧を守る(保守)が行われるために、ずっと拷問的な過渡期が続く
わけです。

 …ああ、そうそう、じゃあどんどん進めちゃえばいいじゃん。って?地獄のような社会
が到達するだけのことです。でも、じゃあ地獄じゃなかった社会なんてあったのでしょう
か?地獄だって住めば都なのかも知れません。

 ともかく、人間は基本的に自分は不幸、恵まれないと考える(比較する)生きものなの

「こんなはずじゃない。」
「誰か、何かが悪いのだ。」という意見は永久になくならないでしょう。

(お釈迦様はそれを止めることが救済の道だっていったんですけどね。救いは無い。と
知れ。そもそも苦しかないんだから。というのが説法の肝です。)
 

猫さん

 投稿者:半蔵  投稿日:2010年 3月 6日(土)08時50分35秒
  失念したんで、もう一つ確認
>そもそも感性っていうのはテクノロジーの産物
↑柄谷はこれを前提として論を進めましたか?(十分条件扱い)
それとも結論として締めくくりましたか?(必要条件扱い)

将来万が一その論に触れるときに
このネタバレあればとっつきやすくなるかと
思いましてね^^;
 

一考察

 投稿者:ヤマさん  投稿日:2010年 3月 6日(土)08時19分51秒
  身体的自己

言語的自己

・意識

・無意識の膨大な記憶(知識?)

“身体的自己”とは生命維持装置(本能・・・アプリオリに備えられているもの・・・?)

・先験的?

・先天的?

言語的自己

・環境

・後天的?

理性は意識される

同様に

感性と呼ばれるものも意識される(意識されるとは、言語化されると同値?)

感性も言語的自己?

意識(理性)によって本能(感情?)をコントロールする。

“自由”とは本能の解放?

本能は理性によって社会性を帯び“統制”される。

“自由”の“統制”から
“統制”の“自由”へ。

我々は本能を理性で制御(統制)してきたが、今や、本能を理性で解放(自由)する段階に来ているのではなかろうか?

どうだろう。

もとい・・・

我々は本能を理性で制御(統制)してきたが、今や、理性を本能で解放(自由)してもいい段階に来ているのではなかろうか?
 

目を凝らしてみると・・・

 投稿者:半蔵  投稿日:2010年 3月 6日(土)07時41分19秒
  この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである
↑日本の自由獲得の努力の成果ではなく
アメリカからの「信託」かぁ・・・
それでも今更ポチやめられません

新基地はドコだろ?
地元に来てくんないかな・・・
 

結構合いそう

 投稿者:半蔵  投稿日:2010年 3月 6日(土)07時08分46秒
  http://6305.teacup.com/mappen/bbs?M=JU&JUR=http%3A%2F%2Fredmole.jp%2F
↑ココの楽譜をクリックしてその節で

♪妻は病の床に伏し 頑是なき子は飢えになく
親子夫婦の愛別離苦、涙を包む袖袂、ただ一枚の紙切れも、
我が大君のすべ給う、戦士の庭に召さるると、
思えば嬉し召集令、ここは芸州矢の村の、
みるもいぶせき賎(シズ)が家、門出に帰る松岡幸三氏♪
♪お父っあん、何をそんなに泣くんだい、
お母っさんが心配するから、泣かずに早く帰ろうよ♪
♪生きて凱旋あそばすな、
残る私と二人の子供足手まといにならぬよう私はお先にまいりまする、
子供はあなたの手にかけて♪
↑これらを口ずさめば反戦歌らしくなりそうですね
 

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