世界遺産登録推進フォーラム「知る・語る縄文文化」の記録
◆基調講演「縄文人追跡」
講師 小林達雄こばやし たつお先生(國學院大學名誉教授)
平成21年10月31日、北海道教育委員会では「北海道・北東北を中心とした縄文遺跡群」の保存と研究に長年取り組んできた講師を招き、日本列島に固有の「縄文文化」を代表するこの遺跡群の価値を参加者とともに考えるフォーラム「知る・語る縄文文化」を開催しました。このページでは当日の録音をもとに、小林達雄先生による基調講演「縄文人追跡」の内容を掲載いたします。なお、掲載に際して内容把握の助けとなる「見出し」を先生に挿入していただきました。
【講師の紹介】
1937(昭和12)年、新潟県に生まれる。國學院大學大学院博士課程修了。博士(歴史学)。東京都教育庁、文化庁記念物課を経て、昭和53年國學院大學文学部助教授、昭和60年同教授、平成20年同名誉教授。
専門は日本の先史考古学。特に縄文文化については現在日本を代表する研究者の一人であり、これに先行する旧石器文化にも造詣が深い。また標津町「標津竪穴群」の史跡指定に際しては文化庁の文化財調査官として尽力、現在も洞爺湖町の「入江・高砂貝塚」ほか複数の道内史跡の整備指導委員会で委員長を務めるなど、北海道の文化財保護に大きく寄与している。
◆
皆さんこんにちは。ただいまご紹介にあずかりました小林でございます。これからしばしの間、「知る・語る縄文」ということで皆さんと一緒に、実はこれに加えて、そして考える縄文ということで時間をともに過したいというふうに思います。

基調講演の模様(佐藤雅彦氏撮影)
◆「縄文革命」とは
日本列島を活動の舞台とした、人間の歴史をずうっとさかのぼっていきますと今日これからお話しする縄文文化を突き抜けて、そしてその先に旧石器時代の文化というものがございます。北海道からずっと九州まで、満遍なくその活動の痕跡が遺跡として残されております。その文化というのは世界的に見ましても人類の歴史の第一段階と言うことが出来るかと思います。ですから日本列島にも人類の歴史の第一段階の文化としての旧石器文化があった、そしてその文化は今のところ、少なくとも3万5千年前ぐらいまで確実に遡ることができます。その前に先遣隊が来ていた可能性があり、もうちょっと古くなる可能性は大いにあります。今そういう研究が進められておるところです。
ところで、その第一段階の旧石器文化から次の第二段階に飛躍するという大事件が今から1万5千年前ぐらいに起こります。それを私は縄文革命と呼んでおります。縄文革命というのは、その第一段階から第二段階へと進むわけです。この第二段階の文化というのは、ヨーロッパ、あるいは中国大陸のほうでは、要するに大陸側ではこれを新石器文化と呼んでおります。縄文文化を境にして日本列島でも第二段階に突入するんです。しかし、大陸側の新石器と比べると大きな違いがあります。大陸側は農耕を基盤にして第二段階に入ってくるんです。それに対して第二段階に突入する縄文というのは農耕を持たないんです。全く持たない。農耕はないんです。というようなことから、これまで縄文文化というのはじゃあ世界の歴史の中にどう位置づけたらいいのかということについて研究者は、我々の大先輩からずうっと思いを廻らしてきました。
結果的にはどういうことに落ち着いたかというと、新石器文化と時代も重なるんだけれども農耕を持たないという意味では縄文は、これは新石器文化の仲間として一人前じゃない。半人前である。あるいは劣等生である。そういうような見方がずうっと続いてたんです。あるいはもうちょっと言葉を操って、大陸側の新石器と同じ時代に大陸の一番東の端の、つまり極東のごく一部の、日本列島というところに花を咲かせた特殊な文化である。新石器とは一味違った特殊な文化である、こういう見方も、つい最近でもそういう発言も見られます。とにかく新石器と似て非なるものであるというような、それが大方の見方です。けれども私はそうではないと考えます。
つまり歴史的に一番重要なのは第一段階から第二段階に入ったというこの事実なんです。この事実の本当の意味はどういうものかというと、第一段階というのは人が人間だからといってでかい面していたわけではないんですね。つまり人間といえども、自然的秩序の中の一構成要素として組み込まれていた。そういうのがその第一段階なんです。つまり猿や鹿や猪と、空飛ぶ鳥と、そういう意味では同格なんです。そう単純に威張っちゃいられないんです。そしてその生活様式は遊動的な生活。食べ物を求めて動き回ってるんです。ところがこの縄文革命のあと、大陸側では新石器革命と呼んでおりますが、この第二段階に入ったとき、遊動的な生活から定住的な生活に入るんです。これが重要なんです。人間の歴史にとって、何が大事かといったら、こういう自然的秩序の一つの要素としての人が遊動的な生活から定住的な村を営むようになったというこれが、一番大きな人間の歴史にとっての意味というものです。大事な意味です。

住居跡に囲まれた貯蔵穴群(縄文早期) 函館市中野B遺跡
そういう観点、見方からすると大陸側の新石器も、わが縄文も遜色ない。全く同格、同等であります。成績の悪い新石器だ、というふうに言う必要一つもないんです。農耕をあまりにも強調しすぎている。農耕は単に第二段階に突入するときの踏み台だったんです。踏み台として大陸側は農耕を用いた。縄文は、農耕という踏み台ではなくて別の踏み台です。狩猟漁撈採集というこの三本柱、狩をしたり魚を獲ったり山菜を食べたりするという三本柱で、実は堂々と第二段階の定住的な生活へと入ることが出来たんです。向こうが日干し煉瓦で踏み台を作ってそしてその上に立って第二段階に手を届かせたかもしれない。それはそのとおりである。縄文のほうは、土饅頭、土を盛り上げてそしてその上に立って第二段階に手を届かせたというこの違いで、踏み台が違うだけなんです。それを今までは人間の歴史としてみないで、どういうことが行われていたかというような、何を食べていたかとかそういうことだけを基準にして、高く評価されるべきであって、あるいは歴史の優等生であるというような見方がずうっとこれまであったわけです。しかしこっちが優等生で縄文が劣等生である、成績が悪い新石器であるというようなことはないということを、まず第一に皆さんにメッセージとしてお伝えしたいと、いうふうに思っております。
◆縄文文化の地域性
さて、縄文文化は日本列島一円に北の北海道からずうっと南の九州、そしてさらに海をずうっと伝わっていきまして沖縄本島、あそこまで点々と縄文が延びております。だからちょうど日本列島というのはまさに縄文列島と呼んでもいい。北方四島なんていうのは申し訳ないんですけどあれ縄文なんですよ。だから日本列島からはずされてるのがおかしいんです。それはまあ冗談ですけども、冗談じゃなくて事実なんです。ずっと縄文の世界が日本列島全域を覆ってたんですけれども決して一枚岩ではないんです。それぞれの地方ごとにちゃんと個性と、そしてそれなりの主張を持った文化がありました。それは今思いますと、多分、それぞれのそういう地方的な文化というのは方言をそれぞれ持っていただろう。隣同士でもなかなか通訳がいないと通じないようなそういう方言の境目がありました。
例えば太平洋を隔ててちょうど対岸に、皆さん御存じのトーテムポールを建てた人々がいるんですけれども、あの人たちも一枚岩じゃないんです。いくつものそういう方言区に分かれてるんです。そして彼ら同志も話は通じないぐらいに違うんですね、言葉が。通訳が活躍するほどに違う言葉なんですけれども大きな目で見ると、それは一まとまりなんです。縄文列島もそういうことです。それぞれのところに方言区がモザイク状にありまして場所によっては通じないぐらい。私は新潟県の生まれです。学生の頃考古学の遺跡や遺物を求めて旅行したときに、すぐ隣の山形県に入ったんです。そしたらとたんにそこのおばさんたちのお話ししてる内容が聞き取れませんでした。まったく、すぐ隣なんですよ。それでも聞き取れない。当時はそれぐらいのやっぱり、もっと境界ごとに違いがあったかもしれません。それはどういうところに現れているかというと、我々が土器様式と呼んでいる、縄文土器様式の地方ごとの差異であります。
縄文土器は1万年以上続くんです。ものすごい長い歴史を持っておりますが、ある様式はある地域で生まれてそして暫く続いてそれから消えて行きます。代わりに新しい様式が出てきて、その地盤を受け継いでまた暫く続いてはまた消えていくというそういう交代を繰返しながら、各地で独自の様式というものを発達させるんです。そういう分布圏がちょうどモザイク状に日本列島にずうっとあるんです。そして村というものに定住しているもんですから一々しょっちゅう動き回るわけじゃないんです。そうすると益々自分たちの生活舞台というものを自分たちなりの世界に整備していきます。そうやってある地域とある地域は、相互に区別されるような文化圏が出来上がってくるわけです。
実はこの北海道では、石狩低地帯のあたりからずうっと南北海道にかけてと、それから津軽海峡を挟んで対岸の津軽下北を一つの文化圏とする、今申しました多分言葉も同じだったと思います。同じような個性的な土器様式を発達させてるんですね。ある一時期だけじゃないんです。あるときはちょっとその境界が見えにくくなるんですが、霞んでしまうときもあるんですけれども、暫くたつとまたすごい個性的な土器様式を発達させたりします。これは恐らく嫁さんが行ったり婿さんを迎えたりというようなそういう婚姻圏、あるいは、だからこそ言葉が通じる。言葉が通じないところから花嫁さん来てもらっても、花嫁自体なかなか苦しい立場になります。だから言葉が通じてたんです。土器様式が同じだったんです。しかもほかの地域にはないような、この南北海道と北東北、ここだけが強烈に発信するような、ものすごく個性的な土器様式というものを発達させます。
土器様式を発達させただけではないんです。色々な道具の中でもこの地域特有の道具があります。特に私は第一の道具と第二の道具というふうに区別して道具というものを見てるんですが、呪術だとか儀礼だとかそういうものにかかわる、精神文化的なものにかかわる道具を第二の道具と呼びます。皆さんよく御存じの土偶だとか石棒だとか、今回のこの「知る語る縄文文化」の表紙になっている、子供の足形だとか、手形もあるんです。そういうものが目立ってあったりする。それから鐸形土製品だとかあるいは石刀だとか、石の剣とか。そういういくつか拾い上げていくとここにはここ特有の文化的なものがあるんです。そうやってこの文化圏というのは、私はこれを仮に、津軽海峡文化圏、津軽海峡縄文文化圏と呼んでもいいんじゃないか。こういう津軽海峡文化圏というのがあった。この個性的な文化圏から縄文を代表して、世界遺産に向かって発信しようじゃないかというのがこの世界遺産登録推進フォーラムという、ここにつながってくるわけです。
◆津軽海峡を越えた交流
土器というのは、まあ話をしたらきりがないし実は話をしたくてしょうがないぐらいなんですけれども、(会場笑い)今日はそれを話してると時間がありません。そうじゃないところからまたお話ししていきますと、さっきは第二の道具という精神文化にかかわるような特別なものを共有して、ほかの地域にはないようなものをもって団結し、連合していた、津軽海峡を挟んでですよ。津軽海峡といったら今でも海難事故が毎年あるでしょう。しかし、縄文文化の時代はないんです。一件たりとも聞いたことはない。なかったんですよ。今ある海難事故というのは、技術的な問題ではなくて社会的経済的な問題の中から出てきた、出てくるのが今の海難事故なんです。当時にはそういう社会的、経済的、技術的問題はないんです。
技術的問題から言ったら今の船のほうが、縄文時代の丸木舟の何百倍もの性能を持ってる。それなのに事故、遭難するというのは全く理由は技術的なものではない、船の性能ではないんですね。なぜかといったら時化が今来るよと言ってるのに、俺は海の男だとか言ってね、出かけていくちょっと人のいい、愛すべき男がいるんですよどこにでも。そしてそのとき水揚げしたやつは高く売れる。あるいは過信するんですね。天気予報士っていうのがテレビでやっているでしょう。東京では石原慎太郎の息子がやってます。あれ信用できない。(会場笑い)それを信用するから遭難するんですよ。今日私はいい勉強しましたよ。朝起きたの、一人で。ホテルで。寂しく。で起きて見たらね、天気予報の見方っていうのをやってましたよ。いわく、長期的な予報とともにすぐ目先の天気を注意しなさい。あたりまえのことなんですけれどもそういうことなんです。注意したらまあまあ当たる確率が多いんですね。しかもわざわざ天気予報士なんていう肩書きをもった人の話なんか聞いたって嘘っぱちが混ざっているんです。要するにそんな簡単には何もかも分かるわけがない。
ところが縄文時代は全部分かったんですよ。僕は津軽海峡お天気ことわざ辞典というのを持ってますよ、古本屋で見つけてね、もう狂喜して買いました。一冊の本の中に、いつごろ何時ごろどっちから風が吹いて来たらこれは間もなく、今曇ってても晴れる。それから今凪いでるけれどもあっちにこういう雲が出たらそれは夕方には時化になる。全部書いてあるんですよ。このお天気ことわざ辞典、厚ぼったいもんじゃない、薄い本なんです。この薄い本の中に、もうびっしりと風の方向から、それから空気の湿り気具合、なんか湿っぽいとか、そういうものが来たらどうしろこうしろって全部書いてあるんですから。これは文字が出てきてこういうものを書き留めているんですけど、縄文時代以来の経験の蓄積であって、全部頭の中に入って伝承されてきてるんだと思います。だからなぜ津軽海峡というものを挟んでいつも同じ文化圏なんですか。むしろこっちの南東北の人たちと一緒にならないんですよ、北東北の人は。南北海道の人は石狩低地帯からずうっと道東の方と手を結ばないんですよ。逆にここ津軽海峡を挟んで結んでるんです。

翡翠製の玉類 千歳市美々(びび)4遺跡
しかも、翡翠というのがありますね。翡翠は、新潟県の富山県寄りの糸魚川というところから出る、一箇所しかないんです、翡翠の原産地は。だけど、新潟県内でもちょっと離れるともう翡翠持たせてもらえない。原産地を支配している連中が全部占有してるんです。そのくせ、この津軽海峡文化圏の、この人たちはこの原産地を除いたら一番、ここに翡翠が溜まってるんです。縄文時代の津軽海峡文化圏というのは、翡翠を集中的にここに持ってきている。ものすごい数をここに集中させてる。それはまあ、どう説明したらいいかこれからいよいよさらに考える必要がある、重要な事実を我々に物語っているんです。そのぐらいの、実は津軽海峡文化圏というのは文化力を持っていたんです。
◆記念物造営の意味
この文化力はさらに面白いことをやる。先ほど司会の長沼さんのほうから話が出ました森町の鷲ノ木遺跡、ストーンサークル。北海道にはそのほか小樽とかあの周辺にも、ストーンサークルが一杯ある。勿論ちょっとこっち道東のほうにもいくつかある。例によって津軽海峡を挟んだ対岸の、北東北にも有名な大湯の環状列石だとか小牧野環状列石、そのほか色々あるんです。そういうストーンサークルを記念物、モニュメントと呼んでます。このモニュメントは、非常に目立つ。小さいものじゃないんです。大きくて誰もがすぐ見れるやつ。目立つ。この記念物の特徴は、目立つ、つまり規模が大きい。だからこれを作るには、人手を沢山動員しなくちゃいけない。それで一年や二年じゃ作れないんですよ。百年単位で作ってる。要するに長期にわたって作り続けるんです。目だって大規模だっていうことは、一方では延べ人数のこの関係者っていうのはものすごい数に上ります。
そして何ヶ月なんてもんじゃないです、毎年毎年、来る年も来る年もある時期が来ると、その時期は多分夏なんです。これはだいたいもう間違いないところまで突き止めてるんです。まだ皆さんにはお教えできません、て言うんじゃなくて時間がないから。大体夏なんです、毎年やります。ちょうど、お祭りのシーズンが、皆さん決まってるじゃないですか。そのときが来るとあたり近在の連中がみんな集まってきて、この記念物、モニュメント作りをやるんです。そしてそのときにいろいろなイベントがあるんです。そしてそのとき出会ったカップルが生まれたり、いろんな意味がこの記念物の場所に集まってくるんです。その記念物は先ほどの長沼さんの話にありましたように、こんなに目だって大きいやつを作るったら大変なもんです。ところがこれを作っても何の役にも立たない。目に見えた、社会的経済的な役には全く立たない代物なんです。じゃ何か。多分アタマの、心の役に立ってるんです。心の足しになってるんですね。腹の足しにならないものにそんなに精力を投入し、そして膨大な人数が、何年にもわたってここに関係するというのはそれだけそれによって心の足しになるほどのものだった。
人はみな物心つくと、少なくともこの記念物を最初に作り始めた人以外の年代の人たち、世代の人たちは、例の祭りのシーズンがやってきた、記念物造営のときがやって来た、それをみんなが力を合わせて作ってる光景を、目の当たりにする、見てるんですね。やがて自分が大人になってそれに携わる、直接携わるような年齢になります。やがて何年かそうやって仲間と一緒に汗を流しているうちに年をとっていきます。そして引退していきます。引退して今度は和やかな目つきで若い者が働いてるのをずうっと見てるわけですね。そして俺はもう現役引退したけれどもこれは俺が死んでからも続くぞということを確信して死んでいくんです。だからこのとき、今、現在、工事が行われてるというこれを見て、そしてこれに参加することによって仲間意識をかきたて、そして結びつきを強めていくんです。そして、今おこなってる工事、これは昔から続いてきたものを我々は今引き継いでいる、つまり過去というものを持ってるわけです。やがて、自分が引退してそして死んでいくとき、しかしこれはまだ続くぞという未来への見通しを十分に確信しながらあの世に旅だっていくんです。
こうして、現在かかわっている、直接かかわりながら、仲間としての意識というものを持ちながら、そしてそれには過去がある、という過去にご先祖様、そして未来に子孫、これは非常に重要なんです。心の問題に関係してくるんです。時間的な意味合いと、それと祖先であり子孫であり今、仲間している、こういう関係。こういうものが時間というものの認識と重なって縄文人の頭の中にきちんと整理されそして意識される。こうやって意識されたこの祖先、仲間、今仲間している、子孫、いわゆる一族郎党意識につながっていくんです。ただ近く、近場に住んでるから、という仲間じゃないんですよ。過去というものを持っていてそれからさらに未来の子孫にもつながっていくという中での一族郎党的な意識みたいなものもここで生まれてきたとみていいだろうと、いうふうに思うのです。
◆人間主義の縄文学へ
私たちの今までの考古学というのはいつも遺物、土器や石器や土偶や石棒やあるいは遺跡や、遺跡の、ここにある遺跡、時代はいつ、それからこの竪穴住居はどういう形をしていて深さはどれぐらいでとか、そんなことを一生懸命細かく見てきたんです私たちは。それによって分からないものもいっぱい分かってきました。時代によってこういうふうに変化する、地域によってこういう違いがあるなんていうのも分かってきました。けれども一番欠けてるのが、そこにどういう人間がどういう関係の仕方をしてるのか、縄文人がどういう意識を持ってたのか、そういうものが全く見えて来ない。そして我々は二言目にはこう言うんですよ。「遺跡や遺物はなかなか語ってくれない」とか。(会場笑い)あたりまえですよ問いかけてないんだから。で一生懸命、物の分析してるんです。
これからの考古学はきっと違ってくると思います。もう細かく模様がこうなって、線が太くなったり細くなったりモチーフがこう違ったなんてことは、それは時代の変遷を細かく我々に教えてくれるでしょう。こういう違いは隣の文化圏とは違うんですよと、こういう違いがありますよということもそれはそれぞれ教えてくれるでしょう。だけどそこからは、語ってくれない、じゃなくて問いかけてない。つまり問いかけというのは、皆さんも一緒にこれから出来るんです。つまり考古学の作業をやるのは考古学の専門家に任しておけばいいんです。けれども皆さんが考古学に参加できるというのは、自分の今まで人間として生きてきた体験を、それをもとにして疑問を投げかけてみることです。そしてそれが対話なんですね。「縄文人との対話」とかそういうタイトルで本もいくつか出てますよ。ほとんど対話してない。そして最後は「謎は深まるばかりである。今後の研究に待ちたい」誰もまたない。(会場笑い)あなたがやらないんなら誰が待ちます。
ということでですね、彼らの、なんていいましょうか、人間としての心みたいなものは実は我々と一緒だということです。同じレベルなんです。縄文人だからといって低く見ちゃいけない。これからもしかして、マンモスを再生させようなんてプロジェクトがあるぐらいですから、縄文人を再生させようなんてもしかしたら成功するかもしれません、僕が死んでから。その縄文人はですね今の人たちの子供たちと対等に勝負して大学受験ぼんぼん入学できるかもしれない。それぐらいに同格なんです、頭のレベルはね。だからレベルは同格で思いも同格で、それから心の動かし方、どういうところに感動したりどういうところに心を動かすかなんてのも殆んど変わらないとみていいんです。そういうところから出発してないんです、今の考古学は。そうすると色々なものが見えてきますよ。

史跡小牧野遺跡(青森市)の環状列石
例えばですね、ストーンサークル。ストーンサークルは丸く、石をずうっと並べていく。真ん中にも並べている。そうするとこれは二重、三重だとかストーンサークル、環状列石を分類しようとする。分類得意なんですよ考古学者は。こことここが違うからこれはA類で、これはB類で、ってやる。だけどこれまでの観方はちょっとおかしい。真ん中を一重と見てはいけない、これへそなんです。つまり、環状列石というのは円というものの世界観、円というものの観念を表現している、円というものについての概念を持っていて、多分エンという名前。名前つけて呼んでいた。エンという名前をつけたら円という概念が存在するんです。名前をつけるということはそういうことなんです。概念が存在したらこれは次にそれにまつわる観念にとずっと関係していきます。円を作ってるということは、鷲ノ木でも作って津軽海峡を渡って向こうの青森県で、小牧野というところでも円の環状列石を、ストーンサークルを作った。という形を作ってるんじゃないです。円を作ってるんです。円という概念、そしてそれにかかわる観念をそこに表現してるんです。つまり彼らの世界観です。
◆記念物と世界観
彼らの世界観は、円だけじゃない。へそがある、つまり中心があるという世界観、そして円、という世界観。そしてこれを石で作るという、石にまつわる、石という言葉もあったんですよ。石はイシと呼んでた、イシと。例えばイシと呼んでたんです。私は縄文人の言葉はカタカナで書こうと思ってます。で、イシという名前で呼んでるものを持ってきてここに並べるというのは、イシという名前があって、おい今日はどこどこまでイシをとりに行くぞと。イシという言葉もちゃんとあって名前があって、それに概念があって観念があった。秋田県の大湯環状列石というのは、その7キロも上流から石を持ってくるんです。川の石なんですけれども、その摩滅の具合によってここから上流7キロのところでこういう具合の摩滅のものがあるというのが分かるんです。もっと上流に行けば角張った石です。山石になります。でその7キロぐらい先の石を徹底的にこだわって持ってくるんです。そうやって、並べていく。そのイシという言葉とその概念と観念と。だからストーンサークルには、いろいろな彼らの思いのたけがこめられてストーンサークルとなって表現されてるんです。そういうふうに見てくると、ああそうかと分かるわけですね。(司会から講師にもう少しマイクを近づけるよう依頼)すいません、いい声が聞こえなかった人。残念でしたね、これからは注意します。
さらにいろんな記念物を作ります。ストーンサークルは一つの典型的なものです。三内丸山、これは北海道にはまだ類例が見つかっていないんですが六本柱っていうのがある。こういうふうに並んでいるんですよ。これちゃんと意味がある。。なぜこういうふうに立ってる。実はこの方向、こっち側から見ると夏至の日の日の出がここから昇るんです。するとここにダイヤモンドフラッシュが、つまり柱と柱の間に見えるんです。ということは逆に反対方向から見ると冬至の日の日の入りなんです。日没。このときもダイヤモンドフラッシュが見えるんです。それを、どうしてか理解しない、というか認めない人が大勢いる。皆さん三内丸山訪ねた人沢山おいででしょう。あそこに六本柱が立ってるでしょう。床がずうっと張ってあるじゃないですか。あれは止めろと僕はずっと委員会で主張してきたんです。そして委員会では主張が通るんです。通ったのに結果的にああいうふうになったんです。そのとき僕のいうのに全部賛成した人が、違う考えに回って裏で賛成したんです。(会場笑い)各個撃破をやる。税金で回るんですよ、問題でしょ、それは。まあ大したことじゃないんですけど、もっと大したことは私の意見が通らない。(会場笑い)なぜかって言ったら彼らはここに床を張って、今も張ってあります。屋根をかける、屋根だけは止めたんですね。これは僕じゃなくて、僕の、なんて言いますか尊敬している佐原さん、佐原真という人がいたんですよ。この人は残念ながら酒もタバコもしなかったのに亡くなりました、癌で。だからどうぞ、酒タバコがんばって楽しんでください。(会場笑い)佐原さんが僕の話を聞いてそれはおかしいと言って、知事に上意文を突きつけたんですよ、おかしいじゃないか。それで屋根だけは取ったんですけれども床は張らしてくれと言って、そうか。それで変なところで屋根は取らせて床は残ったんですよ。その佐原さんが亡くなる前に行って「あれ、床が張ってあると屋根がないと落ち着かないね。」って、(会場笑い)そりゃ困る。逆に、なぜ床もとらないのか。

三内丸山遺跡の6本柱を通して見た冬至の日没
だって想像してください、ちゃんといい写真、いろいろなところで私使ってますよ。それでもまだ通らないんですよ。そして通らないばかりか、世界遺産の登録に三内丸山を目玉の一つにしてるんです。そのときこれは大形建物。そんなものじゃないですよ。そんなものじゃないんです、大形建物じゃないですよ。ちゃんと夏至だとか冬至だとかをちゃんと見通して、そういう縄文人の知的な世界、その知的な世界をここに反映させているんです。そしてちゃんと冬至と夏至のときにこのダイヤモンドフラッシュが見えるそういう設計にしてるんです。これを無視して世界遺産登録はできません。だからいまだに、世界遺産のためにここにはこういう重要な遺跡が入ってますという説明をしてある中に入ってないんです。縄文人が春分とか秋分、夏至冬至、そういうものを十分に心得ていた、そしてそれの何よりの証拠がここにあるじゃないかという、これをネグって世界遺産登録というものに持っていこうったってそれは無理ですよ。縄文人は、やっぱり縄文は新石器の劣等生だなあ、ということになります。
世界遺産のストーンヘンジというのがあります、イギリスの。これは3千5百年ぐらい前なんです。堂々と、この三内丸山は縄文中期なんです。ストーンサークルよりも、先ほどお話ししたストーンサークルよりも何百年か前の時代です。ストーンヘンジ、世界遺産のストーンヘンジはちゃんと夏至を見てるんです。それより千年ぐらい早く縄文人はこれを発見してるんですよ。もっと早くに。だけどそれは、そういう意味では、だからこっちが優れてるなんてことを言おうとしてるんじゃないんですよ。堂々と世界に肩を並べますよと私は控えめに言ってるわけです。少しぐらい早いからといって、鬼の首を取ったようにというわけには行かない、そんなことを言う必要一つもないんです。縄文文化というトータルの中で、どの時代のどの時期にそういうことを発見したかなんてのはそれは細かいことで、それは考古学がこれから調べていくんです。少なくともしかし中期の後半にはもうこうやって、そして山梨県のほうに行くと同じ時代にここと同じようなもので、僕、それを見に行ったことがあります、春分の日に。三峠山というのがあるんですよ。きれいな山で、見に行ったら、行ったときにこの辺に太陽があったんです。それが一時間ぐらいすると徐々に徐々に近づいてきてなんと、日没の時にはまた例によってダイヤモンドフラッシュですよ。三峰山という三つ峰の、そのど真ん中にパシッと落ちてくるんですよ。で我々はここでカメラを構えてバシャバシャバシャバシャ撮った。非常に感激しましたね、縄文人と本当に出会えるわけですよ。ああ彼らはこれを見ていた。そしてそこに、その場所にストーンサークルを作ってるんです。牛石遺跡という、山梨県都留市です。
そうじゃないんですよ、ちゃんと中部地方の、と言うか縄文世界。縄文大和言葉がずうっとある世界が縄文列島なんですよ。言葉が全部通じて、環状列石という、さっき例によって縄文人が発音してたとおりに書けばカンジョウというカタカナで呼んでいたんですよ。カンジョウレッセキという。それがずうっとつながっていって、円(エン)というのもあったし、石(イシ)という概念もあったし、その世界があった。鷲ノ木もそうです。鷲ノ木は頂上というわけじゃないんです。夏至のとき、駒ヶ岳の裾のあたりから日が昇るんです。春分と秋分の日は真東から上って真西に落ちるんです。春分が終ると徐々に北寄りから上って北よりに落ちて、一番北の端、はずれから上ってはずれに落ちるのが夏至。夏至が終るとまた南へとずうっと来て、また秋分の日に真東から上って真西に落ちて、またこうやって、今間もなく冬至になろうとしてます。ずうっと南に来て一番の限界ぎりぎりまで来て上って落ちるのが冬至なんです。夏至の日の出と当時の日の入りが対角線になるわけです。
もう一つ面白いお話しておきましょうかね、こんなのいくつでもあるんです。富士山の日没に、冬至の日の日没が、富士山の頂上ですよ、あの富士山。あの頂上に落ちてダイヤモンドフラッシュができる。それを目指してずうっと、それが見える線上に東京都の八王子辺りの縄文時代中期の大きな遺跡が点々と並んでいるんです。全部そっち見てるんです。富士山もだからフジヤマと言っていたんです、当時縄文人は。そして冬至という言葉もあってそしてそのときにお祭りやったりするんです。世界的にそうなんです。冬至の祭りは、実はクリスマスはキリスト教がハイジャックしたんですよ、民間のそういうお祭りの日を。(会場笑い)世界的にあるんです。あとひとつ紹介しましょう。妙義山ていうのがあるんです、群馬県に。これも三つ峰です。天神原遺跡のストーンサークルの西側の縁に三本の石が立てられていた。そして妙義山の三つ峰に対応するんです。そして春分秋分の日に妙義山の三つ峰のど真ん中に太陽が落ちてくる。そういう場所だから彼らはストーンサークル作ったりするんです。それを見つけるんですよ。平場があって適当な広さの平場があったからといってそこに、よしゃといってすぐそこにストーンサークル作ったりしませんよ。こういう場所を、点々としょっちゅう動き回って、山菜取りに行ったりしてるわけですけれども、そしてあそこの平場はちょうどここだぞ、といって見つけるとここに築くんです。でちゃんとこれが見える。
なかなか面白いでしょう。縄文てのはそうやって見ていくんです。今まではこれの、ストーンサークルの分類してただけなんです。分類しただけじゃなくてストーンサークルと山と、さらに山の形とさらに冬至だとか夏至だとか春分秋分だとかそういうものとずうっと重ねていくと見事にあわさってきて一つ抜かしても、意味が、ちゃんとした縄文人のメッセージが伝わらないんです。
◆縄文人の数の観念
もう一つの話題で一つ皆さんに面白いお話しておきましょう。数という観念を、私たち持ってますね。1・2・3・4、ヒフウミイヨオイイムウナヤ。あれ縄文人もみんな持ってました。秋田県の大湯環状列石は日常的な石器や土器だけじゃないんです。先ほど申しました第二の道具が一杯出てくるんです。そこから出てきた面白いものがあった。煙草の箱くらいの長方形の土版です。下半部を沈線で区画して縄が転がしてある。これだけだったら何の変哲もないでしょう。ところが上のほうの真ん中にひときわ大きな窪みがある。さらにちょっと小さめの窪みが、上方の左右の隅に一つづつあります。そしてさらに左側に1・2・3、右側に1・2・3・4、その真ん中に1・2・3・4・5窪みがある。列点がある。だんだんなるほどと分かってきたでしょう。

大湯環状列石出土の土版
何かといったらこれはね、縄文人が数の観念を持っていたぞという原器(標準器)みたいなものなんです。メートル法の原器っていうのある、イギリスにね。そういうのと一緒ですよ。縄文人の数の原器が秋田県の大湯の環状列石から発見されてるんです。つまり、大きな点、これが1ですよ。上方隅の二つの点、これが2なんですよ、足すと2になる。左に3、右に4、そして真ん中に5です。だから表だけで1・2・3・4・5という数字の観念がここに印がつけられています。で裏を返すとここに3・3と、3はもう出てきたのここに。だからこれは3・3じゃないんですよ、3+3で6なんです。これがやっぱり頭のいい人じゃないと見破れないですね。(会場笑い)ていうかあまり頭よくなくたってわかるでしょ。つまり、すごく自然の見方で読み解けばいいんです。こんなの、計って長さが何センチで点の大きさがいくつでなんて、そういうのが考古学。だからちょっと考古学離れした考古学やらないと考古学は見えてこない。どんどん死んでいくの、化石になって。1・2・3・4・5・6じゃないですか。
しかもこの伝で行くと、例の6本柱というのは、これは6本じゃないんですよ。3+3で6なんですよ。ははんと思う方もおられるかもしれないこの中に。アイヌの人たちの聖なる数、聖なる数は6なんです。6というのはしかし私は縄文に根ざしてるんじゃないかと。縄文の3、3+3で6になる、アイヌの人たちも3+3で6になって、3だけでは足りない力を二つ寄せると倍増するという観念てのは世界中あるんです。だからこれは恐らく3+3という、3という観念をさらにずっと強化したものとしてこの3+3が出てくる。つまりこれもわざと3を分かち書きしてるんです。そうじゃなければ3が3つもダブることになります。そうじゃないんです。こういう風に見ていくと、7は2と5を足すと7になるんです。3と5を足すと8。4と5を足すと9になる。ただ僕は都合よく言ってるんじゃない。ほうら縄文人足し算までしてるじゃないかと。3+3でやったじゃないかと。だからこれは2+5として何らおかしくない。そして3+5、4+5としたら1・2・3・4・5・6・7・8・9まで来たじゃないですか。10はどこへ行った。10はパンフレットの表紙にあるでしょう。子供の足跡があるじゃないですか。指は5本でしょう。手形もあると申しましたね。手や足の指が5本だってのはよくよく承知してるんです、もう経験的に。縄文のエリートだけがそれを見破ってるんじゃないんですよ。みんな人たるものは5本づつの指を持って生まれてきたんだ、てのは分かってるわけです。だから見事に10というのはもうあるんです。
これ以上はどうか分かりません。そして彼らは、ただこういう数の観念があったよっていうんじゃないです。数というものに対してこれを1と呼んだんです、イチ。いやそうじゃないヒイだ。これをフウと呼んだんです、ミイと呼んだんですよ。ヒイフウミイヨオだ。そうやって呼んだんです。1・2・3じゃなくてヒイフウミイヨオイイムウナアヤアコオトオと。ちゃあんと縄文時代から続いてる大和言葉なんですよ。そういうふうに見ていくとなんと面白いじゃないですか、縄文人の知的世界というのはね。だからただその形だけじゃなくてそこから読み取らなくちゃいけない、語ってはくれないから。しかし大した面倒じゃないんです。私たち一個人が今まで生きてきたという、その程度の経験を踏まえた上で積極的に語りかけるとちゃんと返ってくるんですよ、答えが。
◆縄文文化と自然の秩序
さて、その縄文文化というのが今、世界中で注目されてます。世界中で注目されているのにもかかわらずみなさんは、というか日本人の多くは、縄文土器は確かにいいな、弥生土器よりは俺は好きだ、という程度なんですね。そのよさがあまりよく分かってない。ここまでお話しするとだんだんよさが分かってきたんじゃないかと思います。そういうことを期待してます。ところが、欧米では縄文についてものすごい関心を寄せてるんですよ。私は、明日東京に帰って明後日ロンドンに行くんですけど、そのロンドンの大英博物館で縄文土偶展をやってます。北海道からも行ってますよ、著保内野の国宝が。それはですね、土偶の形が面白いからということだけで土偶展をやりたがったんじゃないんですよ、天下の大英博物館は。縄文というものについて並々ならぬ関心を寄せていて、そして欧米の人たちはそういう関心を寄せてるというのが、分かってるからその受け皿として、そしてそういう関心に対して応えてあげようということでこの不景気のときにですね、無駄な金一杯使ってるんです、ある意味では。小泉流に言えば無駄な金。でもちゃんと縄文を紹介している。
その前はパリでも縄文展やった。私も二晩話ししたんだけど、ずっとこれよりも広い部屋でね、二晩とも満杯でしたよ。でそこには考古学者とか土器が面白いとか土偶が面白いと思ってる人だけじゃないんですよ。現代彫刻だとか焼き物やってる人だとかいろんな人が来るんです、そして関心を寄せてる。それは形に関心を寄せてるだけじゃなくて、縄文のその正体が並々ならぬものだということを感じてるんですよ。ヨーロッパではケルト文化っていうものに対する関心が高いんです。ケルトになんで関心を寄せてるか。それは縄文に対する関心の寄せている動機と重なるものがあるんです。それはなんと、今我々が身を置いてる地球上、どんな状態ですか。環境破壊は進む、オゾン層は破壊されてる、どうすればいいの。それに対して、いろんな分野の人たちが心を砕いてます。そして鳩山は25%CO2を削減する。それは努力目標、みんなしてやったらいいじゃないですか。何で経済界が、いや経済の、景気が悪くなる。悪くなっていいじゃないですか景気なんか。僕が子供の頃なんかチョコレート一枚食えなかったですよ。それでも、こんなにニコニコして育ってきましたよ。(会場笑い)だから全然問題ない。景気なんかどうぞ悪くなってください。トヨタだけが一人勝ちする必要ないんですよ。みんな百姓、商人が、まあ、やめましょう。(会場笑い)
縄文人が定住したでしょう、第二段階に入って。そしてムラを営んだじゃないですか。ムラの回りにはハラがずうっと広がってるんです。ハラにはかつて第一段階のときに身を置いていた自然的秩序が保たれているところなんですよ。ムラは、竪穴住居を始めとし、倉庫だとかゴミ捨て場もそうです、社会的な共同作業をやるような広場もみんな設けて必要な施設がどんどんどんどんムラの中に設けられていくうちに、あくまで人工色一色になってきます。非常に対照的にハラは自然的秩序がずうっと保たれているんです。生活の根拠地はムラです。人工的な空間です。自分たちが自然の一角を切り取ってきて、そして自分たち専用の空間にするんですね。そんなこと絶対熊や鹿もやってませんよ、猿だってやってませんよ。人間だけです、自然の一角を自分勝手に切り取って、つまり社会的な生活というものをここに、家族との生活、村人との共同の生活みんなここでやるんだけども、この生活を支えるためにはハラに出かけてって食料を手に入れなくちゃいけないんです。それともう一つ、生活に必要な様々な道具を作る資材を手に入れるんです。食料や資材を手に入れるためにハラに出かけてって、そしてそれをいただいて戻ってくる。
そのときこれが重要なんです。一方的に略奪するんじゃない。宮沢賢治の童話の中で、山の霊に向かっておおい、木一本切っていいかあって尋ねるんです。ちゃんと敬虔な心で尋ねるんですよ。そうするとちゃんと答えてくれるんです。いいぞお。ああよかった。その代わりお酒ちょっと撒いたりしてね、これが手続きというもんです。そうやって、ちゃんと問いかければ許してくれる、という段取りが出来るんです。木一本切っていいかあ。いいよお。ありがとうございます、じゃ一つ貰いますわ。そして竪穴住居の柱にするんですよ。食べ物もゼンマイが出てきた、アイヌネギが出てきた、よし、で取りに行って戻ってくるんですよ。一方的に略奪するんじゃない、つまり共生するんです。
それに対して大陸側の新石器は踏み台が違いましたね。彼らが家を作るときに日干し煉瓦の家を作るんです。縄文の人たちは茅葺きだとかそういうもの、あるいは木の皮だとか場合によったら屋根に土を被せて土屋根で竪穴住居を作ったりするんです。向こうの連中は日干し煉瓦で作ってそして絶対壊れないぞ、大体みんな壊れてますけどね。竪穴住居を作るときよりも決意はすごいんですよ。ものすごいアグレッシブというか攻撃的ですね。石の文化になるんですよ。縄文なんかは木の文化。ずうっとそれが今まで続いてくるわけですね、木の文化として。そのとき向こうは何か、ムラの外にはハラじゃなくてノラがあるんです。ハラはないんです。ハラは許しておけないの、向こうの新石器の連中にとっては。許しておけない。それは開墾すべき対象地なんですよ。征服すべき対象地であって共生とはまったく逆でしょ。
だから、皆さんもそうだと思いますよ。僕だってそうだ。ぼくだけがずっと覚えてたわけじゃないんですよ。みんなも覚えてる。我々の人間の歴史は自然との闘いに打ち勝ってきた、厳しい自然との闘いと教わって来たこと。自然なんてなんにも厳しくないでしょう。厳しかったですか。勝手に山好きの人が山に登って遭難するのはあれは山を甘く見てるだけであって山が厳しいわけじゃないんですよ。私の経験によれば一個の人間として生きてきて自然が厳しいと思ったことないんですよ。たまに台風が来て暴れる。それくらいいじゃないですかもっと暴れてる奴いますよ暴走族で。(会場笑い)結構じゃないですかたまに暴れて。それから結構じゃないですかたまに大水が出たって。何で百年二百年に1回のために八ツ場ダム作らなくちゃいけないんですか。見直したらそうじゃないんだもんねまた、だから絶対役人を信用しちゃいけないんです。私も役人だったことがある、(会場笑い)だから言えるんですよ。
大陸の新石器ではハラじゃない、ハラがあったらそれは許せない、ハラの存在は。征服すべきもの、開墾すべき空間なんですよ。そしてそれは征服であって共生、共存共生ではないんですよ。ようやくだんだん見えてきたでしょう。そうかと。今我々が危機的な状況に置かれたのも、大陸の新石器から出発してるんですよ。縄文姿勢方針からじゃないんです。だからみんな世界中の人が、今、縄文になんとなく、なんかありそうだと言ってるんですよ、感づいてきてるんです。感づいてないのは日本人が一番感づいてない、縄文がすごいって言うことを。だって僕がいくらメッセージ出しても三内丸山の6本柱は冬至と夏至を見てないなんて言ってるんですから。これじゃどうしようもないですね。つまりあれじゃないですか、皆さんの女房とか、皆さんの連れ合いはどうですか。いい人なんですよ。だけど傍にいたらよさがわからなくなるじゃないですか。(会場笑い)であわてて離婚したりするじゃないですか。今まで寄り添ってきて定年になったら、じゃ私は私の道を歩きますからさよなら、そんな寂しいこと言わないでくださいよ。
◆縄文文化と縄文文明
大陸新石器における自然の征服という一つの方針は、結局合理主義を育てるんですよ。それから効率。征服するためには効率よくね、汗一杯流して犠牲を一杯払って征服するんじゃない。効率よく征服したいんですよ。だから技術が発達する。だから四大文明が成立する。縄文からは文明は出てきません。すばらしい文化をずうっと持ってるけれども文明は出てこない。ところがあわて者の何人かは、縄文こんなにすばらしい文化なんだからこれは農耕があったに違いないなんていう、間違った考え方を押し付けたり、それからはやりなのは、あちこちでそういうことを書いたりしてるんですよ。縄文は文化じゃない文明だ、いまや文明だ。そして世界四大文明の中に割り込んで、縄文はその中に肩を並べて五大文明の一つなんだと。もうよしてくださいよそういうのは。そういうのが一杯書いてありますから。もう騙されないでしょう、私と今日付き合いましたからね。(会場笑い)文明ではない。文明はこういうところから発達した技術に基づいて、踏み台にして出てきたもので、そしてこの合理主義効率主義が産業革命を呼んで、悪いなんて言ってないですよ、歴史を語ってるだけで。そして今の状況を作ったんじゃないですか。縄文なんてのは、1万年以上自然と共生してたのに、大陸新石器の連中は自然との共生の経験、歴史はひとかけらもないんですよ。まず村を営み始めたらすぐ敵なんだから、みんな、自然は。
縄文がムラを営んだとき踏み台だけが違うんじゃないですよ。自然との共生に走るんです。それが日本語に多く残ってます。文化というのは言葉。言葉はまた文化を創る。日本語の中に擬音語ってのがあります、オノマトペって言うんですが、擬音語。春の小川はさらさら流れるんです。縄文大和言葉をつぶやきながら。そして下流に行くとざぶざぶ流れる、上流にいくとちょろちょろ流れるんです。そんな言葉は世界中どこを探してもありません。今僕が興味持ってるのはどの程度アイヌ語の中にそういう擬音語があるかなあと。というのは縄文文化というのはその後のアイヌ文化につながっていくんです。言葉は1万年の間に文化的遺伝子を溜め込んで、それは擬音語の中によく現れます。虫の声なんかも日本語だけですよ。スズムシだとかクツワムシだとかコオロギだとかみいんな聞き分けてるじゃないですか。彼らは日本語しゃべってるんです。どこの国の動物も虫も鳥も言葉をしゃべりません、雑音なんです。
そういうのが日本文化であって、この共生というのは言葉にも出てくるし、文化そのもので、現代の日本文化の底流にずうっとあるものなんです。そしてその文化、言葉、そして日本語がなくならない限り恐らく日本文化はこのままずっと生きていくと思いますね。だから縄文ていうのは現代の日本文化につながるものであり、そして縄文ていうのはそういったメッセージを発信する非常に重要なものなんですね。だからこそ世界遺産の登録に名乗りを上げて然るべきなんです。ご清聴どうもありがとうございました。(拍手)