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2009-05-09

[]「日台戦争」と呼ぶのは誤りか


檜山幸夫氏は日清戦争および植民地期台湾を専門としているが、

その著書『日清戦争 秘蔵写真が明かす真実』(講談社、1997)では、

第六章「台湾統治と台湾戦線」の第三節を「日台戦争」と題している。

同節251頁では、次のように述べる。


清軍兵士と異なり、彼ら(引用者注―台湾の抗日軍)が頑強に抵抗した背景には、台湾に福建省広東省から移住し、そこに住んでいた原住民を討伐し、苦労して荒れ地を開墾して獲得した土地を守るという意識があったからにほかならない。その意味では、台湾での戦闘は、正しく日本と台湾との戦争(日台戦争)であり、最初の植民地戦争であったということになろう。


檜山氏は、日台戦争の終末を、

第二師団が凱旋した明29.5月末とみているようである。



自分たちが苦労して獲得した土地、郷土を守ろうとする者が

頑強に抵抗するのは、道理であろう。

現地に入った樺山台湾総督は、明28.6.10、伊藤首相宛電報のなかで、

「戦争」という表現を使っている。


「両三日中ニ総督府ヲ台北ニ移ス積リ」淡水ノ支那兵砲台ノ火薬庫ヲ焼キ逃ゲタル風説アリ。左レドモ島ノ南部ニテハ多少ノ戦争ハ免カレザルベシ。

(『秘書類纂 台湾資料』1935、24頁)



一敵国を相手にした外征と変わらないというのが、

樺山総督の認識であった。

樺山総督は6.19、伊藤首相に宛てて、

台湾に派遣された文武諸官員の扱いを「外征従軍者」とするよう稟申した。

日清両国間ノ平和既ニ回復シ台湾島ノ受授ハ完了セリト雖本島ノ形勢ハ恰モ一敵国ノ如ク清国ノ将卒ハ淡水三貂湾ニ於テ我兵ヲ射撃シ又金咬蒋基隆等ニ於テ頑固ナル抗敵ヲ為セリ而シテ南方安平打狗等ニ於テ我軍艦ヲ屡砲撃シ又新竹以南ハ尚夥多ノ残留清兵充満スルヲ以テ今後幾多ノ戦闘アルヲ免レス故ニ名義上ヨリ言ヘハ台湾ハ既ニ帝国ノ新領土タリト雖実際ノ状況ハ外征ニ於ルニ異ナルコトナシ故ニ本島ニ於テ文武ノ職ヲ奉スルモノハ其平定ニ至ルマテ総テ外征従軍者トシテ諸般ノ取扱相成度此段稟申候也

アジア歴史資料センター ref:C06022096100)


これは閣議で了承され、法制度上においても、台湾における戦闘は、

「外征」すなわち対外戦争として扱われるようになった。


同様に、死没者遺族に対する特別賜金給付に関わる「廿七八年戦役」の期限も

台湾に関しては、明30.5.8まで延長された。

すなわち、その間に死亡した者は、戦争で死亡した者とみなされ、

遺族は特別賜金の給付を受けられるのである。

(「明治三十年陸軍省令第十八号特別賜金之件上申」ref:C06082794400 )


また、明30.4.30、乃木総督が陸相に宛てた軍功行賞に関する稟申によると、

「廿七八年戦役」に関わる軍功行賞の期限が、明29.4.11まで延長されていたことがわかる。

乃木総督は4.11以後も台湾の状況は変わらず、「廿七八年戦役」の扱いに準じて、

軍功行賞を行うよう稟申しているが、そのなかで次のように述べているのが注目される。


目下台湾ノ現状タル右四月十一日以前ノ状況ト決シテ差異無之唯名義上廿七八年戦役ト其関係ヲ離レタリト雖トモ其実全ク之ニ連繋シ其討伐ノ如キモ土匪アリ支那残兵(台東ニ集団シ在リタルモノ)アリテ決シテ内地土寇竹槍席旗ヲ鎮圧スルノ類ニアラズ

(※合字はカナに改めた。ref:C03023083900 第25画像)


すなわち、国内の反乱を鎮圧するというような、

簡単な戦闘ではないという認識であった。

この稟申も承認されている。


また恩給の額に関係してくる戦争への従軍加算の期限*1についても、

内地にいた軍人の場合は、日清講和につき平和回復の詔勅が発布された明28.5.13までなのに対し、

「征台軍人」については、樺山総督が台湾平定を宣言する直前の明28.11.18までとされた(ref:C06082740100)*2




台湾における作戦を指揮したのは、大本営であった。

樺山台湾総督ノ清国全権委員李経方ト三貂湾沖ニ会同シ六月二日ヲ以テ台湾並ニ澎湖列島ノ授受授受ノ条約ハ附録第百七参照ヲ完了セシハ唯形式ニ止マリ実際ハ台湾領収ノ為メ征討ヲ行フノ已ムヲ得サルニ至レリ因テ本戦役ニ継続シテ作戦ヲ実施シ翌年三月ニ及ヒ之ニ従事セルモノ約二師団半ヲ算シ参与セル兵員通計約五万、軍夫二万六千余、馬匹九千四百余頭(附録第百八参照)大本営モ亦依然存立シテ作戦ノ指揮ヲ執レリ

参謀本部『明治二十七八年日清戦史』第7巻*3、1907、2頁)


大本営が指揮を執るということは、戦争以外の何物でもないであろう。


動員数および犠牲者についても、注目に値する。

日本軍5万に対して、3万3000の清国兵・抗日軍兵士が対抗した(檜山前掲書、258頁)。

日本軍の死者の数も9600人(うち病死7600人)と、下関条約締結までの戦没者8400人(うち病死7200人)を上回った戦闘であった(高橋典幸ほか『日本軍事史』吉川弘文館、2006、326頁)。



以上を踏まえれば、「日台戦争」と呼ぶことは誤りとはいえないであろう。


※追記

09/05/17 

動員および犠牲者については、5/16のエントリを参照。上記の動員数は1895〜96、犠牲者数は、1895.5〜1915の数値。

*1:恩給を受けるには、公務に服した期間がある一定の年限(最低年限)に達しなければならなかった。また服務期間が長いほど、貰える恩給額は増加した。戦争での従軍は、実際の服務期間に加えて、ボーナス的に期間が加算されたのである。

*2:軍功行賞と比べると、延期期間がより抑制的である。他とのバランスは考慮されなかったのだろうか。

*3:全8巻のうち第7巻が「台湾ノ討伐」に充てられている。

gingin1234gingin1234 2009/05/09 23:51 誤りとは言えなくても、その後ろに政治的偏向があったことは否定できない。
そもそも、誤りでなければ言ってよいのであれば、太平洋戦争は「大東亜戦争」と言い換えなければならない。何故なら、当時の日本はあの戦争を大東亜と読んでいたのだから。

todotodo 2009/05/10 00:33 gingin1234さんへ
>誤りでなければ言ってよいのであれば、太平洋戦争は「大東亜戦争」と言い換えなければならない。

「言ってよい」という許容的な表現が、
いつの間にか、「言い換えなければならない」という義務的な表現にすり替わってますよ。

nabesonabeso 2009/05/10 15:30 ”台湾 征服”で検索したところ、
国会図書館だと、明治28年の台湾征服記(自由新聞社)、
ciniiだと 日本の台湾征服戦争 (特集 近代の日本と台湾(1))大江 志乃夫(2002)
が引っかかりました。征服したという意識の存在が当時も十分にありそうですね。

権兵衛権兵衛 2009/05/10 15:31 gingin1234さんへ
>誤りでなければ言ってよいのであれば、太平洋戦争は「大東亜戦争」と言い換えなければならない。

 todoさんのアドバイスに従って書き換えると、こうなります。

>誤りでなければ言ってよいのであれば、太平洋戦争は「大東亜戦争」と言ってもよいことになります。

私は個人的には「大東亜戦争」と言っても何等さしつかえないと思いますよ。(「日台戦争」も問題ないでしょう。)

higetahigeta 2009/05/10 20:54 >gingin1234さん

2行目以降の論理がよくわかりません。
大東亜戦争と日台戦争とは両立しないということならば、そういう人もいるんだろうなとは思いますが。

higetahigeta 2009/05/10 20:58 >nabesoさん

中学校の教科書として用いられた、『新編本邦小史』下巻、明治30年においても
「台湾の征服」としていますね。

大江氏の論考については、後日、触れたいと思います。

kinorikinori 2009/05/13 08:14 乙末戦争という言葉が定着しているのだから
戦争と呼ぶことが問題なのではなくて、
日台という、日本と台湾が戦ったという部分に問題があるのではないだろうか。
当時、台湾という国はなかったのだろうから。
征台の役という言葉もあるように、台湾という地域を征服したという戦争なのではないか?

ni0615ni0615 2009/05/13 10:36 >当時、台湾という国はなかったのだろうから。

そうすると、
「薩英戦争」という言い方も怪しからん、ということになりますね(笑)。
「薩摩」と英国が戦ったのだから「薩英戦争」。
日本と台湾が戦ったという部分に問題がないのであれば、「日台戦争」で問題ないのではありませんか?

而して、
「さほどの争乱でもないものを「戦争」というのは大げさ」という異論が残りますが、それに対してhigetaさんは、「さほどの争乱であった」ことを日本側文書によって論証したわけです。

kinorikinori 2009/05/13 12:09 >ni0615さん

「薩英戦争」は、薩摩藩と英国との戦争ですから問題ないですよ。
それに対して「乙末戦争・征台の役」は、あくまでも乙末の時代に台湾という地域で起こった戦争であり、
台湾という国や、台湾全体と戦争をしたわけではありません。
したがって、日本vs台湾という定義は適当ではありません。

乙末戦争・征台の役という言葉が定着しているのにもかかわらず、
一部の学者のみが使用している「日台戦争」を
NHKがわざわざ使用したことに問題があるのです。

今問題になっているのは”戦争”の部分ではなく、”日台”の部分です。
台湾の日本語世代の方達の指摘も
「”日本と台湾は”戦争なんかしてません」ですから。

檜山先生も、この番組制作のあたって取材を受けていたようですが、
(檜山先生は比喩的な意味で"戦争"という言葉を用いたとも受け取れます)
それが全く反映されておらず、番組の内容に相当怒っておられるようです。

higetahigeta 2009/05/13 18:00 kinori さん

薩英戦争についても、薩摩全体あるいは英国全体と戦争したとは言えない、となりそうですね。

>今問題になっているのは”戦争”の部分ではなく、”日台”の部分です。

問題とされているのは、
a.台湾は日本の領土であって、国家ではない
b.戦争ではなく、反乱の鎮圧である
という両方で、しかも両者は密接に結びついているのではないでしょうか。
http://mamoretaiwan.blog100.fc2.com/blog-entry-720.html

しかし、樺山台湾総督は、一敵国との戦争と変わらないと言っているわけです。
それだけ、郷土防衛意識の強さを感じたのでしょう。その郷土意識の存在は重視すべきだと思います。

「乙末戦争」も定着しているとは言い難いのではないでしょうか。
むしろ、「台湾植民地戦争」の方が広く使われています。

kinorikinori 2009/05/13 19:46 >higetaさん
aもbも戦った相手が台湾という国ではないということが論点であるんじゃないですか?
(確かに規模を問題にしている人もいますが、それだと戦争という用語が既に存在していることとの整合性がとれない)

"日台戦争"というのは、薩英戦争を"日英戦争"と呼ぶようなものといえば、
分かってもらえるでしょうか?

なるほど、"台湾植民地戦争"という用語のほうが定着しているようですね。
ならば、こちらの用語を使えばよかっただけの話ではないでしょうか?

その用語が意味するところを正確に記述できる論文内とちがって、
限られた時間で十分な説明ができないテレビにおいて、
定着していない誤解(実態とかけ離れたイメージの定着)を
招くような用語の使用は避けるべきでしょう。

higetahigeta 2009/05/13 23:39 kinori さん

NHKがどう番組をつくるべきか、という問題の枠内のみで論じることに、
あまり関心はないので、ご了承ください。

そうですね、台湾植民地戦争のほうが、しっくりします。
ただ、これは今、調査中ですが、台湾民主国の存在と、戦争が台湾人意識形成の起点となった点からすると、
やはり、日台戦争という呼称も誤りとは言えないと考えています。

ni0615ni0615 2009/05/14 04:03 台湾人はこの百年、自分達の歴史を学ぶ機会を失われていた。
50年間は日本総督府によって「日本の歴史」を学ばされ、50年間は国民党の独裁によって「大陸の歴史」を学ばされた。自分達の歴史はお留守であった。いまこそ台湾の歴史を学び、台湾人としてのアイデンテティを探る努力をすべきである。というのが平凡社「図説 台湾の歴史」の著者である周 婉窈氏(国立台湾大学歴史学科教授)の主張のようです。周氏は「台湾人」が共通して獲得し得る国民的物語の「種」を、「台湾民主国」による不屈の抗日戦争と「霧社事件」における共同体アイデンテティの悲鳴、そして「2,28事」件以降の民主化闘争の中に求めているように思えます。

kinorikinori 2009/05/14 17:31 >higetaさん
私は、マスメディアである用語の使用の是非を考えるとき、
その用語が学問的に誤りではないレベルにあることは必要条件であり、
その用語が査読などをへて、ある程度定着しているレベルにあることで
初めて十分条件を満たしていると考えています。
ですが、higetaさんが学問的に誤りでないかどうかという範囲で議論しているという点は
了解しました。

"日台戦争"という用語を考えるとき、ポイントはやはり、ni0615さんも述べられているとおり、
その当時に「台湾国」「台湾人」というアイデンティティが存在したかどうか、
そして、それが当時なかったのであれば、
現在では存在していると考えられるそのアイデンティティの発生はいつを起点としているのか
というところにあると思われます。

ここで「台湾民主国」のありよう、本省人・外省人という言葉
(台湾省、つまり終戦後までは中国の一つの省・地方であるという意識があった)、
台湾総督府が台湾人を漢民族であると見ていたこと、
戦後、国民党が当初は同じ民族として歓迎されたこと
(柯徳三さんの証言とは矛盾しますが、
当時の台湾の人たちは自分たちを漢民族であると認識していたと思います)、
などを考えると、その起点を日本統治時代前半にまでさかのぼるのは無理があるような気がします。
戦後の228事件を起点に、国民党および中共へのアンチテーゼとしての
「台湾国」「台湾人」というアイデンティティがあると考えるのが自然ではないでしょうか。

ni0615ni0615 2009/05/14 21:06 kinoriさん
周 婉窈氏が日本軍の領台に対する台湾人の「抵抗」「戦争」を熱を入れて書いているのは、それが必ずしも「漢人」アイデンテティで戦ったとはいえない、「郷土防衛戦争」の側面があると判断しているからではないでしょうか?
清朝の大官が逃げ出した後「台湾民主国」をつくり、その「台湾民主国」が崩壊したあとも南部で戦い、士紳や富商たちの援助を失ってもなおゲリラ戦を挑む。「唐山」を仰いだ有力者は次々と脱落してもなお抵抗はつづく。「郷土防衛」の色彩が強い。だからこそ周氏は、共通のアイデンテティの種をそこに求めているのだと思います。
http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/1999.html

higetahigeta 2009/05/14 22:34 台湾民主国の副総統・邱逢申は、地方で
「台湾はわが台湾人自身のものであり、何で勝手にこっそり授受できるのか。清廷はわれわれを見棄てたが、われわれは何で又自分を棄てられようぞ」と演説しています。
(黄昭堂『台湾民主国の研究』東京大学出版会、1970、227頁)

植民地戦争は、20年間続くわけですが、
初期の攻防戦で日本軍に家族を殺された者が、その後の時期の抗日に参加しており、
爾後に続く恨みの連鎖という意味でも、起点と言い得ましょう。

統治者である日本人は、自分たちと区別した「台湾人」というまなざしを持込み、
それは必然的に、「台湾人」意識を尖鋭化させるでしょう。
漢民族であっても、中国本土とは区別された「台湾人」意識は、成立し得ると思います。

風呂欄風呂欄 2009/05/17 22:57 kinoriさん
>(檜山先生は比喩的な意味で"戦争"という言葉を用いたとも受け取れます)

歴史学の記述において、節のタイトルにまで使用されている言葉が「比喩」などということは、普通あり得ません。カギカッコ付きで使用されているならばともかく。

また、檜山教授が「番組の内容に相当怒っておられるようです」とは、何を根拠にされているのでしょうか? 私の知るかぎりでは、特に檜山教授が怒りそうな内容の番組ではありませんでしたが。
ネット上にはこの件で伝聞の伝聞のようなコピペが流れていますが、まさかそんな不確かな情報を元に書かれたのではないでしょうね?

ni0615ni0615 2009/05/19 23:38 kinoriさん
あなたが仕込んだデマのソースは、どうやらメルマガ編集部に投げ込まれた「怪文書」のようですね。メールマガジン日台共栄【5月6日】。
それがどこかにコピペされたのを見て、kinoriさんはこのエントリーにマッチするようにと
>(檜山先生は比喩的な意味で"戦争"という言葉を用いたとも受け取れます)
というアレンジを加えられたのでしょう?

もしご反論があれば、kinoriさんが
>番組の内容に相当怒っておられるようです。
と推定なさった根拠または判断ソースを仰ってください。

褐色の侍褐色の侍 2009/06/03 06:15 日台戦争なんてありません。228大虐殺は、台中戦争って言うのですか? 当時台湾は独立してた訳ではないので
そのような表現はありませんし、チャンネル桜で実際に現地の人達にインタビューしたら皆笑っていましたよ?
NHKはシナ中共の犬だろ?って言ってました。

higetahigeta 2009/06/05 17:08 用語には、史料に表れる歴史用語だけではなく、学術用語があります。

樺山総督が、一敵国を相手にした外征と変わらないと認識していたこと、
法的に戦争として位置づけられていたこと、台湾民主国の存在、
戦争が台湾人意識形成の起点となったことは、すでに指摘しました。

JAPANデビューJAPANデビュー 2009/06/12 21:23 日台戦争と言って間違いありません。私の叔父は台湾の日系企業の経営者でしたが、アジア太平洋戦争末期に、台湾で戦死しました。
台湾統治に当たって、現地では戦争があったことは確かですし、その呼び名については別として、大本営主導であった事実からして、日中戦争以降を支那事変とか大東亜戦争などというのと同じだと思います。

higetahigeta 2009/06/18 09:50 植民地戦争の記憶は、語り継がれたのでしょうね。


NHKから「アジアの一等国」に関する説明が公表されたようです。
http://www.nhk.or.jp/japan/pdf/asia.pdf

桜島桜島 2009/06/25 21:09 当時の反乱鎮圧戦が日台戦争と呼ぶべきかどうか、よべるかどうかについては、台湾民主国の支持のされ方についての考察が必要でしょう。それが支持されていないのであれば、台湾という全体が日本と闘っていたと表現するのはあやまりです。また、特殊な定義として、一部であれ反乱していたら、戦争と言う表現をするべきなのであれば、中台戦争と1945年以後の事態を表現しなければ、おかしいことになります。NHKの番組で問題にされているのは、まさにその定義のおかしさと、表現の非中立性なのです。そして、この問題が何故これほどまでに、微妙であるかは台湾の民衆の民族的自決にたいして、武力をもって進攻することを宣言している、大陸中国の存在があるのは自明です。この点について学問がディレッタントであることはできないのです。学者としてまた、放送局として民主主義者であるなら明確な中立的態度が必要です。

桜島桜島 2009/06/25 21:46 つまり、日台戦争という言葉の問題は、台湾という言葉が台湾人全体を包摂いる表現であるということにあるのです。大陸の侵略の脅威にさらされている台湾にとってそのことを不用意に認定することは台湾人の独立を脅かす一要素となります。それを、一学者の本のみで通説であるとはいえない台湾戦争と言う表現をつかい脅かすのは、高度に緊張関係にある現在の状況において、本来中立性を求められる公共放送において、高度に反民主的で責任に反する行為だと言わざるをえません。もちろん、客観的にNHKはそのことを知っているはずですし、知らなければ民主主義国家の公共放送として不適格となります。NHKが批判されるべきなのはまさにその点です。配慮が足りなさすぎるのです。どう見ても故意だと思われてもしかたありません。

higetahigeta 2009/06/27 00:18 桜島さん

「台湾民主国の支持のされ方」をポイントとすることは妥当でしょうか。
台湾民主国の支持如何に拘らず、攻め込んでくる者があれば、
住民は防衛に立ち上がるのではないでしょうか。

樺山は「本島ノ形勢ハ恰モ一敵国ノ如ク」と述べ、
参謀本部『明治二十七八年日清戦史』第7巻、358頁も、
「殆ト全台皆兵ノ観アリ」としています。

また向山寛夫『日本統治下における台湾民族運動史』(中央経済研究所、1987)は、
「広く軍官民と各層各派の住民が参加した民族総抵抗としておこなわれた」(108頁)、
「義民軍の善戦敢闘は、多くの場合に豪族すなわち地方の有力者ないし長老がときには女、子供も含む全住民を率い、陣頭に立って戦ったことによるところが多い」(109頁)としています。
抵抗を「一部」と限定することはできないでしょう。

また戦争が常に正攻法的な戦闘の形態をとるわけではないでしょう。
ゲリラ戦となる場合もあります。
全島が一斉に同時に戦闘に参加することだけしか、
認めないというのは妥当ではないでしょう。


二つ目のコメントのロジックがわかりません。
中国の存在、中立、民主主義のそれぞれがどう結びつくのでしょうか。

風太風太 2009/06/27 17:33 まず「戦争」の定義から勉強し直せw

国際法、戦時国際法に書かれてるだろ。

風 2009/06/27 17:43 朝鮮の抗日義兵闘争も「日朝戦争」と

定義しているバカがいるのか?

「日台戦争」と言うバカと同じ、

反日脳日本人がいるだろうなぁ・・・w

higetahigeta 2009/06/28 10:53 国際法も歴史的産物であるかぎり、絶対的基準とはなり得ず、
歴史学的な見地から相対化してもいいでしょう。
また、戦争であることを示唆している国内法は無視していいのでしょうか。

>反日脳日本人

6/27のエントリで引用した文章の適格さを示唆していますね。

市井の一市民市井の一市民 2009/06/28 13:32 百科事典(ジャポニカ・Wiki)にも載っていない言葉は、
史実として放送で使用すべきではない。
NHKの「造語」といっても過言ではないものと考える。

higetahigeta 2009/06/28 22:40 固有名詞は様々で、何かを新しく詳細に論じようと思ったら、
当然、事典に載っていない語句で説明する機会もでてくるでしょう。

一般論として、これまでに注目されない事項を、NHKが先鞭を付けてとりあげるのは、
許されないのでしょうか。

例えば「征討」、「進駐」、「擾乱」、「争乱」などの用語は、
歴史学の造語で、その後、国語辞典にも採用されています。
NHKが歴史学と国語事典の間の仲介的役割を担うのは、許されないのでしょうか。

そもそも問題は語句そのものなのでしょうか。
その語句を用いず、その語句が示す内容を説明するのはいいのでしょうか。

の 2009/06/29 10:29 >NHKが歴史学と国語事典の間の仲介的役割を担うのは、許されないのでしょうか。

許されないでしょうね。新たな事実なり、相当な新学説、説明がなければ。
捏造・歪曲なり印象操作の謗りを受けるのが関の山。
毎年教科書の説明が変わるようなもの。
いずれにしても司法判断で決着ということでしょう。
10000円、いただきということになると思いますよ。

ni0615ni0615 2009/06/29 13:25 NHKスペシャルが歴史の教科書だとは初耳です。
目指すものは番組検定制度ですか(笑)。そういうのは検閲っていうのですが。


NHKはそれなりに用語の根拠を示していますよ。
>捏造・歪曲なり印象操作の謗りを受けるのが関の山。
きちんとした反論ではなくやたら「謗ってばかり」の人たちが、「謗りを受けるのが関の山」なんていけズーズーしさを発揮しているのですから、まことに珍運動ですね。MHKが「説明」を発表してからは、その内容にはいっさい反論せず、「抗議文」の日時をごまかしての、「NHKうそつき」合唱ばかりです。

ni0615ni0615 2009/06/29 13:44 >風
「戦争」の定義はそれこそ文書ごとにあったでしょう。
ここでは次のことを戦争という、というような。

1895年の台湾での戦争は、戦時大本営条例(明治26年勅令第52号) にて明快。
戦争でなければ大本営は設置継続できなかったのです。

日本全国全7個師団のうち、約3個師団を台湾に動員した戦争だからこそ大本営は継続しました。
戦死戦傷病死者は、日清戦争の朝鮮領清国領内での犠牲者に匹敵しました。

台湾の日本語族の人たちは皇民化教育の中で、それは「対したことがない匪賊の叛乱だ」としか教えられていないのです。

higetahigeta 2009/06/29 20:59 のさん

学説が定着しているか否かではなくて、
学説そのものを否定したいのではないでしょうか。

NHKの番組は、すでに知られていることを再確認するための場なのでしょうかね。
それは視聴者を随分甘く見た見解ではありませんか。
メディアとして、先端の研究を広く一般に橋渡しして世に問う役割を担ってもよいでしょう。

そもそも、「日台戦争」の呼称は別として、
それが意味する内容については、広く研究者が共有するところです。

natamaru123natamaru123 2009/07/02 20:42 問題なのは、当時の台湾人に”おらが台湾””俺たちはシナ人とは違う”というアイディンティティがちゃんとあったかどうかだ。それがなけりゃいくら日本側が大本営をもってして正式に戦っていようとも、日”台”戦争とはいえない。

higetahigeta 2009/07/02 23:12 「台湾はわが台湾人自身のものであり、何で勝手にこっそり授受できるのか。清廷はわれわれを見棄てたが、われわれは何で又自分を棄てられようぞ」との邱逢申の演説にみられるように、「棄民」意識があり、そのもとで攻め込んでくる者と戦闘していくわけですから、当然、一体感が高まり、台湾人意識も尖鋭化するのではないでしょうか。日本人から向けられる「本島人」という眼差しもその意識を高めるでしょう。

猫 2009/07/03 01:37 NHKがいきなり日台戦争などと言う言葉を使用したのがおかしいのでしょう。NHKですよ?論理的には日台戦争と呼んでも問題ないのかも知れないが、準国営の放送局がいきなり、殆どの日本人にとって耳慣れない言葉を注釈無しに使うってどうなんでしょうかね。

ni0615ni0615 2009/07/03 10:05 日台戦争と呼んでも問題ないのなら、殆どの日本人にとって耳慣れない言葉でも、放送局はどんどん使うべきです。教科書と放送局の違いを考えてください。新しい知識、新しい概念、新しい文化を紹介しなくなったら、放送局の存在理由がなくなります。それこそ受信料不払い運動が広がるでしょう。

みちくさみちくさ 2009/07/07 23:26 todoさん
> 誤りでなければ言ってよいのであれば、太平洋戦争は「大東亜戦争」と言い換えなければならない。
>
> 「言ってよい」という許容的な表現が、
> いつの間にか、「言い換えなければならない」という義務的な表現にすり替わってますよ。

別にいいじゃないですか。もともと日本は「大東亜戦争」と呼んでいたものを
無理やり「太平洋戦争」と言い換えさせられた訳ですから。それを考慮すると
そのように言い換えても十分結構だと思います。
あなた揚げ足取りしたいだけでしょう?

あ、でも、私も歴史に忠実に「大東亜戦争」で正しいと思っています。
「言い換え」から捏造が始まりますもんね。
南京大虐殺とか、従軍慰安婦とか、強制連行とか、いろいろ。

higetahigeta 2009/07/08 16:49 >みちくささん

表現がすり替わっているという、
論理的におかしいという指摘は認めねばならないでしょう。
日本vs○○という見立てはナンセンスです。
学問的には勿論、論理的にも。

歴史学では、呼称を無批判に採用することはないです。
研究が進展し、認識が改まれば、呼称も適切なものに改められるでしょう。

大戦争大戦争 2009/07/09 02:18 "日台戦争"という呼称が歴史学において一般的であるかどうかということが争点なのでは?
戦争と呼ぶことの妥当性が問われているわけではないよに思います。

higetahigeta 2009/07/11 10:11 学問的、論理的におかしいと主張していたのが、それがなりたたなくなると、
NHKの用語使用は、広く一般化した用語しか認めないという観点で、
より狭小な問題にシフトさせていく傾向にありますね。
「NHK先行不可論」「NHK劣位留置論」ですね。

ヒカリヒカリ 2009/07/14 00:15 檜山先生に直接話を伺った方がいるようですね。

ttp://innerpanther.iza.ne.jp/blog/entry/1109839/

もちろんこれも伝聞ですから、檜山先生が本当にこの通りのことを仰ったかはわかりませんが。
仮にこの話を前提とするなら、檜山先生が「日台戦争」という名称を用いた背景には、
下関条約締結=日清戦争の終了により、戦時国際法的には「戦時」といえない台湾討伐を
戦時国内法としては「戦時」という扱いにすることで、
『討伐で亡くなった日本軍を「戦死」と位置づけることができ、また、
 平定に尽力をして病死した人を、「戦病死」という扱いに出来る。
 そうすれば戦死した日本軍を靖国神社に合祀することができる。(上記HPより引用)』
という配慮があったようですね。(私の誤読の可能性もあるので確認してみて下さい)

NHKの放送からは、このような背景・配慮を読み取ることはできませんから、
あたかも「日台戦争」という用語が一般に通用しているかのような印象を受けてしまいます。
NHK先行不可とは言いません。
しかし、公共放送であるNHKを信頼し、その放送内容を半ば無条件に信じてしまう人もいますから、
誤解を生まないよう、用語の選択には慎重であるべきではないでしょうか。

ni0615ni0615 2009/07/14 08:22 ヒカリさんは、そのブログの筆者である「innerpanther」さんと同一人物ですか?
そう思えるほど文体が似ているのですが、たぶん違うのでしょうね。
「innerpanther」という人は直接檜山教授に電話したということになっていますが、大事なところは自分の解釈をしのばせ、あたかも教授がそういったかのように書いていますね。

其の文章の中から読み取れることは、
日台戦争について檜山教授がいったことは、日本政府が「戦争」としたことの理由として、実質「戦死」であるものを「公務死」という扱いにしてしまうことの非理があったから、ということではありませんか。

>『討伐で亡くなった日本軍を「戦死」と位置づけることができ、また、 平定に尽力をして病死した人を、「戦病死」という扱いに出来る。 そうすれば戦死した日本軍を靖国神社に合祀することができる。(上記HPより引用)』

そのへんの事情は、番組HPの「説明」においても書かれていますよ。

〜〜〜〜〜〜〜(NHKの「説明」から)
なお、「戦争」という用語については、以下の歴史的事実が根拠となっています。

ア、「戦時」認定
日清戦争開戦の前年、1893年5月に「戦時大本営条例」が勅令で定められました。
その後、日清戦争は1895年4月に下関条約が調印されますが、大本営はその翌年の1896年4月まで延長継続しています。これは、台湾における戦いが、「戦時」として認定されていたことを意味しています。

イ、「外征従軍者」
1895年6月、初代台湾総督の樺山資紀は、首相伊藤博文宛の電報の中で、「本島の形勢は恰も一敵国の如く、(中略)、実際の状況は外征」との認識を示し、台湾に派遣された文武諸官員の扱いを「外征従軍者」とするよう申し入れます。これに対し、伊藤首相は「事実上之を外征と見なし、その従軍者を外征従軍者として取り扱う」と回答し、閣議で了承されました。

上記の「戦時認定」と「外征従軍者」に関する歴史的事実により、台湾における戦闘は法制度上において「外征」すなわち対外戦争として扱われています。
〜〜〜〜〜〜〜〜(引用おわり)

>NHKの放送からは、このような背景・配慮を読み取ることはできませんから、あたかも「日台戦争」という用語が一般に通用しているかのような印象を受けてしまいます。

背景がしっかりあるからその用語を使ったというのが、NHKの「説明」ですね。番組の中でナレーションを増やす余裕があれば、もう少し説明がほしいところですが、それを言ってはキリが無い話です。私は70分の番組としては至当だったとおもいます。

ところで、そのHPにもコメントを寄せている「kinori」という人物が、以前このhigetaさんのサイトを利用して怪文書を紹介していましたが、世に怪文書のタネは尽きまじ、といったところでしょうか(笑)。

檜山先生も、怪文書やら電凸やら、さぞかし御迷惑なことと存じます。

ni0615ni0615 2009/07/14 15:52 >>ヒカリさん
上の方の書き込み
・kinori 2009/05/13 12:09
・風呂欄 2009/05/17 22:57
・ni0615 2009/05/19 23:38
をお読みください。

>もしご反論があれば、kinoriさんが
>>番組の内容に相当怒っておられるようです。
>と推定なさった根拠または判断ソースを仰ってください。

この私の問いに kinori さんは答えず、
「樋山先生は相当怒っておられるようです」というデマネタを成果として遺して、gone away(とんづら)したようですね。

ヒカリヒカリ 2009/07/15 02:55 ni0615(2009/07/14 08:22, 2009/07/14 15:52 )さん

お恥ずかしいことですが、私がNHK「JAPANデビュー」問題について知ったのはつい最近のことです。
そこで、色々な立場の方が書かれる文章を読ませていただき、自分なりに考え悩んでいるところです。

「innerpanther」さんのブログを紹介しましたのは、ni0615さんがご指摘になっているkinoriさんの
書き込みを読みまして、檜山先生の放送後のご意見を載せているところがあるのか気になって探したところ、
たまたま見つけたためです。
檜山先生のご意見に興味のある方もいらっしゃるかと思い紹介しましたが、前にも申しましたように、
檜山先生がここに書かれている通りのことを本当に仰ったのかはわかりません。
もしこのような紹介の仕方が不適切であったのなら、軽率な書き込みをしてしまい申し訳ありません。
また、「innerpanther」さんと同一人物とされるのは、あちら様に迷惑がかかると思いますので、違いますと断らせていただきます。

NHKが、ni0615さんが引用してくださいました「説明」のような、しっかりとした背景をふまえたうえで、
「日台戦争」という言葉を用いたということはよくわかりました。
『「日台戦争」と呼ぶのは誤りか』という問題に対する答えとしては、意見は分かれるところですが、
私には「日台戦争」と呼んでも誤りとまではいえないという気がしました。

しかし、その次の段階の話として、
『では、NHKが「日台戦争」という用語をあのような形で用いることに問題はないか』
という視点でみますと、「日台戦争」が広く一般化した用語であるかのような印象を与えるものであり、
やはり問題があったといえるのではないでしょうか。
ただ、この点につきましては、こちらのブログ主でいらっしゃるhigetaさんが、

>NHKがどう番組をつくるべきか、という問題の枠内のみで論じることに、
 あまり関心はないので、ご了承ください。

と仰っていますので、これ以上この話を引っ張ることは控えることに致します。
レスを下さいましたni0615さん、ありがとうございました。
ブログ主様、主題から逸れた話を長々と書いてしまい申し訳ありません。

ni0615ni0615 2009/07/15 10:29 ヒカリさん
ご丁寧なレスほんとうに有難うございます。
私があなたを誤解していた面があったことを深くお詫びします、

NHKはNHKなりの裏づけがあってした、という点では一致したようですが、なお貴方にはご懸念がある。
普遍性、一般性、に懸念がある、と。
私は、そのような懸念を貴方が持つこと、其の意見を表明なさることは、当然然るべきことだと思います。
そこから、議論が生まれるのですから。

なお議論が生まれるということと、「放送してはならぬ」ということとでは、次元が全く異なります。
放送なりメディアというものは、確かな根拠を踏まえつつも世の中に新しい観点を提示するのが仕事です。

NHK「アジアの一等国」が、視聴者の中で近現代史の議論を呼び起こしたとしたら、それは十分に番組としての役割を果たしたと、誉められるべきかと思います。

若し仮に、十分な議論のすえに将来、NHKの提起が否定されたとしても、番組としては機能を果たしたものと考えるべきではないでしょうか。そうしないと、メディアが「新しい切り口」「新しい概念」を提示することに臆病に成り、言論国家としては沈滞したものになるでしょう。

つまり、一定の裏づけのある仮説の提示を、「定説になっていないから」という理由で禁止してはいけない、とうのが私の結論です。NHKであっても同様です。公共放送の例としてはイギリスBBCの例もあります。北朝鮮の平壌放送とは違うのです。

NHKの番組に欠点や物足りなさを私も感じています。しかし、それをフランクに語り合おうとしても、番組制作を政治的に制約しようとする力が働いている中では、それも出来難いものです。

有難うございました。

higetahigeta 2009/07/15 10:38 ヒカリさん

2ヶ月前の時点では、学問的に適切かどうかという問題と、
NHKがどういう番組をつくるべきかという問題とが
混同されているように感じたので、区別して、前者の問題が優先だと考えました。

その後、行きがかり上、後者の問題についても発言しているので、
仰るように両者を区別した上でしたら、お気になさらず、ご意見いただければと思います。


私としては、視聴者には判断力がないという観点からの立論は、
賛同できません。

あいだあいだ 2009/07/17 03:28 higeta さん

この問題はNHKの放送法上の義務を前提にはなしているのであって、学問的な誤りかどうかという問題ではありません。
単純に、学説ならどんな説もそのことで糾弾されることはあっても番組内容が中立である必要がある等というのと
同じ意味で中立性を求められることはないからです。そのことから、あなたの立論はかなり変だと思います。
NHKの放送法上の中立義務を前提にして、NHKの放送の問題として議論するべきでしょう。
もし、それがわかっておられないのなら仕方ありませんが、失礼ですが意図的に論点をずらしているとも見えます。

あいだあいだ 2009/07/17 03:33 ni0615 さん

NHKが広く論点を紹介するのと、その中の一つの立場をおして、中立性を損なうのとは別のことです。
日台戦争という言葉だけでなく、この番組では、証言者の証言内容がその意図とは異なる方向で侵害されていたり、
しているという指摘があります。とすれば、中立性問題だけではなく、人格権侵害の問題にも
なります。 

報道の自由も他人の人権を傷つける可能性の元では内在的制約を受けるのだという
常識をこのケースでもきちんと理解してもらいたいと思います。

higetahigeta 2009/07/17 13:08 あいださん

NHKが世界のすべてのように仰られても困ります。
歴史学のフィールドに関わる問題なので、歴史学の立場から考えます。
歴史学を度外視した、中立的な放送だけを問うような抽象的な議論は、建設的でしょうか。

ni0615ni0615 2009/07/17 23:08 あいださん

証言者の証言内容がその意図とは異なる方向で侵害されている、とは、確かにチャンネル桜という政治団体が主張していますね。しかしどうでしょう。ある特定の政治団体がそう主張していることをもって、「NHKは怪しからん」と立論するのは飛躍ではないでしょうか。

加えてNHKは、いったい誰の、どのような人権を傷つけたのでしょうか? あいだ さんが認識する事実を教えていただけませんか?

受けたインタビューの全てが放送される筈がないことは、取材を受けた台湾人の方々も十分承知の上だったと思いますが、ちがうでしょうか? 貴方は、NHKのディレクターは「貴方の言いたいことを全て放送します」と約束した、と仰ってるのですか? 柯徳三さんは、「日本の台湾統治は、功50%、罪50%、私の書いた本は日本の出版社によって悪いところが削られた。NHKの番組では良いところが削られた。私自身は気に入らないが、NHKに抗議などしない」と言ってましたよ。


どうみても強情なチャンネル桜のねじ込みに応じて、反NHKを言わされているとしか思えません。どこか異常です。

真実報道真実報道 2009/08/19 10:38 台湾討伐でいいんじゃないか。実態がそうだから。無理に日台戦争とする必要性を感じない。
やはり、NHKのある意図やイデオロギーの偏りを感じないとしたら、嘘でしょ。
NHKの意図は親日国家と言われる台湾でも、いろいろと過去にあったんだよと主張したかったこと。
多少の脚色や、「日台戦争」なる聞きなれない言葉をインパクトとして、用いようとしたことも明白。

それよりも、ジャーナリストを自称するなら、現在進行形の民族浄化をおこなってる
ウイグルやチベットや、捏造である南京大虐殺を検証報道してもらいたいものだ。
圧力に屈せずに、真実の報道をしてもらいたいものだ。

higetahigeta 2009/08/26 09:17 NHKの見解との相対的な関係だけが世界のすべてのように
立論することはないでしょう。

xxxxxx 2009/09/26 19:46 乙未戦争というれきとした名称がついているのですからこれを檜山氏造語の日台戦争と言い換える必要はありません。
檜山氏の日台戦争の採用は身勝手な用法であり無用な混乱を惹起しているだけです。
分別がある方であればこれほどの論争を引き起こすような造語の使用は控えるはずです。
同様に氏の「日台戦争」を敢えて採用したNHKにも大いに疑問を感じます。
最早彼らは単なる歴史の紹介者ではありません。彼らは何を世論に訴え、何を社会に惹起したいのでしょうか?

higetahigeta 2009/09/27 10:05 ものごとを規定し直すのが学問の役割です。
「乙未戦争」という台湾側の呼称は、日本ではそれほど定着していないと思います。
「台湾征服戦争」を用いる人が多いですが、「日台戦争」の呼称はそれと矛盾するものでもないでしょう。

歴史家が事象を十全に反映していない呼称であると感じたら、呼び直すのは当然のことでしょう。
むしろ議論を呼び起こすことに学説を発表する意味がありましょう。
自分の土俵で説得力ある議論を展開できるのなら、
先行研究における呼称を単純に踏襲する必要はなく、新しい言葉や概念規定が用いられます。

笛吹き童子笛吹き童子 2009/09/30 21:57 higeta様 御説 ご尤も 反論の余地無しです。
 学説は幾らでも有って結構、己を陥れ、辱めて己の反省の証とするのも学問の自由の名に措いて成される亡国の論者様
nhkのジャパンデビューに使われた「日台戦争」の使い方、無いことを如何にも事実で有ったように編集捏造して視聴者を
誑かす如き公営放送機関としての存在を自ら否定したものと私は理解をしています.
 この件でnhkに抗議をして見ましたが、彼らに反省の一片も無く 敗戦後進駐してきたGHQの捏造した歴史を垂れ流して
国民を愚弄したnhkにはGHQの強制の元 多少なりとも同情の余地が有りましたが 今日のnhkにとってのGHQは一体
誰なのでしょうか nhk労働組合、左翼学説者、チベット、ウイグルに侵略、資源略奪及び其の民族浄化を行って平然としている
支那を仰ぎ奉っている昔風に云えば「進歩的 人士」なのでしょうか。
学問の自由は大切です、だからと言って歴史の捏造は許されるものでは有りません.

higetahigeta 2009/10/03 10:14 ある史実に関して考えてみようというとき、いろいろな材料を集めます。
NHKの見解を材料にするにしても、それは材料の一つに過ぎません。

koamikoami 2009/10/09 01:57 初めて書き込ませていただきます。
上記「内閣より 在台湾文武諸官員外征従軍者として取扱の件」(アジア歴史資料センター ref:C06022096100)について、残念ながら読解を間違っておられるようですので、コメントさせていただきます。

まず外征扱いにしたのは台湾で働く諸官の待遇であり、これはご指摘の通り恩給の加算年についての優遇請求です。現実に、その樺山総督の請求の後ページに当時の陸海軍連名で恩給請求をしている資料が存在していますので、そのことが分かります。(アジア歴史資料センター ref:A01200841500)

次に、その資料をご覧になったのなら、その前ページの「閣議決定」もご覧になったことと思いますが、閣議決定には、はっきりと「この戦闘は”日清戦争に伴う”結果だから」、これを「事実上」外征と見なすと書かれております。

そして、外征と見なすのは恩給などの待遇を「事実上=実際の状況」に合わせて改善するためです。同時に、この一文から、政府が台湾での戦闘を「日清戦争の延長、あるいは一部」と考えていたことも分かります。

また、「一敵国のように」と書かれている以上、当時の日本政府は台湾を敵国とは考えていなかったとしか考えられません。もし本当に敵国だと考えているのであれば「〜のように」とは書きませんから。

書いてある内容を簡単に要約すれば以下のようになるでしょう。

●すでに講和条約も結んで平和になり、台湾はすでに日本国内になっている
●なのに、まるで敵国のように清国の将卒が居残って攻撃してくる
●まだ台湾の実情を知らない政府は、当然台湾は国内だと思っているだろうが、実際にはまだ清国兵との戦闘が起こっていて危険だから(※)、内地勤務ではなく外征扱いにして、台湾で働く人間の恩給を優遇してやってほしい

※恩給は任務の危険度で変化するため。最高で1カ月につき3カ月加算される(=通常の4倍)

要するに、この文書は「今後も残留清兵との戦闘は避けられないので、台湾で働く公務員は(危険手当として)恩給を優遇してあげてください」と書かれているだけなのです。

調べれば、他にも同種の恩給請求が見つかると思いますので、是非ご検索ください。

higetahigeta 2009/10/17 16:21 koamiさん

お返事が遅くなりました。

>要するに、この文書は「今後も残留清兵との戦闘は避けられないので、台湾で働く公務員は(危険手当として)恩給を優遇してあげてください」と書かれているだけなのです。

「書かれているだけ」の「だけ」にどういう意味が含意されているのでしょうか。
法制度上、戦争状態と認められていることは重視すべきではないでしょうか。
このエントリには書きませんでしたが、台湾出征中の戦病死者の靖国合祀も認められます。
最初の植民地獲得のためのこの戦いが、日本政府にとっていかに重要な意味をもっていたのかは、
よく踏まえられるべきでしょう。

ni0615ni0615 2009/10/20 11:52 koamiさん
私も「貴方のように」屁理屈を申上げましょうか?

この場合の「ように」というのは、私と貴方は別個の存在ですが実質は同じ「様に」考えていることです。実質、コンテンツが同じもしくは同類という意味です。

普通の人は貴方の「ように」逆立ちした考えはしてません。
・・・・・(注:私は貴方が逆立ちしてないと考えたから「ように」と申上げたわけではありません。)

あなたは、「講和条約を結んだ後のものは戦争とは呼ばない」「主権国家同士のものでなければ戦争と呼ばない」と杓子定規を主張なされば、あなたは貴方なりにまっつぐな主張をしたことになります。わたしは、そういう杓子定規で外制的な主張も、それは物事をどう定義したいかという選択の問題としてアリだと思いますが、現実、日清戦争本戦に匹敵するかそれを凌駕する軍隊が動員されその犠牲者も同様(「同じよう」)だったのですから、戦争と呼ぶ研究者がいて当然だと思いますし、私も同調します。

「日中戦争」や「ヴェトナム戦争」はどうですか? 戦争ではないのですか? アフガン戦争はとっくのとうに終わってるんですか?

koamikoami 2009/10/24 16:28 higetaさん
ni0615さん
お返事ありがとうございます。
ですが申し訳ないことに、お二人の上記の文章は意味不明で、私には理解ができません。
遅くなりましたが、少しずつお返事させていただきます。


■higetaさんへ

1.法制度上は内乱だが、事実上は外征と仮定する

>「書かれているだけ」の「だけ」にどういう意味が含意されているのでしょうか。

『日本政府が台湾での戦闘を「外征(外国との戦争)」だと認めていた』という過剰な解釈は間違っています、という意味です。
以下に閣議決定を掲載しますので、こちらのページで最初に引用されている樺山総督の文書とともにご参照ください。両方とも同じ文書に保存されていますし、閣議決定は樺山総督の文書の前に掲載されていますから、必ずご覧になっているはずです。

■閣議決定(アジア歴史資料センター ref:C06022096100)
第二九号 朝第五一九五号 内閣 送第八七号 別紙 明治廿八年八月十七日
『別紙 臺灣事務局總裁 具申 臺灣島ニ文武ノ職ヲ奉スル者 事平定ニ至ルマテ 外征従軍者トシテ取扱ノ件ヲ審査スルニ 日清間ノ平和既ニ回復シ 臺灣島ノ受渡完了シタル今日ニ於テハ 臺灣島ハ固ヨリ既ニ帝國ノ版図ニ属スト雖 條約批准交換後二年間ハ 其ノ土民ハ未タ純然タル帝國ノ臣民ト云フコトヲ得サルノミナラス 数多ノ清國ノ残兵 除要ノ地ニ拠リ 土民ト相合シテ 頑固ナル抗敵ヲ為シ 形勢恰モ一敵國ノ如ク 今後尚幾多ノ戦闘アルコトヲ免レサルヘシ 而シテ是皆日清戦争ニ伴ウノ結果ナルヲ以テ 事実上之ヲ外征ト見做シ 其ノ従軍者ヲ外征従軍者トシテ取扱フモ 敢テ不都合ノ廉無 之ニ付 具申ノ通 閣議決定相成可然ト認ム』

特に
『而シテ 是皆日清戦争ニ伴ウノ結果ナルヲ以テ 事実上之ヲ外征ト見做シ 其ノ従軍者ヲ外征従軍者トシテ取扱フモ 敢テ不都合ノ廉無 之ニ付 具申ノ通 閣議決定相成可然ト認ム』
の部分をご覧ください。

(1)「事実上」
なぜ日本政府が「事実上」と書いているかというと、「法制度上」では台湾はすでに日本国内だからです。樺山総督が最初に「日清両國間ノ平和 既ニ回復シ 台湾島ノ受授ハ完了セリト雖」と書いているのはそのためです。つまり「法制度上は外征ではない」以上、このままでは台湾勤務者は戦闘の発生している危険地帯で任務に従事するのに「外征従軍者トシテ諸般ノ取扱」をしてもらえません。

(2)「事実上之ヲ外征ト見做シ」
一般的に「見なす(看做す、見做す)」という言葉は、「仮にそうだと定める(仮定する)。実際にはそうでないものをそうだとする。判断する」などの意味で使用されますので、日本政府は『(法制度上では内乱だが)事実上ではこれを外征だと仮定(判断)した』わけですが、その判断の根拠は残留清兵が下関条約を破って攻撃を仕掛けてきているからです。

■閣議決定
『数多ノ清國ノ残兵 除要ノ地ニ拠リ 土民ト相合シテ 頑固ナル抗敵ヲ為シ 形勢恰モ一敵國ノ如ク 今後尚幾多ノ戦闘アルコトヲ免レサルヘシ』
■樺山総督
『本島ノ形勢ハ恰モ一敵国ノ如ク清国ノ将卒ハ淡水三貂湾ニ於テ我兵ヲ射撃シ又金咬蒋基隆等ニ於テ頑固ナル抗敵ヲ為セリ而シテ南方安平打狗等ニ於テ我軍艦ヲ屡砲撃シ又新竹以南ハ尚夥多ノ残留清兵充満スルヲ以テ今後幾多ノ戦闘アルヲ免レス』

(3)「平定」
これは台湾で働く人間を外征従軍者扱いにするための臨時措置であり、だからこそ樺山総督も「其平定ニ至ルマテ」と期間を限定しているわけです。また、「平定」という言葉を使用しているのは、この戦闘が台湾=日本国内での内乱だからで、樺山総督が1985年11月18日に発布したのも台湾「平定」宣言です。他に「鎮定」「征討」という言葉も使用されていますから、当時の日本政府は一貫して「乱を鎮める」という認識であったわけです。なぜなら、当時の台湾はすでに日本の領土だったからです。

koami koami 2009/10/26 04:01 2.外征ではないからこそ、「外征扱いにしてほしい」と依頼している

>法制度上、戦争状態と認められていることは重視すべきではないでしょうか。

まず、上記1.でご説明しました通り、日本政府は「法制度上」では戦争と認めておりません。認めたのは「事実上」であり、それも「台湾勤務者を外征扱いにしてあげるため」の判断の根拠としてです。つまり、日本政府が法制度上で「外征扱い」と認めたのは、あくまでも「台湾で働く人間の扱い」だけです。

次に、樺山総督は「外征だ」と書いたのではなく、「外征の状況と同じ状況だ」と書いている点に注意が必要です。何が「同じ状況」かというと、これも1.に書きました通り、1985年4月17日の下関条約で清国政府が戦闘停止に同意し、5月18日批准交換でたにもかかわらず、「残留清兵が攻撃してきている状況」が、「敵地で攻撃を受けている状況」と同じということです。しかも、もともと休戦に熱心だったのは清国(李鴻章)の方でしたから、これはだまし討ちと言っても良い行為です。

また、「戦争だと認めた」のであれば、はっきりと「これは外征だ」と書けばいいのであって、わざわざ「外征の状況と同じ状況だ」などと回りくどい書き方をする必要はありません。樺山総督も、「台湾で働く人間を外征従軍者扱いにしてくれ」などと回りくどい書き方をせずに「これを外征と認めてくれ」と書かけば良いのです。そうすれば自動的に全員が外征従軍者になるわけですから。

加えて、常識的に考えても、現地レポートに待遇改善の申請が付加された程度の電報だけで「日本政府が正式に戦争と認めた」と主張するのは、いくらなんでも無理があります。

koamikoami 2009/10/27 19:26 3.台湾出征中の戦病死者の靖国合祀には問題は無い

>このエントリには書きませんでしたが、台湾出征中の戦病死者の靖国合祀も認められます。

これはどのように問題なのでしょうか?
外征かどうかは、靖国神社の合祀対象者の条件ではないと思うのですが。

wikipedia「靖国神社」より
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%96%E5%9B%BD%E7%A5%9E%E7%A4%BE
合祀対象者
軍人・軍属
1. 戦地、事変地、および終戦後の各外地において、戦死、戦傷死、戦病死した者。
2. 戦地、事変地、および終戦後の各外地において、公務中に受傷罹病し、内地に帰還後、療養中にその受傷罹病が原因で死亡した者。
準軍属およびその他
1. 軍の要請に基づいて戦闘に参加し、当該戦闘に基づく負傷または疾病により死亡した者。(満州開拓団員・満州開拓青年義勇隊員・沖縄県一般邦人・南方および満州開発要員・洋上魚漁監視員)

higetahigeta 2009/10/31 00:01 koamiさん

政府が外征従軍者と見なしたことと、
外征と認めたこととは違う。派遣された文官に配慮しただけという主張ですね。

しかし、「文武官」とあるように文官だけに配慮したわけではないですよね。
この閣議決定があればこそ、
武官、軍人の軍功行賞、特別賜金給付、従軍加算の期限も延長され得ます。

そもそもなぜ外征従軍者と認めたのでしょうか。
外征従軍者と認めるからには、認めるに足る状況があったからでしょう。

その通り、「頑固ナル抗敵ヲ為シ 形勢恰モ一敵國ノ如ク 今後尚幾多ノ戦闘アルコトヲ免レサルヘシ」と述べられています。

また「台湾総督府より軍功に対する臨時行賞の件」(明30)でも、
「決シテ内地土寇竹槍席旗ヲ鎮圧スルノ類ニアラズ」と述べています。

だからこそ大本営が存続されます。

檜山幸夫氏も
「この決定は、単なる台湾平定従軍文武官を外征者として取扱うといった問題だけではなしに、政治的・法的・軍制的・財政的とあらゆる意味で戦時認定期間が延長されたことを意味するもの」と述べています。
(檜山幸夫「日清戦争と戦時体制の形成」『社会科学研究』4-2、1984.3、140頁)

koamikoami 2009/11/06 17:51 higeta さん

お返事ありがとうございます。

上記の続きを書く前にお返事させていただきますと、「講和条約の済んだ戦争の延長として戦闘が存在(継続)している」ことと、「新しい戦争と認める」ことは違いますよね。


 ■乃木原文「決シテ内地土寇竹槍席旗ヲ鎮圧スルノ類ニアラズ」
 ■現代語訳「決して内地の百姓一揆を鎮圧するようなものではない」


まず、相手は銃で武装しているのですから、「”竹やり”や”むしろ旗”(竹槍席旗)」の「一揆(土寇)」と違うのは当たり前ですよね。

(余談ながら、平手神酒の例を出すまでもなく、当時の常識として、竹やりと言えば百姓一揆かヤクザの出入りと相場が決まっています)

言うまでもないことですが、この時点では廃藩置県も終了し、西南戦争を最後に日本国内の暴動も終了していますので、すでに百姓一揆は存在しません。

つまり、この文章は書き手である乃木大将が「単に比喩として書いているだけ」であり、そのような重大な意味は含まれていないのです。

(司馬遼太郎は旧軍のこうした装飾過多の実務的でない報告や命令を批判していますが、乃木将軍は特にその傾向が強かった人物として知られています)

これはむしろ、台湾での戦闘は「竹やり、むしろ旗()」「一揆(土寇)」で武装したような暴動と比較される程度のものでしかなかったという証拠でしかありません。

また、大本営が継続されたのは台湾の受領に伴う戦闘が日清戦争の延長だからであり、だからこそ伊藤内閣は「台湾勤務者を外征従軍者として認めた」のです。

なぜなら、日清戦争は「外征」だからです。

もしも台湾での戦闘が「独立した新しい戦争」だとすれば、むしろ大本営も新しく設置されるか、閣議決定で新しい戦争であると決められ、発令されなければなりません。

つまり、大本営が継続されている以上、台湾での戦闘が日清戦争と違う「新しい戦争」であるはずがないのです。

また、論文で語られるような「現象としての戦争」と、「法制度上の戦争」とは違いますので、論文で使用されているから戦争と言って良いというのは間違いです。

檜山氏の研究の価値は変わりませんが、檜山氏の論文をもって「法制度上も戦争だった」とは主張できません。

なぜなら論文とは「事実の解釈」であり、「事実」ではないからです。

少なくとも、公共の放送で使用するのであれば、それがあくまで論文でのみ使用されている言葉であることを明示しなければなりません。

なぜなら、「法制度上の戦争」と混同される危険があるからです。

koamikoami 2009/11/06 19:27 申し訳ありません。
書きかけで投稿いしてしまいましたので、乃木総督の「(台湾での戦闘は)決して内地の百姓一揆を鎮圧するようなものではない」という文章について、以下のように訂正・補足いたします。


《以下訂正↓》

これはむしろ、台湾での戦闘が「竹やり、むしろ旗(竹槍席旗)」で武装した「一揆(土寇)」と比較される程度の暴動でしかなかったという証拠でしかありません。

なぜなら、乃木総督が「百姓一揆程度のものじゃない」とわざわざ上告しているということは、日本政府が台湾での戦闘を「百姓一揆程度のものだ」と考えていたということだからです。

しかも、この乃木総督の送った文書は、「日清戦争の続きなのだから、日清戦争と同じ基準で叙勲(論功行賞)してくれ」という請求書ですよね?

つまり、この文章は『日本政府が台湾での戦闘を「戦争」と見なすはずがない』という良い証拠なのです。

《訂正終了↑》

higetahigeta 2009/11/06 22:29 >「講和条約の済んだ戦争の延長として戦闘が存在(継続)している」ことと、「新しい戦争と認める」ことは違いますよね。

政府が「新しい戦争と認め」たとは、もともと私は主張してないですよね。
「新しい戦争」と規定するのは、歴史をかえりみる立場にある私です。
「講和条約の済んだ戦争の延長として戦闘が存在(継続)している」ことは、その判断材料です。

koami koami 2009/11/06 23:22 higetaさん

これは失礼いたしました。
では、higetaさんのおっしゃる戦争は、「法制度上の戦争ではない」ということなのですね?

higetahigeta 2009/11/06 23:45 「法制度上の戦争」とは何を意味するかわかりませんが、
戦争の呼称に関して、歴史的に判断するということです。

koami koami 2009/11/07 01:43 higetaさん

>「法制度上の戦争」とは何を意味するかわかりませんが、

higetaさんご自身が、私へのレスで
「法制度上、戦争状態と認められていることは重視すべきではないでしょうか。」
と書かれていましたので、確認させていただきたかったのです。

つまり、日本政府が台湾での戦闘を「戦争とは認めていなかった」ことはお分かりいただけたのですね?

higetahigeta 2009/11/07 10:11 >日本政府が台湾での戦闘を「戦争とは認めていなかった」ことはお分かりいただけたのですね?

いいえ、わかりません。
講和条約締結後においても戦争状態の継続はあり得ますし、
政府もそれを認めていました。認めるからこそ、戦時法制の延長措置をするわけです。

koamikoami 2009/11/07 14:04 ご自分で「法制度上」という言葉を使用されたのに、意味が分からないと言われると困ってしまうのですが(苦笑)



>政府もそれを認めていました。

上でも書きました通り、政府は戦争と認めておりません。

なぜなら、内閣は公文書に「日清戦争に伴うものだから」と書いていますし、乃木総督も「日清戦争とまったく連携している」とはっきり書いていますから。



(1)乃木総督の文書:「台湾での戦闘は日清戦争の続き」

■「台湾総督府より軍功に対する臨時行賞の件」明治30年5月○日
『目下台湾ノ現状タル右四月十一日以前ノ状況ト決シテ差異無之唯名義上廿七八年戦役ト其関係ヲ離レタリト雖トモ其実全ク之ニ連繋シ其討伐ノ如キモ土匪アリ支那残兵(台東ニ集団シ在リタルモノ)アリテ決シテ内地土寇竹槍席旗ヲ鎮圧スルノ類ニアラズ』
(アジア歴史資料センター ref:C03023083900)

まず前提として、higetaさんも読まれたかと思いますが、この文書の前段では、明治29年4月11日から、軍人軍属の論功行賞基準が、日清戦争の時の基準から通常の基準に切り替わったことが説明されています。
つまり日本政府が「戦争ではない」と判断したため、行賞の基準が下がったわけです。

それを踏まえて現代語訳してみましょう。

■現代語訳
『今の台湾の現状は、右4月11日以前の状況と決して変わっていません。ただ法制度上では明治27,8年戦役(日清戦争)とその関係が離れたとは言え、その実態は完全に日清戦争に連携しており、その討伐も土着の匪賊や清国の残兵(台東に集団で存在しているもの)が相手で、決して内地の竹やり・むしろ旗の百姓一揆を鎮圧するようなものではありません』

要するに、乃木総督は
・日清戦争は実質的には終ってなくて、今も続いているんだ。
・だから論功行賞を日清戦争の時の基準に戻してくれ。
・でないと士気が落ちて、予想外の失敗をするかもしれないよ。
(其趣ヲ異ニスル時ハ 行賞適実ヲ欠キ 大ニ士気ノ振否ニ関係シ 不測ノ患害ヲ生スルニ至ルモ 亦タ知ルベカラス)
と言っているのです。

部下のために「日清戦争の続きだから、危険な任務だから、ちゃんと日清戦争の時の基準で部下を評価してやってくれ」と、乃木総督は日本政府に頼んでいるんですね。

上でも書きました通り、これは日本政府が台湾での戦闘を「戦争ではない」と考えていた証拠なのです。



(2)言葉の定義:「戦争状態」ではなく「戦闘」

また、「戦争状態」と言うから紛らわしいのです。
単に争いがあることを指す一般用語の「戦争」と、国家が閣議で決定する「戦争」も違うものです。

要するに、「戦争状態」と「戦争」は意味が違うので、混同させてはいけないのです。
「戦闘」と言えば、より分かりやすくなりますよ。
以下のように定義しておくのが妥当と思われます。

■戦争状態=複数の勢力間に戦闘が発生している状態=「戦闘」
■戦争=「日本政府が閣議で正式に認めた戦争」

koamikoami 2009/11/07 14:07 higetaさん

もう一点、指摘せざるを得ない点があります。


>「新しい戦争」と規定するのは、歴史をかえりみる立場にある私です。
>「講和条約の済んだ戦争の延長として戦闘が存在(継続)している」ことは、その判断材料です。


(1)文章の説明

「講和条約の済んだ戦争」とは日清戦争のことです。
「新しい戦争」とは、日本と清国ではなく日本と台湾が新たに戦争をしたという意味で、たとえば日台戦争だと主張することなどを指します。

伊藤内閣や乃木総督が台湾での戦闘を「日清戦争の延長」と書いている以上、台湾での戦闘は「あくまでも日清戦争の一部であって、別の戦争などではない」のです。


(2)higetaさんの誤謬:『日清戦争だから日清戦争じゃない』

上記のhigetaさんの主張を要約すると以下のようになります。

  私は「日清戦争の延長として戦闘が継続している」ことを
  判断材料にして歴史をかえりみた結果、台湾での戦闘を
  「新しい戦争」だと規定する。

要するに、higetaさんは『日清戦争の延長だから、日清戦争とは別の新しい戦争だ』と主張していることになります

つまり、higetaさんは『日清戦争だから日清戦争じゃない』と言っていることになりますので、これは矛盾しています。

幸い上で説明しました通り、このページで引用されている資料により、伊藤内閣も乃木希典第三代台湾総督(1896年10月14日 - 1898年2月26日)も「この戦闘は日清戦争の続きである」と主張していたことが証明されていますので、この点については疑問の余地はないでしょう。

higetahigeta 2009/11/07 16:37 >つまり、higetaさんは『日清戦争だから日清戦争じゃない』と言っていることになりますので、これは矛盾しています。

矛盾はしません。

日清戦争の延長として戦闘が、日清戦争とは別の新しい戦争に変容していったものと考えます。
政府でも誰でも見通しを誤ることはあり、当時のものの見方を絶対視して
その枠内に収まることはないのです。

higetahigeta 2009/11/07 17:02 >日本政府が台湾での戦闘を「戦争ではない」と考えていた証拠なのです。

結局、乃木の稟申通り、閣議決定されましたよね。
日本政府の認識の評価を、稟申以前に限定する意味はあるのでしょうか。

koamikoami 2009/11/08 13:45 higetaさん

だんだん話がおかしくなってきました。


(1)higetaさんの矛盾

まず、higetaさんはこう書かれました。
>「新しい戦争」と規定するのは、歴史をかえりみる立場にある私です。
>「講和条約の済んだ戦争の延長として戦闘が存在(継続)している」ことは、その判断材料です。

次にこう書かれましたね。
>日清戦争の延長として戦闘が、日清戦争とは別の新しい戦争に変容していったものと考えます。

つまり、「日清戦争とは別の新しい戦争に変容していった」と考えているのは、「歴史をかえりみる立場にある私=higetaさん」ご自身ですよね?

失礼ですが、これはhigetaさんの想像であって、日本政府が認めたわけではないじゃありませんか。


(2)日本政府は一貫して「一揆の鎮圧」という認識

樺山初代総督の稟申が明治28年(1895年)7月10日。
乃木第三代総督の稟申が2年後の明治30年(1897年)5月ですよね?

つまり、この約2年間、日本政府は一貫して「台湾で起きているのは一揆の鎮圧レベルだ(内地土寇竹槍席旗ヲ鎮圧スルノ類)」としか考えていなかったわけです。


(3)台湾の戦闘は「より小規模に変容」していた

乃木総督の赴任前に台湾平定宣言(1895年11月18日)が出ています。
乃木総督の台湾赴任は1986年10月ですよね?
日本政府は乃木総督が赴任する前に、「清国ノ残兵」の日清両国政府に対する反乱の鎮圧が終了したと公式に認めていたわけです。

つまり、乃木総督のときには戦闘の規模が台湾平定宣言以前よりもはるかに小規模になっていたことを示しています。
「清国ノ残兵」がほとんど駆逐されていたわけですから、これは当然です。

(ただし、台湾平定宣言後も1985年12月と1896年1月に大規模暴動あり。どちらも乃木総督赴任の前に終了している)

したがって、日本政府が台湾での戦闘を「日清戦争とは別の新しい戦争に変容していった」と考えるわけがないのです。

「清国ノ残兵」もいなくなり、「戦闘はより小規模で、より散発的なものに変容していた」のに、何故より大きな「戦争だ」と認めなくてはいけないのでしょうか?

台湾での戦闘が「大きく変容していった」のではなく、「小さく変容していった」点に注意が必要です。


(4)閣議決定されたのは「待遇改善」だけ

>結局、乃木の稟申通り、閣議決定されましたよね。

閣議決定されたのは以下のことについてだけです。
・樺山総督=「台湾で働く人間の待遇を外征従軍者扱いにする」
・乃木総督=「論功行賞の基準を日清戦争の時のものにする」

台湾での戦闘を新しい戦争と規定したわけではありませんよ。
樺山総督も乃木総督も、「台湾での戦争を新しい別個の戦争として認めてくれ」とは書いていないですよね?


(5)日本政府が「新しい戦争と規定した」文書はない

>日本政府の認識の評価を、稟申以前に限定する意味はあるのでしょうか。

別に限定はしておりません。
稟申以後に日本政府が台湾での戦闘を新しい戦争と規定したという文書が存在していないだけです。

koamikoami 2009/11/10 01:49 まだhigetaさんが反論なさっておりませんが、ずいぶんお待たせしていますので先にni0615さんへのお返事を書いておきます。

ni0615 さん

どこが問題なのか、まったく分かりません。
ni0615さんの発言は、私の発言とまったく同じです。

■私の発言
『また、「一敵国のように」と書かれている以上、当時の日本政府は台湾を敵国とは考えていなかったとしか考えられません。もし本当に敵国だと考えているのであれば「〜のように」とは書きませんから。』

■ni0615さんの発言
『この場合の「ように」というのは、私と貴方は別個の存在ですが実質は同じ「様に」考えていることです。実質、コンテンツが同じもしくは同類という意味です。』


では、同じであることを解説します。

(1)異なる存在
私(樺山稟申):「台湾と敵国」(※)
ni0615さん:「私と貴方」

  ※当時の台湾は1895年4月17日の下関条約によって
   日本に割譲され、同年6月2日の樺山・李経方の
   船中商議によって清国からの授受も終了して
   日本国内になっている。


(2)同じコンテンツ
私(樺山稟申):「戦闘」
ni0615さん:「考え方」


(3)要約
私(樺山稟申):
「台湾は敵国ではない。しかし敵国と【同じ様に】戦闘が発生している」
ni0615さん:
「私は貴方ではない。しかし【同じ様に】考えている」


さらに、樺山稟申と伊藤内閣による閣議決定の趣旨を掲載いたしますのでご確認ください。


(4)樺山稟申の趣旨
『台湾島は3か月前まで敵国(清国)の領土だったが、今は日本の領土である。したがって、台湾島はすでに敵国ではないし、受領も終了して戦闘も必要ないはずだった。しかし、現実には台湾の清国兵が清国政府に反乱を起こし、まるでまだ敵国であるかのように攻撃を仕掛けてきているので、危険な状態だ。その危険性を考慮して、台湾勤務者の待遇を外征従軍者扱いにして恩給や危険手当を優遇してやってほしい。』


(5)閣議決定の趣旨
『台湾での戦闘を、日清戦争の結果に伴う台湾受領のために起こった暴動鎮圧と認め、日清戦争が外征であることから、台湾勤務者の待遇を外征従軍者扱いにすることに特に不都合なこともないので、樺山総督の稟申通りに決定する』


ですので、ni0615さんが何故私の見解を「屁理屈」と言われているのか、私には理解できません
なぜなら、ni0615さんの言われていることは、私とまったく同じであり、私の言ったことを繰り返しているだけにすぎないからです。

higetahigeta 2009/11/16 17:15 koamiさん

遅くなりました。

そもそもなぜkoamiさんがkoamiさんの言う「法制上の戦争」をことさらに区別するのかという点で共通理解ができていないので、議論がかみ合いません。

koamiさんの見解は、
政府の命名=法制度上の戦争=歴史用語としての戦争
であり、誰もがその図式に合せなければならないということでしょうか。

もし政府が「日台戦争」と命名していなければ、「日台戦争」と呼べないということなら、
それ以外の細かい議論は、無用でしょう。

koamiさんの言う歴史用語としての戦争においては、
政府の命名は絶対的な基準となり得るとの見方のようですが、
果してそれは、妥当でしょうか。

例えば、
政府が、戦争と呼ぶべきものではないものを戦争とする場合、
政府が、戦争と呼ぶべきものを戦争と呼ばない場合、
政府が命名した呼称が明らかに相応しくない場合、
というようなケースは問題にしなくていいのでしょうか。

それとも、政府の命名に限界があるのはわかりつつ、
あえて絶対的な基準とするのでしょうか。


1894.8.18、戦時の始期に関する閣議決定において、
次のように述べられています。

「抑々戦ハ宣戦ヲ待テ成立スル場合アリ又ハ宣戦ヲ待タス実際ノ状況ニ依リテ成立スルコトアリテ開戦ノ宣告若クハ告知ハ必スシモ開戦ニ須要ナラサルコトハ近世各国ノ実行並ニ公法家ノ学説ニ徴シ殆ント疑ナキカ如シ此故ニ法律命令中ニ云フ所ノ戦時ハ宣戦詔勅ノ有無若クハ其ノ時期ニ拘ラス実際戦ノ成立シタル日ヨリ始マルモノト決定スル方穏当ナルヘシ」
(A01200777500 第4画像)

ここでは、宣戦の有無に拘らず「実際戦ノ成立」したときを戦時の始期としていますが、
終期に関しても同様、講和の成立に拘らず、「実際戦ノ成立」の場合、戦時が続くことになりましょう。
だから戦時法制の期限が延長されます。私が言った「法制度上の戦争状態」とはそれを意味します。

koamikoami 2009/11/23 00:17 higetaさん

お返事ありがとうございます。

>遅くなりました。
いえいえ、私の方からお聞きしていることですし、私もこのようにお返事が遅れることがありますので、どうぞお気になさらないでください。
ただ、申し訳ないのですが、私の文章を誤解されている部分がありますので、その部分を訂正させていただきます。



■誤解1.私は「命名が戦争の要件だ」と書いたことはありません。

  お疑いでしたら、「命名」「名」などでの語句でページ内を
  検索してくださればすぐにお分かりいただけると思います。

  また、私はむしろ命名は絶対視しておりません。
  なぜなら、後から実際の状況に合わせて名称その他が変更される
  ことがあり得るからです。
  ただし、その場合でも閣議決定など法制度上の手続きが必要です。
  なぜなら、それが近代国家のシステムだからです。
  したがって、higetaさんの言われる、

>koamiさんの見解は、
>政府の命名=法制度上の戦争=歴史用語としての戦争
>であり、誰もがその図式に合せなければならないということでしょうか。
 ↓
>それとも、政府の命名に限界があるのはわかりつつ、
>あえて絶対的な基準とするのでしょうか。

  までの命名に関するご指摘は、残念ながら間違っております。
  私はそのようなことは主張しておりませんので、ご理解ください。



■誤解2.最初に「法制度上」という言葉を使用されたのはhigetaさんです。

>そもそもなぜkoamiさんがkoamiさんの言う「法制上の戦争」をことさらに区別するのかという点で共通理解ができていないので、議論がかみ合いません。

  繰り返しになって恐縮ですが、この点につきましては、
  まずhigetaさんがこのページで引用されている「樺山稟申」について
  以下のように言われたことが発端です。

>法制度上、戦争状態と認められていることは重視すべきではないでしょうか。

  私はこれのhigetaさんの言葉を、
  「日本政府が閣議決定で戦争だと承認していた」
  ものと受け取り、当時の資料を神田神保町、図書館、
  アジア歴史資料センター、近代デジタルライブラリーなどで
  調べましたが、そのような事実は存在しませんでした。

  また、戦争状態があるからといって戦争とは呼べないことは、
  すでにhigetaさんにご説明しております。
  再度、自己引用させていただきます。

>>(2)言葉の定義:「戦争状態」ではなく「戦闘」

>>また、「戦争状態」と言うから紛らわしいのです。
>>単に争いがあることを指す一般用語の「戦争」と、国家が閣議で決定する「戦争」も違うものです。

>>要するに、「戦争状態」と「戦争」は意味が違うので、混同させてはいけないのです。
>>「戦闘」と言えば、より分かりやすくなりますよ。
>>以下のように定義しておくのが妥当と思われます。

>>■戦争状態=複数の勢力間に戦闘が発生している状態=「戦闘」
>>■戦争=「日本政府が閣議で正式に認めた戦争」



■誤解3.「実際戦」と「法制度上の戦争状態」は違うものです。

>ここでは、宣戦の有無に拘らず「実際戦ノ成立」したときを戦時の始期としていますが、
>終期に関しても同様、講和の成立に拘らず、「実際戦ノ成立」の場合、戦時が続くことになりましょう。
>だから戦時法制の期限が延長されます。私が言った「法制度上の戦争状態」とはそれを意味します。

  少々分かりにくいのですが、要約すると、higetaさんの主張は
  「宣戦布告がなくても戦争は成立する」、および、
  「実際に戦争が成立した日から戦闘が続く限り戦時であるということは、
   すなわち法制度上の戦争状態が継続している」
  ということですよね?

  「継続している」ということは、その始期は日清戦争しかありません。
  つまり、この閣議決定を根拠にするということは、自動的に
  「日清戦争の延長で戦時が継続している」、すなわち、
  『台湾での戦闘は日清戦争の一部である』と認めることになります。

  これは『「日台戦争」という日清戦争と別の新しい戦争は無かった』
  と主張していることになるので、私の主張と一緒であり、事実にも即しています。



■誤解4.「戦時の始期の閣議決定」で「日台戦争」が否定されています。

「抑々戦ハ宣戦ヲ待テ成立スル場合アリ又ハ宣戦ヲ待タス実際ノ状況ニ依リテ成立スルコトアリテ開戦ノ宣告若クハ告知ハ必スシモ開戦ニ須要ナラサルコトハ近世各国ノ実行並ニ公法家ノ学説ニ徴シ殆ント疑ナキカ如シ此故ニ法律命令中ニ云フ所ノ戦時ハ宣戦詔勅ノ有無若クハ其ノ時期ニ拘ラス実際戦ノ成立シタル日ヨリ始マルモノト決定スル方穏当ナルヘシ」

いつものように訳してみましょう。

「そもそも戦は宣戦後に成立する場合と、宣戦前に実際の状況によって成立する場合とがあり、開戦の宣告や告知は必ずしも開戦の必須条件でないことは、近世では各国の実行や公法家の学説に照らしあわせてもほとんど疑いがない」

  これは上で述べた私の意見と同じですね。

「そのため、法律や命令で言うところの戦時とは、宣戦詔勅の有無やその時期に関係なく、実際に戦の成立した日より始まるものと決定する方が無難だろう」

  この1984年8月18日の閣議決定はすでに始まっていた日清戦争について、
  「開戦日を戦いが成立した日と閣議で決定」したものです。
  「戦闘の発生した日からが日清戦争だ」と法制度上承認したわけですね。

  つまり、この閣議決定は、日清戦争が
  「日本政府が閣議で正式に認めた戦争」であるという
  証拠のひとつです。

  したがって、もしも台湾領有直後の戦闘を戦争だと主張するには、
  宣戦布告の有無は必要ではなく、戦闘開始後でもいいので
  「実際に戦の成立した日」を閣議決定したという証拠が必要となります。

  そして、私の調べた限りでは、そのような閣議決定は発見できませんでした。


最後に、失礼ですがhigetaさんはおそらくお若い方だと思うのですが、昔の古い言い回しや言葉に慣れていらっしゃらない印象を受けます。

乃木総督の書いた「土寇竹槍席旗(一揆、竹やり、むしろで作った即席の旗)」という地口を、「国内の反乱を鎮圧するというような、簡単な戦闘ではない」と大げさに受け取られていることからも、そうではないかと拝察いたします。
これは「百姓一揆なんかじゃないぞ」と言っているからにすぎないからです。

「むしろ旗」がお分かりにならないかもしれませんが、これは敷物のゴザやむしろを棒に吊るして旗の代わりにして、そこに自分の村の名前や要求を書いたりしたものです。いわば現代のデモ行進のプラカードですね。「南無阿弥陀仏」「南無妙法蓮華経」と書かれる場合もありました。

もしどのようなものかお知りになりたいのでしたら、階級闘争の名作である白戸三平先生の漫画『カムイ伝』で描かれている百姓一揆にはむしろ旗も描かれていたと思いますので、もし気になるようでしたらご確認下さい。(ただし、近年の研究によって江戸時代の身分差別は実は現代日本とあまり変わりのない緩やかなものであったことが分かっており、その内容は現実の江戸時代とは少々乖離しておりますので鵜呑みにしないようご注意ください)

higetahigeta 2009/11/23 23:06 肝心な箇所が、まだわからないです。

koamiさんは、5/16エントリのコメントで次のようにおっしゃっています。

>(1)法制度上の戦争
>政府や内閣、国会で決定し、法的手続きを経て、
>「戦争をする」と決定された戦争です。
>実際の記録に基づく客観的観点から命名されるため、
>歴史用語として使用されるのは、通常は「法制度上の戦争」です。

これは、「歴史用語としての戦争」は「法制度上の戦争」(=政府決定の戦争)に限定して使用すべきということですよね。
このように限定すべき理由は、どこにあるのでしょうか。

またここにいう、政府とはどこの政府でしょうか。

koamikoami 2009/11/24 06:56 >これは、「歴史用語としての戦争」は「法制度上の戦争」(=政府決定の戦争)に限定して使用すべきということですよね。

いえ、違います。
それは判断材料のうち、主な要素の一つです。

先に申し上げました通り、私は
「後から実際の状況に合わせて名称その他が
変更されることがあり得る」という立場ですから。

したがって、私は別に限定はしておりません。

繰り返しになりますが、ここで「法制度上」という
言葉を使用したのは、higetaさんが使用されたので
私もそれに合わせた結果です。



>またここにいう、政府とはどこの政府でしょうか。

ここで言う政府とは、当時の日本と台湾の関係においては
日本政府、および清国政府を指します。

6月2日の台湾島の授受において、北洋大臣李鴻章の嫡子で
欽差大臣の李経方(芳)が、下関条約に基づく帰国命令を
無視して台湾に残った「清国ノ残兵」が建国宣言した
「台湾民主国」を全面否定しました。

つまり、この瞬間に台湾民主国は清国政府に対する
反乱軍になり、台湾は無政府状態になったわけです。

新たに主権を得た日本政府への台湾島の引き継ぎを拒否し、
清国政府の命令に逆らって武力抵抗したわけですから、
二重の意味で反乱です。

ところが、本来ならこれを鎮圧して日本に台湾島を
引き渡すべき義務を持つ清国は、反乱が起こっていると
認めると、その鎮圧が終わるまで台湾島の授受ができずに
帰国できないため、李経方がこれを嫌がったことに加え、
現実問題として清国に鎮圧のための軍隊と戦費が無くて、
物理的に鎮圧不能だったので、日本が鎮圧を担当しました。

このとき、清国には「日本に鎮圧を任せれば、
住民に恨まれて統治しにくくなるだろう」
という目論見もあっただろうと、
『近衛師団第四歩兵連隊史』には書かれています。

「住民に恨まれて云々」は連隊史筆者の見解ですが、
実際に李鴻章は「四害(瘴癘・阿片・土匪・生蕃)」
を例に出して「台湾の統治は不可能である」としています。

これは1904年9月24日のワシントン・ポストの報じた、
李鴻章の「日本はやがて、台湾を割譲したのは非常に悪い
取り引きと後悔するだろう」という皮肉とも一致します。
http://query.nytimes.com/mem/archive-free/pdf?res=9902E5D8123AE733A25756C2A96F9C946597D6CF
>Li Hung-Chang remarked sarcastically that Japan would find the island an exceedingly bad bargain.

そのため、台湾領有後の戦闘は反乱鎮圧であり、
反乱鎮圧は戦争ではありません。

そして、台湾島が清国の一地方=敵国の領土であったこと、
および、武力抵抗しているのが清国の反乱兵であることから、
これは日清戦争の続き・一部であり、叛徒討伐であるわけです。

これは戦争ではありません。
構造的に「戦争」とは呼べないのです。

しかも、日本は清国の後始末をしていたわけです。
どうしても台湾平定以外に新しい名称を付けたければ、
日清戦争における「平壌の戦い」のように、
「台湾の戦い」とでも言う他ありません。

日清戦争は「外征」です。
台湾での戦闘は日清戦争の一部です。

ですから、伊藤内閣が台湾で働く人間を
「外征従軍者扱い」にすることに
「特に不都合の廉(かど)は無い」
と回答するのはむしろ当然なのです。

koamikoami 2009/11/28 14:47 申し訳ありません。名称にいくつか訂正があります。

・『カムイ伝』を描いたのは「白戸三平」ではなく『白土三平』です。
・李鴻章の皮肉を伝え、日本の台湾統治を「奇蹟」と絶賛したのはワシントン・ポストではなく、『ロンドンタイムズ』です。
・李鴻章=清国の「台湾の統治などできない。日本は失敗してきっと後悔するだろう」という見解を記載したのは「近衛師団第四歩兵連隊史」ではなく、『近衛師団歩兵第四連隊史』です。

higetahigeta 2009/11/28 18:56 >それは判断材料のうち、主な要素の一つです。

つまり、「歴史用語としての戦争」に関して、
政府決定が絶対なわけではないのですね。

>そのため、台湾領有後の戦闘は反乱鎮圧であり、
>反乱鎮圧は戦争ではありません。

「反乱鎮圧」とはあくまで日本政府あるいは清国政府の観点からのものです。
ここに台湾の人々の観点を組み込む必要はないのでしょうか。
koamiさんが鎮圧する側の立場に固執しているようにみえるのは気のせいでしょうか。


>武力抵抗しているのが清国の反乱兵

これは重大な誤りでしょう。
koamiさんによると、台湾は清国兵以外まるで無人か、
全く主体性のない人々の群れのようです。

抵抗の主体は、清国兵だけではなく、
流浪のゲリラや土着の地方有力者を中心とした村単位の自衛組織を含みます。
だからこそ簡単に鎮圧されない。

大規模な「反乱鎮圧」は戦争と呼べないのでしょうか。
当時の日本が動員可能な7個師団のうち、2個師団を投入しているような状況です。


>日清戦争における「平壌の戦い」のように、
>「台湾の戦い」とでも言う他ありません。

これは、檜山幸夫さんの研究から学んだのですが、
明治二十七八年の役(日清戦争)が、「日朝戦争」、狭義の「日清戦争」、「日台戦争」から構成されていると考えれば、どうでしょうか。


戦時法制の適用時期は、対清国の戦闘をはみ出し、始期は対朝鮮の戦闘にも及び、終期は対台湾の戦闘に及びます。


明治憲法草案の枢密院審議における井上毅の答弁によると、
「戦時」は、「外国との関係」、「事変」は、「内乱」を意味します。
(『樞密院會議筆記』第1巻、213頁)

乃木が「内地土寇竹槍席旗ヲ鎮圧スルノ類ニアラズ」と述べたのも、
「戦時」の継続的な適用を求めたからこそでしょう。

軍は、「管区内ノ一事変ヲ鎮圧スル」「小戦闘」とは違う、西南の役に匹敵する戦闘として、「廿九年六七月ノ交台東地方ニ於ケル支那残兵ノ剿討雲林地方土匪ノ討伐同十二月ヨリ三十年一月ニ亘ル太平頂土匪ノ討伐」を挙げています。
(C03023083900 第16画像)

軍は、西南の役を「内国戦」と称していますが、
西南の役は、「西南戦争」と呼べないでしょうか。

koamikoami 2009/11/29 15:58 higetaさん、お返事ありがとうございます。

少しずつ書いておりますので、取り急ぎ、まず西南戦争についてお返事させていただきます。


>軍は、西南の役を「内国戦」と称していますが、
>西南の役は、「西南戦争」と呼べないでしょうか。


呼べます。

西南戦争で薩摩軍側の盟主となった西郷隆盛は政府の要職、しかも明治の元勲のうち最大の功績があったとされる人物であり、西郷が勝てば明治政府は瓦解するという日本の命運をかけた戦争でした。
これはアメリカで言えば南北戦争に匹敵する戦争であり、どちらが日本を統治するかという、日本を真っ二つに分けた戦いでした。
簡単に言えば、明治維新と同じ意義を潜在的に秘めていたわけです。明治維新も軍事クーデターですから。

しかもwikipediaによれば、「西南戦争による官軍死者は6,403人、西郷軍死者は6,765人」とありますから、「規模だけを見るなら」、西南戦争の官軍死者数の39分の1でしかない日本軍側戦死者164人の台湾平定は戦争と呼ばなくて良いことになります。なぜなら、西南戦争では戦闘1回でもその程度の死傷者が出ているからです。

--引用--
http://www.infobears.ne.jp/athome/fukusuke291/z-407bunseki.htm
(近い数字を抜粋)
人吉方面の戦 5月1日〜6月14日 戦死者合計158人
3月14日 二俣・長窪前面大激戦 戦死者合計181人
3月7日 田原坂本道激戦 戦死者合計161人
3月4日 吉次峠・田原坂三面攻撃 戦死者合計111人
(参考)
田原坂の戦 3月3日〜3月20日 戦死者合計1687人
--引用終了--

しかも西南戦争では官薩両軍できちんと編成された戦力同士約10万人が戦ったわけですから、これを内戦、戦争と呼ぶことに異論はないでしょう。
したがって、その構造、意義、重要性、兵站、規模、装備など諸々の点において「戦争」と呼ぶことができます。

しかし、明治政府は鹿児島を条約により新しく領有したわけではなく、外国から割譲されたわけでもありませんので、その点だけでも、西南戦争を台湾での戦闘と比較して「だったら台湾での戦闘も”戦争”でいいじゃないか」と主張することはできません。西南戦争と比較することは、かえって台湾での戦闘が戦争とは呼べないことを証明してしまうのです。

もしも台湾にいた清国官吏が政治的所信に基づいて清国政府に戦いを挑み、その結果、清国の統治権をどちらが取るかという清国を二分する戦いにまで発展すれば、西南戦争と比較もできますし、内戦として戦争と呼ぶことができるでしょう。

koamikoami 2009/12/01 00:40 続きです。

1.政府決定は最大の要因の一つ

  >つまり、「歴史用語としての戦争」に関して、
  >政府決定が絶対なわけではないのですね。

その通りです。
戦争は相手のあることですから、まず彼我双方を検証し、さらに俯瞰して全体を見ることが必要です。でなければ、片方の勢力の書いた文書だけで判断されることになり、ウソも言い放題、言った者勝ちになってしまうからです。

それは許されないことです。
歴史を見るのであれば、必ず検証がなければなりません。

当時の社会背景や、住民の種類、鎮圧・掃蕩・会戦など戦闘の種類、地理、経過、期間など、検証すべき項目は多数存在します。ただし、政府の見解・動向が最大の要因の一つであることは間違いありません。

参考:「戦争」という名称について
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●1892年4月に米国ワイオミング州ジョンソン郡で起こった『ジョンソン群戦争』は、国家間ではなく「牧場間の武力抗争」なのに何故戦争と呼ばれるのか?
(映画『シェーン』『天国の門』でも有名)

●清国末期に起こった『義和団の乱』は西太后が列強諸国に「宣戦布告」までしているにもかかわらず、何故「庚子”戦争”」と呼ばれないのか?
(庚子事変は中国側の呼称。通常、北清事変または義和団事件と呼ばれることが多い。他に義和団事変・清国事変など)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~



2.私(koami)の立場について

  >「反乱鎮圧」とはあくまで日本政府あるいは清国政府の観点からのものです。
  >ここに台湾の人々の観点を組み込む必要はないのでしょうか。
  >koamiさんが鎮圧する側の立場に固執しているようにみえるのは気のせいでしょうか。

はい、気のせいですのでご安心ください。
と言いますのは、まだ議論が「日本と清国=鎮圧する側」までしか進んでいないだけだからです。

何故そうなったかと言うと、まずhigetaさんが「日台戦争」という呼称の根拠としている公文書が日本側のものばかりだからであること、そして、higetaさんが「日本政府が戦争と認めていた」という誤った主張をされたためです。

日本側が認めていたのは「日清戦争の一部として」ですね。当時、この点で政府内でも議論があったとされています。結局、戦時扱いにしなければ待遇が見合わない(恩給、靖国神社埋葬など)ので、「現実には新しい戦争ではないが、日清戦争の勝利で台湾を領有したこと(上記『閣議決定』参照「而シテ是皆日清戦争ニ伴ウノ結果ナルヲ以テ 事実上之ヲ外征ト見做シ」)により戦闘が発生しているのだから、これを事実上日清戦争の続きとして扱い、危険な任務に従事する兵士たちに報いる」と決定したわけです。

したがって、台湾住民まで未だ話が及ばないのは致し方ないことであり、私が「鎮圧する側の立場に固執」しているということはありませんのでご安心ください。



3.台湾平定の大前提

ここまでの議論で、日清両国が台湾の戦闘を「反乱鎮圧」と認識していたという大前提を確認できました。
では、現時点で指摘できる台湾平定を考えるときの大前提を列挙してみましょう。(higetaさんにもご意見があると思いますので、あくまで現時点のものとさせていただきます)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
(1)下関条約(1985年4月17日)調印。

<第二条、第三条>
 ・台湾の主権は永遠に日本に割与される。

<第五条>
 ・台湾の住民は自由に不動産を処分して良い(日本は財産を没収しない=財産の保証)
 ※第二次大戦で日本が敗戦した際には、中国・朝鮮では日本人を殺害してその財産を略奪。同じく二次大戦後に台湾に進駐した中華民国の蒋介石も同様の措置を取った。スペインのメキシコ征服の例を出すまでもなく、世界的にはこうした収奪行為が行われるのが普通であり、日本の台湾に対する措置は歴史的に見ても非常に特殊。

 ・台湾の住民は日本の統治が嫌なら自由に台湾から引っ越して良い(日本は国籍を強制しない=国籍選択の自由の保証)

 ・そのため、2年間の猶予を与える。ただし、2年後も台湾に住んでいれば日本国臣民として扱う。

(2)下関条約により、当時の台湾はすでに日本領=日本国内である。

(3)台湾島の授受(1985年6月2日)で、台湾の清国官吏が建国宣言した台湾共和国(台湾民主国。元仏駐在武官であり、共和政治に心酔していた陳李同の建策によるものと言われる)は清国・李経方によって全面否定された。

(4)李鴻章は5月12日に、台湾は「実際反乱の状態」だと報告している。
しかも台湾共和国(民主国)の大統領となった唐景粔は「地方行政を担当する一官吏に過ぎない」と明記している。

<5月15日の回答分>
「台湾に於ける兵勇人民甚だ騒擾を極め実際反乱の状態を為せり、巡撫唐(景粔)は元来地方行政を司る一官吏に過ぎざるを以て引渡を施行するの権力を有せざるのみならず同人は人民の挟制する所となり囚虜のごとく其の声明も絶えず危険に逼れり。而して実際引き渡しを弁理するの力なし、・・・」(新字に改めています)
『台湾総督府警察沿革誌第2編・領台以後の治安状況(上巻)』(アジア歴史資料センター ref:A05020352000 51コマ右上)

(5)本来、反乱鎮圧の義務は、日本への台湾引き継ぎ業務を完遂しなければならない清国にある。

(6)台湾の清国兵は、清国政府の帰国命令を無視した。

(7)台湾民主国は李鴻章を非難し、日本軍に徹底抗戦するよう檄文を出していた。

(8)台湾の清国兵の反乱は日清両国への反乱であり、日清両国が国家の威信をかけて調印した下関条約に違反している。

(9)古今東西、新しく領有した土地に進駐する場合には、規模の大小はあれど住民の抵抗があるのが当たり前であり、これは日本政府も当然予測していた。

これは日本軍の小野田寛郎少尉(戦争終結から29年目の1974年3月12日、日本に帰国)でも同様であり、南方戦線や硫黄島(最後の日本兵2名が投降したのは終戦から4年後の1949年1月2日)など、多数実例が存在する。
ついこの間まで敵地だった以上、これは避けられない現象である。

(10)李鴻章からも「島民暴起」の報告があり、日本政府は若干の抵抗を予想して近衛師団を派遣(第一次輸送では半個師団)。この時点では暴動の規模が不明であったので、その偵察も兼ねていた。実際、上陸前に淡水湾の偵察を行ったところ、偵察隊が清国兵から射撃を受けたため、上陸地点を三貂角に変更。樺山総督は「攻撃されたので兵力に訴える他なくなった」と伊藤内閣に電報している。

(11)本来の任務が宮中警護など儀礼的要素の強い近衛師団が選出されたのは、同時に台湾島授受も行う必要があったため。師団長は皇族の白川宮能久親王であり、通常、皇族を最前線に派遣することは少ない。実際に日清戦争では、近衛師団の派遣は最後に回され、参戦するために大陸に渡る直前、広島で休戦の報を受けている。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

他にもあると思いますが、とりあえずはこんなところでしょうか。

koamikoami 2009/12/04 03:27 3.「台湾の住民」の分類と定義

台湾平定の主体は以下の2種類です。
■日本軍:近衛師団(第一次輸送では一個師団ではなく半個師団)」、第二師団(混成第四旅団)
■清国反乱兵:清国文武官および台湾住民

そこで、次に第三の当事者である「台湾の住民」を検証する必要が生じます。これを考えるには、まず「台湾の住民」を定義しなければなりません。李鴻章の四害でも「土匪」と「生蕃」はちゃんと区別されております。


■住民の分類
台湾の住民は、最低でも以下の3種類に分類されると思われます。

(1)土匪

李鴻章の言う四害の一つで、台湾統治を妨げる最も大きな4つの害のうちの一つとされました。一言で言えば、地方に土着している山賊や野盗の集団です。李鴻章は、土匪がいるから台湾は統治できない=清国や日本の軍隊でさえ制圧できない存在だと語ったわけです。

先に挙げた1904年9月24日のタイムズでも、当時は台湾周辺海域で海賊行為が頻発し、各国の積み荷が略奪され、乗客が殺されていたので、各国政府が台湾島を領有していた清国政府に抗議し、清国政府はこれを解決できずに困っていたことが説明されており、このタイムズの記事は李鴻章の言葉と合致します。

higetaさんの言われる「流浪のゲリラや土着の地方有力者」には、かなりこの土匪が含まれているのではないでしょうか。また、このゲリラや土着の有力者の内訳はどうやって精査されたのでしょうか?

そして、彼らは清国にも反抗していたわけですから、誰が統治しても同じだったわけです。だからこそ李鴻章も「日本も台湾の統治は不可能だ」と四害で警告し、しかも清国は平定できずに放置する道を選んだわけです。


 (2)生蕃

「蕃」は清国(それ以前の大陸国家も?)が台湾人を蔑視して付けた名称です。日本は清国から統治を引き継ぐ際に、この言葉もそのまま引き継いでいます。高砂族などの原住民族などもこの「蕃」ですね。

ちなみに、日本は古来より台湾の事を「高砂」と呼んでいました。higetaさんも日本人なら映画などで、結婚式の席上で「高砂や、この浦舟に帆を上げて〜」という歌を聞いたことがおありではないでしょうか。日本は高砂族こそ「台湾人」だと見ていたわけです。

ただし、彼ら「生蕃」と日本の本格的な衝突は、台湾平定後に彼らの生存圏である高地開発が本格化してからですから、台湾平定での戦闘の主体とは言えないでしょう。


 (3)一般的な台湾住民

上記以外の住民で、現代風に言えば一般市民ですね。彼らは最終的に、むしろ自分たちから日本軍に自分の土地に来てほしいと依頼しています。台北では辜顕栄(こ・けんえい)らが、台南では台湾人ですらなくトマス・バークレーら外国人宣教師達が停戦と無血入城を交渉し、成功させています。

台湾平定の前半と後半の最終段階が、どちらも必ず民間人によって決着していることは、台湾人民と清国官吏の乖離だけでなく、清国官吏が必ず台湾人民を見捨てて逃げていたことを示しています。

また、この点は後述いたしますが、台湾の住民は清国反乱兵がいなくなると喜んで家に帰り、日本軍を歓迎したとされています。(これは清国が住民から恨まれていたこともあると思います)また、清国の告示文を見て戦闘に参加した者もいたと思われ、扇動や誤った情報による部分も多かったでしょう。

koamikoami 2009/12/06 01:40 5.抵抗の理由

 (1)異民族支配への抵抗

よそ者に支配されるのは納得できませんし、重税が課せられるのも嫌ですから、抵抗するのは人間の自然な感情です。実際に、清国をはじめとする歴代の中国大陸の人間は、台湾の住民から大変嫌われ、反抗されていました。第一次台湾出兵の原因になった沖縄の漂流民殺害も、彼らが中国人と勘違いされたためだと言われています。実際に、李鴻章の四害のうち半分は原住民問題です。

それに、住民による侵入者への反抗は世界中どこでも、いつでも存在する現象です。日本でも、「空港を作る」というだけで土地の住民が激しく武力抵抗しました。しかも機動隊員3名を殺害しています。彼らの遺体は、とても家族には見せられないほどの惨状であったと伝えられています。

三里塚 成田闘争 行政代執行 東峰十字路事件 - 1971
http://www.youtube.com/watch?v=k4wCN6_sqio

 (2)清国官吏の流したデマ

台湾の清国官吏が、「徹底抗戦(決死邀撃)せよ」という檄文を日本軍が来る前に出していたことが、台湾島の引き継ぎ業務について話し合った日清商議の席上で判明しています。

近代デジタルライブラリー
「近衛師團台湾征討史」臺灣島の授受(p.5〜p.11)
--引用--
日來我兵に對し抵抗するは、唯だ島民暴起の餘に出者と思惟したるに洩底兵營内に於て得たる告示文を見るに、正に是れ貴國官吏が兵勇及び土人に決死邀撃すべしと諭告したるや最も証明なり、豈に怪訝に堪ゆ可けむや、故に余は證を擧て之を本國政府に通報したり、と李之を聞き頗る色動く、眉を蹙めて云ふ、是れ決して弊國政府の與り知る所にあらず、共和政府設立の事、亦た余着島の後之を聞く、渠等は己に文武官を抑留し、命に従ひ本國に還ることを許さす、其告示の如きも意ふに之を脅迫して作爲せしめたるものなるや必せり、余も亦上陸せば正に此の如くなるに至らむ、と百方瓣疏して措かす、
--引用終了--

会話をしているのは樺山総督と李経方欽差大臣で、場所は基隆沖の清国船「公義号」の一室です。いつものように訳しますと、概ね以下のよう内容になります。

--概訳--
■樺山総督
「今までずっと、日本軍に抵抗しているのは、単に台湾島の島民が暴動を起こしているだけだと思っていたら、清国の洩底兵営内に残っていた告示文をみると、あなたの国(清国)の官吏が兵士と土地の住民に徹底抗戦しろと通告していることが分かった。こっちはあなたの国と話し合って決めた下関条約に則って台湾島の受け取りに来ているのに、そのあなたの国の官吏が反乱を強制しているのは非常におかしな話だ。この事は証拠を添えて我が国の政府に報告しておきましたよ」

■李経芳
これを聞いた李経芳はすごく動揺して、「これは決して我が国(清国)の承知していることではありません。共和政府ができたなんてことは、私は台湾島に到着してから聞いたぐらいです。彼ら(台湾に残っていた清国兵)は文武官を捕まえて、清国の帰国命令によって帰国することを妨害しているんです。その告示文もきっと、拘束している文武官を脅迫して作らせたものに間違いないでしょう。私も上陸したら、まさにそのようになる(捕まって命令に従うことを強制される)ようになるでしょう」、と一生懸命言い訳をした。
--概訳終了--

虐殺されるとか、強姦されるという内容のデマも流していたようですが、敵の進行を食い止めるために、こうした住民の恐怖心を煽る工作は必ず行われるものです。また、住民の自然な心理として、武装した集団がやってくれば自分たちの身体・生命・財産の危機を感じるのは当然です。
後に日本軍と日本政府に関してはそれがほぼ杞憂であることが分かるのですが、それを知るすべのない台湾領有初期においては、これは致し方ない現象でしょう。

一つ指摘しておきますと、「3.台湾平定の大前提」で挙げましたように、日本政府は台湾住民の財産の保証、国籍選択の自由について、すでに下関条約の第五条で規定し、2年間の猶予も与えています。台湾の方が自分の親から聞いた話では、このことは樺山総督の台湾平定宣言でも改めて全島民に向けて発布されたとのことです。

■第五条の趣旨(有名なので特に原文は引用いたしません)
「台湾の住民には2年の猶予が与えられる。所有する不動産は没収しないので各自それを自由に処分し、日本の統治が嫌なら清国や他の土地に自由に財産を持って引っ越してもいい。ただし、2年経っても台湾に住んでいる人は日本の都合で日本国臣民とみなすことがある」

だから樺山稟申に対する閣議決定でも、「條約批准交換後二年間ハ 其ノ土民ハ未タ純然タル帝國ノ臣民ト云フコトヲ得サルノミナラス」と書かれているわけです。台湾を手に入れてすぐに「今日からお前たちは中華民国国民だ」とした、後の蒋介石政府とまったく違いますよね。

これは、日本政府が一貫して「台湾住民を武力支配する気などなかった」という証拠です。日本を自分たちの政府として受け入れるかどうかを、台湾住民本人の自由意思に任せているわけですから。しかも国家間の正式な条約で宣言しているわけですから、これほど確かな証拠はありません。
だからこそ、それほど重要な下関条約に違反した清国反乱兵には、まったく正当性がないわけです。

さらに言えば、清国反乱兵側はゲリラ戦により、白旗を掲げて敵意がないことを装い、日本軍が安心したら後ろから攻撃することを繰り返したために関係のない住民までが戦闘に巻き込まれ、このために日本軍が住民から恨まれたいうこともあったようですが、これも扇動工作と言って良いでしょう。

ni0615ni0615 2009/12/28 18:57 koami(敬称は警鐘のため略す)言
>さらに言えば、清国反乱兵側はゲリラ戦により、白旗を掲げて敵意がないことを装い、日本軍が安心したら後ろから攻撃することを繰り返したために関係のない住民までが戦闘に巻き込まれ、このために日本軍が住民から恨まれたいうこともあったようですが

東中野修道流儀を日台戦争にも何の裏づけもなく適応ですね。あなたがいかに無茶苦茶なことを言っても、<捕虜を据物斬りし見物する兵士が喜ぶ>ということに象徴される残虐な日本軍というのは、残念ながら日清・日露戦争からの天皇統帥下の帝国陸軍の伝統です。

まあ、こういえばあなたは『きちんと反論せよ』とかなんとか、偉そうな口をきくのでしょう。ワタシはお望みと有れば反論してあげますよ。もしあなたが、他人の庭を占拠して大声をあげるようなことをせず、自分のサイトで正々堂々と自論を展開し、反論を募るならば。そのときには、あなたの書いた分量の3倍は書くことが出来ますが、宜しいですか?

ていうかkoami さん、そもそも他人の褌で相撲をとるのはお辞めなさい。あなたが穿くと褌が不潔になります。

上記のような長文の自説は自分のサイトで行なうのが常識です。まあ常識知らずなのか常識に逆らおうとしているのか判りませんが、あなたは連投連投、長々と書いてここを占拠した気分に浸っているようです。あなたがやってることは、街頭に群れてヘイトスピーチをがなりたて市民に暴力を振う、『ザイトクカイ』とか、『西村修平』とか。『水島総』とか。連中となんら変る事がありません。ただただ恥ずべきことだとしか言い様がありません。

※ koamiさん、私に反論する前には人さまのスペースに、一方的にどれだけの字数を書き込んだか、その侵略字数を正確に自己申告してくださいね。勿論あなたは、自分のサイトで自論を述べてる姿を見せることなく、ワタシに反論する資格はありません。

普通の人は、このような場合、反論のポイントだけを記し「詳しくはワタシのサイトにて、お時間があったらお立ちよりの上、御意見ください」と記すものです。そのために、ブログにはトラックバックという機能もついています。

koamikoami 2010/01/02 01:37 あけましておめでとうございます。
旧年中はお世話になりました。
まだ続きはあるのですが、要点はすでに上でも出していますのでご確認ください。

>捕虜を据物斬りし見物する兵士が喜ぶ
「百人斬り」などのウソや、中国の「押し切り器」などによる処刑写真を使用したデマも混同されていますね。

※「押し切り器」で検索すると大変残酷な写真の掲載されたHPが表示されます。
そうした写真を使用して、解剖学的にウソを証明しているHPもありますが、心臓の弱い方、グロティスクなものが嫌いな方は、絶対に検索しないでください。



---- 1.higetaさんの引用ミス ----

少なくとも、残念なことにhigetaさんの
◆資料の読解が間違っている
◆資料から重要な部分が勉強不足やケアレス・ミスで欠落している
ことは間違いなく事実です。

★たとえば、上でも書きました通り、higetaさんは「内閣より 在台湾文武諸官員外征従軍者として取扱の件」(アジア歴史資料センター ref:C06022096100)を引用されていますが、なぜかその前に掲載されている「閣議決定」は無視しています。


その理由は、以下の3つのどれかしかあり得ません。
(1)higetaさんは「閣議決定」を読んだが、その内容が理解できなかったので重要だと思わなかった
(2)higetaさんは「閣議決定」を読んだが、”日台戦争があった”という自分の主張に不都合だったので、意図的に無視した
(3)実はhigetaさんは資料を読んでおらず、誰かの主張をそのままコピペしただけ



---- 2.唐景スウと台湾文武官は清国皇帝の勅命に逆らった「反乱軍」 ----
★また、higetaさんは、1895年5月20日に清国皇帝が唐景スウを解職の上、北京への召還命令を出していること、および、その他の在台湾の文武官にも帰国の勅命が下っているという事実も指摘できていません。
(アジア歴史資料センター ref:B03041169000 43コマ目)

唐景スウが台湾民主国の樹立を宣言し、総統となったのは同年5月23日です。
つまり、唐景スウや文武官は、清国皇帝の勅命に背いたわけです。
ですから彼等は「清国への反乱軍」であり、日本にとっては単なる「草賊」だったわけです。


しかも、彼等は台湾の住民を代表していたわけではありません。
彼等と台湾住民の間に一体感など無かったことは、上記の【(3)一般的な台湾住民】でご説明いたしました。

反乱軍の2台拠点であった台北と台南の両方ともが、日本軍が来る前に反乱軍は住民を置いて、自分たちだけ逃げてしまったわけです。

それだけではなく、反乱軍が逃亡の際に住民を虐殺し、その財産を略奪することが頻発したため、台北では辜顕栄(こ・けんえい)らが、台南では台湾人ですらなくトマス・バークレーら外国人宣教師達が停戦と無血入城を、わざわざ日本軍に依頼しています。
(ただし私の調べた限りでは、日本側の記録では台北の治安維持を依頼したのは辜顕栄ではなく複数の欧米人となっているので、この点はまだ調査が必要です)

これが「日本と台湾の戦争」であるわけがありません。
台北と台南の主力軍は最も重要な最終局面で日本軍とは戦わず、停戦交渉もせず、台湾の一般市民を守ることもなく、逆に罪もない彼らを殺して、その財産を奪ってから逃げたのですから。
(ただし、日本軍の進軍途中では激しい戦いが行われています)

もともと、唐景スウや劉永福の自称「台湾民主国」軍に参加したのは、「土匪」「匪賊」と呼ばれる土着の山賊です。
李鴻章が”四害”で挙げたうちの一つですね。
(統治を阻害する4つの害=瘴癘(しょうれい。疫病)・土匪・生蕃・阿片)

こうした山地の匪賊と合流して日本に抵抗するという構図は、後の毛沢東率いる中国共産党の人民解放軍の成り立ちと驚くほど似ています。

中国人の方の話では、匪賊はまず農村を襲い、村の有力者を殺し、奪った金で働かずにブラブラしている人間を集めて武器を持たせ、仲間にするとのこと。
黒澤明監督の映画『七人の侍』に出てくる「野武士」だと考えれば、イメージしやすいでしょう。



---- 3.「戦争」はなかったが、戦時優遇措置のための方便 ----

まだ他にも証拠はありますが、現実に日台戦争は無かったわけで、以上の資料や公文書から、戦時扱いにしたのは「危険手当や恩賞の優遇(樺山稟申)」、「論功行賞の優遇(乃木稟申)」のための措置だと判断できます。

つまり、これは単に「実際には戦争ではないが、風土病が蔓延したり、山賊が襲ってくる台湾赴任は危険な任務だから戦時扱いにしてあげよう」という日本政府の計らいであり、「仮に戦時だと見なした」わけです。

そのために当時の伊藤内閣が考え出したのが、「これは日清戦争の続きである」という理屈ですね。
higetaさんの引用されている乃木稟申により、後に乃木総督も同じ理屈を繰り返していますので、これに疑いの余地はありません。



■閣議決定(樺山稟申への伊藤内閣の回答)明治28年8月17日
『而シテ是皆日清戦争ニ伴ウノ結果ナルヲ以テ 事実上之ヲ外征ト見做シ 其ノ従軍者ヲ外征従軍者トシテ取扱フモ 敢テ不都合ノ廉無』
(アジア歴史資料センター ref:C06022096100)

  ↓

(約2年後)
■「台湾総督府より軍功に対する臨時行賞の件」(乃木稟申)明治30年5月○日
『目下台湾ノ現状タル右四月十一日以前ノ状況ト決シテ差異無之唯名義上廿七八年戦役ト其関係ヲ離レタリト雖トモ其実全ク之ニ連繋シ其討伐ノ如キモ土匪アリ支那残兵(台東ニ集団シ在リタルモノ)アリテ決シテ内地土寇竹槍席旗ヲ鎮圧スルノ類ニアラズ』
(アジア歴史資料センター ref:C03023083900)

■現代語訳
『今の台湾の現状は、右4月11日以前の状況と決して変わっていません。ただ法制度上では明治27,8年戦役(日清戦争)とその関係が離れたとは言え、その実態は完全に日清戦争に連携しており、その討伐も土着の匪賊や清国の残兵(台東に集団で存在しているもの)が相手で、決して内地の竹やり・むしろ旗の百姓一揆を鎮圧するようなものではありません』

※higetaさんは省略しているが、引用部分の直前で、明治29年4月11日から軍人軍属の論功行賞基準が、日清戦争の時の基準から通常の基準=平時のものに切り替わったことが説明されている。



要するに、higetaさんの引用された資料だけを見ても、「日台戦争は無かった」ということが証明されてしまうのです。
なぜなら、閣議決定や乃木稟申に、当時の日本政府が戦争と考えていなかったこと、台湾赴任者を優遇してやろうという温情ある措置が明記されているからです。



ご指摘により、再度、要点をより簡単にご説明いたします。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
◆『下関条約により、当時の台湾は日本の領土(日本国内)』
・したがって、「日」の字が使われている時点で、日本語として間違い。
  ↓
◆『higetaさんの引用した公文書に、ちゃんと”日清戦争の続き”と書いてある』
・より待遇の良い「戦時待遇」にしてあげるための、いわば「国内向けの方便」。
・つまり、逆説的に「戦争ではなかった」ことが証明される。
  ↓
◆『唐景スウや清国文武官(清国ノ残兵)は、清国皇帝の勅命に逆らった反乱軍』
・李鴻章・李経芳親子が台湾民主国を全面否定
・唐景スウや清国文武官は、清国皇帝の解職命令と帰国の勅命に反逆
・清国文武官は「日本軍に徹底抗戦しろ」というビラを住民に配っていた
・したがって、台湾での戦闘は『反乱鎮圧、暴徒鎮圧』で戦争ではない
  ↓
◆『清国兵と一般住民の乖離』
・清国兵に合流した「台湾の住民」の正体は「土匪・匪賊(=山賊)」
 (参考)http://www.youtube.com/watch?v=Vs0GruecD2Q
 『台湾総督府警察沿革誌第2編・領台以後の治安状況(上巻)』
 (アジア歴史資料センター ref:A05020352000)を現在確認中。
・清国兵は台湾の住民を守らず、敗走時には逆に住民を虐殺・略奪
・そのため、台北と台南の両方とも、民間人が日本軍に「占領してくれ」と依頼
・台湾の住民は、自分で日本の統治を選んだ(下関条約第五条も参照のこと)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8B%E9%96%A2%E6%9D%A1%E7%B4%84
  ↓
『したがって、日台戦争は誤りである』
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

koamikoami 2010/01/04 03:17 台湾民主国を名乗る勢力が、清国に対する反乱軍である証拠を追加しておきます。

『1 明治28年5月10日から明治28年5月22日』
(アジア歴史資料センター ref:B03041169000 43コマ目)

■原文
清国皇帝陛下ハ昨廿日(=20日)ヲ以テ 台湾署理巡撫唐景●(「やまがんむり」の下に「松」)ヲ解職ノ上 北京ニ召還セラレ 又同嶌ニ在勤ノ文武官ニ悉ク(ことごとく)清国ヘ●(「白」の右に「反」。「帰」の俗字)ルベキ旨 勅命ヲ下サレタリ

※当時の清国皇帝は光緒帝(第11代徳宗)

■現代語訳
「清国皇帝陛下は5月20日、台湾署理巡撫の唐景スウを解職処分にした上で、北京へ召還し、また、同島に在勤する文武官全員に清国への帰国の勅命を下された」

higetahigeta 2010/01/04 10:38 >◆『下関条約により、当時の台湾は日本の領土(日本国内)』

新たな領土は、簡単に自国の領土になるとは限りません。
規模の大きな内乱は、戦争と呼べるでしょう。
軍は、「管区内ノ一事変ヲ鎮圧スル」「小戦闘」とは違う、西南戦争に匹敵する戦闘があったと認識しています。
台湾における戦争の外観が西南戦争と違うと主張しても意味がありません。

>◆『higetaさんの引用した公文書に、ちゃんと”日清戦争の続き”と書いてある』

日清戦争に「続いて」、「日台戦争」が起こる、
日清戦争に「伴う結果として」、「日台戦争」が起こる、
表現として何の問題もありません。

あるいは明治二十七八年の役(広義の日清戦争)のなかに、狭義の日清戦争と「日台戦争」が含まれると考えてもいいでしょう。

「戦時」と「戦争」は違うとすることは妥当でしょうか。
「戦時」と認定されたということは、「戦争」と呼べるだけの状況、戦闘があったからだと考えるのがふつうでしょう。


なるほど、以下が、koamiさんの最も主張したいことなのですね。

・清国兵は台湾の住民を守らず、敗走時には逆に住民を虐殺・略奪
・そのため、台北と台南の両方とも、民間人が日本軍に「占領してくれ」と依頼
・台湾の住民は、自分で日本の統治を選んだ

koamikoami 2010/01/04 16:11 お返事ありがとうございます。
ただ、またもや話が堂々巡りになっていますね。
まず、堂々巡りを避けるために、以下の3点を明確にする必要がありますので、お答えください。

(1)higetaさんがここで言われている「戦争」の定義とはなんでしょうか?

(2)台湾の抵抗勢力が「清国に対する反乱軍」であったという事実は認識されたのでしょうか?

(3)樺山稟申への回答である「閣議決定」を無視した理由は何でしょうか?



先に一点だけお答えしておきます。

>なるほど、以下が、koamiさんの最も主張したいことなのですね。

いいえ、違います。
それは記録された事実にすぎません。
(wikipediaに記載されているものもあります)

なぜこれを加えたかと言うと、higetaさんが
>ここに台湾の人々の観点を組み込む必要はないのでしょうか。
と主張されたので、当時の一般の台湾人がどのような状況におかれ、どのように行動したのかを実際の記録からご紹介したものです。

また、なぜ他の部分を無視して、その部分だけを取り上げたのでしょうか?



(2)に関連して再度掲載しておきますので、ご確認ください。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
台湾民主国を名乗る勢力が、「清国に対する反乱軍」である証拠。

『1 明治28年5月10日から明治28年5月22日』
(アジア歴史資料センター ref:B03041169000 43コマ目)

■原文
清国皇帝陛下ハ昨廿日(=20日)ヲ以テ 台湾署理巡撫唐景●(「やまがんむり」の下に「松」)ヲ解職ノ上 北京ニ召還セラレ 又同嶌ニ在勤ノ文武官ニ悉ク(ことごとく)清国ヘ●(「白」の右に「反」。「帰」の俗字)ルベキ旨 勅命ヲ下サレタリ

※当時の清国皇帝は光緒帝(第11代徳宗)

■現代語訳
「清国皇帝陛下は5月20日、台湾署理巡撫の唐景スウを解職処分にした上で北京へ召還し、また、同島に在勤する文武官全員に清国への帰国の勅命を下された」
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜



上記の光緒帝の勅命が出されたのは1895年5月20日。
(アメリカ公使にも伝達)
台湾民主国の建国宣言が5月23日。
唐景スウの総統就任式は2日後の5月25日。
この時点で唐景スウは光緒帝に解職されているので無職の上、北京への召還命令を無視したことになりますね。
他の文武官も、皇帝による帰国の勅命に反逆したわけです。

つまり、台湾民主国を名乗る勢力は、
・下関条約(国際法上認められた国家間の正式な条約)と、
・皇帝の勅命(国内の最高権力者の命令)の両方に逆らっているわけです。

しかも、李鴻章によれば、もともと唐景スウは「元来地方行政を司る一官吏に過ぎ」ない人物です。
また、李鴻章自身がはっきり「反乱」と書いており、この反乱が「清国への反乱」を指していることは明白です。
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<5月15日の回答分>
「台湾に於ける兵勇人民甚だ騒擾を極め実際反乱の状態を為せり、巡撫唐(景スウ)は元来地方行政を司る一官吏に過ぎざるを以て引渡を施行するの権力を有せざるのみならず同人は人民の挟制する所となり囚虜のごとく其の生命も絶えず危険に逼れり。而して実際引き渡しを弁理するの力なし、・・・」(新字に改めています)
『台湾総督府警察沿革誌第2編・領台以後の治安状況(上巻)』(アジア歴史資料センター ref:A05020352000 51コマ右上)

※ただし、同ページには当時の日本政府が「清国政府は台湾島内の騒擾に名を借りて、台湾島の授受を引き延ばし、三国干渉のように台湾島を還付させようとしている」ことを正確に察知していたことも記載されています。
 それは「同人(唐景スウ)は人民の挟制する所となり囚虜のごとく其の生命も絶えず危険に逼れり」と書かれていますが、これが完全なウソであることからも容易に推測できます。
 なぜなら、唐景スウはこの後で総統に就任していますし、日本軍上陸から1週間足らずで、兵や台湾の住民を残して逃げることができているからです。もし本当に「人民の挟制」により「囚虜のごとく」扱われていたなら、そのようなことはあり得ないからです。
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ni0615ni0615 2010/01/05 09:53 なんだ、年が明けてもまだ他人の褌で相撲をとって偉そうにしているワケ?!

koami さんの長々し引用は、征台当局に繋がるものばかりですね、それを「鵜呑み」にして(笑)。実体的な根拠を示さない役人や軍人の手前味噌の「修辞」に過ぎません。しかもそれは、役人や軍人が「反乱者」とか「匪賊」とかレッテルを貼った人たちの抵抗が、どれほど強かったかを物語っていて、薮蛇になるでしょう。

koamikoami 2010/01/05 19:37 いつもながら説得力が無いですね(笑)
匪賊がレッテルなら、それを貼ったのは李鴻章なのですが?

koamikoami 2010/01/05 19:40 >koami さんの長々し引用は、征台当局に繋がるものばかりですね

もう一点ご指摘申し上げますと、これはhigetaさんへの侮辱であり、このページにおけるhigetaさんの論考を全否定するものですので、撤回してください。

higetahigeta 2010/01/09 18:00 不要なので再記分は削除しました。コメント欄の容量にも限りがありますし、
koamiさんだけのものではありません。十二分に自説を御披露されたと思いますので、簡潔にお願いします。

(1)について、大規模な反乱を戦争と呼ぶことは、koamiさんも同意のはず。
問題は、清国への反乱を肩代わりした鎮圧だから、構造上、戦争と呼ばないとするkoami説が説得力があるかどうか。台湾の抵抗勢力は、鎮圧されてしかるべきものであると考えているのですか。

(2)については、それを殊更主張するは、(1)の肩代わり鎮圧説と連動しているのでしょうが、台湾の抵抗勢力が領地割譲を認めた清国に反旗を翻し、日本と戦争した、と表現しても問題がないように、普通、理解しづらい主張です。

なお『清国兵と一般住民の乖離』の部分は、一面的すぎましょう。
陸奥宗光「台湾島鎮撫策ニ関シテ」においては、「台湾人民」は広東福建出身の人々が多く、「同族聚居シテ村落ヲ成シ互相応援シテ以テ他族ト抗拒シテ下ラサルノ習俗尤モ固ク」、首長のもと、同族一体となり、「豪モ海外事情ニ達セサルヲ以テ他国管轄ニ隷属スルヲ欲セサルト且他国管轄ニ属セハ同族財産ヲ虧損シ或ハ没官セラルルヲ危疑スルニ因リ敢テ抗拒ヲ図ル」と述べられています。
『台湾総督府警察沿革誌第2編』271-272頁をみても、「土匪」と「部民」が一体となっていること、両者は簡単に関係が切れていないことわかります。

「双方を検証し、さらに俯瞰して全体を見ることが必要」、余所者への抵抗は自然な感情とは、koamiさんの言葉です。
また学術的な議論をしているのに、論拠にwikipediaやyoutubeを挙げるとは、驚きです。

(3)については、閣議決定は、無視していません。
稟申から閣議まで全文引用、あるいは閣議決定の方を引用してもいいのですが、
台湾総督→台湾事務局総裁→首相→閣議という全体の流れを確認し、恣意的な引用にならないか注意しつつ、現地の評価を明らかにするため総督稟申部分を引用しました。
閣議決定の文面もその稟申の文面を踏まえています。

なお矢印や記号、箇条書きでは、論理の流れが正確に伝わりません。
『したがって、日台戦争は誤りである』の直前は、最重要部ではないのですか。

koamikoami 2010/01/10 08:31 お返事ありがとうございます。
削除の件は了解いたしました。
しかし、またもや残念な内容になっています。

もともとhigetaさんのお話は「新たな領土は、簡単に
自国の領土になるとは限りません。」のように、
下関条約を無視するなどおかしな内容が多いのですが、
今回はさらにお話がおかしくなっています。



(1)それで、まだ答えていただいていないのですが、
higetaさんの言われる「戦争の定義」とは何でしょうか?



(2)では、もっと分かりやすい事実をご紹介します。

台湾平定の最終決戦である台南攻撃のために増援された
第二師団、混成第四旅団の上陸は、日本軍が台南に無血
入城する、たった10日前です。
それまでは、ほぼ近衛師団だけ(しかも初期は半個師団)
で戦っていたわけですね。

同時に、台北と台南という2大拠点の両方で決戦すらせず、
逃亡しただけなのですから、規模の点でも戦争とは呼べません。
唯一日本軍が全兵力を使用した戦闘は、彰化付近の戦い
(1985年8月27日午前)だけです。
これは増援前の戦闘であり、しかも半日で終了しています。

これは組織力の弱い武装民の反乱・暴動であり、
李鴻章も「反乱」と書いています。

では、反乱暴徒以外の住民はどのように行動していたのでしょうか?
『近衛師団台湾征討史』にその記録があります。

※旧字が無いなどの理由により、一部を新字または平仮名で表記。
--引用--
二十一日阪井右縱隊は開元寺に川村左縱隊の前衛は估仔内附近に本隊は大目降に並に皆一の敵丸を受けずして進て此に舎營す。左縱本隊の大目降に到るや人民皆安然農桑に從事し。老幼婦女路上に出て我軍を歓迎し欣々然として喜色あり。是より以北の人民負擔難を避くると全く其状を異にす。即ち就て其故を問ふにかふ曰く劉永福既に逃亡し而して其軍隊は皆解散せり。己に貴軍に抗するもの無けれは亦戦闘のあるべき理なし故に皆歸家安堵するなり。と而して師團未だ劉永福逃亡の公報に接せす。軍を進め兵を行る猶昨日の如し。
二十二日師團は三方より道を分て臺南に進む。途にして劉永福己に逃亡し第二師團の一部隊市民の請に應し約に先たち己に台南府に入て其空城を警衛すと聞く。

(近代デジタルライブラリー『近衛師団台湾征討史』187コマ目。P.312〜P.313)
--引用終了--

いつものように、簡単に現代語訳にしておきます。
----
10月21日、日本軍の川村(景明。陸軍少将)左縱隊が、
敵から全く攻撃を受けないまま大目降(現・新化鎮)に
到着すると、住民が安心して農作業をしており、しかも、
老いも若きも日本軍を歓迎して、喜色満面で嬉しそうである。

住民が戦難を避けていた台北とは全く違うのでその理由を聞くと、
「劉永福はすでに逃げて、その軍隊も皆散り散りになった」
「すでに日本軍に抵抗する者はいなくなったので、戦闘もあるわけがない」
「だからみんな安心して家に帰ってきた」
と、住民は答えた。近衛師団はまだそのことを知らずに進軍している。

10月22日、師団は三方から台湾に進軍する途中で、劉永福が逃亡し、
一部隊が台南市民からの依頼に応じて、すでに台南に入城し、
敵がいなくなって空になった台南を警備していると聞いた。
----

もちろん、全ての住民が日本軍を歓迎したとは言いませんが、
少なくとも、これは山岳部の土匪とはまったく関係ありません。

また、『台湾総督府警察沿革誌第2編・領台以後の治安状況(上巻)』
271-272頁には、「台湾島の住民は土匪をそれほど悪い人間だと思わず、
状況に合わせて土匪に従うことを恬として恥じない風潮がある」と
書かれていますので、ご紹介したように土匪が村を襲って村民を
従わせているという事実を補足する内容です。

さらに、これもすでにご説明しました通り、土匪は便衣隊のように
後ろから襲うゲリラ戦を展開したからこそ、掃攘戦が行われました。
ゆえに、彼らは組織的な反抗をした存在とは言えません。

しかも同頁に「そうした行政官庁と土匪の二重支配を清国の統治が
助長した」と書かれていることは、前述の李鴻章の言葉やタイムズの
記事が正しいという証拠です。(ただし清国だけでなく、それ以前の
オランダの統治でも同じ状況だったと考えられます)

加えて、wikipedia や youtubeでも、発言者や原典が明確で
信用できるのなら引用しても問題ないのではないのでしょうか?
higetaさんが資料を引用されているのと同じことですから。
「wikipediaの内容を全て鵜呑みにしてはいけない」と言うのなら賛成です。



(3)以前の『日清戦争だから日清戦争じゃない』発言のように、
higetaさんの反論は意味不明なことが多いのですが、今回はさらに
意味が分かりません。

higetaさんはこう言われています。
>閣議決定の文面もその稟申の文面を踏まえています。
この文章は「閣議決定だけ紹介すれば、稟申の内容もカバーできる」
としか読めません。

ところが、higetaさんはこのページで「閣議決定」を一度も紹介していませんよね?

紹介していなければ、いくら「閣議決定」が樺山稟申の文面を
踏まえていても意味がないじゃないですか。

読者は「閣議決定」を紹介してもらわなければ読めませんし、
「日本政府が樺山稟申にどのように回答したか」という、
その内容こそが問題なのですから。

もう一度、私の質問をさらに分かりやすく説明させていただきますね。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
樺山稟申への伊藤内閣の回答が「閣議決定」。
つまり、「閣議決定=日本政府の決定」です。
ですから、日本政府の見解を知るには「閣議決定」を読むしかない。
なのに、なぜhigetaさんは「閣議決定」を無視したのでしょうか?
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜



>『したがって、日台戦争は誤りである』の直前は、最重要部ではないのですか。

だからと言って、他の部分を無視して良いというわけではありません。
他の部分も最重要部です。



(4)では、(1)と合わせて、もう一つ基本的な質問をさせていただきます。

higetaさんは最近、「規模の大きな内乱は、戦争と呼べるでしょう。」と、
ご自分の意見を変えられましたが、これはhigetaさんがこのページで
書かれている内容と矛盾しています。

台湾での戦闘は『「外征」すなわち対外戦争』でしょうか?
それとも「内乱」なんでしょうか?

higetahigeta 2010/01/10 10:44 台湾における戦闘は、対外戦争と内乱の両方の側面をもっています。
議論の余地を探るため、こちらはkoami説の土俵に乗って議論をしようとしたのですが、かみあわないですね。
すでに01/02 01:37のコメントでkoamiさんは要点を挙げられたはずですし、こちらもさらにコメントする必要は感じません。

koamikoami 2010/01/10 20:17 >対外戦争と内乱の両方の側面をもっています。

話が元に戻ってしまいましたね。
「内乱=清国と反乱軍の戦い」「対外戦争=日本と反乱軍の戦い」という意味でしょうか?
もしこれが両方とも日本に関して言っているのだとしたら、物理的にあり得ません。
第一、またもや下関条約を無視していることになってしまいますよ?

日本が「事実上」外征と見なしたのは、すでにご説明した通り、台湾での戦闘が「日清戦争の続きで、今後も戦闘は避けられないから」だからです。
(上記■閣議決定(アジア歴史資料センター ref:C06022096100)参照)
日清戦争は外征ですし、台湾島も下関条約(1985年4月17日締結。近衛師団の台湾島三貂角上陸は5月29日)まで清国=敵地だったのですから、これは当然です。

「話がかみ合わないだけだ」と思いこみたい気持ちは分かるのですが、その原因はhigetaさんが下関条約などの、いくつかの重要な要素を無視、あるいは誤解していることです。

higetahigeta 2010/01/10 23:18 条約といえども、歴史的な産物であって、絶対的な基準ではありません。
日本政府の立場を歴史認識に投影すれば、それは絶対的な基準となります。
しかし条文と実態が別のものであるのは、当然のことです。

閣議決定において、事実上、外征と見なす理由として挙げられているのは、台湾島民が未だ純然たる帝国臣民とは言えないこと、清国の残兵が島民とともに頑固な抵抗をしていること、今後も戦闘が免れないであろうこと、日清戦争に伴う結果であること、ですね。
台湾割譲が条約上の形式的先行であることは、認識されていたわけです。

koamikoami 2010/01/11 01:12 higetaさんは、私がすでに紹介した様々な前提、日清間で行われた公的行事や歴史的事実を無視されています。

>条約といえども、歴史的な産物であって、絶対的な基準ではありません。

それが下関条約を無視するということです。
なぜなら、下関条約によって台湾が日本の領土(日本国内)になっている事実を無視しているからです。

>しかし条文と実態が別のものであるのは、当然のことです。

1985年5月8日に清国芝罘(チーフー)で下関条約が批准され、
同年6月2日には基隆沖台湾島の授受も終了していますから、
条文と実態が一致していますので、この文章は間違いです。

>台湾割譲が条約上の形式的先行であることは、認識されていたわけです。

上記のように、「形式的」ではなく実態上も
台湾の割譲は終了していますので、この文章は間違いです。

koamikoami 2010/01/11 02:22 訂正です。
1985年ではなく、「1895年」です。
失礼しました。

ころはるころはる 2010/04/04 15:03 http://webrog.blog68.fc2.com/blog-entry-110.htmlさんから飛んできました。
実際の資料に基づいた反論で、非常に納得できる内容だと思います。
残念ながら、higetaさんの日本語読解ミスは否定できないものと思います。
こちらの内容も拡散させていただきますね。

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