さよなら、ラッシャー木村さん
18時過ぎ、夕刊フジ記者の塚沢さんからメールが届いた。「訃報」とのタイトルに、慌てた。「大変だ ラッシャー木村が死んだ」。プロレスファンの誰もが、黒のロングタイツと、あの大きな背中を愛していた。ご冥福をお祈りします。
「こんばんは」。81年9月23日、田園コロシアムでの伝説のシーンが今夜、報道ステーションで流れた。アントニオ猪木にブルドッキング・ヘッドロックを決めている場面も、ハルク・ホーガンと必死にやり合う映像も。思えば、田コロの実況は、古舘アナウンサーが務めていた。ラッシャー木村は強く、素晴らしい肉体をしていた。
プロレス記者を志望して入った会社だが、担当にはなれず、木村さんに取材したことは一度もない。でも、一ファンとしての思い出なら、たくさんある。
僕の故郷・水戸には年に1度、全日本プロレスが巡業に来た。街角にポスターが張られた瞬間から、大会が行われる日を指折り数えた。通っていた水戸一高から、会場の水戸市民体育館は、自転車で10分の距離にあった。
「全日本 いつも熱い感動をありがとう 水戸一高プロレス研究会」。達筆で知られる書道部の川又君に横断幕を書いてもらい、2階席に掲げた。
前座のクライマックス。木村さんのファイトが終わると、僕らは必死に「マーイクっ、マーイクっ」と叫び、求めた。ちょっとだけジラした後、木村さんがマイクを握る。固唾を呑んで、第一声を聴いた。
「永源」
もうその一言で、十分だった。必死に手を叩き、称賛の音を鳴らした。木村さんはサービス精神が旺盛だった。ご当地ネタを必ず織り交ぜるのだ。
「偕楽園では梅の花が咲くころですね」
「永源、最近は粘りがなくなってきたから、納豆食えよコノヤロー」
当時、通販広告にいたるまで全頁を熟読していた「週刊プロレス」に、木村さんのこんな談話が載っていて、温かいお人柄に感激した思い出がある。紹介させてもらう。
「レスラー生活が、一度だけ嫌になったことがあるよ。自分が飼っていた秋田犬が死んだ時だよ。ホラ、レスラーって、1年中巡業ばっかりで、ほとんど家を空けているから、自分で犬の面倒を見てやれないだろう。あの時はつくづく、レスラー生活が嫌になったなあ」
今頃、剛竜馬さんと楽しそうに、国際プロレスの思い出話をしていることだろう。合掌。
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