東京区検はこの20日、公然わいせつの罪で写真家篠山紀信を略式起訴した。
篠山の口からは直接彼の”実感”を聞いていたが、起訴にあたって篠山が出したコメントを以下に掲載する。
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関係各位の皆様
この度、作品『20XX TOKYO』の撮影が「公然わいせつ罪」にあたるという事件が勃発しました。
関係者の皆様に多大なご心配とご迷惑をお掛けしたことを深くお詫び申し上げます。
この度、この件について略式による罰金とのこととなりました。
これまで捜査途中のこともあり一切発言を控えておりましたが、この様な結論が出た今、この事件についての僕なりの考えを書面に致しましたので、お読み下されば幸いです。
2010年5月20日 篠山紀信
『20XX TOKYO』公然わいせつ事件について
09年11月10日、僕の事務所・自宅、モデル事務所の三ヶ所に突然家宅捜査が入った。
容疑は写真集『20XX TOKYO』の撮影が「公然わいせつ」罪に当るというもので、08年8月〜10月にかけて撮影され、写真集、写真展、雑誌に何度も発表された作品がなぜ今頃捜査されるのかと驚いた。
容疑は作品自体のわいせつ性は問わず、その撮影行為に問題があるということだった。
「公然わいせつ」とはいかなるものかという問いに、僕はストリップショーなどで性器を露出するとか、公園で男が女学生に自分の性器をみせるとか、性行為などを他人のいる公の場で行うこと位しか浮かんでこなかった。
確かに今回問題となった作品の中には、都会の公道で裸になって撮影したものがある。
「公然わいせつ」の正確な定義を知らずとも、街中で無防備に裸でいることはいけないことなど誰が考えても常識でわかる。
そのため撮影は人のいない場所を選び夜間に行い、場所によっては「目かくし」となる大きな遮蔽板を立て、みはり役が人がこない事を確認後、全裸の上にガウンをはおったモデルが撮影する瞬間だけ(数秒から長くて1〜2分)ガウンを脱ぎ裸になった。それは熟練のマジシャンの早業のような撮影だった。
そもそも、この様な都会(TOKYO)にNUDEを置くという作品は40年以上前に発表した『PHANTOM』(1969)に端を発する。東京生まれ東京育ちの僕にとって「TOKYO」を撮影する事はライフワークでもあった。その20年後に写真集と写真展『TOKYO NUDE』(1989)を、そしてその20年後、今回『20XX TOKYO』(2009)を発表した。
様々な写真家が様々な東京をテーマに作品を発表しているが、僕は普段見慣れた光景の中に有り得べからざる異物を置くことにより目から鱗を剥がし、TOKYOが持つ不思議なエネルギーの本質を露呈させようと考えた。その異物がNUDEであり、物である以上、生きた人間の様な感情や体温は必要でなく、マネキンや人形のように無表情でどこか他の惑星から降り立ったレプリカントの様な無機質さで、存在している裸が必要だった。そこには扇情的ポーズのかけらもなく不思議と近未来の都市を予感させるイメージがあった。
さて、警察で聴取された僕は「公然わいせつ」がいかなる罪かを教えられた。それは100%他人の視線を遮る事の出来ない戸外で裸になることはこの罪にあたるという事だった。海岸でヌード撮影会が行われたが、その沖を通過する船から見える可能性があれば、それはこの罪に当たるという判例も教えられた。
いかに僕が人の眼に触れぬ様に、撮影時可能な限りの配慮をしたとしてもTOKYOという都会を完全に密室化することは出来ない。これがこの罪の法律的定義であるとすれば『20XX TOKYO』のすべての写真はこの法に触れる。
だが僕はこの作品の制作時、まさか「公然わいせつ罪」に触れるなど露ほどにも思っていなかった。それは40年間ずっとこの手法で撮影を続けてなんのお咎めも無かったし、エロティックな姿態や営利目的でなく、純粋に作品を創り上げようとする行為は表現者としての自由の範囲内であると考えていたからだ。第一自分が犯している犯罪行為を写真に撮り、それを公に発表するなどという人間がどこにいるだろうか。
だが警察の見解は「100%見られないように出来ない裸はこの罪にあたる」の一点張りであった。僕はそれならばその容疑を認めざるをえず、警察の主張に従った。
そして’10年1月25日、僕とモデル2名が書類送検され、この程略式による罰金ということになった。
無論、撮影現場に使われ不愉快な思いや怒りを感じられた方々には深くお詫びしたい。また作品に誇りを持って参加してくれたモデルやスタッフにも、この事態に巻き込んでしまったことを申し訳なく思っている。
しかしこの事件は色々な疑問を僕に残した。さて、これ以後、戸外のヌード撮影は一切出来ないのだろうか。山奥にはキコリがいる。海には釣り船がいる。空にはいつ何時、ヘリコプターや気球が飛んでくるかも分からない。野外に完全密室などありえない。
また物事には原因があり、結果がある。『20XX TOKYO』は写真作品として東京を表現する為の創造の発露であり、この純粋な創作行為は何者も止める事は出来ない。出来上がった作品のわいせつ性や表現の意図を問わず、問答無用の一切の禁止はこの事にどう答えるのだろうか。そしてこの事件がきっかけになって、創造のエネルギーが抑止され、表現することが窮屈になってしまわないだろうか。
この事件が報じられるやいなや、多くの激励の手紙やメールをいただき感謝している。一方で、実際の仕事上では刷り上った作品が配布されなくなったり、クライアントを慮って撮影がキャンセルになったりの事例もあったが、ジャーナルなメディアではどの雑誌も連載や企画中止などの処置をした編集部は皆無だった。
それでも一連の捜査報道は、表現の萎縮効果を生みかねない。一度壊されてしまうとこの自由は、修復にとてつもない時間とエネルギーを要する。
ヒリヒリドキドキする新しい表現、時代と密接にコミットする表現は、常にこのような事件に抵触する危険をはらんでいる。
もし20年後、まだ僕が写真を撮り続けていたらば、僕はいったいどんなTOKYOを撮ることを許されているのだろう。
僕はこの事件を真摯に教訓として受け止めた上で、さらなる新しい表現に果敢に挑んで行きたいと考えている。
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さて篠山のコメントへの評価は各自でしていただくとして、篠山がこの五月に起訴されるであろうことは予期されていたことであり、それに先立ち私の周辺で幾つかの不穏な動きがあったことをこの場で記しておきたい。
この月、つまり篠山が起訴されるであろうと予測される5月に入る前にアサヒカメラの編集長から電話があり、近いうちに会いたいという申し出があった。
妙に急いでいるようだったので前倒しで予定を作ったのだが、その日、編集長の口から出たのは木村伊兵衛賞の審査員の総入れ替えだった。
伊兵衛賞がらみのことであろうと予感はしていたから驚きはなかったが、ひとつの誤謬があった。私の予感とは篠山紀信の審査員解除の了解だと思っていた(かりに篠山が下ろされた場合、抗議の意で私も降りるつもりでいた)のだ。
篠山の事件の一件があって以降、朝日新聞は公然わいせつ罪で起訴され、控訴しない限り犯罪者となってしまう篠山の扱いをどのようにするかとは私の重要な関心事のことだったからである。
というのは伊兵衛賞は先年、アサヒカメラの管轄から新聞本紙の管轄に移っていたからだ。この時点で賞に関する差配や決定権は出版局長および雑誌の編集長から朝日新聞社主に移ったことになる。
いくら凋落したとしても新聞は社会の木鐸(ぼくたく)である。起訴された場合の篠山の扱いは大変厄介だろう。
新聞記事で一記者が篠山擁護論を打つこととはまったく次元の異なることなのだ。
おそらくこの一件をどう判断するかは伊兵衛賞が新聞本紙扱いとなってから毎年授賞式にやってくるようになった社主の采配ひとつにかかるのではないかと思っていた。
そして今年の授賞式の控え室で社主の表情を見たとき、なんとなく悪い予感はしていた。
結果は前記の通りであり、こういった一連の流れの中で伊兵衛賞審査員の総入れ替えという方向が打ち出された(あくまで私個人の観測だが)わけだが、その入れ替えの理由は表向き、審査員の担当年月が長すぎたということとなっている。
確かに私の場合は18年もやっている。キャノンの写真新世紀の審査を20年間やっていた写真評論家の飯沢耕太郎が伊兵衛賞の審査員の担当年月は長すぎる(!?)とどこかで書いていたらしいが、それは確かに長いと思う(但しどこかの写真雑誌の編集長も自分のブログで飯沢と同じことを述べていたが、それはくだらない建前論であって本当を言えば長さなんてどうでもいいのである。要はその審査員の眼が曇っていないかどうか、情実に流されないかどうかであって、的確で曇っていず、一切の情実に流されなければ100年やってもかまわないのだ。逆に言えば若くとも眼が曇り、政治や情実に流される人間はどこにもいる)。
しかし私個人は別の意味でこういう役割をあまり長く続けたくないから10年目の審査が終わった段階で当時のアサヒカメラの編集長に審査員辞退を申し出ているという経緯がある。
了解も得たから、その年の授賞式の挨拶の時に来客の前でそのことも触れた。
だが、次の年、どうしても適切な人選ができないので見つかるまで何とか継続してもらえないかとの進言を受け、困っているならと受諾した。
したがって今回の申し出に関してはやっと肩の荷が下りたという思いがある。個人的には「新潮ドキュメント賞」審査を降りた流れで「イメージングコンテスト」も含め今後、審査のようなものから身を引き、自分の仕事に専念したいという思いがあるから、ちょうど良い潮時である。
しかしどうも後味が悪い。
あくまでそれは私個人の観測と再び断っておくが、今回のことは判決が出たあとに篠山一人を下ろすことになった場合、あまりに杓子定規、そして露骨な体制翼賛になってしまうので、経年過による入れ替えという落しどころに落ち着いたのではないかということだ。
だが都築響一などは長くないから、どうもこの落しどころには矛盾が生じる。
その矛盾を解消するためかどうかは分からぬが、今後審査員の受け持ち年月は5年としたいという案を出して来た.
ちなみに都築の受け持ち期間は確か6年。
だが私の経験からすると、この写真表現の錯綜の時代、審査の適切な判断(受賞後の動きも含め)をするには何度かの審査経験をする必要を感じたことからすると、この5年という基準ではやっと適切な判断が出来るころに辞めるということになる。
さらに言えば5年ごと4人の審査員を入れ替えるなら相当の人材の豊富さが必要だが、写真界には本当に人材が少ない(良い写真を撮ることと、他者の作品に対して自分の好き嫌いを極力排し、的確な審査をすることとは別ものである)。したがって年々審査の質の低下は避けられないだろう。もうひとつ言えることはとかくこういった審査には政治や情実が絡みがちであるということだ。写真界のようなタコツボ世界には人の繋がりが妙に絡んでいるからこの危険性は高いし、私が関わった審査の過程でもそういった不穏なものが時に顔を覗かせ、間髪を入れずやわらかい言葉でそういった空気を退けるのはそれなりの芸を必要とした。自分もワルだなと思うこともある。あるいはまた基本的には新しい作家を世に送り出したいと願う他者を思う志も必要である。そういったさまざまな人間として作家としての総合力を必要とするのが審査というものだ。一筋縄ではないのである。若ければいいというものではない。
伊兵衛賞はその都築響一を受賞者にしたあたりから様相が一変した(実は写真家とみなされていなかった都築を伊兵衛賞の俎上に乗せたのも私だが)。
また長島友里恵、ヒロミックス、蜷川実花3人を同時に出したときには束にして受賞させるとは女を馬鹿にしているというへんてこりんな批判があったりもした。
あの審査時は本当は長島友里恵、ヒロミックス、二人受賞で落ち着きかけたところにこの人は今の空気感を持っている人だからと私が蜷川実花を強引に押し込んだという経緯があったから女を馬鹿にした張本人は私でもある。
あるいはまた梅佳代の受賞の時にはごうごうたる非難があったりもした。
そのように私が審査をやりはじめてからの年月、この審査過程は保守的な写真世界の住人との闘いであったとの思いが今は過ぎる。
一体に言えることは要するに”社会と切り結ぶ”ユージン・スミスやキャパや、難民をまるで泰西名画のように撮ってしまい、その写真展オープニングには政治家や国連関係者や大使をはじめとする各界のお歴々がありがたく参列するサルガドのようなマグナム的なフォトジェニックなものを写真だといまだに思い込んでいるのどかな人々(なぜか決まってモノクロ好き)が世間にはたくさんいらっしゃるということである。
以上のような経緯の中で私の今の心配事は、受賞式の冒頭挨拶を何度か聞いたかぎりでは写真を扱う新聞人でありながらほとんど写真というものがわかっていらっしゃらない現朝日新聞社主の意向などが反映して新たな審査員が人選された場合のことである。
つまり伊兵衛賞が妙に保守的なものに回帰する恐れはないかということだ。
そういう心配がふとよぎったから編集長との別れ際にホンマタカシとか蜷川実花なんかはなかなかいいよねぇと小釘を刺しておいた。
しかし彼らが審査員という名の大乗仏教徒になれるかどうか、それには十年の修行も必要だろう。
追記
本トークでは故西井一夫氏に関するコメントをアップしていたが、故人は反論が出来ないので削除することとする。