官民挙げた長年の努力で、松阪牛をはじめ全国銘柄牛の素牛(もとうし)供給元ともなった宮崎牛ブランドの存亡の機に関係者は青ざめる。【川上珠実】
「人間で言えば30代前後の働き盛り。
これからが楽しみだったのに……。何とか生き延びてほしかった」
忠富士を生み、育てた宮崎市の畜産農家、川越忠次さん(52)は感染疑いと殺処分の報に声を詰まらせた。
02年6月22日。忠富士が生まれた時のことは忘れない。
「足の節が腫れたみたいに太くて。
えらい大きな牛が生まれたって家族で喜んだ」
スーパー種牛と呼ばれた「安平」の孫に当たり、その遺伝子を引き継いでいた。
自分の名前の一字を子牛に与えた。
のんびりしておとなしく、人を怖がらなかった。
川越さん方で生後8カ月まですくすく生育。
その後、宮崎県畜産試験場(同県高原町)から県家畜改良事業団(高鍋町)と種牛候補の花道を歩み、07年1月、宮崎牛ブランドの種牛に認定された。
川越さんは、忠富士の子牛を肥育する農家の声を聞くのが何よりの楽しみだった。
「普通は400キロくらいしか取れない枝肉が750キロも取れた」と感謝されたこともあった。
自分のことのように喜んだ。
自慢の“息子”に会うため、事業団にも定期的に足を運んだ。
最後に忠富士と会ったのは、口蹄疫が表面化する前の4月9日だった。
「おい、元気でやってるか。
おれのこと覚えちょっか」と頭をなで語りかけた。
「反応? 相変わらずのんびりしていた」と力なく笑った。
流通や飲食業界では目立った混乱はないものの、将来的な牛肉調達への影響を懸念する声も出ている。【安部拓輝、竹花周、渡辺諒、高橋龍介】
●滋賀
「近江牛」産地の滋賀県では、1年間に県外から仕入れる黒毛和牛の子牛4500〜5000頭のうち、4割近い1700頭弱が宮崎産。
改良が進み、霜降りで体の大きい牛に育つため、農家からの信頼は厚い。
忠富士まで被害が拡大したと聞いた県畜産課の担当者は「宮崎の宝が……。
完全防備していたはずなのに」と語る。
同県竜王町の澤井牧場では、毎月仕入れる100頭近い子牛の約7割が宮崎産。
うち約6割の40頭近くが忠富士の血統だ。
今月から仕入れがストップし、飼育と出荷のサイクルは崩れている。
澤井隆男社長(52)は「まずは事態の終息を待ちたい。
落ち着けば、生き残った子牛が2、3カ月遅れで市場に出る。
それを買い支えて応援したい」と話した。
●佐賀
「佐賀牛」で知られる佐賀県の肉用牛は、出荷頭数の14%が宮崎産の子牛から育てられている。
県畜産課は「農家には子牛に合わせて積み重ねた飼育のノウハウがあり、他県産に切り替えるのはリスクが高い」と指摘する。
質の高い種牛が1頭減れば、口蹄疫が終息しても市場に影響が出ることは否定できないといい、「とにかく早く終息することを祈るだけ」と話した。
●長野
宮崎から年2000頭以上の子牛を買い付ける長野県。
県園芸畜産課は「今回の騒ぎが始まってから、宮崎牛の供給が止まった。
農家が北海道など他地域から子牛を調達する流れが出てくるかもしれないが、全国的にこの流れが加速すると、価格高騰が考えられる。
これが農家の心配の第一だ」と話している。
◇飲食店に不安、流通業界は冷静
東京都内の宮崎牛ステーキ専門店では、5月の来店客数が前年比で2割近く減少。
17日からの週は1日5件程度のキャンセルがあったという。
店の入り口に安全性をアピールする張り紙をし、客の不安感を取り除こうと懸命だ。
関係者は「現地の方がずっと大変。
弱音を吐いていられない」と気を引き締める。
宮崎県産食材をそろえる都内の居酒屋も、ゴールデンウイーク以降に客数が2割程度落ちたという。
子牛の供給が細り、将来的に牛肉の調達が難しくなるとの懸念もある。
焼き肉チェーンを展開するさかいは「客足に影響はなく、牛肉離れはない」(商品部)とする一方で「長期的には牛肉の調達が難しくなるかもしれない」(同)と案じる。
宮崎牛のしゃぶしゃぶなどが主力の料亭を運営するニユートーキヨーも「高級品の宮崎牛が更に高くなる可能性がある」と話した。
流通業界は総じて冷静だ。
イトーヨーカ堂は「宮崎産牛は通常通り販売しており、客からの問い合わせもない」。
高島屋日本橋店は26日から宮崎県産食材を集めた催事を予定通り開き、宮崎牛などを販売することにしている。
農水省は4月20日から全国の小売店約1万2000店を巡回しているが「宮崎産牛肉は扱っていません」などの不適切な表示をしていた店は5店にとどまり、いずれも同省の指導で改めたという。
宮崎の畜産業者に対する支援の輪も広がっている。
県産品のアンテナショップ「新宿みやざき館KONNE」(東京・新宿)に設置された募金箱には14日夕から20日までに約120万円が集まった。
募金のためだけに来店する人も多い。
伊藤義夫館長は「口蹄疫に関する問い合わせはなく『大変だね、頑張ってよ』との励ましの声の方が目立つ」という。【永井大介、田畑悦郎、窪田淳】
宮崎県で口蹄疫(こうていえき)が多発している問題で、「宮崎牛」のエース級種牛6頭のうち、感染の疑いが判明したスーパー種牛「忠富士」は22日、殺処分され、埋却された。
他の5頭は経過観察措置とされたが感染の可能性は残っている。
同日から家畜へのワクチン接種も始まり、依然として現地は緊迫した状態が続いている。ブランド力を支えてきた最優良種牛にまで感染が及び処分されてしまったことは、宮崎県のみならず全国の畜産関係者に大きな衝撃を与えている。
忠富士など6頭は、県家畜改良事業団(同県高鍋町)が人工授精用に生産する冷凍精液の主力牛で、国の特例措置で13日に同事業団から約20キロ離れた西都(さいと)市の簡易牛舎に移されていた。
牛舎は2メートル四方の部屋が七つあり、高さ3メートルの木板で仕切られている。
忠富士は残りの5頭とは1部屋を置き、一番北側の部屋にいた。
だが、避難前に感染していたとみられる。
全国の関係者が心配しているのは、もし残る5頭で感染が確認された場合、同県からの良質な子牛の供給が滞り、国産牛肉の生産基盤自体を揺るがす可能性があるためだ。
和牛の生産農家は、子牛を産ませて出荷する繁殖農家と、その子牛を買い取って育てる肥育農家に分かれる。前者は生まれた子牛が生後9カ月程度になると市場で競りにかけ、後者は買った牛を20カ月から三十数カ月間育てて出荷するのが基本的な仕組みだ。
宮崎県は繁殖農家が多く、全国有数の肉用子牛の生産県だ。
農林水産省の統計によると、07年8月〜08年7月に宮崎県内で生まれた肉用牛の数は繁殖用雌牛を含め約8万6500頭と全国の15%を占め、鹿児島県の10万300頭に次ぐ規模だ。
宮崎産の子牛は、生育の早さと肉質の良さで評価が高い。
宮崎県によると、09年度に県内で出荷された子牛7万7707頭のうち、4万7565頭は県内向けに回ったが、「佐賀牛」で知られる佐賀県に3177頭、松阪牛の産地を抱える三重県に2604頭など、多くのブランド和牛産地に供給された。
松阪牛の場合は4割を宮崎生まれが占めている。
宮崎の種牛から採取された精液は県内の繁殖農家だけに提供されている。
県によると、農家の需要を満たすにはストロー(管状の容器)の数で年間15万〜20万本が必要。
優秀な種牛からは年3万5000本程度の精液が採取できるため、残る5頭が無事なら量は確保できる計算だ。冷凍保存されている精液も約15万本あり、直ちに供給不足に陥ることはない。
しかし、他の5頭に感染が広がれば話は別だ。
冷凍精液のストックは1年程度で尽きる。
現地では、やり場のない怒りと悲しみが渦巻く。
同県西都市の黒木輝也さん(63)は肥育する約200頭の6割が「忠富士」の遺伝子を引き継ぐ。
自身の牛舎でも感染が確認され、殺処分した牛の埋却作業に追われている。
「今度は種牛までやられてしまった。もう宮崎の畜産はお先真っ暗だ」と声を荒らげた。【行友弥、古田健治、川上珠実】