ようこそ 私の研究室へ15 「匂いに対する忌避行動を規定する神経回路の解明」研究者 小早川令子
ネズミは生まれつきネコの匂いが嫌い?嗅覚系神経の機能を解析し、情動のメカニズムを探ります。

PROFILE

小早川令子(こばやかわ・れいこ)

科学技術振興機構 さきがけ研究者
1972年東京都生まれ。東京大学卒業後、同大学大学院に進学。坂野仁研究室で免疫系の研究に従事。2000年3月から日本学術振興会特別研究員として嗅覚系の研究を始める。06年4月、CREST「嗅覚系における神経回路形成と再生の分子機構」研究補助員。07年10月から現職(〜2011年3月)。同年11月7日、英科学誌『ネイチャー』オンライン版に論文発表。08年5月、独創的な成果を上げた若手研究者に贈られる第1回「湯川・朝永奨励賞」を受賞。

ネコを恐れないマウス。

「匂いは鼻の中の嗅細胞によって感知されます。同じ感受性を持った嗅細胞はたくさんあるのですが、それらの間の機能的な違いはこれまで知られていませんでした」
 2007年の秋、小早川令子さんは知り合いからとびきり大人しいネコを借りてきた。実験で作った特別なマウスがネコを怖がらない様子を撮影できれば、研究の成果をこれ以上なく鮮烈に示せると思ったからだ。マウスやヒトなど、哺乳類の鼻腔の奥にある粘膜(嗅上皮)には、さまざまな匂いに反応する無数の嗅細胞が並んでいる。小早川さんは、嗅上皮はいくつかの領域に分かれていて、それぞれが異なる機能を担っているのではないかと考えた。これまで、誰も調べていなかったことだ。そこで、狙った嗅細胞群だけを除去する手法を開発した。除去することで、どんな機能が失われるかを調べようというのだ。
 野生のマウスに天敵の匂いを嗅がせるとすぐに逃げる。先天的に匂いで危険を察知するからだ。ところが、ある嗅細胞群を除去すると、逃げないマウスが生まれた。天敵の匂いがわからなくなったわけではない。残りの嗅細胞で天敵の匂いを嗅ぎ分けられるのだが、その匂いを怖がらなくなったのだ。つまり、嗅上皮のある領域は、特定の匂いに対して先天的に恐怖行動を引き起こす機能を担っていることが明らかになった。
 ネコと触れ合うマウスの写真が、輝かしい業績を世界に知らせる役目を果たした。英科学誌『ネイチャー』に論文が載り、海外メディアがアニメ「トムとジェリー」のようだと書く。研究プロジェクトを構想してから、すでに8年近い年月が経っていた。

夫婦で二人三脚!研究三昧の日常生活。

「研究はマウスをいろいろな角度から解析する必要があり、共同研究者なしにはできません。幸い、アイデアが湧いたらすぐに一緒に検討できるので効率がいいですね」
 2000年、坂野仁研究室で免疫系の研究で博士課程を修了した小早川さんは、同じ研究室でポスドクとして勤務するにあたり、研究テーマを嗅覚系に変えた。坂野研で行われている研究は、免疫系と嗅覚系の2系統。以前から嗅覚系を研究していた同僚の小早川高さんと研究方針について議論を重ねることから始めた。2人の苗字が同じなのは、後に結婚したからだ。
 「遺伝子工学の技術で嗅細胞の一部を除去するアイデアも2人で議論するうちに生まれました。結婚して、大学でも家庭でも、いつでも研究の話ができるようになったのは、私たちにとって大きなメリットです」
 研究では、それぞれのバックグラウンドを生かして、令子さんは分子生物学的な解析を、高さんは解剖学的な解析を担当。ともに経験のない行動学的実験は共同でやる。これは、マウスに匂いを嗅がせて、どう振る舞うかを観察する実験だ。参考になる文献もなく、試行錯誤で方法を探った。
 「匂いの嗅がせ方ひとつを取っても、方法の確立に半年かかりました。最終的に、マウスを入れたカゴの中に匂いを染み込ませた濾紙を置いたのですが、濾紙の大きさも問題となることがわかりました」。マウスが紙自体を好むため、大きすぎると紙の魅力が匂いの効果に優ってしまうのだ。
 濾紙の大きさを変えては試す。華やかに見える先端的な研究でも、結果にたどり着くまでに研究者が取り組むことは、そんな地道な作業の積み重ねだ。

本当にやりたい研究だけに邁進する研究者に。

「ポスドクは、通常3年程度の任期付きの職。結果を出せないと次の職を得るのが厳しくなっていきます。さきがけに採択されたのは、そろそろ危ないなと思っていた頃でした」
 2007年春、いくつかのポスドクの職を経た小早川さんは、ようやく結果をまとめる段階に入ってはきたものの、まだ論文発表にはいたらず、当時の職も任期の終わりが近づいていた。そうしたなか、研究職の継続を賭けて「さきがけ」に応募し、前後して『ネイチャー』に論文を投稿する。
 論文の審査通過とさきがけの採択。2つの良い知らせは同じ日に来た。「さきがけ採択のほうがより嬉しかったですね。さきがけは、新しい研究を進める信念のある女性を応援してくれる、と感激しました」
 現在は坂野研に駐在しつつ、さきがけ専任の研究者として働く。主要な研究のひとつは、恐怖行動を引き起こす神経回路網を嗅細胞群から脳の中枢へとたどること。「恐怖だけでなく、情動がどうやって生まれるのかを知りたい。生きていくうえで欠かせないのがモチベーションですが、その基礎にあるのが情動だからです」。もともと脳に関心があった。けれど「自分には複雑すぎる」と思って大学院では免疫系を選択したのだった。もはや、ためらいはない。
 「本当に知りたいことだけをやる研究者になりたい。脳の中枢の研究は非常に難しいと思います。成果がなかなか出なくて苦境に陥ってしまうかもしれません。それでも最終的に解明できれば、すべての苦労は吹き飛んでしまう。その時の幸福感を一度経験したので、やり通せると信じています」


研究の概要
一部の嗅細胞群を失ったマウスは、鳴き声を聞くまでネコを怖がらなかった。
一部の嗅細胞群を失ったマウスは、鳴き声を聞くまでネコを怖がらなかった。

匂いは、嗅上皮にある嗅細胞が匂い分子を感知し、嗅細胞の送る情報を脳が読み解くことで知覚される。匂い分子を感知した嗅細胞は、脳の(先端にある)嗅球へと電気信号を送る。嗅球では匂いの情報が糸球の発火パターンへと変換される。嗅球から先の器官へとつらなる神経回路で、さらに情報処理が行われ、認知や行動が生じる。
小早川さんらは、嗅上皮では領域によって多くの遺伝子の発現が異なることに着目し、領域による機能的な違いを研究。特定の遺伝子が発現する細胞のみを死滅させる遺伝子工学の技術を利用して、狙った領域の嗅細胞のみ除去する手法を独自に開発。これにより、ある領域の嗅細胞群が先天的に天敵の臭いに対する恐怖行動を引き起こすこと、また、別の嗅細胞群は腐敗臭に対する回避行動を引き起こすことを発見した。
現在は、①他の嗅細胞群の機能の発見、②恐怖行動を引き起こすメカニズムの解明、の2テーマを中心に研究を進めている。

TEXT:黒田達明/PHOTO:大沼寛行/パース:意匠計画