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物書きには筆禍、話し手には舌禍があるが、「文字禍」とでも言うべきものもある。中国清朝の雍正帝の時代、官吏登用の試験に、「維民所止」について述べよという問題が出た。「維(こ)れ民の止(とどま)る所」、つまり人民が安住できる所の意味だという▼これが禍をまねいた。「維」の字は皇帝の「雍」の頭をはね、「止」も「正」の首をはねたと見られたのだという。作問者は捕らえられて獄死、子も処刑されたそうだ。作家の陳舜臣さんの随筆に教えられた▼ひと塊の直線と曲線が様々な意味をもたらす。漢字とは濃密な文字である。漢字研究に生涯をささげた白川静さんは、漢字を一種の映像だと言っていた。俳人の富安風生にも一句あったのを思い出す。〈黴(かび)といふ字の鬱々と字画かな〉▼その「鬱」など196文字が新しく常用漢字に加えられる。文化審議会の分科会で答申案が承認された。難しげな字が多いのは、「書く」から「打つ」時代になったためという。わが身を省みて、恥ずかしながらパソコン任せの字が結構ある▼賛否の割れた「俺」は入り、「鷹」はもれた。熱心に要望した東京都三鷹市の清原慶子市長は「結果を“鷹揚”に受けとめる気にはなれません」と無念を語る。常用とはさしずめ、漢字界の一軍選手といったところか▼だが今回は暗いイメージの字が多いそうだ。萎怨苛潰傲塞斬嫉呪妬罵蔑闇瘍辣……フライパンに放り込んで炒めたらどんな味がするのだろう。一軍入りは世相の反映とも言われる。一覧表を眺めつつ、虹や爽の存在感大きかれと願う。