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「殺人事件が起きたような雰囲気だった。殺された牛を思うと涙も出なかった」。畜産農家の主人の悲痛が、9年前の小紙宮崎版に載っている。その前年に宮崎県と北海道で口蹄疫(こうていえき)が発生した。1年をへて出来事を振り返った記事である▼「情けなくて。手塩にかけた牛がなぜ」「子牛はわが子と同じ。可愛くてね」。深夜も眠れず、焼酎をあおる日が続いた。妻は家に引きこもったそうだ。金銭もさることながら、精神的な痛手が大きかった。それでも全体の被害はまだましだった。740頭を処分しただけで流行を封じた▼今回は燎原(りょうげん)の火を思わせる。宮崎県内の処分対象は、きのう現在で豚や牛など11万8千頭に膨らんだ。国内では過去最悪の流行である。感染はついに、「宮崎牛」ブランドを支える種牛の管理施設にも及び、屋台骨を揺さぶっている▼種牛はブランドの象徴でもある。中でも「安平(やすひら)」という老牛は誉れ高く、冷凍精液が盗まれる事件も起きたほどだ。20万頭の子を世に出し、悠々の余生を送っていたが、感染が危ぶまれ処分されるという。悲憤、いかばかりだろう▼口蹄疫は感染力が強い。01年には英国で大流行し、600万頭が処分された。人間を侵すウイルスは「人類最悪の敵」とも言われる。人には感染しないとはいえ、このウイルスもやはり最悪の敵に変わりはない▼市場へ送り出す朝だろうか。〈ふり向く牛ふり向かぬ牛どちらをも送りて友はしばし動かず〉と先月の朝日歌壇にあった。農家の丹精と落胆を思えば、対策の遅滞はもう許されない。