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他人の不幸をメシの種とする狂信的市場原理主義過激派タレコミニスト
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本石町日記に、戦後の日銀名総裁である一万田(正確には一萬田。ちなみに「いちまんだ」ではなく「いちまだ」と読む)尚登総裁の話題がエントリーされている。なかなか興味深い内容なので、ご一読を
ところで、コメントでつけようと思ったのだが、少し長くなるので、一萬田総裁とぺんぺん草発言(実際にあったかどうか不明とされるが)の真意について少し書いてみたい
この発言は、ワリと今でも誤解されている節がある。誤解の最たるものの中には、「日本の経済復興は、従来言われているように社会主義経済的な経済復興ではなく、神戸製鋼千葉製鉄所への投資のように、純粋な民間投資によるものが多かった」というものである。これの証明として、むしろ一萬田総裁のぺんぺん草発言のように、政府「側」からむしろ投資を抑制するような言動が多かった、とされるものだ
確かに、この点はある程度正しいのだが、一萬田総裁はセントラル・バンカーとして正しい行動を取ったまであであり、ぺんぺん草発言の当時の経済状況を見れば、むしろ正当なものだと思えるのだ
日本の経済復興の開始は、第一次吉田内閣における傾斜生産方式によるものだ。高校の教科書(確か中学にも出てきた気もするが)にも出てくる有名な言葉だが、改めて傾斜生産とは何かをおさらいしてみよう
傾斜生産方式の構想が打ち上げられたのは、1946年末に第一次吉田内閣が設置した、石炭小委員会におけるもので、当時の委員長は東大経済学部教授で、著名なマルクス経済学者の有沢広巳であった。有沢は、実のところ当時空前絶後の経済官庁であった経済安定本部(後の経済企画庁)の長官となる農水官僚和田博雄(当時は農政局長で農相)の推薦で、一時は初代安本長官と目されていた人物であった。有沢は、戦前の人民戦線事件で検挙され東大を休職となり、陸軍の情報機関の、いわゆる秋丸機関において終戦まで各国の経済比較分析を行っていた。また、和田自身はマルクス主義者ではないものの、革新官僚に属し、いわゆる企画院事件で検挙・投獄され、戦後になって無罪を勝ち取った統制主義者(一種の計画経済を主張)であり、戦後の農地改革の大功労者として知られている
有沢は、小委員会の前身で、吉田の肝いりで設置された外務省調査局において、いわゆる「東大グループ」と呼ばれる経済ブレーンによってまとめられたレポート「日本経済再建の基本問題」(以下有沢レポートと略)に着想を得たといわれている。この有沢レポートをまとめたのが、有沢の恩師で著名なマルクス経済学者あり当時東大経済学部教授の大内兵衛、東大経済学部教授で農業経済学の権威であった東畑精一、当時外務省調査局に属し電力政策の実務家でもある官僚大来佐武郎であった。もうひとつ、この有沢レポートが重要であるのは、後に日本鉄鋼協会が設置した鉄鋼対策委員会の、いわゆる湯島レポートに重大な影響を与えたという点である。湯島レポートは、当時の日本の鉄鋼が、戦災によって重大な破壊状態にあること、生産性の低い平炉が中心であり、早急に高炉、転炉、圧延設備を一つの敷地内に設置した一貫生産設備の整備の必要性を指摘していたのである。これは、後に川崎製鉄による千葉製鉄所への一貫生産設備投資の要因となるものだ
話を傾斜生産方式に戻す。有沢レポートのまとめ役になった、大来佐武郎は東大工学部出身の技術官僚で、戦中には興亜院において、電力政策実務を担当するエコノミストであった。これは、決して有沢の専門であるマルクス経済学と統計比較研究と無縁ではない。大来は有沢レポートにおいて、生産の回復において、基幹産業である炭坑と鉄鋼の回復のために、マルクス経済学における再生産表式に着想を得た集中投資を提言した。有沢は、これを理論化し、政策としてまとめ上げたのが傾斜生産方式と呼ばれる、経済政策である
傾斜生産は、まず米国の援助によって安価に輸入される原油を、鉄鋼生産に優先的に配分し、ここで生産された鉄鋼を炭坑に対して優先的に配分する。こうして得られた石炭を、また鉄鋼に対して優先配分することで、生産の回復を図るという方式である。さらに、原油や鉄鋼、石炭が生産現場に対して配分される段階で、政府が補助金を交付することで、実質的に原価より安い価格で材料を手にすることができた。この補助金を、価格差補助金と呼び、この補助金を交付する主体として復興金融金庫、いわゆる復金が設置された
価格差調整金の発想そのものは、戦中の軍需生産のために行われた補助金制度の復活に過ぎないが、この傾斜生産方式そのものは、第一次吉田内閣が倒閣された後の片山内閣において、(吉田内閣の)農相から経済安定本部長官に就任し、物価庁長官をも兼任し空前の権限を手にした和田によって本格的に実施された。復興金融金庫は復金債を発行し、ほぼ全額を日銀が引き受けることで価格差調整金を調達したのだが、日銀は復金債の引受に際し、巨額の銀行券を発行したために、強烈なインフレが日本を襲った。これが、いわゆる復金インフレである
傾斜生産方式が終焉を迎えたのは、この復金インフレに加え、和田が強大な権限を握ったことに対する、大蔵省の反発がある。すでに、復金は価格差補助金の供給によって、通貨供給に対する権限を日銀から奪っていたが、さらに予算編成権限までに口を出そうとしていた和田安本に対し、岸信介や池田勇人の猛反発を得たことも大きく関係している。最終的には、芦田内閣の倒閣と、池田の蔵相就任(ドッジラインの受け入れ)で安本インフレは終息するのだが、ドッジラインの実施に大きく関与したのが一萬田総裁である
一萬田が、「ぺんぺん草」発言の当時において、この安本インフレの克服に力を注いでいたという背景もあるのだろうが、(発言の真偽は別としても)、当時もうひとつ重要な動きがあった。復金の価格差補助金の発想は、戦中における軍需生産拡大のための補助金そもののの復活であるというのは既に述べたのだが、この軍需生産拡大のための資金供給源となったのが、当時特殊銀行であった日本興業銀行(IBJ)であった。IBJは、1950年に施行された日本勧業銀行法等を廃止する法律によって、特殊銀行から普通銀行に転換していたが、1952年には長期信用銀行法に基づく長信銀に転換を果たしていた
長期信用銀行法が制定された最大の要因は、ドッジラインの施行による、復金融資の廃止と均衡予算による、投資の大幅な縮小である。これにより、大幅なデフレ(ドッジ不況)が発生したが、この段階において短期金融の担い手である都市銀行のみでは、産業が必要とする資金の供給が得られない問題が指摘された(例えば、トヨタと住友銀行が50年間に渡る敵対関係に繋がった融資拒否事件もこの頃発生した)。復金に代わる、長期金融の担い手として、預金ではなく、金融債の発行によって安定的な資金の調達を行い、産業部門に資金供給を行う民間の金融機関として期待されたのが、長信銀であった
長信銀は、復金とは異なり、金融債の引受を資金運用部(原資は郵貯)と、都市銀行による銀行引受に依存し、日銀による銀行券引受によるインフレを防いだ。一方で、長信銀は民間銀行であったので、電力や交通インフラなど、極めて政策的な銀行業務に関しては、大蔵省の強い影響で設置された、日本開発銀行(現日本政策投資銀行)が、輸出産業に対する補助金や輸出割当権限を背景に通商産業省の強い影響下で設置された、日本輸出銀行(後の日本輸出入銀行を経て現国際協力銀行)が設置されるなど、政策投資権限は安本・復金(後の経済企画庁)から、大蔵省と通産省に権限が移っていったのである。これは、通貨供給に対する権限を取り戻したばかりの日銀にとっては、権限の収奪に映ったのは想像に難くない
有沢レポートに強い影響力を受けた、湯島レポートの内容そのものを、当時川崎重工業鉄鋼部から分離したばかりの、平炉しか持たない弱小鉄鋼メーカーであった川崎製鉄が、IBJの支援を受けて実施しようとしたことに対し、一萬田総裁が大きく憤慨した背景にはそういった問題があった
未だに「ぺんぺん草」発言で評価が低い一萬田であるが、後に鳩山、岸内閣において蔵相を歴任し、経済復興と通貨の安定に対して心血を注いだという点から考えれば、ぺんぺん草発言には一萬田の信念を見たような気がしてならない
#追記1
「長信銀は高度経済成長期の終焉と共に存在意義を失った」という言説がある。これはこれで正当なものなのだが、「金融債を発行して長期金融に資する」という、長信銀独特の業態が崩壊したのは、1960年代のことだった
長信銀の資金調達源である金融債は、そもそもが資金運用部と都銀の引受を前提としたものだった。しかし、60年代になると特殊法人の権限拡大によって、資金運用部資金は長信銀から特殊法人に流れるようになる。一方で、60年代には国債の大量発行が開始され、都銀の余剰資金も長信銀から国債に向かうようになった。この時点で、長信銀の存在意義はかなり薄れていたのである
資金調達の多様化に迫られた長信銀は、従来あった主要都市の支店だけでなく、首都圏に支店を配置して、個人へ金融債を売るようになった。この時点で、長信銀は単に金融債によって資金調達を行う金融機関となったわけで、短期の割引債の比率が増えた結果、都銀とあまり変わらない金融機関となってしまった。ただ、支店網は都銀に比べれば脆弱である一方で、融資先は大企業に限定されたという背景があり、70年代空始まる企業の資金余剰の時代を経て90年代には完全に存在意義を失ったというわけです
そういうわけで、「長信銀は富裕層の資金を吸収して大企業に長期の設備資金を調達するために設立された」というのは余り正しくありません。元々は、大口の利付債や割引債といった長期のものが中心で、短期の割引債による資金調達というのは60年代以降の話なのです
#追記2
傾斜生産方式の理論的な背景は、有沢にありますが、実質的には和田による経済安定本部による施策がなければ成功しなかったでしょう。有沢も和田も、価格差補助金の交付を傾斜的に行ったとしても、インフレーションの発生はある程度予見していたと思われます。そこで、和田はインフレの主要要因となる賃金の上昇を抑制するために、食糧価格の抑制という手段に出ます
しかし、単に食糧価格の統制を行うだけでは、単に市場に「出し渋り」が発生するわけで、これの解消のためには第一次産業の生産意欲の向上が必要となります。そこで、農水官僚であり、かつ革新派官僚であった和田は、長年温めてきた農地改革を行うことになるのです。自作農の増加によって、価格抑制と生産の向上という相反する目的を達成することが可能となり、工業生産と食糧生産の回復を同時に達成するという、極めて意欲的なものでした。そのため、当初は鉄鋼・石炭分野に限定されていた傾斜生産の指定対象も、農地の生産性を向上させるために、化学肥料も対象となったのです。しかし、その化学肥料大手の昭和電工による贈収賄事件で、芦田内閣が倒れてしまったというのはある意味で皮肉ではあります
#蛇足
当時、日本には公的な関与によって設置された金融機関を「金庫」と呼称することが多かった。これは、現在の「公庫」に該当するのだが、金庫は当初は公的関与であっても、後に民間出資のみに転換した金融機関(例えば農中やSCB、信金など)との区別をつけるために、「公庫」という呼称が使われるようになった。ドイツにおける復金に該当するドイツ復興金融公庫(Kreditanstalt fur Wiederaufbau)に「公庫」という訳を当てたのはそういうわけです
なお、某所に書いているなんちゃって小説(いわゆるドキムネ)に、日本復興開発銀行(RDB)という金融機関が登場しますが、これはむしろ世銀グループの国際復興開発銀行(IBRD)から取ったもので、復金やKfWとはあんまし関係がありません。実際の設定は、「前の震災」と「前の戦争」からの復興と、破綻金融機関の救済のために、半官半民化され分割解体された郵政公社の郵貯部門を原資とする金融機関で、実際に行っているのは預金保険機構グループと、産業再生機構に、日本政策投資銀行と国際協力銀行を合わせたようなお仕事です。それでも、この時代にはすでに戦後から30年近くが経過し、戦後の復興バブル崩壊の後片付けが一巡して、金融債(ワリフク)を発行して独自の資金調達能力をも有しているRDBの存在意義が激しく問われている、といった感じの状況です
ちなみに、RDBとはReconstruction and Development Bank of Japanの略で、こじつけなんですが、Industrial Bank of Japan(日本興業銀行)が"Bank of Japan"(日銀)を内包していることもあるんですが、ゴロがいい(Relational DatabaseとかRed Data Bookとか)という意味もあります
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