■岐路・役人たちの水俣病<7> 苦悩 良心と職責のはざまで
|
「なお未解決であることは誠に悲しむべき」。1990年9月、患者認定を争う水俣病訴訟で、東京地裁が初の和解勧告をした。過去8年間に同様の国家賠償訴訟が相次いで起こされ、2000人以上が争っていた。明快な裁判長の言葉に、原告は傍聴席で涙を流した。
「和解せえっ。これは時の氏神じゃ」。当時環境庁長官だった北川石松は、独特の河内弁で幹部に命じた。「できません」。官僚たちは頑として行政責任を認めようとはしなかった。
所属する自民党の主流派も、長良川河口堰(ぜき)問題で国に再調査を求めた北川の市民派的言動を快く思っていなかった。「党から有形無形の圧力があった」。間もなく「和解できない」と前言撤回した事情を、今87歳の北川はそう明かす。
熊本、福岡、京都と地裁の和解勧告は続いた。追い詰められた北川は、11年ぶりの現地訪問へ動く。熊本には、和解を拒む国を批判し、チッソ支援の県債発行停止という「切り札」をちらつかせる知事細川護〓(当時)がいた。少しでも前向きな姿勢を示すことで、細川を説得したかった。それが部下の自殺という「痛恨の出来事」(北川)を生んだ。
□ □
玄関には、今も「山内豊徳(とよのり)」の表札が掛かっていた。事務次官に次ぐナンバー2の企画調整局長。環境庁批判の矢面に立っていた山内=当時(53)=は、東京都町田市の「わが家」を最後の場所に選んだ。妻の知子(64)はつらい記憶をたどり、前夜の夫の様子を語った。
「水俣の仕事はどうしてもやりたくなかった。自分にうそをつかなきゃいけない部分が多すぎるんだ…」。山内は家族を食卓に呼び、役所を辞める覚悟と事情をぽつりぽつり話した。旧厚生省で一貫して福祉の現場に携わり、公害対策基本法制定にも尽力した。常に人に優しかったその心は、臨界点に達していた。
北川の記憶に残る山内の最後の姿はまるで違う。死の2日前の長官室。水俣行きをめぐって幹部と激論が続いた。
「行かれても効果はありません。恥をかくだけです」「君らの肩の荷を軽くするためだ」
北川の意志は固く、ついに幹部も折れた。北川は山内に「一緒に行こう」と声を掛けた。「にこっと笑って『お供します』というてくれよったんや。にこっとな」
水俣を訪れた北川の隣に山内はいなかった。人としての良心と官僚としての職責。山内の心は、常に被害者が切り捨てられてきた水俣病の現実に耐えられず、2つに引き裂かれたのだろうか。
□ □
国の和解拒否は、山内という、水俣病史における「もう1人の犠牲者」を生んだ。
山内と同じ時代を生きた他の官僚たちに、良心がなかったわけではない。だが、強固な組織の中で、個人の思いを持ち続けることは易しくない。
「個人の思いを貫こうとしても、組織では1本になるしかない。いろいろ悩んだ」
山内同様に厚生省から環境庁に移り、国立水俣病総合研究センター所長を務めた野村瞭(67)は退職後、立場を180度変えた。現在は水俣市の胎児性患者らが通う共同作業所理事。「水俣病との関係を終わらせるには、心の整理がつかなかった」
知事時代は和解に前向きで、国を「半歩遅れている」と非難した細川は93年、非自民政権で総理に。問題解決への期待を一身に集めるが、8カ月後、何も決断せぬまま退陣した。和解は幻に終わった。 (文中敬称略)
× ×
▼和解への動き 1989(平成元)年、水俣病全国連は司法制度を利用した和解による被害者救済制度の要求を決定。ほかの被害者団体も「生あるうちの救済」へ動きだす。90年9月28日、東京地裁は「早期解決のためには訴訟関係者が何らかの決断をするほかない」と初の和解を勧告。各地の裁判所も相次いで和解勧告した。熊本県とチッソは和解に応じたが、国は「責任・病像論で隔たりがあり、現時点においては和解勧告に応じることは困難」として拒否した。
[06/03/27] 2006年09月08日18時28分