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[13895] Duel ~血闘録~ 【時代劇・完結】
Name: 小話◆be027227 ID:37893859
Date: 2010/05/20 09:58
ども小話と申します。
この度は拙作にクリックを合わせていただき、誠にありがとうございます。
この作品は所謂チャンバラであり、ファンタジー時代劇であります。
一応調べておりますが時代考証や時代背景、設定等でご指摘があれば、直せる所は直しますので感想と併せてお願い致します。

また日本の戦国時代を舞台にしている為に実在する人物や組織、地名等が出てまいりますが、あくまでもフィクションであり一切の関係はありません。
またそれらに対して小話は何の悪意も持っていないことを明言致します。

関係各位様がこれを御覧になった場合には、馬鹿な事考えているなと笑い飛ばして貰えれば幸いです。




[13895] 序幕 
Name: 小話◆be027227 ID:37893859
Date: 2010/04/09 01:26
天正十年某月某日
京の都にある公家屋敷の一角にある東屋に四人の人物が車座となって集っていた
暗がりに、蝋燭の炎がポツポツと在るだけの暗い部屋に集った四人の顔には動物の面が着けられており、人相は判然としない。
しかし着ているものは仕立ての良いもので身分の高さを伺わせる。
特に蛇の面を着けた人物は公家であるのか、ぞろりとした衣装であった。
その公家風の蛇面の人間が声を発する、面によってくぐもってはいるが、充分に通りの良い、しかし甲高い声である。

「首尾はどうか」

この声に応じるのは他の三名、それぞれが猿、狸、狐の面を被った人間たちだ。
仕立ての言い着物をきており、太刀を脇に置いている事から武士、それも大名であるように見える。
蛇面の対面に座した狐面を被った男は行儀良く両手を膝に置いたまま言葉を繋げる。

「弾上忠は破竹の勢いでございます。このままでは朝廷の権威は失墜し、日の本全て弾上忠の物となるも近いかと」

この言葉に蛇は明らかに気分を害した様子へと変わる、手に持っていた扇を閉じてその先で床をコツコツと叩き始めた。

「その様に苛立ったところで妙案は浮かびませんぞ」

蛇の右側に座る狸面を被った男が取り成すように声を掛けると、声を発した狸に他の三つの視線が集る。
狸は小太りと表現して構わないだろう体型と相まって、中々にひょうきんな感じを受ける。

「先の戦でも雑賀衆を下し、京周辺に敵は無し。残るのは中国の毛利と九州の島津、関東の北条ですな、誰も遠地にあって頼みにするには足りないかと」

特に北条は朝廷の権威からは遠いところに居る大名だ、力は有るのだが坂東武者は平将門以来、自律心が強い。
もとより鎌倉幕府を開いた源頼朝からして関東にて力をつけ京にいた平家を討ったのだ。
その辺りの事情は此処に集った者ならば皆承知している。

「ならば貴殿には妙案があるか」

蛇が眼を輝かせて尋ねるが、狸は肩を竦めるばかりである、そこへ蛇の左隣に座っていた猿面から一つの意見が出てきた。

「然らば、暗殺しかありますまい」

暗殺、確かにその手段は何度も考えられていた、否既に何度か実行されてもいた。
しかし、差し向けた手練の者は悉く返り討ちにあっていた。
警護の小姓である森蘭丸のみならず、その弟である力丸、坊丸も確かな腕を持っており、更に標的である織田信長自身が若い頃から戦場にて兵卒と共に戦ってきただけあって強い。
既に齢五十に手が届こうかというこの段になっても、未だ三十そこそこにしか見えぬ程の外見と相まって覇王とも魔王とも言われる所以の一つである。
その事を蛇が指摘すると猿は笑いながら続ける。

「並みの手練で敵わぬならば、日の本一の手練を用意いたそう」
「そう簡単に言うが、誰か当てでもあるのか」
「当ては無い、しかし此処に集る者には心当たりはあろう。そやつらを互いに咬み合わせて最も強い者を当てましょう」

なるほど、自分達の国許や市勢にも当代一と嘯く者は数多い。そいつらを戦い合わせて生き残った者こそを刺客にしようということだ。

「如何か?」

猿の知恵は悪い手ではない、特に市勢の者を使う事で自分達との繋がりを薄くする事が出来る。
駄目で元々、上手くいけば上々の出来だと残りの三人も知恵を巡らせる。
問題はそれに相応しい力量を持ったものを見つける事が出来るかどうかだが、それについても問題は無い。
ここに集った者達にすれば、強い人間を集める事はさほどの苦労を伴うものでも無いからだ、最もその中でも真に天下に是ありと思うほどのつわものとなれば難しいだろうが、そこは其々が知恵を巡らせれば良い。
後はその人間に与える報酬という名の餌を用意しなければならない。

「餌は好きなものを与えると言っておきましょう、余りに欲張るならば消せばよいこと」

天下人に近い信長とは違い、市勢の民など権力を持つものにとっては、どれ程個人の力量が優れていようともそれ以上の力を持って排除出来る。
問題は信長亡き後の事を誰が継ぐかが問題だ、それは此処に集った人間の内より出なければ、何の為に危険な橋を渡るのかが判らなくなる。
集ったものは共通の敵を討つための同士であり、天下を狙うにあたっては敵であるのだ。
無論この場でそれを態度に出すような者は一人も居ない、まるきり狐狸の化かし合いのような会合は続く。

「ではそれぞれに準備に入ろう、それぞれに思う者を挙げよ」

蛇の声に従って其々が噂に上る人間を挙げてゆく。上がった名は両手の指では足りぬほどに出てきたがその中でも是はと思われる人間は多くは無い、そこで名の上がった者の中からそれぞれ2名を選び出した。

「つごう八名、競い合わせ、喰らい合わせ最も強きものを当てましょうぞ」
「異議なし」

声と共に蝋燭の炎が吹き消え、東屋は夜の闇に沈む。
消えた蝋燭より立ち上る紫煙が、これより始まる血闘の開始を告げる狼煙であった。





[13895] 第一幕の壱 紅林左近
Name: 小話◆be027227 ID:37893859
Date: 2009/12/08 23:11
東海道を西へ向かう街道を一人の浪人が歩いていた。
年の頃は二十を出たばかりか行っても三十までは数えまい、切れ長の涼やかな眼をした色男で赤茶色の長い髪は背中に流しており、先端を邪魔にならぬように飾り紐で結わえている。
厚手の着物に袴を穿き、腰に刺した大小の太刀は二尺三寸と一尺五寸の標準的なものである。
その立ち居振る舞いはさながら清水の如くといえばよいのか、佇む様はまるで一服の絵画を思わせる。
しかしながらそれは清流を書いたものではあるが同時に力強さを感じさせる、その怒りに触れなんとすれば全てを濁流と成って押し流す坂東太郎を思わせる佇まいだ。
悠然と歩を進める先から絹を裂くような悲鳴が聞こえると同時に、脇の林より女子が一人転げ出てきた。
懸命に走ってきたのであろう見れば着物は着崩れており、息も絶え絶えになってすぐさまにでも昏倒しそうだ。
娘は時折後ろを振り返り荒い息を吐きながらひたすらに走る、そして侍の前まで来るとすがり付いて叫んだ。

「お助け下さい、次の宿場に向かう途中に賊に襲われ命からがら逃げてまいりました!」

その言葉も終らぬうちに娘が転がり出てきた林から侍と娘の二人を挟みこむように前後に現れる野卑な姿の十数人の男達。
その中から頭目であろう他の者より頭一つ大きな男がその体躯に見合った大太刀を肩に担いで進み出てくると、侍とそれにすがる女を一瞥して居丈高に告げる。

「若いの、その女をこっちに寄越しな、痛い目みたくはねえだろう」

ドスの効いた頭目の言葉に対して何も、それこそ何一つの言葉すら返さない侍を見て怯えて竦んだかと、げひゃげひゃと下品な笑い声を上げる盗賊たち。
侍はその下品な嘲笑も柳に風と受け流し周囲をクルリと見回すと、フンとつまらなそうに鼻をならす。
そして自らの腰に縋り付く女子の手を取って立ち上がらせると、なんの躊躇も無く男の下へと放り投げた。

「きゃ」

盗賊の足元に投げ出された女子が短い悲鳴をあげるのを構わずに、そのままゆるりと歩を進める侍。
この行動に逆に面食らったのは盗賊達のほうだった、まさか素直に女を放り出すとは思ってもいなかったのだろう。
しばし呆然となる盗賊と投げ渡された女であったが、侍が三歩歩みを進めた所で正気に帰るとその行動から見掛け倒しと踏んだのか頭目が大声をあげた。

「ちょっと待ちな、女を渡したからって素直に通すわけにゃいかねえな。ついでに金目のもんを置いていきな」
「へへ、金が無いならその腰のものを置いてってもらおうかい」

頭目が言うのと合わせて下っ端の盗賊が小走りに侍に近寄り、腰の刀に手を伸ばす。
その瞬間一筋の銀光が侍の腰より光ったと見えると同時に、頭目の足下にボトリと落ちてきた物がある。
訝しげにそれに眼をやれば肘から先の右腕であった、その指がまるで斬られた事にも気がつかぬように何かを掴もうして動いた瞬間、下っ端の右肘から鮮血が噴出し地面を赤く染める。

「ぎ、ぎゃああああ!」

右肘を押さえてのた打ち回る下っ端などには目もくれずに歩みを進める侍に眼を移すと、その佇まいは先程と何も変わっていない。
女に助けを求められたとき、投げ渡したとき、そして恐らく腕を切り落としたときでさえも。
この侍は何か自分たちとは違うと頭目は根源的な何かに突き動かされて叫んでいた。

「ぶっ殺せ!」

頭目の叫びにあわせて侍の前後にいた盗賊達が次々に抜刀し襲い掛かる、いかな手練でも前後から同時に襲われては苦戦するのは免れまい。
否、並みの使い手ならば先ず間違いなく死の運命から逃れる事など出来はすまい、しかも彼は未だに腰に刺した太刀を抜いてもいない。
しかし侍のその右手が一瞬消えるたびに、チンというまるでそよ風に吹かれ音色を上げる風鈴のような鍔鳴りの高い音が空へと響いた。
その音が鳴るたびに盗賊たちの腕が、胴が、首が次々に空へ舞っていくではないか、同時に辺りには血の濃密な臭いが立ち込め、体の一部を失った胴から鮮血が吹き上がる。
その血煙の中をいっそ悠然と進む侍の体には、吹き上げる血潮は一滴たりともかかりはしない、そのように斬りそのように動いているのだ。
緩やかな歩みは止めず、只無人の野をゆくが如く侍は歩を進める。
その足が歩を踏むたびに、一人また一人と盗賊たちの命が消える。遂に恐慌をきたした何人かが踵を返して逃げ去ろうとするが、その足が一歩を踏み出したところで襲い掛かった人間と同様に体の一部が切り落とされる。
状況からみれば侍の技は居合いのそれであろう、しかし構えも無く音しかその技を知る術は無いなどどれ程の達人か、否ここまでくれば魔人と称して構うまい。
そしてその魔人に相対したのは何処にでもいるような盗賊だ、これは単に己の命を無為に散らすだけの愚かな振る舞いに過ぎない。

「う、うわあああっ!」

最後の意地か、それとも恐怖に負けたか奇矯な叫び声を上げながら最後の一人となった頭目が大上段から一撃を加えようと己の太刀を振り上げる。
その横をすうと変わらぬ歩みで通りすぎた侍の腰でチンと鍔の音が最後に鳴った。
頭目が脇を通り過ぎた侍に向き合おうと振り返るが、振り向くと同時に両腕は肩からポトリと地面に落ち、その視界が上下にずれる。
そのずれた視界の中で歩み去る、侍の背中に綺麗に正中線から二つに分かれた口から同じ言葉がずれて発せられた。

「「化け物…」」

その場に残された女は目の前で起こった事が信じられなかった、盗賊とはいえ荒事に慣れているはずの十人以上の人間が瞬きする間に躯に変わったのだ。
その光景事態が既に女の知る戦いとは異なるものだ、否これは戦いではない、歩くのに邪魔な物を切り払った、ただそれだけの行為にすぎないのだ。
それに思い至った女は戦慄に震えた、すでに腰は抜けその足元には自分も気付かぬ間に泥濘が出来ている。
それでも女にはある言葉を伝えねばならぬ使命があった、たとえ先の盗賊同様に塵芥の如く斬り捨てられてもそれをこの侍に伝えねばならぬ、女は気丈にも恐怖に震える声を懸命に張り上げた。

「お、お待ち下さい。左近殿!」
「俺の名を知っているということは、この茶番はお前が仕組んだものだな」

その声を聞いた侍の歩みが止まる、背を向けたままその声を発した女に問いかける声は氷の上を渡る寒風の如き冷たさをもって女の背を凍らせる。
下手な事を言えば先の盗賊同様に無為に命を散らすだけと悟った女は、自分の知る限りを正直に語るほか無かった。

「は、はい申し訳御座いません。私は然るお方の命を受けて当代随一の武人を捜しておりました。其の折りに左近様の名を聞き及びその腕を確かめるべくこのような仕儀と相成りました」

自分が試されたなどこの男の矜持を傷つけたか左近から無言の圧力が放たれる。それは盗賊を斬り捨てた時には欠片も出さなかった剣気であった。
その気に屈するかの如くその白い喉を震わせて声が出なくなった女に左近が先を促す。

「続けろ」
「は、はい、結果は私如きでは計れぬほどの技量と思い知りました、そこでこの割符を御受け取り頂きたいのです」

そう言って懐から一枚の割符を左近の足元へと差し出す。その割符を一瞥した左近がそのまま踵を返し立ち去ろうとするのを、残った気力を振り絞って止める。

「お待ちを、この割符は強者の証で御座います。これと同じ割符はこの一枚を含めて全部で九枚あり、それぞれが左近殿と同等とお見受けされる者に託されております」

この言葉を聞いた左近の足が止まる、再び女の方を向くと今度は心底から楽しそうに笑っていた。
その表情と様子を見て、これはいけるかと踏んだ女が息せき切って先を話す。

「その割符を全て集めたあかつきにはどの様な褒美もお約束するとの事であります。努々失くさぬようにお願い申し上げます」
「ふん、褒美などに興味は無いがこの紅林左近と同等と言ったか、良かろう俺は誰に負ける心算も無い」

ここで左近が笑っていた理由に自分が思い違いをしていることに気が付いた、左近は自分と同等の使い手が居るかもしれないということが楽しくて堪らないのだ。

「俺の目的は天下一の剣客となる事よ、俺と同等に戦えるものが居るとなればそれは全て平らげねばならん。貴様らの詰らぬ企み等知らん、だがその遊び俺の為に付き合ってやろう」

差し出された割符を受け取り再び歩き去る左近。その足取りは変わらず、しかしこれからの戦いに思いをはせたのか僅かに喜びに浮き立っていた。


紅林流抜刀術 紅林左近 参戦



[13895] 第一幕の弐 破巌坊
Name: 小話◆be027227 ID:37893859
Date: 2009/12/08 23:12
中仙道に程近いある宿場町の廓で主人が困惑顔をして佇んでいた、主人の前には障子があり、その奥からは店の店子である女郎の嬌声が今も引切り無しに続いていた。
この部屋に陣取った客は既に三日三晩を女と酒に費やしているのだ、その為に酔いつぶれ、抱き壊された女は既に五人に及んでいた。
ゴクリと咽を鳴らして口中に溜まった唾を飲み込むと、意を決して部屋の中に居る人間に声をかける。

「もし、お客様、ちょいと話があるのですが出てきて貰えませんかな」
「ああんなんじゃ、今忙しいんじゃ話なら後にせい、後に!」

静かながらも硬い声音で問いかけられた部屋の人間は主人の申し出に怒鳴り返した。と同時に部屋から聞こえる嬌声が一際高くなってゆく
主人はそのままの姿勢で暫し待つと、うっという呻き声と一際大きな女の悲鳴が聞こえて静かになった。
そこを見計らい再度部屋の中へと声をかける主人、今度は先程よりもまともな返事が返ってきた。

「なんじゃ、まだ居ったのか。今は忙しいと言ったじゃろうに、おお其れよりも新しい女を用意せい、早くな」

もっともそれは主人の意図する所とは全く別の返事ではあったが。それにめげずに主人は声を張り上げる。

「お客様、金子を払っていただけるなら直ぐにも用意いたしましょう。しかしながら既に三日三晩の豪遊三昧、ここで一度今迄の代金しめて十五両お支払い頂きたい」

十五両といえば現代の貨幣で約九十~百万円程になる、三日で十五両というのは中々の豪遊振りであろう。
主人からの催促に部屋の主たる人間は暫し黙考すると、先程より大きな声で豪快に言い放つ。

「ふん残念じゃが金など無い、そこでどうじゃ儂を用心棒に雇え、それでチャラという事にしようではないか、ん?」

全く悪びれる様子も無く、堂々と言い放つ部屋の男。それどころか言葉が終わると又女の嬌声が部屋から聞こえ始めたではないか。
これには宿の主も唖然とする、しかしながら廓を生業にするような人種である、無論この手の人間に対する対応も心得たものである。
今まで顔に貼り付けていた、人の良さそうな表情を一変させる。目は吊りあがり口も同様にニイと上がる。

「これはこれは剛毅なお方だ。しかしですねぇ、そんな寝言が通用する訳無えだろうが!」

主人の怒声と共に柄の悪い男達がぞろぞろと集まりだす、この宿場を取り仕切るヤクザ者である。

「引きずり出して来い!」
「へいっ!」

一声かけるのと同時に一番前に陣取っていた若衆が二人障子を勢いよく引き開けて部屋に押し込む。
慌ただしい足音と勇ましい掛け声を発しながら部屋へと乗り込んだ若衆であったが、部屋に入った直後にぬうと突き出された腕に顔面を殴られて部屋からたたき出される。
無様に宙を舞った若衆の一人はそのまま庭の岩に頭を叩きつけて動かなくなる。もう一人は未だに部屋から出てきてはいないが、呻き声だけが部屋の中から聞こえてくる。
人間が宙を飛ぶ光景を目撃した他の人間は部屋に突入する事に躊躇して、障子の前で其々の得物を構えた。
ヤクザ側の圧力がジリジリと高まっていくのとは別に部屋の中からは未だに女の嬌声が続いている。
遂にその圧力が頂点まで達し集まったヤクザ者が揃って部屋へと踊りこもうとしたその時、ズンという音と共にぬうと大黒柱のような足が障子の奥から伸び、次いで大木のような腰、石垣が如き胴、丸太のような腕と巌のような顔が現れる。
着崩して胸から腹が露になった僧衣と、どうように下帯を肌蹴た腰には繋がったままの女郎を左腕だけで女の腰を支えている。
右手には先程押し入った若い男の顔面を握り締めて引きずりながら部屋からのっそりと出てきた男の生業は、剃髪と首に下げた数珠をみれば容易に僧侶と想像がつくだろう。
しかしその天を突くような八尺二寸の巨躯と巌のような顔に刻まれた刀傷とが合いまった髭面が僧侶は僧侶でも僧兵と呼ばれる物である事を物語っている。

「ふん、折角楽しんでおったところを邪魔しおって、うぬら全員地獄へ落ちるぞ」

つまらなそうにブツブツと文句を言いながらも腰を振るのを止めない僧兵に向かって宿の主人が声を上げる。

「喧しいやサンピンが、何時までも腰振ってんじゃねえ! お前らさっさとコイツをぶちのめせ」

主人の怒声に後押しされるように手に手に光物を構えたヤクザが僧兵に襲い掛かる。距離を詰めてくるヤクザを睥睨すると右手に握り締めていた若衆を無造作に振り上げて叩きつける。
同時にゴキリという鈍い音がして若衆の首が折れピクピクと痙攣したかと思えば動かなくなる、若衆を叩きつけられたヤクザもそのまま巻き込まれて若衆と同様の運命を辿った。
労せずに二人を片付けて隙間が出来たそこへ僧兵はヒョイと女を腰に乗せたまま踊りこむと、丸太のような腕を無造作に水平方向に振り回す、その腕に巻き込まれた者が木の葉のように吹き飛ばされる。
その膂力に恐れをなしたのか周りを囲むヤクザに動揺が走るがそれも一瞬の事、此処で引いたらヤクザとしては負けである、腰溜めにしたドスごと体当たりを慣行する。
横から迫る凶刃に対して向き直り棒立ちのまま、正面から受ける僧兵。衝撃と肉に刃が突き立つ確かな手ごたえを感じたヤクザの顔に笑みが浮かぶ。

「ぎゃあああああ!」

一際高い声が辺りに響き渡る、しかしその声は僧兵が発したものではない、僧兵の正面には腰に繋がったままの女郎がおり、その白い肉に刃が食い込んでいた。
僧兵はかわせなかったのか、かわさなかったのかは分からないが、躊躇い無く女を自分の盾に利用した、その動きが刺激を促したのか小さく呻くと腰をブルブルと振るわせる。
同時に腰に繋がっていた女がぐったりと崩れ落ちる、自分が盾として使った女をまるで壊れたおもちゃを扱うように投げ捨てるとその顔に凄みのある笑みを浮かべる。

「さあてスッキリした事だし、拙僧が迷えるヤクザを往生させてやろうかい」

着物の前を肌蹴たままで、にやりとすると右手を袖の中に納めると一歩を踏み出すと同時に隠した右手を振るう。
轟という音と共に数人のヤクザ者が吹き飛ばされた、同時に先程までとは違い何時の間にか黒金の杓杖が僧兵の腕に握られていた。
この鋼鉄の杓杖に打擲されたヤクザはそれだけで骨が砕かれ、打ち所の悪かった何人かは事切れていた。
何処から取り出したかも見ることが出来なかったヤクザ達に動揺が広がった隙を見逃さずにブンと杓杖を振り回す僧兵。
その一撃を受けてヤクザ達の頭部が次々と熟した柘榴の如く弾け跳ぶ、暴風の如き鉄の洗礼が過ぎ去ったとき、その場に立っていたのは宿の主人と僧兵の二人きりであった。
獣の如き乱杭歯を剥き出しにして主人に笑いかける僧兵に怯えた主人が奇声を上げて逃げ出すのをそのまま見送ると、血の海に沈んだ部屋の一角から徳利を持ち出してグビリと酒を喉に流し込む。

「ぷふう~」
「お見事、流石は強力無双と謳われた破巌坊殿ですな」

酒を飲んで一息吐いたところに横合いから声を掛けてきたのは陣笠を被った侍装束の人間であった。
さして興味無さげに一瞥をくれるとどっかり縁側に座り込み、再び酒を飲み始める。

「初めから見ておったろう、拙僧になにか用かな」
「話が早くて助かる、御坊の力を見込んで頼みがある。報酬は望みのままに渡そう」
「ぐはははは、望みのままとは剛毅な事よ。ならば金千両とふっかけようか」

望みのままに報酬は渡すという侍に、無理と思われる額を提示する破巌坊であったが次の返答に言葉を失った。

「ならばよろしい、事が成就した暁には金壱万両を出しましょう」
「なに、本気かおぬし?」
「その代り仕事は完璧にこなして貰うぞ」

そう言うと破巌坊の元に一枚の割符を投げてよこす、それを受け取り胡乱な視線を侍に向ける。

「その割符を九枚全て集めてもらおう、それが出来れば金壱万両だ」
「この割符にはそれだけの価値があるという事かな、ん?」
「それ以上の詮索は無用、ただし他の割符を持っているのは何れも手練の人間という事よ」
「くく、良かろうさ。要は他の人間を殺して残りの割符を奪って来いというのだろう」

話を聞いて、先程よりも獰猛な笑みを顔に貼り付ける破巌坊。その顔は鬼かと見紛うかというものだ。
のそりと立ち上がると肌蹴た着物をぞんざいに直して新たに出来た獲物を探して歩き出した。


裏本願寺流杖術 破巌坊、参戦



[13895] 第一幕の参 儀介
Name: 小話◆be027227 ID:37893859
Date: 2009/12/08 23:14
奥羽山中の奥深くに在る寒村に問題が持ち上がっていた。近隣の村が巨大な羆に襲われたという知らせが入ったのだ。
決して浅くは無い傷を負いながら、なんとか生き残ってこの村に逃げ延びてきた人間が、村人に促されて、ようやくその光景をポツリポツリと語り始める。


その日は穏やかな日であった、静かに過ぎたと言っても良い。いつもなら雉や兎の一羽も取れぬ事など無いのに、この日に限っては何の獲物も取れなかった。
こんな日も在るだろうと明日の収穫を信じて日が暮れる頃には床についた村人たちであったが、夜の闇深くなる頃にバリバリという何かを壊す音が辺りに響き渡った。
その音で目を覚ました村人は、特に男衆は咄嗟に自らの得物である狩猟用の弓を持ち出して家の外へ飛び出した。
するとそこには長い狩猟生活でも見たこともない程の巨大な羆が、村の外延に在るあばら屋を壊して中にいた人間を咥えて引きずり出したところであった。
その光景をみて男たちは咄嗟に弓に矢をつがえて羆に向けて次々と撃ち放つ、この山中深い村に暮らす以上は皆一角の猟師である。
すでに食い殺されたと見える村人の仇とばかりに放たれた矢は、狙いを違えずに羆の胴体へと吸い込まれた。

「やったか!?」

矢が突き立ったのを見た男達は止めを刺そうと二の矢準備を始めた、しかしそこで信じられない物を見た、見てしまった。
胴に深々と突き立ったと思われた矢が、羆の身震いによってポトリと地面に落ちる、どうやら余りの剛毛と皮の厚さに鏃が肉まで刺さらなかったと見える。
慌てて次の矢をつがえようとするが、羆は自分の食事を邪魔した男達の方にグルリと頭を巡らすと怒りに燃えた赤く揺らめく瞳を向けた。
村人を咥えたままに立ち上がった羆の大きさは人間の倍を超えようかという程の凡そ十二尺はあろうかという巨体であり、咥えられた村人の頭はすっかり口腔に納まっている。
ボリという音と共に噛み砕かれた頭蓋と頚骨が千切れ首から下の胴体が地面にドサリと落ちる。
口の端から血と脳漿の滴が乾いた地面に滴らせた羆が男の方に向かって、大きくその顎を開く。
開かれた口腔のなかには未だ噛み砕かれる途中の肉片が見えており、その中には赤子の頭が半分ごろりと転がっていた。

「ひっ、ひいあぁぁぁっ!」

正面からその口腔を覗いた男の喉の奥から、あまりの悍しい光景に絶叫が迸る。その声に反応するように振るわれた鈎爪は男の上半身を綺麗に吹き飛ばす。
胸から上をザクリと抉られた男はその絶叫を置き土産に奇怪な赤い噴水を噴き出す彫像と化した。

「フボアァー!!」

鮮血をその身に浴びた羆は、血の匂いと己に恐怖する人間の感情を知って昂ぶったか、月に向かって咆哮を上げると一気に村人に襲い掛かる。
血で紅く染まった巨体が縦横無尽に踊り狂う、その腕が、爪が、牙が閃くたびに血と絶叫が辺りに響き亘り、その度に死体が積み重ねってゆく。
既にこの小さな村は、この暴君たる羆の狩猟場でしかなかった、傷を負いながら逃げ出した者には眼もくれずに暴れまわり、その勢いのままに周囲の家へと突進する。
寒村に立つ東屋などこの凶獣の前には枯れ木の山と変わるまい、速度のついた体当たりと豪腕から繰り出される一撃によって倒壊し、中で震えながら父や夫、兄が戻る事を待っていた女子供が次々と同様の運命を辿る。
こうして山間の寒村が一つこの地より消え失せた。


男は全てを語り終えるとそのまま蹲り声を限りに泣き出した、嗚咽に混じって何人かの名前が上がるのは見捨ててきた家族と仲間の名であろうか。
大の男が仇も取らずに只々赤子のように泣くしか出来ぬとは、件の羆とはどれほどの化け物かと、話を聞いた全員が戦慄に震えた。

「儀介に頼むしかあんめえ」

誰かがポツリとそう漏らした、儀介はこの村の外れに住んでいる猟師で、昔はその弓の腕を買われて地方の豪族に仕えていた事もある男である。
もっともその豪族は勢力争いに敗れ、一族郎党皆殺しの憂き目に会ったそうで、儀介もまた主家の滅亡と共に村へと帰って来た。
今は妻のたきと、たきとの間に生まれた一人娘のきくと三人で狩猟を生業にして暮らしており、これまでに何度も驚くような大きな獲物を仕留めた事があった。
村長もその意見に頷くと、若い者に儀介を呼んでくるように言いつける。近くに居た男が
直ぐに走り出し、程無く儀介親子が住む小屋へと着き声をかける。

「儀介さん、大変なんだ。ちょっと村まで来てくんろ」

三度大声で呼びかけると、がたつく扉を開けて齢三十を超えた辺りの男が姿を現した。
ギョロリとした眼と薄い髪に日焼けした肌、その男臭い顔には何の表情も浮かんでおらずその心の内を伺えない。
外に出てきた儀介に村長が呼んでいると伝えると、儀介は小さく頷いてそのまま村へと向かった。
村に到着すると直ぐに村長の家へと連れて行かれて事のあらましを聞かされ、件の羆を退治できるのはお前だけだと頼み込まれる。
顔色一つ変えずに話を聞いていた儀介は、村長の話が終ると同時にのそりと立ち上がり、外へと向かう。
承知とも否とも応えぬ儀介に対して、周りで事の成り行きを見守っていた村人から非難の声が上がるが、村長は儀介の足取りが先程この家に現れたときとは違い、既に音も無くすべるように歩くマタギ達独特の歩方に変わっていたのに気が付いて回りで騒ぐ者を黙らせて言い添える。

「頼んだぞ」

特に返答もせずに立ち去った儀介であったが、良く見れば背中の筋肉が一回り盛り上がり、半眼になった眼差しも鋭さを増している。今この時から戦いは始まっていたのだ。


村で熊退治を頼まれた儀介はその日の夜には既に山中深くに身を潜めていた。
家に戻ると熊の毛皮をなめして作った外套に山歩きようの脚半に着替え、腰には大振りの山刀と予備の矢筒を、手には愛用の強弓を握りしめ、背中には2丁の種子島を背負って早速狩りへと向かった。
先ずは惨劇のあった村へと脚を伸ばして惨状を詳しく見て回る、其処彼処に喰い散らかされた肉片と骨が散乱しているが、家の数に比べて人間の死体の数が少ない。
何人かは逃げおおせた可能性も在るが、恐らくは自分の巣穴に持ち込んだと中りをつけて視て回ると、死体を引きずった跡であろう血の川が森へと続いているのを発見した。
その跡を追いかけると段々と血の跡は薄くなり遂に消え去ってしまったが、儀介の眼には羆が辿った道がしっかりと見えていた。
羆はその巨体ゆえに自らの痕跡を完全には消す事が出来なかったのだ、眼をこらせば木の幹についた獣毛と、爪によってつけられた縄張りを示す傷がある。
その辺りの地面を注意深く見てみれば巨体ゆえに地面につけられた一際大きな足跡が見つかり、そして巨体にみあうような獣道と言うには余りに大きな道が森の奥へと続いていた。
暫く進むと崖の割れ目が丁度洞窟のようになっている場所に出てきた、その洞窟の傍には糞が落ちており、此処が羆の住処と知らせていた。
儀介は洞窟に慎重に近寄ると耳をすます。洞窟の中の音を細大漏らさずに聞き耳を立てるが、羆の呼吸は感じられない。
そこで待ち伏せするべく落ちていた糞を自分の体に塗りたくり入口が良く見える木に登って種子島を脇に抱えて自然と一体化する。
マタギは獲物が通るまでその存在を周囲の自然と同化させて辛抱強く待ち続けることも技能の一つである。
儀介は完全に自分の気配を消し去り、周囲の自然と完全に一体化した。何時しか日は翳り辺りに夕闇が迫る頃、遂に凶獣たる羆が姿を現した。

「ガフッ、ガフッ」

羆は今日の獲物である人間を引きずっていた、その為か儀介の直ぐ下を通るがその存在にまるで気が付かない。羆が直下に来た瞬間に儀介の眼がカッと開かれると同時に儀介の全身に狩人としての闘気が満ち溢れる。
その凄まじい気は山の魔物たる羆をも一瞬怯えさせた。
その隙を見逃さずに脇に抱えていた種子島の火口を開き、羆の眉間に目掛けて撃ちこんだ。
轟音と共に放たれた銃弾は性格に眉間に命中し、血の花を咲かせる。
ドウと横に倒れる熊をみて、木から飛び降り無造作な足取りで仕留めた獲物に近づく儀介だが、あと一歩という距離でピタリと足を止め種子島を投げ捨てる。
種子島が地面に落ちる音に反応したのか、羆は閉じていた目を開くと額の傷など知らぬと目の前に立つ儀介にその爪を振るった。
しかしその爪は空を切る、儀介は自分が放った種子島の一撃がこの巨獣の頭蓋を割ることが出来ずに、単に皮の一枚を破ったに過ぎないと近くに寄った瞬簡に気がついた、それゆえに、その爪牙の一撃を難なく回避する事に成功していた。
間断なく振り下ろされる爪をかわしながら愛用の弓を構える、儀介にとって必殺に武器は種子島では無い、自らが鍛えた弓の腕とこの強弓こそが真の力だ。
走りながらも愛用の弓を引く手に遅滞は無い、手に持つ矢の数は親指と人差し指と中指で引き構えた一本と薬指と小指の間に挟んだ予備の一本。
突進してくる羆をかわして距離を取ると真っ直ぐに立つ、勢いのついた羆は六間程先まで走っていき、其処で儀介振り返る。

「……ふんっ!」

その瞬間、儀介の手より矢が放たれる。轟という風切り音を上げて飛翔した矢は狙い違わずその羆の顔面その二つの眼を貫いた。
驚くべきは如何に巨大な獣とはいえ眼球は小さい、その小さな眼球に狙いをつけそしてその通りに命中させた精度、そして粗同時に二本の矢を放ったという技量であろう。
そう羆はこの一瞬でその両目を其々の矢で貫かれていたのだ、同時に撃ったのではない一本目の矢を放った際にその軌道を見て、当たった羆の動きを完全に予測して目にも留まらぬ速度で二の矢を番えて放ったのだ。

「ゴフアーッ!」

両目を潰された羆であったが、それでもこの魔物は儀介に襲い掛かる。確かに儀介は糞で自分の臭いを隠していたが、種子島を使った事で火薬の臭いが体に着いていた。
その臭いを頼りにした一撃は正確さには欠けるだろう、しかし自分の体を傷つけた者にたいする怒りがその力を倍加させていた。
振るわれる豪腕は、儀介の胴ほども在る大木を易々と薙ぎ倒し、牙の一撃は岩をも噛み砕く。
しかし儀介に恐れは無い、腰の矢筒から新たな矢を取り出すと自ら懐に飛び込み至近距離から撃ち放つ。

「ギャフー!」

至近から撃ちこまれた矢は四尺余りの箆(の)の半ばを羆の体にめり込ませた。
先程使った矢は遠距離用の鏃が小さく軽いもの、これは近距離用の鏃が大きく重いものである。
引くにも放つにも力が要るが、貫通力と破壊力は前者の比ではない。
それを先程と同様に二連射、更に近寄った事で正確に肋骨の隙間から心臓に撃ち込んでいた。

もんどりうって倒れこむ魔獣であったが、その巨体に相応しく心臓を貫かれても未だに暴れまわる。

「……ふぬ」

最早、誰を狙うでもなく只痛みと怒りによって暴風と化した羆に今度は遠距離用の矢よりも長く、近距離用の矢余よりも重い、鏃は螺旋をかいた儀介が手ずから造った特別製の矢を向けて一本だけを撃ち放つ。
鉄が空気を引き裂く独特の風きり音を引き連れた矢は、なおも戦う為に叫び声を上げようとした羆の口中から飛び込みその巨大な胴を射抜いた

「ガホッ!」

流石に体の中をその螺旋によって抉り取られた羆は断末魔の叫びを上げて事切れた。この一撃を持って魔獣の生は遂に終焉を迎えたのであった。



獲物を背負い村に帰った儀介は英雄の如くに迎えられ、酒を振舞われ村人総出での宴会が開かれた。
宴も終わりに近づき、儀介も解体した獲物の肉と毛皮を持って家路へとつく、扉を引き開けた瞬間いつもならば真っ先に飛びついてくる小さな姿が無いのにいぶかしむ。

「……?」

小さな家は一目で全てを見渡せる、そこに見えたのは床に伏せる愛娘の姿であった。

「……!」

荷物を放り出して慌てて側へ寄ると、看病していた妻のたきが泣きながら訴えてきた。

「ああ、お前様きくが、きくが流行り病になっちまった。このままでは時期に命を失うそうな」

儀介に縋りつき涙ながらに如何したらいいのかと尋ねてくる妻に、儀介も答える事が出来ずにいた。この病には確かに良く効く薬がある、しかし余りにも高価なその薬を手に入れる術は儀介には無かった。
仮に村長や村人に頼んでも、一回二回の量は手に入れる事が出来るかもしれないが、完治するまでは面倒を見られまい。
先程仕留めた巨大な羆ですら、金にしてしまえば普通の熊と変わらぬ値しか付かないのだ、第一此処には薬そのものが無い、絶望に身を沈めるしかないかと嘆き悲しむ儀介とたき。

「そう悲しむ事もありませんよ、旦那」

そこに見知らぬ声が掛かった、何者かと振り返るとそこに薬屋が立っていた。何故この瞬間に都合よく薬屋がいるのかは分からない。
しかしこれも仏の導きかと薬は無いかと尋ねれば、丁度都合よく持っているという。

「お金は何とかいたします、どうかどうかその薬を譲って貰えませんか」

懇願するたきに薬屋は一つの条件を提示する。

「なに、旦那ならそう難しい話じゃありません。実は然る大名がこの割符を集めているんで、これは全部で九枚在りやしてね。それぞれ一角の人物が持っているんでさ」

ニヤリと嫌らしい顔つきで笑う行商人、つまりは金の代わりにその割符を集めてくれれば薬を渡す、やらないなら薬を渡すつもりは無いと言っているに等しい。
この話は正確にはその大名から出て、腕の立つ人間を探している所に偶々自分に白羽の矢がたったのだろう。
しかしきくの窮地にあたって、この偶然は儀介夫妻にとっては天恵にも等しい事であった。

「……前払いだ」

差し出された割符を掴み取る儀介の目には、最愛の家族の守る為に闘う事に何の迷いも浮かんでは居なかった。


マタギの儀介 参戦



[13895] 第一幕の四 朧丸
Name: 小話◆be027227 ID:37893859
Date: 2010/01/03 10:04
草と呼ばれる者達が存在している。忍者といった方より分かりやすいであろう。
草は市井の人間に紛れて情報を集めてその情報を欲しがっている者に売ったり、高い戦闘技術を持つものを村落外の勢力に傭兵のように貸しだす事を生業としていた。
飛騨山中の奥深くにあるこの村もまた、そんな草の一族の隠れ里の一つである。
表向きは僅かばかりの田畑と狩猟で生計を立てているとみえるひなびた寒村でありながら、よくよく目を凝らせてみれば、田畑を耕す村人の体躯は鍛えられて引き締まり、その眼光は年老いた者ほど柔和な表情と裏腹に細く鋭くなってゆく、女子供に至ってもその身のこなしに隙は無い。
そんな村の中に在ってなお異彩を放つ場所が存在した、幼い頃より鍛え上げ戦う事を生業とする草の一族が決して近寄らぬ場所、村の外れにある洞窟がそれである。
この洞窟は牢獄である、一族の中でも裏切り者や掟を破った者が囚われ責め苦を負わされる場所だ。
故に普段ならば、此処へは誰も訪れる事は無い。しかし今その洞窟の前に村の中でも一際年老いた人間、村長が四人の屈強な若い男を従えて立っていた。

「行くぞ」

長が号令を発すると五人は長を囲むように陣を組み、確かな足取りで洞窟へと踏み入った。暗い洞窟の中を何の明かりも無しに進む足取りに何の不安も無いのをみれば、この者達が闇の中でもその実力を十全に発揮する事が出来るのを疑う者はおるまい。
事実、村長に連れられたこの四人は里の中でも潜入、暗殺などを行う実行部隊である忍の中でも上位に入る者たちであった。
その四人を従えた長のコツコツという杖の突く音が洞窟内に反響する、その音を聞きながら奥へと歩を進め、曲がりくねった洞窟の最奥まで進むとその足を止める。
周囲から受ける岩の圧迫感が遠のいた事からこの場所は洞窟の中でも一際広い場所に出たと分かる。
そこには里の者なら知らぬ者の無い一人の男が居るはずだ、もっとも獄に繋がれて既に数年が経っている、どう考えても生きているはずなど無いのだが、その男に限っては疑念が晴れない。何故ならその男こそこの里の禁忌そのものだからだ。



その男は優れた才を持って生まれた、その才は十年、いや今後百年経っても彼以上の才を持つ者は生まれまいと言わしめた程である。
そして男はその才能よりも努力を好んだ、自ら血と汗を流して体を鍛え貪欲に智を欲した。
まるで何かに急き立てられるかのように力を求め十の歳には既に中忍として、その持てる力を存分に振るっていた。
その姿は里の長老たちに逞しさを感じさせ、次の頭領にと早くも声が上がっていたくらいだ。
しかし、男が十三になったときに一つの任務を受けた、これが男の生き方を変える契機になった、なってしまった。
その任務自体は当時の男の実力からすれば極めて簡単な物だった、ある武家屋敷に忍び込み密書を取ってくる、それだけの単純な仕事でありこれまでにも何度もこなした事があるようなものであった。
しかし、その油断が一つの失敗を招いた、家人の子供が目を覚まし男の姿を見てしまったのだ。
これに男は狼狽した、これまで失敗とも挫折とも無縁であったが故に恐慌状態になってしまった、そして男が正気に戻った時にはその子供を含めて屋敷の中に動く者は誰一人として居なかった。
壁にも床にも天井にさえ血と臓物がぶちまけられ、異様な臭いが鼻を突く。
その赤く暗い空間で朧は吐いた、元より中身の薄い胃の腑から全ての吐瀉物を吐き出し、なおも足りぬと己の血すら吐き出した。
植えつけられた忍びの本能か書類だけは持ち出したものの、里に帰った男は家に篭り三日三晩出てこなかった。
眠る事も出来ずに、ただその時の事を思い出すばかりだ、自らが振るった刃が人の肉に喰いこむ感触、生暖かい腸の温度、血の臭い、耳に残る断末の悲鳴。
何とも言えない感情に突き上げられて家の外へと飛び出し、池の水で顔を洗う。
そして月明かりの下で見た自分の顔は・・・

「く、はは、はははは、クカカカカカ・・・」

哂っていた、それは今まで見たことが無い笑みであった。口角は吊りあがり、血走った目は赤い光を放っているかのようである。
だが男は自らの笑みを見て全てを理解した。何故自分は力を求めたか、何故初めて人を殺めた事をこれほど引きずるのか、何故それを脳裏に思い描くたびに背筋が凍りそうなほど昂ぶるのか。

「俺は・・・殺す為に生まれてきた」

それは男が見出した己という生物の真実であった。
そして宴が開かれた、その男が自らの為に開いた最悪の饗宴が、里を脱した男は近くにある村の者を皆殺しにしたのである。
それは凄惨を極めた、老若男女の区別無く全ての人間が屍を晒された。四肢は切り取られ腹は裂かれ、だが恐怖と痛みに引きつったその末期の顔は傷一つつけられずに、まるで聴衆の如く男の周りに集められている。

「クカカカカカ!」

原型を留めている死体など一つも無い、それこそ奇怪なオブジェを乱立させたような赤い光景の中で一人哄笑を続ける男。
男を追ってきた里の人間はその景色を前にして、荒事に慣れた、言い換えれば自分達もまたこの光景を作り出せるはずの者達がただ恐怖だけを覚えた。
そして三年の時を経て七つの村を滅ぼした男は遂に捕らえられ、この洞窟に幽閉される事になったのだ。



広間に到着するまで無言であった長が暗闇に向かって声をかける。

「生きておるか? 朧丸よ」

しばし無言の時が過ぎ、沈黙が辺りを支配する。件の男、朧丸はここで屍を晒したかと護衛の一人がその緊張を解いた瞬間にその問いに応じた声があがった。

「カカッ、その声は頭領殿か。それにあと四人居るな、雁首揃えて俺に何の用だ」

その男にしては甲高い声は決して耳障りになるような声音ではない、ないがしかしある種の狂気を孕んだような独特の雰囲気を周囲に撒き散らす声であった。
夜目が利くのは忍者としての条件だが、流石に何の光源も無い場所では僅かな気配等で辺りを探るしかない。
それでありながら声の主は此処に自分を訪ねてきた人数を正確に言い当てた、それだけでもこの男の尋常ではない力量が見て取れるというものだ。

「生きておったか、くくく、流石にしぶといの。お前に仕事を頼もうと思うてな」
「カカッ、俺に仕事とは穏やかではないな。何があった?」
「何も無いわ、ただ単に貴様向きの仕事が舞い込んできたというだけの事よ」

真の暗闇の中で長が吐き捨てるような声音でそう答えると、相対した声は心底から可笑しそうに哂いだした。

「クッカカカカカ、なるほど其処に雁首揃えた雑魚では話にならんという訳だ」

声に雑魚と断じられて気色ばむ若い衆、此処に居るのは村の中でもその腕を買われて長の護衛として選ばれた者達だ、己の実力に並々ならぬ自負がある。
一斉に気色ばむ四人だが声は哂うのを止めない、それどころか四人の鬼気を受けながらも平然と言葉を続ける。

「で誰を殺せばいい?」
「話が早いの、いやお前にそれ以外の価値などないか」

嘆息しながらも長は共の者に壁に立てかけてあった松明に明かりを灯すように命じる。
火が灯り辺りの暗闇が晴らされると、壁に両手両足を鉄の鎖で繋ぎ止められた男が座っていた。
その顔は伸びるに任せたザンバラ髪と髭で隠れているが、落ち窪んだ眼窩の奥にある瞳だけは粘つくような妖しい光を携えている。
上半身は裸、下半身も下帯一枚しか身に着けておらず、筋肉は痩せ衰え肋骨が浮き出ている。まるで幽鬼のような姿の男であった。

「応とも、この俺にそれ以外の楽しみなど無い。さあこの枷を外せ、誰であろうと殺して見せる」

骨が浮き出る程にやせ細った両の腕を突き出して、口だけを歪ませて哂う。
長が顎だけを動かして枷を外す様に促すと、一人の若者が朧の前に進み出る、懐から鍵を取り出し、腕の枷を外そうと屈みこんだ瞬間。

「カッハアー!」

その奇妙な哂い声と共に朧の体が飛び跳ねた、驚愕する隙もあればこそ一番近くに居た男は鍵を持ったまま、骨ばった腕をその首に巻きつけられゴキリという音と共に自分の視界が逆転するのを見た。そしてその光景が彼の見た最後の景色であった。

「クカカカカ、脆い脆いこれでは鈍った体の準備にもならん」

あっけに取られる長と残りの三人の後ろにすうと立ち上がったのは、いつの間にか両手足に繋がっていた鉄の枷を外していた朧であった。
咄嗟にその場を飛びのいた四人ではあったが、これもまた知らぬうちにその足首に今まで朧丸が嵌められていた枷が着けられていた。

「なにいっ?!」

驚愕を顕にする四人に向かって朧丸は大仰に身振り手振りを交えながら芝居掛かった仕草で語り始める。

「ああ何という事か、俺の知る里の者であればこれほど弱くは無いはずだ、ならば此処にいるのは里の人間ではあるまい。里の人間を騙る者には速やかな死を与えねばならんな」

この台詞に仰天した長は朧丸を怒鳴りつける。

「痴れ者め! やはり貴様は殺しておくべきであったわ。殺れ!」

長の号令で三人の護衛は腰の小太刀を引き抜くと、足に繋がる鎖を一刀の元に切り捨て自由を取り戻すと猿の如き動きで一斉に襲い掛かる。
その刃が体に突き立つと見えた瞬間、ゆらりと立つばかりの朧丸の姿が消えうせた。
如何に速度の乗った一撃を繰り出した所とはいえども、そこは手練と目される男たちである、いきなり標的の姿が消えた所で同士討ちなど起ころう筈も無く、油断無く背中合わせになって周囲を警戒する、否、警戒しようとした。
三人が背中合わせになった瞬間一人の腹を後ろから貫く刃があった、ゾブリと背中側から腹を貫通したその刃は真一文字に横に引かれ男の血と臓物を地面へとぶちまけた。
如何に背中合わせになったといえども、動く必要がある以上僅かばかりの隙間が存在する、その隙間にどうやってか侵入した朧丸が、一番先に首をへし折った際に男の腰から取り上げた小太刀を使って二人目の腹を貫いたのだ。

「つまらん」

自分が殺した二人の人間の血臭が充満する洞穴の中で、吐き捨てる朧丸。この男にとって自分以外の人間などたんなる獲物でしかない。
そして自分を楽しませてくれない獲物などに何の価値も見出さぬ、その心の内は既に人のそれでは無いのかも知れない。

「こんなものか、実につまらん。 どうやら俺が此処に篭ってから里の人間は腑抜けたようだな」

捨て台詞を残すと興味も無くなったとばかりに外へと歩き出す、その足取りは無造作で隙だらけであった、しかし今何の苦も無く二人を倒してのけたのは紛れも無い事実である。
逆にその隙が恐ろしいと体に染込ませた男達であったが、ここでこのまま行かせる訳にはいかないと追いすがる。
さして速度を上げた訳でも無かったが、長と男達が朧丸に追いついたのは洞窟を抜けた先、陽光きらめく外界であった。
その光を全身に浴びて立ち尽くす朧丸の姿はそのみすぼらしい外観に反して、いっそ神々しく見えた。瞬きする程度の間ではあったがその光景に見惚れた長達が正気に返り声を上げる。

「待て朧丸、このまま逃がす訳にはいかん」
「カッ、逃げる等とは人聞きの悪い。俺に逃げる理由など無いわ」

老いたりといえどもこの隠れ里で長を務める以上は一角以上の忍の者である、これに残り二人の手練を加えた三人で朧丸の周りを取り囲む。

「ぬしの強さは良く知っておる。しかしこの陽光の下ならば貴様の姿を捉えることも容易い、大人しく死ぬがよい」

その身に寸鉄も帯びずにただ其処に立っているだけの朧丸に三方から同時に襲い掛かる、先程とは違い完全に囲んだ上に今は日の光がそそぐ昼日中、先程のような無様は晒さぬ、仮に一人が殺されても残りの二人で確実にその命は奪って見せよう。
地面擦れ擦れを風の如く走り抜け、遂にその白刃を朧丸の体に食い込ませようとしたその時と同時に朧丸の手に二振りの小太刀が現れ閃いた。
相手に武器など無いとして必殺の意志を込めた一撃を振るった三人が朧丸の脇を縫うように先程まで自分が立っていた場所の丁度反対側に駆け抜けた。

「クッカッカッカッカッカ、こんなものか」

殺した二人から奪い取っていた小太刀を他の三人にそれと知れぬように隠しおおせたその技量の凄まじさよ。
朧丸の言葉と共に三人の首がゴロリと地面に落ちる。
首から噴出した血が天高く吹き上げられ、その血を全身に浴びながら哄笑を上げる朧丸。
血の吹き上がりが止まって血の雨を堪能した朧丸がその場を立ち去ろうとした時、長の懐から一枚の割符が零れ落ちていたのが目に留まった。
何の気もなしにそれを拾い上げて死体の懐を探る。すると一枚の書状が入っていたので広げて読んでみる。

「クカカカカカ、なるほどなるほどこの割符を九枚そろえればどんな望みでも叶えてやるか、御所も大きく出たものよ」

正直に言えば朧丸はこんな約束など興味は無い、己の欲しいものなど生きの良い獲物だけだ。だからこそ、この書状の中に一つだけ朧の気を引くものがあった。

「この世で一番強い者か」

手練のものを互いに殺し合わせる、それは朧丸の中に暗い喜びを見出させた。

「それを殺せば俺の渇きは癒えるのかな」

何者の意志も知らぬ、ただ殺戮の意志によって朧丸は割符をその手に取った。


業魔流忍者、朧丸 参戦



[13895] 第一幕の伍 秋葉太夫
Name: 小話◆be027227 ID:b35051a3
Date: 2009/12/19 11:39
少女はその日まで幸せに暮らしていた、生活は苦しかったが優しい両親と妹に囲まれ幼馴染の少年と淡い恋を経て祝言を挙げる約束もした。
自分はこの鄙びた村で両親と同じように、自分の夫となった少年と慎ましいながらも幸せに平凡な時を過ごし一生を終えるとそう思っていた。
その幻想が破壊されたのは本当に唐突な出来事であった、田舎の生活など日が昇ったら起き出し、日が沈んだら寝るのが常である。
この日も何時もと同じように農作業を終えて家へと戻り、家族と共に眠り落ちる。
だが少女はその日に限って己の好いた少年と家族に内緒で会う約束をしていた、幼い少女特有の一寸した好奇心と愛しい少年への純粋な思いを糧に初めての冒険に出かけた。
村はずれにある、池のほとりまで月明かりの中を小走りに駆け抜ける、走る先に目指す池を見つけると足を止めて身支度を整えてから自分を待っているはずの少年を探すと岩の上に腰掛けて雲の隙間から落ちる月の明かりを反射する湖面を見つめている少年を見つける事が出来た。
自分が来た事を伝えようと声を上げかけたが、どうやら彼は此方に気が付いていないらしい、少女の胸に悪戯心が湧き上がる。此方を向かぬ少年を驚かそうと足音を殺して後ろからそっと近づいていきなり声をかける。

「わっ!」

これで驚いた少年が此方を振り向き、ちょっとしたじゃれ合いが起こるはずだ。そして少年少女に相応しい微笑ましい逢瀬が始まる……筈であった。
声と共に背中を押された少年の首がコロリと落ちた、目の前の光景を理解できずに呆然とする少女の前で、その首が池に落ちる。
池に浮かんだその首が、何時もと同じ笑みを浮かべているのがこの光景が夢の様ではあったが、少女の全身に降り注ぐ真っ赤な雨の鉄の臭いがこれが現実だと告げていた。

「あ、ああ、ああああ!」

震える声とさっきまで少年であった物を置き去りにして、元来た道を走り抜ける。
その時少女の頭にあったのは恐怖であり、恐慌であった。

『これは夢、悪い夢、すぐに起きて池に行かなきゃ、だって彼が待っているもの。だからもう一度布団を出るところからやり直すの』

全てを夢だと思い込みながらようやく我が家に辿りつき、家人が起き出すのも構わずに乱暴に扉を開けて転がるように自分の布団に飛び込んだ。
この布団は妹と共用だ、貧しい村では一人に一つの布団など贅沢なのだ、だからこの布団は妹の体温で何時も暖かかった。
何時もは狭いと文句を言いながら小さな布団に一緒に包まる妹の体を恐怖に余りに、きつく抱きしめると温い水気が少女の全身を襲った。

「きゃあ!」

転がるように布団から出ると開け放したままの扉から、丁度雲の切れ間から顔を覗かせた月の光が家の中を照らし出した。

「嘘よ、嘘よ、嘘よー!」

冴え冴えと降り注ぐ月光に浮かび上がった光景は、少女の心を焼ききった。
優しかった両親は消えうせていた、ただ両親が寝るまで着ていた着物と同じ着物が何かグズグズとした肉の塊を包んでいた。
小さく暖かだった妹の四肢は囲炉裏の脇に焼き魚のように刺さり、そのうち右の太股にはまるで何かが齧ったような歯型が付いていた。
腰を抜かして三和土にへたり込み、緩んだ腰から流れでた小水で着物を濡らしながらも壁際まであとずさる。
嫌々と頭を振ると視界に鈍く光る鉈が目に止まった、咄嗟に震える手で鉈を掴み取って握り締め、こんな場所には居られぬと扉から這い出す。

「クカカカカカ!」

そこへ突如として甲高い男の哂い声が響き渡った、その声はこの異常な状況の中でただ楽しそうに哂っているだけだ。
村の中心部から聞こえてくるその哂い声に誘われるように、立たぬ足腰で這うように前に進む。
漸く村の中心にある井戸に横に開かれた広場を見渡せる場所まで進むと、其処には哂い声を上げる自分と幾らも変わらぬ歳の頃に見える少年と、その周りに集まった少女以外の全ての村人が揃っていた。
そこには村長も隣の気のいい叔母さんも自分を嫌らしい目で見ていた小父さん、仲の良かった友人、そして自分の両親と妹も居た。
村人の首だけが、その中心に立ち哄笑を続ける男を賛美する客のように、少女と池で死んだ少年以外の村人全員の首が其処に積み上げられていた。

「あああああああああっ!!」

その光景に全身が炎に染まる気がした、目の前が赤くなり全てのものがただ赤と黒に塗り分けられる。
絶叫を上げる少女の後ろに、先程まで哄笑をあげていた少年が静かに佇んでいた。
この惨状を作り上げたであろう少年が自らの後ろに佇んでいるのに少女は全く気が付いていない。ただ獣のように、言葉にならぬ言葉を吐き続ける。

「もう一匹いたか」

少年の腕からツウと伸びた白銀の光が無慈悲に少女の首へと振り落とされる。
それは奇跡か、それとも才能の発露だったのか、否ただ生を求める本能が血と肉と絶対の恐怖によって呼び起こされたか。
少女の首を刈り取るはずの刃が、少女の持つ鉈によって防がれた。

「ほう」

速やかなる死をその頭上に落とすはずの自身の一撃が、なんの変哲も無い少女に防がれた事に少なからず驚きを覚える少年。
その少女の瞳は虚ろであり、到底自分の意思で今の一撃を防いだとは思えない。

「クッカカカカ面白い、お前は生かしておこう」

未だに呆けて座り続ける少女に何を見たか、少年はポツリと呟きを残してその姿を消した。
少女はただ座り続ける、自分の身に起こったことが理解できない、夜が明け朝日が上がる頃になっても何もその瞳に映る事は無く、死を見つめ続けた少女は三日三晩をそのまま過ごした。
自分が地面に倒れたのすら自覚せずに、このままただ死んでいくのかと漠然と心に浮かぶ何かがあるが今の少女にはそれがどんな感情なのかも判然としない、そして少女は悪夢の夜から漸くその意識を手放した。



少女は自分の体が揺られているのを感じてその目を覚ました、どうやら自分は荷車に乗せられているようだ。
うっすらと瞼を開けて見ると、自分の周りを歩く何人もの年嵩の女の人と自分と変わらぬ少女が三人ほど見て取れる、少女達の様子はまちまちで一人はただ泣き崩れ、一人は前を睨み、今一人は熱心に回りにいる女に声を掛けている。

「ここは、私はいったい?」
「ようやっと気が付いたかい」
「えっ?」

震える体をその細腕で支えて身を起こすと後ろからしわがれた声が聞こえた。慌てて振り返ると其処には三十路を超えたばかりと見える両肩を肌蹴た美女が座っていた。
キセルを咥えて、いっそ優雅に煙を吐くその姿はどこか猫を思わせる色っぽさだ、尤も注意をしてみれば猫は猫でも美しくも凶暴な山猫と見えるだろう。
一つプカリと煙を吐くと美女が口を開いた。

「何があった?」
「え?」

美女の口からしわがれたと言うよりも擦れた声と言うべきか、その雰囲気と相まって色気と同時に何か硬質な迫力のある声音である。

「だから~、何があったか聞いてんだよ」

馬鹿みたいに聞き返した少女に、手に持ったキセルをクルリと回して中の灰を落とすと突きつける。
美女に言われて自分の身に起こった事を思い出す、一面に広がる紅い世界、辺りに転がる人間の首、そして哄笑をあげる人間の形をした魔物。

「いやああああっ!」

絶叫を上げる少女の頬が張られ、もんどりうって倒れる。その勢いを殺しきれずに少女が荷台から落ちた。少女が落ちた事で進行が止まり、周囲の女達が一斉に騒ぎの中心である少女と美女に注目が集まる。
荷台に乗っていた美女が優雅に地面に降りると腰に手を当てて、キセルに新しい葉を詰めて火を点す。

「うっせえんだよ、さっさと聞かれた事に答えな」

自分の頬を張った美女が居丈高に告げるのを呆然と見上げながら、美女の顔がドンドンと不機嫌になって行くのを見て、慌てて自分の身に起こった事を話し始めた。

「ふうん」
「ふうんて、それだけですか!」

全てを聞き終えても特に驚く様子も無く相槌を打つ美女に少女は食って掛かるが、それは美女のみならず、周りに居た女達からの笑い声で掻き消された。
少女の話を笑わなかったのは、連れられて歩いていた三人の少女くらいだ。

「お嬢ちゃん、村一つ全滅なんざ戦の絶えない今の世の中じゃあよく聞く話さ、確かにあの惨状はちょっと見た事無いほど酷いたあ思うけどね、此処に居る女衆は大なり小なり似たような境遇持ちだよ」

あれが今の世の中ではよくある話と聞かされて、驚きに目を丸くする。慌てて周りの女達を見れば何人かが頷いてくれた。

「でだ、あんたを拾ったのは単に話が聞きたかっただけだったんだ、気がついたなら何処へなりと行きな」

荷台に腰掛けたままで、もう用は無いとヒラヒラと手を振る美女、それを聞いた少女は驚いて聞き返す。

「え、あの……」
「ん、なんだい? まさかあんたあたしらが自分の面倒看てくれるとか思ってんのかい」

突き放した言い方の美女に、何も言い返すことも出来ない。確かに彼女達に自分の面倒をみる理由も義理も何も無い。
しかし、少女は今まで小さな村の中しか知らない、此処で放り出されれば路頭に迷う事になるのは目に見えている。
それに今一人にされたら、きっと恐怖と孤独に耐えられない。今普段と同じように喋れているのは、この雰囲気を作り出しているこの目の前にいる美女の力だと何故か直感出来ていた。
家族の仇を討つにしても、先ずは生き残る事が出来なければ如何する事も出来ない、そしてこれから生きてゆく術を知らない以上は何とか彼女達に助けてもらわなければと、意を決して頼み事をする事に決めた。

「あ、あのお願いです、私も一緒に連れて行って下さい! なんでもしますお願いです」

少女の必死の訴えを聞いた女達は一瞬の沈黙の後、大声で笑い始めた。大声で笑いだした女達に驚き半分怒り半分で何故笑うのか真赤になって問い正す。
目の端に涙を浮かべながら笑いを収めた美女が、それでも半笑いで話を繋ぐ。

「あっははは、これが笑わずにいられるかい。あんたあたし等が何者か知らないでよくいえるね」
「姐さん、説明してあげたら」
「そうさねえ、良いかいお譲ちゃんあたし達は女衒なんだよ。あたし等についてくるって事はどういう事が解るだろう?」

女衒とは遊郭へ女を遊女として売る人間の事だ、さっきまでの雰囲気からてっきり女芸人の一座かなにかと考えていた、それに女衒といえば普通ヤクザ者がやる仕事である。
村が不作の年に、自分より年上の少女が売られるところを見たことがあったが、女ばかりの女衒など見たことは勿論、聞いたことも無い。
目を白黒させる少女を見て、美女は悪戯を思いついたようにニヤリと笑うと、裾を寛げて一歩を踏み出した。

「くく、そう言やあ自己紹介もしてなかったか、あちきは遊郭桜花楼の看板、そして店の一切を取り仕切る任侠葉桜組六代目、夜雀の青葉太夫と覚えときな」

美女は少女にぐいと顔を近づけて名乗ると、先程までとは別の猛禽を思わせる笑みを浮かべて話を続ける。

「で、こいつを聞いてもまだあたし等と来るって言うかい?」

彼女達と行くという事は、末は女郎として店に立つことになる可能性が高いだろう。勿論自分は売られた訳では無いのだから、端女として雇ってもらう事も出来るかもしれないと淡い期待が胸に浮かぶが、その甘えた考えは捨てる。
その代わりに自分にはやるべき事があると強く強く念じる、その想いが自分が生きてゆく理由だと定める。

「太夫は親分さんなんですよね」
「姐さんって言って欲しいけど、まあそうだね」
「強いですか?」
「な~るほど、くくっ強いよ、男でもあたしより強い奴を見た覚えは無いねえ」
「なら私を強くしてください、その為なら何でもします」

真直ぐに自分を見つめてくる少女の瞳の奥に見えるのは、生きる為の赤い炎か復讐に揺れる黒い炎か、そのどちらにしても生きる理由を決めたには違いない。
しかし今の自分の状況を見て、生き残るために少女らしい心の弱さを今の短い間で捨て去ったということか、今の彼女は目を覚ました時の怯え竦んだ少女では無く、強さを求める女の顔になっていた。
これは掘り出し物かもしれないと、青葉太夫は笑みを深めた。

「名前は?」
「お葉(よう)です」
「ふん、なら今日から紅葉と名乗りな、あんたが生まれたあの真赤な景色を忘れない為にね」
「はい」

少女はこの日、自らの名を捨てた。


紅葉と名を改めた、少女は青葉太夫の店である桜花楼で働き始めた。端女から始まり禿(かむろ)となり遊女として店に出た。
そして数年を経た頃、青葉太夫からその座を譲られて名を秋葉太夫と再び改める。
元より美しい少女であったが、この頃になると匂い立つような色気と犯しがたい強さを併せたその立ち居振る舞いから近隣にも評判の太夫となっていた。
太夫ともなれば、一晩付き合うのに多額の金銭が必要になるため、公家や武家の中でも裕福な人間の相手しか出来なくなる。
そしてそんな美丈夫となれば、身請けをして自分の物にしようとする者も当然ながら出てくるものだ。
この日もそのような武家の一人に招かれた秋葉太夫は、しかめっ面で座っていた。それでもその顔は美しいのだから、夢中になる人間は引きも切らないというわけだ。

「太夫、私と一緒になってくれ、お前を妻に迎えたいのだ」
「わっちは誰に身請けしてもらうつもりもありんせん、若様もこんなわっちに構わずに家の格を大切にしやしゃんせ、しょせんわっちらは一夜の夢の存在でありんす」

もっとも秋葉は売られた訳ではないので、身請けも何も無いのだが面倒なのでその辺りは説明する気も無い、単純に上客の為にそれらしい姿を見せているだけだ。
しかしこの若い侍はすっかり秋葉に参っているらしく、それでもと食い下がる。
いい加減にしつこいと感じてきた秋葉がぶちのめしてやろうかと思い始めた頃、部屋の障子が勢いよく開かれた。
そこに立っていたのはこの若い侍の父親であった。話に聞いていた通りにキツイ性格らしく眉が吊りあがっている。

「お前が秋葉太夫とかいう売女か、よくも家の総領息子を誑かしてくれたな!」

ものすごい剣幕で怒鳴り始める父親とおろおろとする若侍、いい加減に嫌気がさしていたので二人が言い争いを始めたのをこれ幸いとして出て行こうとする。

「ええい待たんか、まさか此処から無事で出られるとでも思うのか、お前たち!」

父親の声に併せて屋敷の奥から柄の悪そうな男達がぞろぞろと出てきた。その中の一人が前に進み出てきて秋葉に嫌らしい笑い顔を見せながら話しかける。

「よう、太夫こんな所で会うなんざ奇遇だな」
「これは大松組の親分さんじゃありんせんか、わっちは若様のお呼ばれにて此方に参ったしだいで、親分は何用で此方にお邪魔に?」
「なぁに、この屋敷に性悪な雌猫が来るんでそいつを何とかしてくれって旦那様に頼まれてな」

互いにハハハ、ホホホと笑いあいその笑い声が同時にピタリと止まる。

「舐めるんじゃないよ!」
「やっちまえ!」

怒声と共に秋葉は床を蹴って飛び出すと、袖に隠していた扇子を取り出して回りにいる男に向かって振るう。
鈍い音とともに吹き飛ばされる男達を後目に、縁側を蹴って庭に降りると着物の裾を割って構える。割れた裾から見るも眩しい白い太股が顕になるが特に気にもしない。
両の腕にそれぞれ鋼で作った特別税の扇子を構え、口元を隠して挑発する。この時横から秋葉太夫の顔を見たものがあったなら何故彼女が口元を隠しているか知っただろう。その顔は確かに笑っていた、それも獲物を前に舌なめずりをする獣と同じ笑みであった。

「大の男が揃いも揃って情けないとは思いんせんか、思わないんじゃろうな。ならわっちがその性根を叩き直してやろうかの」

言い終わるが早いか、再び地面を蹴って男たちの中へと踊りこむ、開いた扇子の端は鋭い刃になっており、それが振るわれるたびに悲鳴とともに血飛沫が周囲に舞う光景は一幕の舞台のようであった。
主演は中心で舞い踊る秋葉太夫、囃子は無くとも天上の舞を彷彿させるその舞踊と花吹雪の如く散り行く赤い飛沫の美しさよ。
その美々しい舞の中で秋葉の瞳だけが蒼く輝いている、その舞が一先ずの終焉を終えた時立っている者は秋葉の他に三人、若侍とその父親そして大松親分だけだ。
他の者は全員が体に傷を負って倒れ伏している。どうやら生きてはいるようだが、腕や足が無い者も多く、最早荒事の世界で生きていく事は不可能だろう。

「さて親分さん若い衆がこれでは縄張りの見回りにも事欠く有様、わっちも町が荒むのは本意ではありんせん、だからそのシマ全て譲り受けてやろうかの」
「ふざけんじゃねえ!」

その若い衆を一人残らず使い物にならなくした張本人からの余りの言い草に、怒声を上げて懐からドスを取り出した親分はドスを腰溜めに構えて体毎一直線に突っ込む。

「しようがないのぅ」

呆れた様に呟くと突進してきた親分の脇を優雅に一回転してすり抜ける秋葉太夫。
勢いのままに走り続ける親分の体はその首から鮮血を振りまきながら、端にぶつかって崩れ落ちた。
手に持った扇子の上に口をパクパクと動かすばかりの親分の首を、腰を抜かしてへたり込む、若侍と父親に投げ渡して釘を刺す。

「わっちはわっちより弱い者には惚れりゃせん。それと旦那様、桜花楼にちょっかいかける心算なら心しやしゃんせ、旦那と同じでわっちも家族を不幸にしようとする人間には情けも容赦もかけんよ」

それだけを言い残して嫣然とした微笑みを残して去ってゆく秋葉太夫を止める声は上がらなかった。



自らの住処である桜花楼に帰ってきた秋葉太夫に青葉太夫、今は志津と名を戻した先代からの呼び出しがかかった。
さて何の用かと志津の部屋へ赴くと一枚の割符を投げてよこした。

「これは何でありんすか?」
「ん、見たとおりのもんだよ」
「それでこれを如何しろとおっしゃるんで?」
「同じもんが九枚あるらしいから、集めといで」
「そんな話なら楓か花梨にでも任せて下さいな」

楓も花梨も自分に次ぐ実力だ、荒事になっても何とかなるだろうと嘆息して部屋を出ようとする秋葉に後ろから志津の声が掛かった。

「なんでも、その割符は兎に角強い人間が持っているって話だったんでね、あんたに任せようと思ったんだが」

その言葉を聞いて動きをピタリと止める秋葉太夫、後ろからクツクツと笑い声が聞こえるのに一つ舌打をして振り向かずに告げる。

「アレが持っているかもしれないって事ですか」
「さあてね、でも」
「可能性はある」

僅かな時間でこの世に地獄を現出させたモノが弱いとは思わない、今の自分でも勝てるかどうか、あれはそういう類の人間だ。求める者を見つけることが出来るかは解らないが行く価値があるなら行ってみるのも一興だ。

「梢、桔梗、旅にでるから支度しな!」
「あたしの邪魔をするなら、誰であろうと倒すだけさね」

この割符を持っている連中はあの魔物と同等かそれ以上の化け物の可能性もあるが、それはそれで構わない、もともと誰にも負ける心算などないのだ。
その美しい顔に似合わない否、この上なく良く似合う獰猛な笑いが零れるのを止めずに秋葉太夫は歩き出した。


立川流扇闘術 秋葉太夫 参戦



[13895] 第一幕の碌 加納清十郎
Name: 小話◆be027227 ID:b35051a3
Date: 2009/12/08 23:18
加納清十郎は武家の嫡男として生を受けた、戦国の世に生まれた清十郎は幼い頃より文武両道を両親から躾けられ、また自身の才も相まって成長するにつれその実力を高めていった。
五尺三寸の赤樫の如く鍛えられた体と大きな目に団子鼻の顔は美丈夫では無いものの愛嬌に溢れている。
十五の年に家督を父親から譲り受けると城中でも家老としてその才覚を振るうようになり、二十を過ぎた頃に同僚の妹を妻に迎えて仲睦まじい姿を見せる。
しかし順風満帆に十年を過ぎたある日その人生は一変することになる、時代の潮流は突如としてその牙を剥いたのだ、清十郎が使える国に突然同盟関係にあった隣国が攻め寄せてきたのである。
この急報に清十郎たちも即座に応戦の準備を整えるが、基より国力に差があった上に緒戦での敗退が尾を引き次々に城を攻め落とされた。
残るのは現在立て篭っている城のみであり、その城も十重二十重に取り囲まれているという有様だ。

ワアアアアアア!

ときの声を上げて攻め寄せる敵の兵を前にして、虎口に陣取った清十郎は幾百の敵にも勝る声を張り上げる。

「遠からん者は音に聞け、近くば寄って目にも見よ、我こそは豪勇無双の槍の使い手、大膳流槍術皆伝、加納清十郎なり。命が惜しくない者から掛かって来い!」

清十郎の剛勇は近隣にも響いており城主である谷川愁繕を除けば第一の手柄首とされていた、その清十郎の名を聞いて功は我にありとばかりに敵の足軽が殺到する。
怒涛の勢いで迫る足軽たちを一瞥すると八尺二寸の家伝の朱槍を握り締めて迎撃体勢を整える。

「愚か者めらが」

間合いの中に足軽が入った瞬間に腰溜めに構えた朱槍を突き出す、空気の爆ぜる音が木霊すると殺到していた足軽たちの首から鮮血が飛んだ。
一閃と見えた槍の一撃は実は一息の間に十を超える数の突きを繰り出していたのだ、その残像が一つに混じり、一撃を見舞ったようにみえたのだ。
その一撃一殺の槍捌きは正に紫電の如く、目の前に迫る足軽の喉を次々と貫いて絶命させて足元に屍を積み上げて行く。
次々に仲間たちが倒れ伏すさまを目の当たりにした敵の足軽達は正面からは勝ち目が無いと踏んで、周囲を取り囲むように横に広がれば横合いからの一撃で纏めて吹き飛ばされて宙に舞う。
清十郎の槍よりも長い柄の槍を用意して突きかかってくるものは、その長い柄を絡めとって、突きかかってきた人間後と纏めて地面に叩きつける。
最後の策として遠間から撃ちかけて来る矢は体の前で回転させた槍の柄にて悉く叩き落して、最後の一矢は射手に向かって弾きかえすと、弾かれた矢は唸りを上げて飛来し射手の体に突き立った。
その奮戦振りは正に鬼神の如し、清十郎一人が雲霞の如く攻め寄せる相手方を押し止める。
日の出から始まった戦は夕刻には一先ずの終わりを迎えたが、この日一日が過ぎる頃には清十郎が倒した人数は実に三桁に迫ろうという勢いであった。

「さあ、幾らでも来い! 此処より先は地獄への一里塚よ」

敵の屍を踏みしめて名乗りを上げる清十郎の姿は味方には城を守る守護神と称えられ、敵からは羅刹と恐れられた。
戦が始まって四日目の昼過ぎのこと、攻め寄せる者達の前には立ちはだかり猛威を振るい続ける清十郎の下に城からの伝令を携えた若者が転げ出て息を切らせながら告げた内容は、この豪傑をして驚愕を顕にさせる事柄であった。

「御家老様、西門を守っておられた飛島様が謀反を起こされたとのこと、すでに城中に敵方が侵入との報でございます!」
「なあにいっ!?」

西門を守っていた男の名は飛島正隆と言う男で清十郎にとって幼い頃から共に切磋琢磨した同輩でもあった男である。その男があろう事か味方を裏切り敵方に寝返ったという。
清十郎自身もこの急報に一時愕然とするものの、騒然とする自らの部下を見て気を引き締めて叱咤する。

「うろたえるなっ、これより我が城中へと入り敵方悉く平らげてくれる。それまで此処を頼んだぞ!」

後事を副官に託すと清十郎は踵を返して城中へと向かった、重い具足を身に着けて休む事無く戦い続けていながらもその足取りは軽く、風の如くに駆け出して城の中へと急ぎ走りこむ。
正面入口の門から中に入れば、其処彼処から男の絶叫と女の悲鳴が聞こえてくる。どうやら押し入った敵兵が狼藉に及んでいるらしい。
その事実に義憤に燃える清十郎ではあったが、先ずは主の安否を確かめねばならぬと走り出し奥の間に辿りつく途中に見かけた敵兵は問答無用で槍の錆としながら駆け抜ける。
城の奥の間の前まで辿りつくと、開け放たれた襖が見えその奥にある城主の部屋から剣戟の音と悲鳴が聞こえてきた、そのまま襖を蹴倒して部屋の中へと踊りこむ。

「殿、ご無事で?!」

奥の間に到着した清十郎の目に飛び込んできたのは、血溜りに倒れ伏す城主愁繕と奥方である竹姫、その腕に抱かれた赤子の死体とその傍らに立つ一人の鎧武者と奥で震える女衆であった。
黒金の鎧に城主の返り血を浴び、その手に血刀を持って立つ男は謀反を起こしたとされる飛島正隆であった。
駆け込んできた清十郎に気が付くと此方を振り向いて笑いながら話しかけてきた。

「遅かったな清十郎、愁繕殿は既に討ち死になされた」
「正隆殿、なぜ裏切った」
「儂は常々主に進言していた、今は戦国の世の中このままでは何時か我等は滅びると、しかし主は変わろうとしなかった、故に儂がこの国を変える」
「それが理由か」
「そうだ、下克上こそ今の世の理よ。儂はこの国を足掛かりに天下を目指す」
「愚か、忠義を理解せぬ者には誰も従わぬ!」

怒りの声と共に一歩を踏み出して槍を繰り出す、その一撃は正隆の首に吸い込まれるかに見えたが、下から跳ね上がった一刀がその軌道をそらす。
槍を下から払い除けた刀は勢いをそのままにして上段から振り下ろされる、必殺の一撃を放った清十郎は泳いだ体を強引に横っ飛びさせて一撃をかわす。
横に転がって膝を着いた清十郎に猛然と襲い掛かり次々と斬撃を放つ正隆、しかしその攻撃は悉く槍の柄によって払い除けられてしまう。
一気呵成に攻め込んだが攻め切れなければ只体力を消耗するだけだと判断した正隆が一旦距離を置こうと後ろに跳び退る、その隙を見逃さずに方膝を着いた姿勢から一撃を繰り出すが、これは流石に止められる。
距離を開けて再び対峙する清十郎と正隆。

「清十郎よ、儂に仕えぬか」
「戯言を、もはや問答無用」
「で、あろうな、まっこと惜しい。ならば死ねえい!」

清十郎が中段、正隆は下段に各々の獲物を構えて最後の一撃を振るう。
先に動いたのは正隆であった、長物の槍は屋内で振り回すには無理がある。故に攻撃手段は突きに頼らざるを得なくなる、しかも一足飛びで懐に飛び込める距離であるなら初撃をかわしさえすれば勝ちは決まる。
基本の中段に構えているなら体の左側への反応は遅れるはずと、其方に向かって踏み出した。
その動きを待っていたかのように清十郎の槍の穂先が身に迫る、しかしそれも正隆の思慮の内にあった、初めからこの一撃を打ち払ってから斬りかかる心算だったのだ。
その思惑通り迫る一撃を払う事に成功した瞬間、正隆は勝利を確信して清十郎の身に刃を振り下ろした。

「げくっ」

奇矯な蛙のような声を上げて正隆の動きが止まる、必殺の刃を清十郎に突き立てんとしたはずの己の身に起こった事が信じられない、確かに払ったはずの槍が正隆の咽に深々と突き刺さっていた。
その一撃は咽を突き破り頚骨を砕いていた、口から血泡を吐く正隆の咽から槍の石突きを無造作に引き抜く。
正隆の命を奪ったのは穂先では無く石突きであった、元より正隆の狙いなど分かっていた、それを逆手にとって穂先をわざと払わせて、勝利を信じて踏み込んできたところに半回転させた石突きをその無防備な咽へ交差方をもって突き立てたのである。
清十郎の力と自分の踏み込みとの相乗効果で咽を突き破られ奥の頚骨までもへし折られた正隆は何が起こったのか理解せぬままにその野望と共に潰えた。
清十郎は正隆が糸を切られた人形の如くくず折れるのを確認すると倒れた主の所へと駆け寄り、血の海に沈んだその体を抱き起こす。

「殿、確りなされよ!」
「おお清十郎か、良くぞ参った」

抱き起こして声を掛けると薄っすらと瞼を明けて、細い声をだすがその目には最早何も映ってはいない。
荒い息を吐きながら、見えぬ目で清十郎の袖を掴み何事かを呟く。

「鶴丸を頼む」

それだけを言い残すとガクリと首を垂れて、城主谷川愁繕はこと切れた。
主の遺言である鶴丸君であるが、目を向ければ奥方である竹姫も既に命を失っており、その腕に抱かれた赤子も同様の運命を辿っていた。
その事実に打ちひしがれる清十郎に部屋の隅で固まって震えていた女衆の中から一人の女が前に進み出て清十郎に声をかけて来た。

「お前様!」
「いと、お前がついていながら何という」

声を掛けてきたのは清十郎の妻いとであった、いとは鶴丸の乳母として城の奥に詰めていたのである、その腕には清十郎の息子亀松と娘さとが抱かれていた。いとに抱かれた二人の赤子は、火が点いた様に泣いている。
その泣き続ける赤子の一人亀松を差し出すいと、いとが差し出した赤子を良く見ればその赤子は実子の亀松ではなく谷川愁繕の嫡男である鶴丸であった。
慌てて亡き奥方の腕に抱かれていた赤子を見やると、此方の赤子こそ清十郎の嫡男である亀松と知れる。

「亀松よ、よくぞその身を盾にして若君をお守りした。父はそなたを誇りに思うぞ」
「お前様」
「いと、良うやった」

涙を流しながらも、気丈に立つ妻を抱き寄せて労うと周囲から聞こえてくる喧騒に耳を澄ます。
未だ城主が討ち死にした事は知られていないので、何とか持ち堪えているようだが情勢は何ともしがたい。
如何に味方の裏切りにあったとはいえども、既にこの奥の間まで敵兵が入り込んでいるのでは、この城の陥落も間近と言える。
此処はせめて鶴丸を落ち延びさせて再起を図る事こそ肝要と思考を切り替える清十郎。

「殿、必ずやこの加納清十郎が鶴丸君を再び城主へと据えて見せますぞ、天上よりどうぞ御照覧あれ」

城主と奥方、それに鶴丸の身代わりとなった亀松の遺体を並べて告別の言葉を口にすると、残った女衆に城から逃げるように言い添えて油を撒き散らして火をかける。
程無く部屋の中に火が回ったのを確認すると最後に残った妻のいとと共に走り出す、城の中をひたすらに走りようやく裏門へとたどり着くと、先に逃がした者達がひしめき合っていた。
どうやら裏門にまで敵方の兵が攻め寄せているらしく閂の掛かっている門の外からは鋼が打ち合う音と怒号が聞こえてくる。
此処でもたついていては落ち延びる機会を逸すると判断して、門を開けると同時に乱戦を続ける集団へと飛び掛かかり横殴りに槍を一閃すると周囲にいた兵を敵味方構わずに吹き飛ばす。
その一撃を持って門を包囲していた囲みを破ると、後に続く者達に逃げるように指示を飛ばす。

「殿は我に任せて先に行け!」 

包囲が解けた一角に向けて走り出す一団の殿を務めるためにその場に留まった清十郎は、逃げる者達を追おうとする敵を足止めするために殊更に相手を挑発する。

「女子供しか相手に出来ぬとはとんだ腰抜け揃いよ、違うというならこの首とって誉れとせよ!」

その言葉に昂ぶった敵が殺到する、逃げる獲物を追おうとする敵の勢いと数は虎口に攻め寄せて来た時よりも数段凄まじい。
殺戮と略奪に酔う者達が清十郎に次々と襲い掛かるがその槍の閃きを前にして無為に屍を晒してゆく。
槍の穂先が弧を描くたびに敵の首が宙に舞い、繰り出された雷光のような突きは縦に並んだ者の体を纏めて鎧ごと刺し貫き、石突きで打擲された者は骨を砕かれ吹き飛ばされる。
双眸を爛々と輝かせ全身を敵の返り血で真紅に染めながらも、獅子奮迅の戦いを繰り広げる清十郎を見て敵兵が恐怖に震えた声をだした。

「お、鬼がおる」

兜の両脇から伸びる角、返り血で赤く染まった体、そして食いしばった歯を鳴らしながら死を振りまくその形相は、正しく鬼の王を名乗るのに相応しい姿であった。
その悪鬼と見紛うばかりの強さと恐ろしい形相に、恐慌状態に陥った集団が瓦解するまでにそれほどの時間は必要としなかった。
落ち延びる途中の山中から燃える城を望む清十郎の胸中には、自らの主を守りきれなかった忸怩たる思いが渦巻いていた。

「必ずや、お家再興を成し遂げてみせまする」

これより先に生きる意味をそう決意して、清十郎達はその身を表舞台より消した。



既にあの時より十数年が経っていた、まどろみの中で思い出すのはあの城が焼け落ちた光景に他ならぬ、あの時の決意は些かも揺るがず、今も胸に燃えている。
鶴松君ももうすぐ元服を迎え名を改められる事になろう、なんとしてもそれまでにはお家再興の足掛かりだけでも得なければならぬと白髪が混じり始めた頭で考える。
このままでは亡き主君に顔向けが出来ぬと逸る清十郎の下に、それが来たのは何の因果であったのか。

「ではこの割符を全て集めれば良いのだな」
「その通り、さすれば貴殿の望みは叶えられましょうぞ」
「その言葉、努々違うこと無きように願うぞ」

差し出された割符を懐に収めながら言う清十郎の眼差しは、城が焼け落ちた時と同じ戦鬼のものへと変じていた。


大膳流槍術 加納清十郎 参戦



[13895] 第一幕の七 政
Name: 小話◆be027227 ID:b35051a3
Date: 2009/12/08 23:22
今宵は雲が厚く垂れ込めて月の光を覆い隠してした、家から漏れる明かりも少なく真の暗闇が町を覆っていた。
昼間となれば人で大通りはごった返し、商売に勢を出す声が響き渡る活気溢れる城下町であるのだが、日が落ちた後では雰囲気が一変する。
今も宵の口であろう時間なのに晩酌に通りを歩く人影すらなく、野良犬の遠吠えが響くばかりである。
旅の人間すら出歩かずに旅籠に篭り、本来なら夜こそ稼ぎ時の飲み屋に飯屋、遊郭すらも軒を閉めており、まるで廃村のような雰囲気をかもし出していた。
それというのも今この城下町では辻斬りが横行していたのだ、犠牲者は十人を越えてなおも増え町の警備に見回っていた腕自慢の侍が一刀の下に斬り捨てられるに至って住人は恐怖で眠れぬ夜を過ごす事になった。
下手人の探索は遅々として進まず夜半に出歩く人間等居ない、そんな中である路地裏に身なりの良い着物を着て腰には太刀を挿して顔を頭巾で隠した五人の人間が集っていた。

「近頃は獲物もトンと居らぬ、ここいら辺が潮時かの」
「しかし腕試しで始めたものがこうも楽しいとはな、もう少し何とか成らぬものか」
「おおよ、近頃は大きな戦も無くてこのままでは腕が鈍る」
「そうは言っても、肝心の木偶が居なくては話になるまい」
「それなら、町外れにある貧乏長屋を襲うのはどうだ、あそこの連中なら例え何人死んでも構うまい」

物騒な物言いで分かるように今此処に集る連中こそ件の辻斬り集団である、いずれもその身のこなしには隙が無く、其れなりに腕は立つと見るものには分かるだろう。
五人が新たな犠牲者を求めて思案していると、道の先から提灯の明かりがユラユラと近づいてくるのが目に入る。
ぼんやりとした明かりの中で浮かび上がった姿は、顔は市女笠を被っていて見えないが花柄の小袖を着ている事から若い女子であると知れる。
思わぬ獲物の出現に五人の目が嗜虐の色に染まり、頭巾の奥の口が吊り上る。
それぞれに目配せをすると路地を出て何気ないふうを装って近づいてくる女の周りを取り囲んで話しかける。

「おお、こんなご時世に女の一人歩きとは物騒な、良ければ我々が家までお送りしようか」
「それはいい、女お主は運が良いぞ、我等五人が居れば件の辻斬りなど臆するものでは無い」

にやけた声で調子の良い台詞を並べ立てる男達に対して女は声も上げずに後に下がると踵を返して走り出す。
走りだしたその先に男が回りこめば脇をするりと抜けて行くが、如何せんその足の速さは男達が追いかけるには丁度良い具合であった。
口々に汚い言葉を並べながら追いかけて、遂に荒れ寺の境内に追い詰めた。

「散々に焦らしてくれたの、まあよいわ。先ずは身包み剥がして楽しませてもらおう」
「くく、脅えることは無いぞ。きちんとお前も楽しませてやる」
「悲観する事もな、その後は刀の錆としてやるからの」
「おうよ、世を儚んで自害などせずにすむ」
「なんと我等は親切なことよ」

追い詰められて観念したのか、一言も発することなくじっと五人の言い草を聞いているばかりの女に一人が嫌らしい手つきでその身に纏った着物を剥がそうと襲い掛かる。

「おうらあああっ!」

その瞬間に野太い声が夜空に木霊した、続いて何か硬いものが水が詰まった柔らかい物を殴打する鈍い音が辺りに響き、襲い掛かった男が宙を舞う。
地面に落ちた男の顔面はひしゃげ、砕かれた歯の間から吐き出された血が辺りに鉄の臭いを撒き散らす。
しばし呆然とする残りの四人の前で桜色の小袖が翻り、市女笠が投げ捨てられた。
そこに立っていたのは浅黒く日焼けした鍛えられた体躯を持ち、髪の毛を短く刈り込んだ男臭い顔をした若い男であった。
その男のいでたちは袖を肩から千切った丈の短い着物と大陸風の膝下までの呉服に包んでおり、その大きく広げられた胸元から見えるしなやかな筋肉と歯をむき出しにして笑っている様は何処か虎を思わせる風情がある。
一人が成す術も無く無様に倒され、また女だと思っていた人間の正体が野卑な男と知った残り四人が、はっと我に帰ると腰の刀を抜き放って気勢を上げる。

「貴様あっ!」

四人に囲まれた若い男は徒手空拳でその身に寸鉄も帯びていない、それでも余裕のある笑みを見せるのは若者のほうである、何しろ如何に油断があったとはいえ既に一人が倒されているのだ。
其々に刀を構えて若者の周囲を回る四人、それに応じて若者の方も一種独特の構えを見せる。
軽く握った両の拳を胸の前に置き、足元は軽やかに地面を蹴って跳ねている、時折挑発するように左右の拳を回りにいる連中に突き出しては嘲った笑みを浮かべる。

「こんな簡単に釣れるとは思わなかったぜ、お前ら真正の阿呆かなにかか?」
「おのれいっ!」

更に挑発する物言いで煽ると正面に居る一人を除いた三人が同時に攻め寄せてくる、殺到する人間の位置と動きを視線を巡らせて確認すると、トンと一つ高く飛び上がり流れるような足捌きで攻め寄せる間をすり抜ける。

「ぶぎゃっ」

すり抜けるついでとばかりに握り締めた拳を腹にめり込ませて前から迫る二人を悶絶させると、後ろから斬りかかって来ていた残る一人に後ろ回し蹴りを叩き込む。
蟇蛙のような無様な声をあげて吹き飛ばされた暴漢はそのまま背中から木に叩きつけられて呻いている。
気絶した男と悶絶する二人をを尻目に包囲を突破した若者は向きを変えて残る一人に相対すると前に出した手をクイクイと動かして掛かって来いと挑発を重ねる。
だが今の攻防を見て相手が只者では無いと感じたのか、最後に残った男は迂闊には掛かって往かずに確かめるように若者に話しかける。

「その戦い方は聞いた事があるぞ、徒手空拳にて百戦無敗と嘯く喧嘩屋とは貴様のことか」
「応よ、よろず揉め事何でもござれの喧嘩屋商売、ゴロツキ長屋の政たあ俺のこった」
「ふん、町の人間にでも頼まれたか、面白い抵抗しない獲物を狩るのに些か飽きていたところよ」

そう言うと片手に下げていた刀を両手に持って正眼に構える男、その構えは長い修練を積んだ者が身につけられる剣気を放っている。
すり足で距離を詰めてくる男と剣気を感じ取って笑い顔を収めた政が互いに一歩を踏み出そうとした時、会話の間に呼吸を整えたのか腹に一撃を受けた男二人が立ち上がって憎しみにぎらつく眼差しを政に向けて怒鳴り散らした。

「待て、俺達に殺らせろ!」
「こうまでコケにされては面子が立たん!」

相手を侮って一撃を受けた事が二人の自尊心を傷つけていた、立ち回りの邪魔とばかりに被っていた頭巾を剥ぎ取って投げ捨てると、二人は政を挟み込んでその切っ先を突きつける。
そんな二人の様子を見て、最後に残っていた男は一歩下がり、忠告を口にする。

「気をつけろ、そいつは只のゴロツキヤクザとは格が違うぞ」
「応よ、もう油断はせん」
「先ずはその癖の悪い手足からぶった切ってやるわ」

顔を晒した二人の侍は怒りに顔を歪めて血走った目にこれから自分達が起こす暴力に暗い愉悦を映す、その表情を見て政もまた獰猛な笑みを浮かべて応じる。

「はっ上等、死んでも文句言うんじゃねえぞ!」

政の怒声に合わせてその凶刃を振るう侍二人、びょうという風きり音を纏って向かってくる二振りの刃を姿勢を低くして自分から飛び込んでかわすと、その勢いをそのままに地面に手を突いて両足を大きく回す。
振り回された足で足払いをかけられた一人が地面に倒れる、政は足を振り回した遠心力を利用して飛び上がると倒れた人間の上に体重を乗せて着地する、ゴキリという音断末魔の絶叫が響き渡り転がった人間の胸がぐしゃりと潰れていた。
政は悲鳴で浮き足立つ残った一人に向かって小刻みに体を左右に揺らしながら迫ると両腕から繰り出される拳を振るう。
その左拳が脇腹を抉るように突き刺さると体をくの字に曲げて血反吐を吐く、地面にくず折れる所を下から突き上げた右拳によって無理矢理に立たせると体を左右に振って連撃を顔面に入れる。
見る間に顔面が破壊されて、辺りに血と口から飛んだ白い歯が散らばる。
止めとばかりに振りかぶった右の拳を鼻頭らに叩き込むと右の眼球が眼窩から飛び出して地面に落ちた。
そこへ迫るのは先ほどの攻防で無様にも木に叩きつけられた男だ、無防備に見える政の背中から一刀両断にしようと大きく振りかぶった刀を振り下ろそうとした瞬間、政の振り向きざまに放たれた蹴りを喰らってもう一度吹き飛ばされる。
吹き飛んだ男は今度は無事に着地することに成功するが、前を見た瞬間に迫ってきていた政の前蹴りが鳩尾に突き刺さりその奥に在る心臓が破裂した。
動かなくなった三人に順に目を向けると、政は嘲るように言葉を投げかける。

「どしたい、もう終わりか」

無論のこと既に事切れた三人には答えることなど出来ない、手応えからそれが分かっていてなおその言葉を吐くのは如何なる心の動きによるものか。
それともこれから始まる戦いに向けての準備とでも言うべきか。

「さてお仲間は全員くたばったみたいだが、殺るかい?」
「おうよ、愚か者どもだがせめて仇は討ってやらんとな」

そう言って頭巾を脱いで顔を晒す侍、その顔はこの城下町を取り仕切る城主、橘直正に良く似ている。

「冥土の土産に名乗ってやろう俺は橘直正が嫡男、直重」
「参ったね、まさか辻斬りの正体が馬鹿様とはよ」
「減らず口もここまでだ」

特に驚いた様子も無く軽く跳躍を繰り返す政と名乗りを終えて正眼に構えると静かに佇む直重の間にピリピリとした空気が張り詰めていく。
その緊張感が最高に高まった瞬間二人の姿がぶれた、直重は正眼から突きを放ち政はそれをかわして拳を振るう。
交差した両雄はお互いに振り向いて再び対峙する、その政の頬から一筋の血が流れていた。

「よく避けたな、が次ははずさぬ」

構えを解かずに淡々と告げる直重に対して、政は頬から流れる血を指で拭うとその血を舐め取って今までとは違う笑みを浮かべて懐に手を入れる。

「手加減はいらねえってわけだ」

政はそう言うと懐に収めた両手を引き抜く、するとその両腕にはこの国では珍しい肘から指先に至る全てを鋼で作られた手甲が嵌められていた。
鈍く光る鋼の手甲が嵌められた両腕を具合を確かめるように胸の前で打ち鳴らす。

「まさかとは思うがそれで勝てると、思っておらんだろうな」
「まさか、勝つだけならこんな物必要ねえよ」

手甲を着けた政は先程までとは違って両足をどっしりと地面につけて半身になると両手を上下に構える。
構えはどっしりと安定し周囲に放たれる圧力も増している、此方の構えこそ本来の戦い方なのだろう。
それが知れたのか直重も構えを正眼から八双に変えてジリジリと歩を進める。

「チェストー!」

直重は気合の声と共に一気に上段から刀を振り下ろす、その刀の軌道の正面から白刃取りで受け止めようと両手を交差させる政。
豪という風切り音の後には刀を振り切った姿勢の直重と両腕を十字の形に交差させた政が居た。
一瞬の静寂の後に空中から落ちてきた白刃が地面に突き刺さる、何と政は直重の一撃を受け止めるのでは無く、左右から挟みこむ事でその刃を半場からへし折ってみせた。
その事実に驚愕する直重の胸に腰を落とした状態から左の抜き手を突き出す政、その一撃は今までの吹き飛ばすような一撃ではなく打ち抜くような一撃であった。
事実、その鋼の拳は直重の肋骨を突き破り心臓まで到達した。

「がふっ」

直重の口から血が溢れ政の顔が赤く染まる、政はそのまま心臓を掴むと一気に引き抜いて握りつぶした、何を言い残す事も無く地面に倒れ動かなくなる直重。
その直重に冷めた目を向けて一言呟く政。

「勝つだけならこんな物必要ねえよ、コイツが必要だと思ったのは単なる礼儀だぜ馬鹿様」

躯をそのままにして足取り軽くその場を離れた政は自分のヤサであるゴロツキ長屋へと戻ると、長屋の入口に待っていたのはこれまた頭巾を被った侍であった。

「終ったぜ」
「ご苦労、これが約束の金だ」

投げ渡された巾着を開けると初めに約束した金額よりも多い額が入っていた、それを見て皮肉な笑みを浮かべる政。

「口止め料って訳だ」
「それ以上喋るな、これで貴様と係わりは無い」
「へいへい、こちとら信用商売だ下手なこたあ言わねえよ」

政を一瞥すると踵を返して歩き去る侍に向けて片手を上げてひらひらと振るとそのまま長屋の奥へと向かうが、ふと妙な悪寒に首を巡らすが何の気配も感じられない。

「気のせいか」

再び歩き出した政は長屋の奥にある自分の部屋へとたどり着くと無造作に扉を開ける。

「兄さん!」

怒鳴り声で待ち受けていたのは今年十四になる妹のお初であった、仁王立ちして兄を出迎えた迫力は不動明王も裸足で逃げ出さんばかりである。
うへえという表情を浮かべて手に持っていた巾着を投げ渡すと、何だかんだと小言を言うお初を押しのけてゴロリと横になって寝息を立て始める。
その様子をみて嘆息すると兄の上に布団をかけてお初も自分の布団へと入ってまどろみに沈んでいった。
翌朝、まだ日も開けきらぬ内に大勢の人間が走る音が聞こえてくる、その音で目を覚ました政は寝ぼけた頭をガリガリと掻いていると扉が蹴り開けられて役人が押し込んできた。

「万屋の政だなお前に辻斬りの嫌疑が掛かっておる神妙に縛につけい!」
「ああ?」
「兄さん!」

辻斬りと言われて政は昨夜片付けた五人の事だと気がついた、どうやら自分を人身御供に事態の収束を図る気なのだろう。
別れ際に下手な一言を言ったのが不味かったかと顔を顰める、無論政一人ならばこの程度の役人をあしらう事など造作も無いことであるが、しかし後ろにお初が居ては下手に暴れる訳にもいかない。
こうして政はお初共々に辻斬りの犯人として捕まることになった、捕らえられたその日の夕刻、政が居る牢の前に一人の男が現れた。

「気分はどうだ」
「良い訳無えだろ糞野郎が、それにお初は関係ねえだろ」
「そうはいかん、お前みたいな狂犬を飼うには首輪が必要だからな」
「何が言いてえ」
「仕事を頼みたいだけよ、ただし命をかけてもらう」

そう言うと男は懐から一枚の割符を取り出して見せた、仕事はこの割符を九枚集める事ただし割符はそれぞれ手練の人間が所持している為一筋縄ではいかないという事、最後に全て集めればお初を釈放することと一つ何でも望みを叶えてやると締めくくられた。

「けっ、どの道その話を受けるしか無え訳か」
「察しが良くて結構だ、では今牢を開けよう」
「いらねえよ」

政は牢の扉に近づくと無造作に蹴り飛ばした、その衝撃で鍵が壊れて扉が吹き飛ぶ。吹き飛んだ扉の跡からのっそりと牢の外へ出ると、呆然とする男から割符をもぎ取るとそのまま顔を近づけて至近距離から睨みつける。

「いいか糞野郎その仕事はきっちりやってやる、その代わりお初に指一本でも触れてみやがれ手前ら皆殺しにしてやっからな」

呆然とする男にドスの効いた声で捨て台詞を残すと政は足取り荒く歩き去った。


喧嘩拳法 鉄拳の政 参戦



[13895] 第一幕の八 松平信之助
Name: 小話◆be027227 ID:b35051a3
Date: 2009/12/08 19:51
ある城下町で素浪人がのんびりと周りを眺めながら歩いていた。
その浪人は二十を幾らか過ぎた頃で髪は総髪、仕立ての良い着流しを着て腰に大小の太刀を佩いており、飄々として捉え所が無くまるで風のような雰囲気の男である。
のんびりと町を歩く浪人が通りに面した飯屋の前に差し掛かかると腹の虫がグウと鳴いた。
余りに盛大に鳴いた腹の虫の声に思わず足を止めた浪人に、前から歩いてきていた柄の悪い此方も浪人と知れる男達の一人と肩がぶつかった。

「済まんな」
「ちょっと待て」

詫びの言葉を残して飯でも食おうと飯屋の方に足を向けた所で、ぶつかった当人からドスの聞いた声で呼び止められたので仕方が無いと顔を向ければ、肩を押さえた男が治療代を寄越せと言い出した。
ぶつかったのはお互い様だと反論するとその態度が癇に障ったのか、浪人に向かって殊更に凄んでくる者や既に刀の鯉口を切った者もいる。

「拙者は道理を言っただけだ、お主らの言い分は余りでは無いかな」
「抜かせ、こうまで馬鹿にされては腹の虫が収まらん。抜け!」
「断る、拙者腕には自信が無い」

自信が無いと言い切るものの泰然とした態度に変化は無い、周囲に散らばった連中が浪人に斬りかかろうとしたその時、横手から声が掛けられた。

「止せ」

往来での斬り合いが始まろうかという一触即発の空気を氷雪のような声が押し止めた。
その声の主は長刀を肩に背負った痩せ細った男であった、男たちの間を割って進み出てくるその男が頭目らしく、今まで威勢の良かった連中が軒並み大人しくなっている。

「お前らでは相手にならん」
「でも頭!」
「俺は止せと言ったぞ」

痩せた男がそう言って冷たい眼を向けると手下たちは途端に黙り込む、彼らにとって自分達の頭目であるこの男の言葉は絶対だ、逆らえば死よりほかに待っている末は無い。
ピリピリとした緊張感が辺りに満ちる中で痩せた男は浪人に話しかけてきた。

「俺の名は吉良弦弥、貴様の名は?」
「松平信之助」
「おぬしの名は覚えておく」

その言葉だけを残して男達を引き連れて悠然と去ってゆく吉良弦弥たちの姿が通りの角を曲がって見えなくなるまで見送った信之助が大きく息を吐いて緊張を解くと、そこに大声で名を呼ぶ声が聞こえてきた。

「信之助、信之助ではないか!」
「ん? おお兵庫では無いか」
「やはり信之助か、お主とこんな所で会えるとはな」
「それはこっちの台詞だ、宮仕えのお前こそ何故此処に居るのだ?」

横合いから自分の名を呼ばれた信之助がそちらを向くと声を掛けてきたのは旧知の友である室田兵庫であった、久方ぶりに出会った二人は通りを歩きながらお互いの近況を報告しあう。
信之助は元々素浪人であり、特に何処かに仕官しようという気もなく気の向くままに彼方此方を放浪している、兵庫ともそんな旅の途中で出会った仲だ。
信之助と初めて会った時には兵庫はさる家に仕えていた侍であったが、今はその主家が戦に破れて断絶したので浪人に身をやつしており、次の奉公先を求めているとの事であった。
今夜の宿を決めていないという信之助に自分と同じ宿を取れと肩を組んで案内を始める兵庫の相変わらずの強引さに笑みが零れ、引きずられるままに宿へと向かった。

「今戻った」
「お帰りなさいませ、あら此方の方は?」
「俺の旧友で松平信之助だ、一緒に飲もうと思ってな」
「まあそうですか、兵庫の妻で千と申します」

呼びかけに出てきたのは見目麗しい奥方であった、信之助と別れた後に旧主の家老の三女を娶ったとの話をのろけまじりで話してくる兵庫に辟易しながらも、友人の幸福は素直に嬉しく感じる信之助。
部屋に上がった二人は千を交えた三人で四方山話を肴にして酒を酌み交わす、懐かしい話から始まり時間が経つにつれ現状の話へと話題が移っていく。

「そう言えば仕官先を探していると言っていたな、当てはあるのか?」
「何でもここ内藤家が腕の立つ人間を探しているそうでな、上手くいけば仕官の道も開かれると思っている」

酔いの回ってきた兵庫が信之助に一緒に仕官しないかと提案したが信之助は浪人のほうが気楽だと素気無く断った、兵庫は口惜しげにするが気を取り直して次の話題に移ってゆく、何時しか杯を重ねた二人はそのまま眠りに落ちていった。



信之助は顔に当たる日の光で眼を覚ました、周りを見るが昨日飲み明かした友人とその奥方の姿が無い。
寝こけていた肩には何時の間にか長襦袢が掛けられていたので、それを畳むと頭を掻き掻き歩き出して宿の三和土から外へ出ると、ちょうど千が戻ってきたので朝の挨拶を交わすついでに兵庫は何処へ行ったのかを尋ねると、件の件である御前試合に出場するべく話を聞きに行ったとの事であった。
それを聞いた信之助は千に対して自分も出かける旨を伝える、すると何処へ行くのか尋ねてくる千に対して日銭を稼ぎに口入れ屋へ行く事を話すと、兵庫からの言伝で夜はまた此方に来るようにと言っていたと笑いながら伝えてくれた。

「なら今夜は俺が酒と肴を出す番だな」

そう言って此方も笑いながら宿を後にした信之助は、仕事を貰う為に口入れ屋へと向かった。
到着した口入れ屋はざわざわと騒がしい雰囲気に包まれていた、仕事を請けようとする人間で随分と込み合っているのを見た信之助は出遅れたかと考えてうんざりとするが、昨日と同じく兵庫の世話になる訳にもいかないと人ごみを掻き分けて番頭の前まで進み出て仕事を紹介してもらう為に声をかけた。
声をかけられた番頭は信之助の姿をみるなり、顔を顰めて逆に尋ねてきた。

「お前さんもあれかい、ヤットウの腕で仕事よこせって口かい」
「いやあ悪いがそっちはからっきしだ、読み書き算盤で何かないか」

希望を告げると台帳をめくり始める番頭に対して、周りにいる人間を見ながら怪訝な顔をする信之助。どうも昨日の連中といい今この町に居るのは物騒な感じを受ける人間が多いように見える、そのことも併せて尋ねてみるとぶっきら棒な返答が返ってきた。

「ああ知らないのかい、何でも城主様がとにかく強い人間を探してるらしくてね、あっちこっちから腕自慢が集まってるのさ」

口入れ屋としてはそんな腕自慢ばかりに集まられても仕事が無いので困っているとの話であったが、その話に対しては特に興味を惹かれずに軽く相槌を打つだけに留める、詰まる所は昨夜兵庫から聞いた話の仕官の口を求めている浪人が集っているのだ。

「っと、是なんかどうだい」
「おう、ありがたく頂戴いたす」

紹介された仕事をこなしてその日の給金を貰うと酒を買ってから朝の約束通りに兵庫の泊まっている宿へと足を向ける、その途中で昨日の浪人集団と出くわした。
道の真ん中で互いに足を止めて睨みあう信之助と吉良、しばしの睨み合いが続いた後に吉良が口を開いた。

「お前も出るのか」
「いや拙者は仕官する気が無いのでな、それに腕には自信が無いと言った筈だが」
「そうか、なら構わん」

声を立てずにくつくつと笑い仲間を引き連れて歩き去る吉良弦弥を見送ると、信之助も踵を返した。
宿へ戻ると兵庫たちの部屋とは別のもっと安い部屋を一つ取り、帰り道に買ってきた酒と肴をもって二人の部屋へと向かう。
今夜もまた酒を酌み交わしながら話を聞けば、仕官とは関係なく何らかの目的のために腕の立つ人間を探している、ただしその目的を達成した暁にはどんな願いも叶えようという何とも胡散臭い話であった。
信之助は自分には何の係わりもない話であるからそんなものかと思うぐらいだが、兵庫は嘗て木葉一刀流目録の腕前を見込まれて剣術指南として働いており妻も居る身である、ならばこんな訳の分からない話でもそこに一縷の望みがあるなら賭けて見るとのことであった。
そこで信之助は吉良の事を兵庫に話す事にした、今日のあの口振りでは吉良もこの話に乗っているようであったのでその事も併せて伝えると、腕まくりをしながら正々堂々と必ず勝ち残ってみせると意気を吐く兵庫。
その兵庫を頼もしそうに見つめる千の仲睦まじい様子を眺めながら、これなら心配要らないだろうと笑って杯を掲げた。



その後は何事も無い日が続いた、告知どおりに御前試合が開かれ兵庫と吉良は順当に勝ちあがる。
そんな中で吉良弦弥は物思いに耽っていた、現在は手下を率いて愚連隊のような生活をしているが、吉良もまた兵庫と同じように元々剣術指南役を仰せつかった家の出であり、此方も同じく主家が滅んでしまったが為に浪人に身を落としている。
剣の腕を頼りにして生きてきた吉良からすれば今回の話は渡りに船であった、何時までもこんな浪人暮らしなどを続ける心算など無い。
この御前試合で自身の腕を認めさせれば今一度剣術指南の役に返り咲く事が出来るかもしれないのだ。
その為に邪魔になる人間はどんな手を使っても出し抜かねばならない、今までは自分に敵う人間などいなかったが、今日試合を見た室田兵庫という男は自分と同等の強さを持っているとは言わないが近い腕の持ち主ではあるだろう。
ならば万が一ということもあり得る、自分が勝利する為には何としてもあの男を除かねばならないのならば万全を期すべきだ。

「おい、室田兵庫とやらを探って来い」

吉良は手下にそう命じると、くつくつと底冷えのする笑みを浮かべた。



そして大方の予想通りに兵庫と吉良が勝ち残り遂に決勝の日を迎えるにあたる、今日の勝者が己の望みを叶える事ができるのだ。
陣幕が張られた場所には城主内藤影近とその側近、さらに広場を囲む物見高い町人たちの前に進み出る兵庫と吉良。
互いに構える獲物は木刀だが二人の力量を考えれば十二分に相手を殺す事も可能な武器である。
兵庫は正眼に吉良は下段に構えて開始の合図を待つ。

「初め!」

立会人の声に先ず反応したのは兵庫であった、裂帛の声と共に得意の面を繰り出す。
その面を咄嗟に見切ってかわした吉良が下段に構えていた剣を撥ね上げて兵庫の胴を薙ごうと振るう、しかしその時には兵庫は体を捻りつつ身をかわして駆け抜けていた。

「やはりやるか」

吉良の口からポツリと呟かれた言葉は誰の耳にも届かない、吉良は構えを大上段に変えて一気に打ちかかる、無論どれ程に鋭い一撃だろうと大上段からの見え見えの攻撃をまともにくらう様な兵庫では無い。
吉良の一撃をがっしりと受け止めて鍔迫り合いに持ち込んだ、吉良は兵庫に比べれば痩せて線が細く力も無いように見える、鍔迫り合いから弾き飛ばして優位を取ろうとした両腕に力を込めた瞬間、吉良の口から思いもよらぬ言葉が放たれた。

「美しい奥方だな、俺も肖りたいものだ」
「貴様!?」

驚愕する兵庫に対して視線を横へと向ける吉良、その視線を追うとそこに居るのは千である、しかしその千の後ろに何人かの浪人が下卑た笑い顔で立っているのが目に入る。

「おのれ! どういう積もりだ」
「くく特に何も無いが、どう取るかは貴様しだいよ」

直接負けろと言う訳でも千に危害を加えている訳でもないがこれは明らかな恫喝である怒りに顔を歪める兵庫、そちらがその心算なら素早く勝負を付けて千を助ければ済む話と一気呵成に攻め始める。
しかし実力伯仲の相手に対して怒りと焦りで雑になった攻撃など通用しない、果敢に打ちかかるものの簡単にかわし、いなされてしまう。

「そんなものか」
「言わせておけば!」

自らの妻を人質にされ、また更に挑発された事で更に冷静さを失った兵庫は自身の尤も得意な突きに全てを賭けて放つ、本来の兵庫の突きは後の先を取るような技ではなく、先の先を取る正に神速の一撃であった。
しかしこの一撃は焦った上での一撃である、当然の如く十全の力が発揮されない以上は必倒の一撃とはならない、吉良は兵庫の横をすり抜けるようにかわすと一刀を振り上げ目の前に無防備に曝け出された首筋に叩き込んだ。

「がっ!」

辺りに頚骨が砕ける嫌な音が響き兵庫が倒れふす、立会人の勝負ありの声に聴衆から喝采と悲鳴が同時に沸きあがった。
信之助が一仕事を終えて試合場に駆けつけたのは丁度兵庫が吉良に向かって最後の突きを放った瞬間であった、その一撃がかわされ吉良の一撃が兵庫の首筋に叩き込まれたのを見て試合場に飛び込み兵庫の下へ駆け寄る。
この最後の一撃は兵庫の首ではなく背中に落として体制を崩すだけで吉良の勝ちになったはずである、それを態々致命の急所である首に落としたのを見て不自然さを感じる。
くず折れたまま動かない兵庫を抱え起こして声をかける信之助に対して既に焦点の定まらない視線を彷徨わせると震える唇からただ一言愛する妻の名を呼んで事切れた。

「・・・・・・千」

その呟きを聞いて辺りを見回すが兵庫の妻である千の姿は無い、普段ならいざ知らずこの大一番の夫の試合を見に来ないのは不自然に感じる。それに最後の突きは兵庫にしては鋭さが足りないものであった。
そこまで考えが回った所で吉良に目を向ける、信之助が飛び込んできた事に少なからず驚いた吉良であったが既にその表情を消して何時も浮かべる冷笑を顔に貼り付けていた。

「貴様、何をした」
「知らんな、それより邪魔だ、その骸を抱えてどこへでも行け」

城主の前では揉め事を起こすのも不味かろうと兵庫の体を抱えて宿へと戻り、宿の人間に千の行方を尋ねるが今朝方兵庫と共に出かけたきりだと言われた。
言い知れぬ不安に町へと駆け出し誰彼構わずに尋ねて回ると、千に良く似た女が柄の悪い男達に郊外へと連れられていったとの話を聞くことが出来た。
一縷の望みを賭けて走り出した信之助が半刻の後に荒れ寺へと辿りついた、慎重に近寄り戸口にて聞き耳を立てると何人かの笑い声と共に女のくぐもった声が聞こえてきた。
その声を聞いた信之助はがたついた扉を蹴り開けて堂の中へと乗り込んだ。
そこで目に入った光景は、両腕を拘束され猿轡を噛まされたうえに着物を剥ぎ取られて陵辱されている千と群がる男達であった。

「貴様らあっ!」

怒りの声を上げると信之助は男達に向かって斬りかかって行った。



吉良弦弥は城主内藤影近より褒美と共にある使命を受けていた。
渡されたのは一枚の割符であり、これと同じ物があと八枚存在すると言う、どんな手段を使っても九枚全ての割符を集めてこい、集められたのならば士官を認めようと言われ支度金として二十両が渡された。
仕官する為にはもう一手間掛かるようだが仕方があるまい、先ずは手下を使って情報でも集めるかと根城にしている荒れ寺へとやって来た吉良は境内に入った所で足を止めた。
何時もなら騒がしい堂が静まりかえっており、空気に血臭が混じっている。
異様な雰囲気に背中の長刀に手を伸ばし戦闘態勢を整えると堂の扉が開き一人の浪人が姿を現した。

「貴様か」
「お前の手下なら全て片付けた、残っているのはお前だけだ」
「一応理由を聞こうか」
「尋常の勝負なら文句は無かったがな、人質などという下卑た手を使われては仇を取ってやらねばと思うものだ、しかも千殿まで毒牙にかけたとあっては許す道理もあるまい」

階段を降りながら腰の刀を抜き放つ信之助から剣気が放たれる、その剣気を受けた吉良の腕が一斉に粟立つ、手に持っていた割符を脇に捨てると吉良も背中の長刀を抜いて対峙する。
長刀を八相に構える吉良を見て地面に降りた信之助は脇構えに構える。
袈裟懸けに切り下ろすに適した上段八相とその一撃を受けるに有利とされる脇構え、対峙する二人の間で剣気が高まり徐々に間合いが詰まって行く。
吉良は信之助の剣気に驚いてはいたがまた勝利を確信もしていた、今使っているのは自分の愛刀である四尺にも及ぶ長刀は普通の刀より広い間合いを持つ、無論長ければ取り扱いが困難になるが長年使ってきた刀は既に手足も同然に操れる。
そして信之助の構えは脇構え、今まで対峙してきた人間の殆どが長刀と八相の構えに対してこの構えを取ってきた、それは脇構えが迎撃に適した構えであるからだ、上段からの一撃をいなして懐に入り込むそれが吉良に対峙した人間の大半が考える事である。
そして吉良はそれに対する経験と奥の手があった、その奥の手を使う為に最後の一歩を踏み込んで袈裟懸けに長刀を振るう。

「いええええいっ!」
「はあっ!」

吉良が繰り出した八相から雷鳴の如く振り下ろされた長刀を信之助は脇構えからの切り上げで弾くと懐に入り込む為に地を蹴った。
弾いた長刀はその長さによって切り返しに一瞬の隙が生じる、その瞬間に飛び込み一刀を持ってその命脈を絶とうと胴を薙ぐ一撃を振るう。
その一刀が吉良の胴に届かんとする瞬間、視界の端に銀光が足元から迫ってくるのが見えた。
吉良は袈裟懸けの一撃を弾かれた瞬間に己の勝利を確信した、弾かれた刀は起動をそれ信之助の左下へと逸らされた、通常の刀ならば刃を返して切り上げねばならない為に一拍の遅れが生じる。
しかし吉良の操る長刀は峰の部分にも刃を拵えた諸刃作りになっている、故に切り返しが必要無く、その一拍の隙が無い。
本来あって然るべき軌道が無いが故に相手の攻撃の軌道を読むことが出来る腕の立つ者程この攻撃を読むことが出来ない、故に必殺。

「殺った!」

勝利を確信した吉良の耳に鋼の咬み合う音が聞こえた、動きの止まった二人の男一人の刀は振りぬかれ、もう一人の男の刃は何時の間にか引き抜かれていた脇差に食い止められていた。

「ごぶっ」

胴から胸を切り裂かれて自ら流した血の海に倒れる吉良弦弥の目に両の手に太刀と脇差を構える信之助の姿が映った。

「二刀 使 いとは な・・・・・・」
「俺に両手を使わせたのは久しぶりだ、誇って逝け」
「ふ、良く言 う」

吉良の死を見届けた信之助は宿に居る千にせめて仇は討ったと伝える為にと戻った、部屋の前まで来て声をかけるが応答が無い、不審に思って襖を開ければ兵庫の手を握り自らの喉を短刀で突き刺し事切れた千の姿があった。
自分の考えの甘さに愕然とするが信之助の足元に何処からか一枚の割符が放られたので後ろを振り向けば深編み笠の人間が立っている。

「荒れ寺から付けていたな、貴様は誰で俺に何の用だ」

苛立ちを隠すことなく問い質すと編み笠を取った男が話し出す、その話の内容は吉良が城主より聞いた話と同じ内容であった。
足元の割符を拾い上げて懐に収めると兵庫と千の埋葬を頼んで歩き出す。

「こんなふざけた物の為にあの二人が死んだと言うなら、その奥に居るものを引きずり出して償わせてやる」

全ての望みを叶えてくれるというなら、黒幕の首こそが自身の求めるものだ。
静かな怒りに身を染めて松平信之助は夜の中に歩を進めた。


天真神刀流 松平信之助 参戦



[13895] 幕間
Name: 小話◆be027227 ID:b35051a3
Date: 2009/12/08 23:25
京都市中にある公家の邸宅の片隅に立つ東屋に集ったのは何れも獣の面を被った男達である。
猿は略奪を表し
狸は欺瞞を表し
狐は裏切りを表し
蛇は狡猾を表す
その四匹の獣の面を被った男たちの再びの会合は前と同様に夜の闇の中で開かれた。

「ようやく八匹の鬼が揃った」
「さよう後はこの中から最強の鬼を見出すのみ」
「しからば舞台を整えよう」
「さあ喰らい合い殺しあえ」

そして声は唱和する。

「そして魔王を殺す鬼神となれ!」

此処に集った四匹の獣が求めるのは人では無く、ただ魔王を殺せる剣の誕生を望む。




琵琶湖の湖畔に聳え立つ巨大な城、天下布武を喧伝した戦国の覇王織田信長の居城である安土城である。
この城はこの時代に多く建造された山城とは一線を画す城として様々な試みが使われて建造された巨城である。
この後に築城された城の多くが備えている天守閣を初めて戴いた城であり、総石垣造りの土台というもの他に類を見ないものであった。
イエスズ会の宣教師ルイス・フロイスが母国に送った書状の中で、安土城の美しさと壮大さ、そして堅牢さに置いても母国ポルトガルはおろか世界に比肩し得る城は無いと書き記している。
そして城の頂に置かれた最上階は金色、下階は朱色の八角形をしており、内部は黒漆塗り、そして華麗な障壁画で飾られていた。
その絢爛豪華にして壮麗なる天守から城下町を睥睨するのは城主である織田上総介三郎信長である。
肌蹴た着物から覗く体は鍛え抜かれており、みっしりとした筋肉が詰まっている、茶筅髷の頭に張りのある肌、美髯を蓄えた顔に鋭い瞳をしたとても四十九歳とは思えぬ若々しい風貌である。
天守閣の外を眺める信長の背後から艶のあるしどけない声がかけられた。

「上総介様、何を見ておられます」

部屋の暗がりから出てきたのは此方もまた肌蹴た内掛けを肩に纏っただけの美女である。
信長の正室である帰蝶(濃姫)である。
彼女も信長よりは若いとはいえども四十は越えているはずだが、その三国一と謳われた美貌に些かの陰りも無い。

「濃か、なにこの国を見ておったのよ。すでに信玄、謙信は無く本願寺も討ち果たした、程無く天下布武はなろう、なろうが何かな……」
「詰まりませぬか?」
「そうではない、この信長の天下布武は乱世を終らせ日の本を統一し世界へと出るための布石に過ぎん、それを思えば心が躍るのは間違い無いのだ」
「では何を憂いております」
「憂いておるのでは無い、むしろその逆よ」

そう言うと信長は懐から一枚の割符を取り出した、それは何の変哲も無い木で作られたみすぼらしいもので天下人たる信長が所持するには相応しく無いように見える。
そのような物を持っている事を不思議に思った帰蝶が尋ねる。

「それは一体?」
「くく、朝廷よりと申して近衛前久が持ってきおった。恐らくは誰ぞと組んで謀でもたくらんでおるのだろうよ」

この割符は強者に与えられる物であり、全部で九枚存在し全て集めた者が天下を担うとの触れ込みで信長に献上されたものだった。
もとより神仏の類を信じぬ信長である、この手の物はガラクタだと打ち捨てるのが常であった。
しかしそれが自分への挑発となれば話は違う、武田信玄、上杉謙信亡き今は既にこの国に信長の相手となるような者など居ない。
故に座興の類として受け取ったに過ぎないのだが、しかし信長の類まれな感覚が何かを伝えてきていた。
それが何なのかは信長自身まだ判然としてはいないが、なにやら自分を楽しませてくれそうな気がするのだ。

「蘭!」
「お側に」

信長が虚空に向かって呼びかけると、まるで影から現れたかのように何の気配も無い場所から信長の小姓頭である森蘭丸が現れた。
常に主の側に仕えるその存在は影の如し、そして敵の多い信長の警護を任させるその力は推して知るべしである。

「お主が持っておれ」
「はっ」

畏まる蘭丸に割符を投げ渡し帰蝶の腰を抱いて引き寄せると高らかに笑い始めた。

「ふふふ、ふはははは、はあーっはっはっはっは!」

信長は自身の内より溢れ出る激情のままに笑い続けた。



[13895] 第二幕 第壱闘
Name: 小話◆be027227 ID:b35051a3
Date: 2009/12/19 11:42
紅林左近は街道を悠然と闊歩していた、その腰には印籠のように割符が吊り下げられて揺れていた。
受け取った時にこの割符を狙う者が居るという話は聞いている、左近は寧ろ己に匹敵するというその相手を待ち焦がれていた、故に目印たる割符をこれ見よがしに晒して挑発しているのである。
そしてその瞬間は唐突にやってきた、左近が歩いていると急に空気を引き絞るような硬質な気配が自分を射しているのを感じて足を止めた。
その瞬間、辺りに一発の轟音が響き小さな鉄の塊が飛来する、普通の人間ならばこれでその命を散らす事になる必殺の一撃である。
しかし左近は死線を幾度となく越えて鍛え抜かれた己の感覚に従って、轟音の鳴った一瞬前には脇の茂みに向かって飛び込んでいた。
それが左近の命を救うことになった、先程まで立っていた場所に銃弾がめり込むのを横目で見ると音と角度を頼りにして銃弾が放たれた方向、すなわち敵の位置を察すると其方に向かって走りだす。
その左近の顔にはこれから赴く戦いに際しての喜びが笑みとなって張り付いていた。


儀介は自分が受け取った割符と同じ割符をこれ見よがしに腰下げたまま悠然と闊歩する男を見た瞬間にその男の尋常ならざる気配に肌を粟立てた。
己の使命は残り八枚の割符を集める事と承知してはいるが、間違いなくこの男は今まで出会った中で尤も強い敵であると幾多の獲物を刈り取った猟師としての感がそう告げている。
しかし幾ら相手が強かろうとも逃げるという選択肢は儀介の中には無い。
元より人間は一対一の戦いにおいて獣に劣るが故に武器を作りその腕を磨き、罠を張って獲物を仕留めるのである。
この戦いもまた同じこと自分は猟師である、ならば己の流儀で相対すれば良いだけだ。
そう結論すると先回りをして街道が良く見渡せる場所を見つけると直ぐに準備を始める、程無く準備を済ませると一本の大木に登り種子島を構えて獲物である男が通るのを待ち伏せる。
四半刻の後に現れた男は狙われているのも知らずに悠然と歩みを進めている、儀介は自分の存在が知られていない事を確信して引き金に指を掛けた。
儀介の失策があったならばこの瞬間である、相手を獣と同じと思いはしたが目に見えるのはあくまでも人間である、故に本来ならば引き金を引く瞬間まで消したままでいる己の気配を、人を撃つという覚悟と共に表に現してしまった。
必殺と念じた一撃をかわされた以上、あの男が自分を殺しに向かってくるのは確実である。儀介の胸中にこの初撃を外したのは自分にとっては痛恨となるかもしれないとの不安が湧き上がるが、それを無理矢理に追い出すと木の上から飛び降りて種子島に弾を込めて自らの前に現れる敵を迎え撃つために気概を整えた。


左近は内心で冷や汗を掻きながら己を襲った銃弾が飛来した方向へと走っていた。
先程の銃弾をかわせたのは自分でも運が良かったと判断せざるを得ないものだ、左近は正面から相対すれば種子島の弾道を見切ってかわすくらいの芸当はやってのける。
しかしそれも相手の姿が見えればこその術であり、撃つ瞬間は相手の指の動きから弾筋は銃口の向きから判断しての見切りである、故に先程のような遠間からの狙撃では察知できたとしても大きく跳ぶことで何とか狙いをかわすしかない。
しかも普通の相手なら敵を撃とうとすれば殺気の一つも漏らすものであるが、この相手は左近を撃つその一瞬前まで何の気配も悟らせなかった、これだけでも驚嘆に値する相手であると判断できる。
姿の見えぬ相手に一方的に撃たれる銃撃を全てかわし続けるのはいかに左近といえども困難を極める、ならば次の玉込めが終る前に近づき姿を捉えられなければ勝機は無い。
故に出来る限り早く、正し細心の注意を払いながら銃撃が放たれたと思しき方向へ急く必要があるのだ。
黒金の極小の刺客が自分の命を奪い取るかも知れぬ恐怖を抱えながら、遅滞無く走り抜けた先に大柄な体躯と日に焼けた肌の毛皮を羽織った猟師姿の男が待ち構えていた。
その猟師の右手には種子島が握られており火薬の匂いが辺りに漂っていることからこの猟師が先程の狙撃の主であると知れる。
猟師と対峙した左近は油断無く敵と定めた男を見据えながら、僅かに腰を落として左手で刀の唾を押し上げて鯉口を切ると口を開いた。

「一応名乗っておこう、俺の名は紅林左近」
「……儀介」

儀介の前に現れた羽織袴姿に洒落た朱鞘を腰に佩いた侍は自らの名を左近と名乗った。
お互い殺し合う間ながらも名を名乗るというならば此方も名乗るのがせめてもの礼儀と感じた儀介が自らの名を名乗る。
儀介の名を聞いた瞬間に左近は目の前の儀介の懐に飛び込んだ、先程は儀介に先手を取られている、ならば今度は此方の番とばかりにその一刀を振るう。
儀介も油断していた訳では無い、しかし左近の一撃の鋭さは儀介の想像の一歩上を行っていた。
むろん手練なのは分かっていたがそのあまりの踏み込みの早さに迎撃が間に合わなかったのだ、儀介が着ている着物の腹の部分に真一文字に切込みが刻まれ血が渋く。
それでも薄皮一枚を斬られただけで後ろに跳びすさる、勿論儀介もかわして終わりではない、跳ぶと同時に足の指で掴んでいた紐を引く、この紐を引く事で罠が作動する仕掛けになっていた。
閂が外れて今まで儀介が立っていた場所、すなわち今左近が立っている場所に目掛けて竹やりが飛んでくる、左近の右前から唸りを上げて竹やりが迫るが左近はそれを一瞥すると振りぬいた白刃を鞘に収めてからもう一度引き抜いた。
その一閃は飛来する竹やりを縦に両断し、二つに分かれた竹は左近の左右に力無く落下する。
この一連の攻防は瞬きした瞬間には終っているような一瞬である、竹を斬った一刀は既に鞘に納刀されており何時でも抜ける準備が整っている。
今の罠を使ったやり口にも卑怯と罵るでもなく、ただ楽しそうに笑って儀介を見つめる左近と罠を破られたにしては落ち着いている儀介。
これだけの攻防で、否立ち会う以前からお互いに理解しているのだ、目の前の相手の命を奪うには卑怯卑劣などない、ただ自分の全てをかけるのみだという事を。
次に動いたのは儀介が先であった、右手に下げていた種子島を手首だけで左近に向けるとそのまま撃ち放つ。
轟音と共に弾丸が放たれるが如何なる早撃ちであろうとも撃つ瞬間が丸見えでの銃撃では左近が恐れるものはない、銃口が向いた瞬間には既にその射線から退避している。
飛来する銃弾から身をかわした左近は儀介の胴を両断するべく先程より更に半歩を踏み込んで一刀を抜きかける。
しかしその一刀を抜くことなく踏鞴を踏んでしまった、踏み込んだ場所がほんの一寸程の落とし穴になっていたのだ。
僅か一寸、されど一寸この差が左近の居合いの技に必要な踏み込みに対して、微かに体を泳がせた状態にさせていた。
無論左近なればこの状態でも必殺の一撃を抜く事は可能である、しかし左近の本能が不完全な攻撃は自分の敗北を告げると警鐘を鳴らしていた。
儀介は左近の身のこなしを見た時から己の早撃ちが通用しないことを既に悟っていた、だが通用しないなら通用するようにすれば良いだけである。
その為の仕込みは既に幾つか準備してある、何故なら自分は猟師である獲物を狩るのに罠を張るのは当然の事だからだ。
左近が踏んだ浅い落とし穴といえぬ程に浅い穴も儀介が用意したものである、獣や粗忽な人間なれば通常の罠に架かりもしようが仮にも手練と目される人間がありきたりな罠に架かるはずが無い。
それ故にほんの少しの動揺を誘うような罠を仕掛けたのだ、一番初めの竹やりなど引っ掛かれば儲けもの程度の物である。
そしてこの窪みは儀介が仕掛けた早撃ちをかわして、その隙を狙って斬りかかろうとした左近にほんの僅かな態勢の乱れを生じさせる事が出来た。
この瞬間こそ儀介が狙ったものであった、態勢が崩れたとみるや背中に隠しておいたもう一丁の銃身を切り詰めて短くしておいた種子島を左手で抜き出し一挙動で撃ち放つ。
照準は今まで何度も撃ってきた感を信じてのものだが、至近距離からの種子島をかわす術など無い。
これで仕留められるかは疑問だが、少なくとも手傷は負わせる事が出来るはずであった。

「ちいっ!」
「……?!」

自身の予想より僅かに沈み込んだ右の踏み足に違和感を覚えた瞬間、左近は舌打ちをして儀介を倒すべく振るおうとした一刀を抜かずに、僅かに体が泳いだ勢いをそのままに己の身を地面に投げ出していた。
土の上に肩から転がり着物が汚れるのも構わずに回転して受身を取って立ち上がると再び儀介と対峙する。
立ち上がった左近の袴には小さな穴が開いており、そこから赤い血が滲んでいた。
僅かに態勢が崩れた瞬間に自分の内に湧き上がった警鐘に従って身を投げ出したのが幸いした、あのまま儀介に斬りかかっていれば腕の一本は斬り落とす事も可能だっただろうが、その代りに今の銃弾を体に叩き込まれていた筈である。
それを左の太腿を僅かに掠める程度で済んだことは僥倖である、血が滲んではいるが動きに支障などない、況やこれほどの強敵を前にして痛みなど感じている暇などないのが実状である。
そして対峙した儀介はいつの間にか種子島を放り捨てていた、その腕に己の身の丈ほどもある強弓を握っており身からでる鬼気の凄まじさは先程までの比では無い。
間違いなく今構えている弓こそがこの儀介という益荒男の真の武器である。
久方振りに背筋を這い登る感覚の名を恐怖と思い出した左近はそれでも強敵との戦いに唇の端が上がるのを止められなかった。

儀介は三度の驚愕を覚えていた、態勢を崩す事に成功し虚を突いたはずの今の一撃はかわす事など出来ないはずであった。
それをかわすなど左近という男の実力を見誤ったかと額に脂汗が浮かんでくるのを止める事が出来ない。
土埃を上げて転がる左近を見て戦いが終らぬのを知った儀介は両腕に持っていた種子島を投げ捨てると背中に背負った弓を取り出した。
未だに態勢を整え直しきれない相手の隙を逃がすことなど出来ないと手早く矢を番えるが弦を引いて構えた時には左近はすでに此方を向いて立っていた。
着ている着物は土にまみれ左の袴からは血が滲んでいる、それでも顔に浮かぶのは笑みである、しかしこの笑顔は羅刹の微笑だ。
全身から発する剣気は更に圧力を増して息苦しい程である。
この瞬間に儀介は猟師としての戦いを捨てる決意をした、確かにまだ罠は残っている、しかし今目の前にいる男にはどんな罠も通用しないだろうとの確信が沸いてくる。
ならばこの闘争を何時までも狩りだと思っていては此方が命を落とす、この戦いは互いの牙を相手に突き立てる獣同士の殺し合いこそが相応しい、握った弓は己の最大の牙であり爪である、相手の息の根をこの爪牙でもって止めるのみと心を定める。


互いの間はおよそ十間の間が開いている、この十間の距離を詰めて斬る事が出来れば左近の、詰められる前に射抜ければ儀介の勝利である。
奇妙な静寂が辺りを僅かな間支配した、そして二つの声が重なりあった瞬間に互いの技と矜持と命を賭けた攻防が始まった。
それは永遠とも刹那ともつかぬまるで時が止まったかのような時間であった。

「はあっ!」
「ふっ……!」

方や濁流の如く地を蹴って迫る者、方や泰山の如く不動をもって迎え撃つ者。
左近は正面から儀介を討つために疾風の如く走り出し、それを儀介は弓の一射でもって貫き倒すそうと腕に力を込める。
儀介の弓を引いた二の腕が更に盛り上がり弦がギリギリと悲鳴を上げる、その声が限界になった瞬間、迫る左近に向かって己が牙である矢を撃ち放つ。
撃ち放たれた牙は狙い違わずに左近の体の中心に吸い込まれるように飛翔する、それを腰溜めにした鞘から迸る銀の閃きが斬りおとす。
左近は次々と飛来する猛禽の如き矢を悉く切り落とし、一矢を斬る毎に間合いを詰める。

あと八間

儀介が撃つ矢を五度退けた左近に儀介は一本の巨大な鋼の矢を放つ、今までとは違う轟音とともに空気を切り裂いて飛来する鉄の矢は、その重量と速度によって斬る事も受ける事も敵わぬ豪矢である。
それを見て取った左近は自分の体を限界まで沈み込ませる、沈んだ左近の背中の上を唸りを上げて通り過ぎる瞬間、長髪の先端を結わえていた組紐を引きちぎり髪の毛を巻き込んで一房を宙に舞わせた。

六間

巨大な矢をかわした左近は狙いを絞らせぬように左右に体を振りながら歩を進める、それを迎え撃つ儀介の三手目は三本の矢を水平に撃ち出した。
初めの中央の一本は左近目掛けて飛来し、後の二本は左右にかわすのを見計らって左近の左右に放たれた。
迫りくる中心の矢を初めと同様に切り落とすとそのまま一歩を踏み出そうとする左近、その左近の目に日の光が映りこんだ。
左右に撃ち出された二本の矢の間を繋ぐように鋼の糸が張ってあり、その研ぎ澄まされた刃のような鋼に日の光が反射したものであった。
咄嗟に刀を立てにして首を刈り取りに来ていた糸を断ち切る左近だが、飛び去る矢に繋がれた鋼糸の切れ端に両肩を裂かれて血を流すが高々皮一枚を裂いたに過ぎぬと意に介さず歩みを止める事はない。

四間

儀介は腰の後ろにある矢筒から五本の矢を取り出して番えると連続で放った、唸りを上げて飛来する矢を再び打ち払おうとする左近。
しかしその矢の軌道が唐突に変化する、先に放たれた矢に後から放たれた矢を追突させることで直線でしか跳ばぬ矢の軌道を変えたのである。
左近が初見で矢が飛んでくる軌道を見切って迎撃にあたっていると看破した儀介が繰り出した攻撃である。
しかし左近の眼前で咽、胸、腹、両足に飛び散って迫る矢は抜き放たれた刃によって全てが囚われた。
今までは全て切り落としていた左近であったが此度の弧を描くように抜き放たれた刃が五本の全ての矢を巻き込むようにして弾かれていた。
左近は今まで居合いの技に絶対の自信を持っていたが故に使う事の無かった、抜刀した後での技を使わざるを得なかったのである。

二間

しかしいよいよ儀介との間合いを二間まで詰めた、二間の間合いは左近の踏み込みならば一足で飛び込む事が出来る。
そして儀介にしてもこの二間が最後の攻撃の機会でもある。

「……ふんっ!」

いよいよ勝負の決する時として更に集中をます左近に最後の矢が放たれる、一拍の間を置いて放たれた一本の矢は今までよりも更に速度と精度を増して左近へと迫る。
眉間に迫る矢を再びの居合いで切り、儀介の懐に跳びこまんと最後の一歩を踏み出そうとする左近の眼前に鏃が迫っていた。

「なにっ?!」

儀介が今放ったのは二本の矢を全く軌道で続けて放ったものである、一の矢の真後ろに存在する二の矢は一の矢が消える事で初めて姿を現すのだ。
そしてその姿を見た時には並みの相手であるならば、その二の矢に額を貫かれて絶命するはずの弓術における必殺の技の一つである。
しかしこの技を使える者などまず居ない、なぜなら二本の矢をほぼ同時にしかも全く同じ軌道で放つなど常人であるならば不可能といってよいからだ、それを成した儀介の技の凄まじさよ。
振りぬいた刀は既に鞘へと納まっているが今から抜いたところで決して間に合う事は無い、左近は眼前に迫った矢が己の眉間を貫こうと額の皮膚を裂くのを感じながら、首を振って鏃をいなして体を右側へと泳がせることでやり過ごす。
左近の額を切り裂いた矢はそのまま後方へと飛んで行く、本来なら致命の一撃となる筈の矢を僅かな傷だけでなんとか避ける左近。
しかしその一矢を左近がかわしたと見て取った儀介は最後の追撃を放つ、それと同時に距離を詰めた左近の渾身の一刀が翻る。
この近距離でしかも二の矢でもって額に傷を負ったとはいえどもかわしてみせた上に、更に止めに放たれた三の矢と同時に儀介の強弓を渾身の一刀をもって上下に断ち切った、確かにこの刃は儀介に届かなかったが左近もまた凄まじい。

最早間合いは一間

この距離まで間合いを詰められては例え儀介の手に弓が残っていても勝機は無い。
刃を納刀すると儀介の命を奪うべく最後の一刀を抜かんとする左近の目の前に儀介の左手が突き出された。
待ったを掛けるように突き出された掌に一瞬動きが止まる左近、しかし次の瞬間に親指と人指し指の間に張られた弦に気がつくと刃を鞘走らせる。

「くっ!」
「……ぐうっ!」

儀介が放った最後の矢は左近の左腕に深々と突き刺さり、左近の一刀は儀介の左腕を肘から斬り飛ばした。
宙に舞った自分の左腕が地面に落ちるのを尻目に儀介は腰に挿してあった山刀を残った右手で引き抜くと左近へと横薙ぎに斬りかかる。
だがその攻撃は斬り合いこそが本分である左近からすれば、執念は感じるが稚拙なものであった。

「はあっ!」
「……き……く」

再び閃く左近の一刀は今度こそ儀介の右脇腹から左肩までを逆袈裟に断ち割る、その時一陣の風が吹き抜ける。
風は儀介の呟きを奪い去り何処へとも無く吹き去ってゆく、そして儀介はその生涯を閉じた。
戦いに勝利した左近は左腕に刺さった矢を引き抜くと、倒れた儀介の側にしゃがみこみ未だ見開いたままの目を閉じさせた。

「儀介、その名この傷と共に刻んでおく」

そう呟くと一時目を伏せた後、儀介が地に倒れた時に転がり出た割符を手に取って立ち上がる、死闘を制した左近は常と変わらぬ悠然とした物腰で踵を返すと悠々と立ち去った。



奥羽山中の寒村で一人の少女が家の前で鞠をついていた、てんてんと調子良く数を数えるが一寸した拍子に鞠がころころと転がっていってしまった。
慌てて拾い上げるとふと誰かに呼ばれた気がして辺りを見回す、無論気のせいである以上は回りには誰も居ない。
それでも少女の耳に聞こえた声は大好きな父親の声に良く似ていた、自分の病気を治すために旅に出たと聞かされた少女は父親の無事を祈った。

「お父が無事に帰ってきますように」

少女の願いは蒼穹の空へと溶けていった。


紅林左近 対 儀介

勝者 紅林流抜刀術 紅林左近



[13895] 第二幕 第弐闘
Name: 小話◆be027227 ID:b35051a3
Date: 2010/01/03 10:04
髪を短く刈り込み、袖を千切った着物を着た若い男が肩で風を切りながら街道を歩いていた、その顔は不機嫌そうに歪んでおり、その所為で男の進路に居た人間は係わり合うのは御免とばかりに道を開ける。
その開いた道をのっしのっしと冬眠から覚めたばかりの熊の如く闊歩している男は風に乗ってある匂いが漂って来ている事に気が付いた。
立ち止まって鼻を鳴らすと街道を脇道へとそれた方向からその匂いが流れてきているようであった、この何度も嗅いだ事のある鉄錆にも似た匂いは間違いなく血の匂いである。
しかも風に乗って漂ってくるという事は其れなりに大量の血が流されたという事であろう、少し興味は惹かれるが自分が今やるべき事は大切な妹を救い出すために割符を持つ人間を探して奪い取る事と若い男、政は脇道から目を逸らした。


半刻後、街道を脇に逸れた道を行く政は舌打ちをしながらも先へと進んでいた、元々政は只のお節介焼きがいざこざに巻き込まれ続けるうちに何時の間にか喧嘩屋という異名を取る様になりそれをそれまま商売にしてしまった男である。
即ち好奇心が旺盛な上に万揉め事に危険が好きな上に腕っ節で解決できてしまう類の男である、しかし今回の旅は政が唯一大切にしている妹である初の運命まで係っているのだがこういう悪癖はそうそう直るものではない。
自分の好奇心に負けた事を初に心の中で詫びながら、血の匂いが流れてくる方向へと向かう、脇道から更に森の中へと進むとちょっとした広場が出来ていた、そして其処には見るも無残な状態となった亡骸がうず高く積み上げられており、そしてその中に唯一人だけ立っている者がいる。
ざんばら髪に上半身は裸で両腕は肩から指先まで布を巻きつけており、下半身は軽衫(かるさん)を穿いた男であった。
そして何よりその男の首には自分が探している割符が縄で結わえて提げられている。
経緯は分からないがこの凄惨な光景を生み出したのがこの男であるのは間違いあるまい、しかし折角目的の物が目の前にぶら下がっているのを見す見す見逃す事はない。
大体、山賊を一纏めに縊り殺す事など自分でも可能な事だ、確かに目の前の男からは不気味な雰囲気を感じるが臆した所で意味などあろうはずも無い。
そう心を決めると両腕に愛用の手甲を嵌めて男の背後に回ると獲物に襲い掛かる虎か狼の如く政は飛び掛っていった。


牢から脱した男は久方振りの自由を謳歌していた、自分を解放した五人を屠ったあとで死体から服を剥ぎ取り身につけて使えそうな道具を懐に収めると、何処かに居るはずの獲物を求めて走り出した。
地を蹴り、枝を跳びながら道なき道を行くその男の前に、山賊とそれに襲われた旅の男女が現れたのは偶然であった。
街道から追われて来たのだろう男女は森の中にぽっかりと空いた空間で遂に山賊たちに追い詰められていた。
それを見た男は身を撓めると一足跳びに山賊の上を飛び越え包囲の輪の中に飛び込んだ、飛び越えついでに山賊一人の首を掻き切って血を噴出させて生暖かい感触を楽しむ。
突如として現れた得体の知れない相手と吹き上がった血が周辺を赤く染め上げる光景を呆然として見上げる残りの山賊と襲われていた二人の男女。
呆けるばかりの連中を尻目に男は再び地を蹴って上空に飛び上がり、蜻蛉を切って身を捻りながら両手に手挟んだ鉄杭を撃ち放つ。
男の手から飛んだ鉄杭は狙い違わず山賊達の足の甲を一人残らず貫いて全員を地面に縫い付けた。
男にとって山賊などは木偶も同然、いわんや身動きを封じた相手などは既に塵芥に等しい、時間をかけて相手にするのも馬鹿らしいと男は着地と同時に再び地を蹴って短刀を腰から引き抜くと残りの山賊を一蹴する。
瞬きする間に両手に持った短刀を振るい山賊の首を全て刎ね飛ばして殺した男に向かって襲われていた男女が恐る恐る声をかける。

「危ない所を助けてくださり有り難うございます、お陰で助かりました」
「もし良かったらお名前をお聞かせ下さい、ぜひお礼を」

見るからに妖しい風体の、しかも剣呑な雰囲気を醸し出している男に対して命を助けて貰ったのだからと礼を申し出た男女であるが、その問いかけに対して男の返答はなんとも無残なものであった。

「俺の名は朧丸という、なに礼など無用だ、何故ならお主等も俺の獲物に他ならぬからな」

その言葉と共に男の首が宙に舞う、その光景を見た女が悲鳴を上げる前に首が朧丸に掴まれて木に叩きつけられると、そのまま両腕を頭上に捻り上げられて山賊の足を止めた鉄杭と同じ物で木に縫い付けられる。

「ぎゃああああっ!!」
「もっと良い声で啼け、女をやるのは久方振りだからな少しは楽しませてもらうぞ、クカカカ」

痛みと恐怖で悲鳴を上げる女の頬を舐めながら哂う朧丸の顔は愉悦に満ちていた、朧丸にとってもっと楽しめそうな獲物が居るが故に山賊たちには速やかな死が訪れたのだ。
無論朧丸は自分が異端で在るのは知っている、しかし獣が檻から放たれれば血を求めるのも必然であり、未だに朧丸は牢を脱した時に五人ばかりのそして此処で十人余りの骸を積んだが既にありきたりな獲物などでは満足出来ない。
そしてそれを朧丸自身が自覚しているがそれでも血の渇きを抑える事など出来ないし、する理由も無い、ならば其れなりに楽しもうというだけだ。
顔だけは傷一つ付けずに、また簡単には死なぬようにと散々に玩んで半刻、遂にその命の鼓動が止った女の恐怖で引きつった首を刎ねて戯れに幕を引く。
多少は手慰みになったが未だに胸に燻った衝動は収まる事は無い、それどころか中途半端に血と肉の感触と戦いの愉悦に身を晒したが故に更に昂ってしまった。
新たな獲物でも探そうかと振り向いた瞬間、朧丸の背後に急に殺意を伴った気配が現れると雄叫びと共に襲い掛かってきた。

「死ねやおらーっ!!」

気合の篭った雄叫びを上げて朧丸の背後から襲いかかった政は勝利を確信していた、自慢の手甲に包まれた右手を引き絞りその背中の中心に叩きつける。
ぐしゃりという音と共に背骨を粉砕する感触が右手に広がる、おもわずニヤリした笑みを浮かべた政だが勝利の確信は驚愕へと変わる。
政が砕いた背骨は朧丸のものではなかったのだ、背後から襲われた朧丸は咄嗟に足元に転がっていた死体の一つを蹴り上げて自分の身代わりにしていた。

「ちいっ! しくじった」

悪態を吐いて潰した死体を振り捨てると改めて朧丸の正面に立つ政、その政をねめつける朧丸は相手が自分の首に架かっている割符にちらりと視線を向けたのに気が付いた。

「クッカッカッカ、この割符に目を向けたという事は貴様も持っているな」
「応よ、死にたくなきゃあ大人しく置いてきな」
「カカそうはいかん、こんな割符に興味は無いが、お前みたいな活きの良い獲物を釣るには又と無い餌なんでな」
「ああそうかい、ならぶっ殺して奪い取るまでよ、死んでも文句言えるような生き方してねえみてえだしなぁ!」

言葉が終らぬうちに再度飛び出した政が朧丸へと迫る、左の拳を素早く突き出しながら距離を測ると渾身の右を打ち出す。
その攻撃を尽く体捌きだけでかわした朧丸は最後に繰り出された右の拳に併せて腰から短刀を引き抜いて右腕を斬り落とそうと振るう。
鋼と刃金が打ち合う音が響き宙に舞った銀の光が地面に落ちた、それは朧丸が繰り出した短刀の半場から折れた切先であった。
政の強靭な一撃は朧丸の繰り出した一刀を退けるばかりかその凶刃を折ってみせた、しかし政の手甲にも一筋の傷が刻まれ、朧丸の体を捉えるはずの一撃は軌道を逸らされた。

「カカ、面白い」

半場から折れた短刀に一瞥を向けて放り捨てると先程までとは違う種類の笑みを浮かべると足を開いて腰を落とし構えをとる、その構えはまるで蜘蛛が獲物を狙うような低い不気味な構えであった。
朧丸が構えをとった事で政もまた構えを変える、先程までは速さを重視した構えをとっていたが今度の構えは迎え撃つ為にどっしりと大樹が大地に根を張るが如きである。
互いに構えたのも一瞬、朧丸は体を一回転させると反動をつけて鉄杭を撃ち放つ、その数実に二十本。
唸りを上げて飛来する黒鉄の雨を打ち払うのは鈍色の鉄拳、全身余すところなく串刺しにしようと迫る鉄杭を一本残らずその両腕が防ぎきる。
最後の一本を打ち払うと同時に一足飛びに踏み込んで拳を振るう、朧丸の顔面目掛けて迫る政の拳がその顔に突き刺さる寸前に手首に布が巻き付いて止められる。
朧丸が腕に巻きつけていた布を解いて政の拳を捉えた瞬間に右足を政の体に叩き込むべく振り上げる、その足先には政に叩き折られた短刀の切先が何時の間にか足の指の間に挟まれており、政の股間へと吸い込まれてゆく。
腕を布によって絡め取られた瞬間に政の目の端にきらりと光るものが映った、それが何であるかを確認する前に本能が体を突き動かしていた、動きを封じられた腕を支点にして地面を蹴って空中へと逃げる、体を捻り布の戒めから脱すると同時に頭の下を朧丸の蹴りが通過する、背筋に冷たいものが吹き上がるが政はそのまま一回転して充分に速度と重さの乗った左の踵を朧丸の脳天に振り落とした。
股間から頭頂までを切り上げるべく振り上げた右脚の一撃は跳躍した政によってかわされ、さらに動きを止めようとした布の戒めも外されたのを見て朧丸は右足を振り上げた勢いのまま後方へと転回して間合いを取る、片手片膝を着いて着地した朧丸の前に政の踵が振り落とされ叩きつけられた地面が陥没する。
振り下ろした踵が相手の体を捉えられずに地面に穴を穿っただけに留まった政は、振り下ろした左脚の前に相手の顔があるのを瞬時に見てとって、左脚を軸に右の水平蹴りをその顔面に叩き込むべく振るう。
着地した目の前に振り下ろされた脚が左に向きを変えるのを見た朧丸は次の攻撃を右の蹴りと判断した、そしてその通りに自分の顔面に迫る右脚の脛に蜻蛉を切った瞬間に持ち替えていた刃を突き入れるが右足の勢いは止まらずに振りぬかれる、その蹴り足に乗って飛び距離を取る。
政の蹴りが朧丸の顔面に叩き込まれる寸前に右の脛に衝撃が走る、それ構わず振りぬくがその蹴り足に乗られて威力を殺された上に距離を取られてしまった。


「クク、良くかわした」
「こっちの台詞だ」
「それに足も、とはな」
「けっ、俺に足使わせた奴ぁ久しぶりだぜ」

朧丸は右足に刃を突き刺したはずが血の一滴も流れてはいない、それどころか足首までを包んでいた呉服の裂け目から両腕と同じような鋼が覗いていた。
政が切り裂かれた右足の布を千切り捨てると中から膝から足の甲までを覆う鋼の足甲が現れる、両腕のみならず両足にも鉄の牙を備えたこの姿こそ政の戦装束である。
朧丸は鋼に無造作に突き刺した事で今度こそ使い物にならなくなった折れた小太刀の切先を投げ捨てて不敵に哂い、両腕をだらりと下げる。

「今度は此方からいこう」
「きやがれ」

応じた瞬間、朧丸の姿が政の眼前に迫り掌底が突きこまれる。予備動作も無い不意打ちに近いものだが政には通用しない。
鼻先を掠めながらもかわすと近寄ってきた朧丸の体に叩き込もうと肘を突き出す、狙い違わず胸に打ち当てるが、同時に朧丸の膝蹴りが政の脇腹に突き刺さる。
互いに一歩たたらを踏んでよろけたが先に反撃に出たのは政であった、たたらを踏んで一歩分の間合いが出来たのを利用して左回し蹴りを繰り出す。
鋼の蹴りが朧丸を捉えて辺りに肉を打つ音が響き渡り朧丸が吹き飛ばされる、それでも咄嗟に腕を折りたたんで上腕と下腕部で受けることで衝撃を分散させたのは流石というべきか。

「如何した、如何した、良い様じゃねえか」

吹き飛ばされた朧丸を追撃するべく走りだす政、もはや反撃の機会は与えないとばかりに連撃を見舞う。
左回し蹴りを放った態勢からそのまま跳び右後ろ回し蹴りに繋ぎ、さらに同じ箇所に攻撃を入れる、これも先程と同様に腕で防がれるが、朧丸も今度は弾き飛ばされずに逆に蹴り足を弾いて反撃に移ろうとする。
しかしこの反撃こそ政が狙ったものであった、先程の蹴りは弾かせるのが目的でその弾かれた反動を利用して半回転し左後ろ回し蹴りを下方から脇腹を狙って放つ。
鋼の足甲に包まれた蹴りをまともに脇腹に喰らえば内臓破裂は間違いない、後は動けなくなったところを両拳で撲殺すればこの戦いは終る。

「貰ったあっ!」

勝利を確信した政の叫びが辺りに木霊した。
が次の瞬間政は驚愕を顔に浮かべる、確かに脇腹に蹴り足の感触は残っているが余りにも軽すぎる。
その証拠に朧丸は天高く舞っており、宙で一回転すると何事も無かったように優雅に着地した。

「中々に重く鋭い、クク良いぞもっと楽しませろ」
「てめえぇ」

まるで遊ばれているが如き朧丸の口調に政の歯がぎしりと音を立てる。
楽しませろと嘯く朧丸だが実際にはそれ程の余裕は在るまい、蹴りが自分の脇腹に突き刺さる寸前に咄嗟に膝の発条だけで体を浮かせて蹴り足に乗る事で内臓への衝撃は逃がしたものの流石に無傷という訳にはいかなかった。
左脇腹には青黒い痣が浮き出ており内出血を起こしているのが見て取れる、当然痛みも在るはずだが、その脇腹を庇うわけでもなく再び拳打を顔面へと振るってくる。
痛みのせいか朧丸の拳は最初に見舞われた掌底ほどの速度はない、それを見て取った政は余裕でかわし交差法にて一撃を喰らわせる。
そして赤い雫が滴った

「痛っ!」

声をあげたのは政のほうであった、朧丸の拳打は完全にかわしたはずだが何故か頬が切れた、存外深く切れたらしく血が溢れ出てつうと頬を滴る。

「一体何しやがった?!」
「さあて、何のことやら……なっ!」

言葉が終ると同時に両腕で拳打を放つ朧丸、その一撃は初めに繰り出された掌底より早く鋭い上にまるで鞭の様にしなる独特の拳打であった。
その腕を上下左右の区別無く振るい政の体に打ち付ける、しかもその傷は打撲では無い、朧丸の腕が掠めた場所は次々に切り裂かれ浅いとはいえど無数の裂傷を負わせてゆく。
しかしこの距離は政の得意な間合いでもある、自分に傷を負わせる事ができるなら自分も傷を与えられる。
先ずは五月蝿い腕を潰さんとして自分に振るわれた相手の腕を弾くべく鉄拳を振るう、するとギャリという音が聞こえて朧丸の拳から一本の鉄杭が零れ落ちた。

「ばれたか」

舌を出してケラケラと哂う朧丸、鉄杭を拳に握り当たる瞬間に僅かに覗かせて傷を与えていたものだ、初めに放った掌底は手に何も持っていないと見せるために振るわれた虚言の一手であるものか。

「知っているか? 狭い間隔で並行に付けられた傷は互いに塞がろうする為に自然には塞がらんのよ」

朧丸がその手に二本ずつ持っていた鉄杭を無造作に政に向かって投げ放つ、咄嗟に撃ち落した政だが体に刻まれた傷から更に血が噴出した。

「故に動けば動くほど体から血が流れ出るという訳だ、気に入ったか」

朧丸の嘲りを聞きながら政は素早く考えを巡らせる、血が無くなれば動けなくなり最後には死に至るのは道理だ、そして既に体中に傷を負ってしまった以上はその運命からは逃れ得ない。
ならば逃げを打つのも勝負の駆け引きとしては有りだろうが、目の前のこの男がそれを易々と許すはずが無い。
ならば此処で打てる手はただ一つ、自らが死ぬ前に相手を殺して治療することだ。
此処まで考えを巡らせて一番初めに戻っただけだと気付く、つまる所は〈殺られる前に殺れ〉である。
腹を括る、いや括っていたのを思い出すと政は口角を吊り上げてニヤリと笑う。
政が笑ったのを見て相手に動揺が無いのを察する、正直に言えば与えた傷で死に至るにはそれなりの時間を有するはずだ、それは今迄の経験から明らかである。
そしてそれを教えてやる事で相手を焦らせて十全に力を発揮出来ないように仕向けて遊ぼうと思ったのだがそうは行かない相手であったらしい。
だがそれが良いと朧丸は思う、蹂躙する楽しさは何処ででも味わえるが互する相手を這い蹲らせるのもまた一興。

「時間が無えみてえだからな次で決りつけるぜ」
「そう言うな、俺はまだまだ遊び足りんぞ」
「抜かせ」

政は左足と左貫手を前に出し右拳を脇腹に添える左半身に、朧丸は両手をだらりと下げたまま軽くつま先立ちに構える。
政が大きく息を吸いカツと吐くと途端に筋肉が一回り盛り上がり同時に血が止まった、息吹と呼ばれる呼吸法によるもの筋肉を肥大させて無理矢理に流血を止めたものである。
この攻防の後で息吹が切れれば先程に倍する出血を強いるだろうことは想像に難くない、それ故に不退転の決意がありありと見て取れる。
それを知った朧丸もまた次の攻防が最後と見定めて大きく息を吸って備える。
動いたのは果たしてどちらが先だったのか。
力強い震脚を踏み出し鉄塊に等しい正拳突きを繰り出す、その拳が相手の腕に巻いた布と皮を抉る。
皮を抉られながらも腕を絡め取り、その腕をあらぬ方向へと捻り間接をはずし更に捻り上げて筋肉と腱を捻じ切る。
捻じ切られた痛みを忘れ、下方から顎に向かって拳を突き上げる、顎は外したが相手の胸に一筋の傷を刻み込む。
胸の傷から血が流れるのも構わずに膝蹴りをがら空きになった鳩尾へと見舞う、確かに突き刺さったが筋肉の鎧に阻まれた。
膝が鳩尾を打ったが動きを止めるには遠い、突き上げた腕を畳んで肘を落とす。
膝が効かぬならと背後へと回るべく横をすり抜ける、その背に肘が落ちるが一拍遅い辛うじて掠めるだけでかわして背後に回り、肋骨の隙間から腎臓へと鉄杭を突き刺す。
背中にぞっとする冷気が上がるや右足を後ろへと繰り出す、咄嗟の一撃ゆえに充分な打撃は与えられないが硬い肉を打つ感触が足に残る。
いま少しという所で蹴り剥がされた、そのお蔭で刺し込んだ杭は腎臓に達するほんの少し手前で自らの手を離れてしまった。
蹴り剥がした足の勢いをそのままに半回転して相手を見据えると同時に跳躍し、颶風とかした側面蹴りを叩きつける。
暴風を纏いて迫る大木の如き蹴り足が側頭部に吸い込まれるのに併せて側転し、その威力を殺す。
倒立状態になった瞬間に腕の力で跳ね上がり顔面に両足をそろえて突き入れる。
顔面に迫る両足をかわせぬと見て取って逆に顔を突き出し額で受ける、ガツという衝撃とともに額が割れて血が流れるが動きが止まったのを幸いと目の前の敵を潰すべく拳と足とを両側から挟み込むように打ち付ける。
額で受けられたのを悟ってそのまま額を足場として蜻蛉を切って身をかわす、その瞬間に鋼を打ち合わせる音が響いた、一瞬遅ければ腹を潰されていただろう。
蜻蛉を切ると同時に両腕の布を解いて空中から振るう、振るわれた布はまるで二匹の大蛇の如くうねり左右から襲い掛かる。
白布の大蛇が迫り視界が白く塗られる、その牙が正確に咽と胸を狙って噛み付こうとするのを最早動かぬ右腕を犠牲にして絡め取って防ぐと布の影に立つ影に最後の一撃を叩き込むべく力一杯布を引く。
絡め捕られた白布を引っこ抜くように引かれた体はよろめいて大きな隙を晒す、その隙を逃がすに砲弾の如く駆け出し繰り出した一撃が相手の胸板を貫いた。

「殺ったあ!」

くず折れる人影を見て勝利を確信する。

「ごぶっ」

口から大量の血が流れ出る、見下ろせば自分の胸から鋼が突き出ている、初めて味わう冷たい感触と内臓をえぐられる感覚に更に気分が悪くなる。

「な……に?」
「カカ、油断したな間抜けめ」

後ろから聞こえてきた声は今しがたその胸に風穴を開けたはずの男の声であった、驚愕を持って自分が倒したはずのものを見れば、それは首の無い男の骸でありそして胸から生える鈍色の光は自分が折ったはずの短刀だ。
無理矢理に首を曲げて後ろを振り返れば、そこには確かに今まで死闘を演じた相手が薄ら哂いを浮かべていた。

「てめ……がふっ」

初めに政の攻撃をかわしたときに朧丸は死体を盾にしていた、腕の布を操って政の視界を塞いだ一瞬にその時と同じく身代わりを立てていたのである。
そして政が囮に向かう横で初めから持っていたもう一本の短刀を手にして、相手が勝利を確信した瞬間の僅かな油断を突いたのだ。
政が何かを言おう口を開きかけたと黒鉄の杭が抉りこまれ、次いで胸を貫いていた短刀が捻りながら引き抜かれた。
刃が引き抜かれた傷から大量の血液が流れたことで息吹が途切れ、筋肉が弛緩して体中の傷が再び開き大量の血が零れ落ちて大地を真紅に染める。
体中を真紅に染めながら覚束ない足取りで再び朧丸と向き合う政だが最早戦う力は残されてはいないだろう、遂にその赤い大地に倒れ伏し辺りに飛沫を撒き散らす。

「畜……しょ……」

その赤い光景を暗くなる視界の中でぼんやりと眺める政の脳裏に最愛の妹の姿がまざまざと蘇る、段々と消え行く意識をそれが繋ぎ止める。

「うっがあっ!」

意地を足に込めて立ち上がり、最後に残った力の全てを拳に込めて目の前の男に叩きつける。

「中々楽しかったが、些か飽きた」

しかしその一撃は朧丸の無情な言葉と共に二枚の布が振るわれると政の体が雁字搦めに締め上げられた。
万全ならば例え捕らわれようと脱出出来ただろう、否捕まる事すら無かったかも知れぬ、だが今の政にはこれより先に抗う力が残っていなかった。
体の彼方此方から骨の砕ける音が何処か遠い所から聞こえてくる、そして首に押し当てられた冷たい刃を感じながら政は永遠の眠りについた。



初は自分と兄の家である長屋に戻っていた、牢から出してくれたお侍が言うには本当の下手人は別に居ることが判ったので兄にはその討伐を命じたと教えられた。
辻斬りの討伐なんて危ない事は止めて欲しいが兄がその下手人を捕らえることが自分が解放された条件だと言われれば感謝はすれ恨み言を言うのは筋違いと判る、判るがそれにしても自分に何も言わずに行くなど酷すぎる心配する身にもなって欲しい、帰って来たならば小言の一つも言ってやろうと思う。
その為にも兄が何時帰ってきても良いように今日も一日張り切って過ごそう、そして戻ってきた暁にはお説教と一緒に飛び切りの笑顔と美味しいご飯で出迎えてあげよう。

「さ、今日も頑張らなくちゃ」

春の息吹が桜の花を綻ばせるのを見上げながら、この桜が散る前には戻って来ると初は信じている。
何故なら政は花見が大好きなのだから。



朧丸 対 政

勝者 業魔流忍者 朧丸



[13895] 第二幕 第参闘
Name: 小話◆be027227 ID:b35051a3
Date: 2010/01/20 00:47
峠の茶屋でお茶と団子に舌鼓を打つ女が一人、三人寄れば姦しいとは良く言ったものだが女一人でのんびりと茶をすする姿はその女の容姿と相俟って風雅を感じさせる。
身軽な旅装で身を包みながらも着物の襟足から覗くうなじの艶が軽く伏せられた長い睫毛が茶を飲むたびに小さく動く咽の鼓動がそして全身から匂い立つような怪しい色香が人の目を引き付けてやまない美女である。
その証拠に今も峠を歩く男はもとより女もちらちらと眼を向けており、男は例外なく前屈みに女は自分の容姿を恥じて顔を伏せるか嫉妬によって睨みつける。
尤も女は注目されるのにも嫉妬に晒されるのにも慣れているのか堂々としたもので、周囲の喧騒を意に介さずに、さっきから団子を口いっぱいに頬張りお茶を飲む、またその仕草が無防備な童女の様でもありながらこの上なく淫靡な想像を掻き立てられる。
それもそのはずこの女は近隣にその名を轟かせる高級遊郭桜花楼に勤める遊女の中でも別格扱いを受ける看板遊女、秋葉太夫である。
口に放り込んだ最後の団子をコクリと飲み込んでから背筋を伸ばしてお愛想をすませた所に二人の女が連れ立ってやってきた。

「遅かったね、足は確保したかい?」
「姉さん私らだって子供じゃないんですよ、ちゃんと向こうに用意しました」
「そうですよって、あーっ! 姉さん酷いお団子みんな食べましたね!」
「うん? まあいいじゃないさ、次の宿場に着いたら美味しい物でも摘もうじゃないの」

先程までの風雅にして艶美な姿とは違う快活で凛とした表情がまた新たな魅力を引き出すが、楽しみにしていた団子を全てその腹の中に納まられては堪らないと抗議の声を上げる二人の女。
この二人もまた桜花楼の遊女で秋葉太夫がこの旅の為に態々選んで連れ出した者達である、其々の名を幼い感じが抜けずに団子を食べた事に文句を付けた方を梢、のほほんとした雰囲気を醸し出している方が桔梗という。
未だに団子がどうのこうのと文句をつける梢を引きずって茶店から少し歩いた場所へ向かうと其処に居たのは体中に傷を負った駕篭かきが十名ほど項垂れていた。

「さてと、それじゃあ雲助にゃ一働きしてもらおうかね」

先は度までとは違う冷厳な声で告げる秋葉太夫の言葉に体をビクリと硬直させて粛々と駕篭の準備をはじめる。
何の事は無いこの駕篭かきの男たちは秋葉太夫の一行の色気に迷ってちょっかいを掛けてきたのだが、案の定と言うかなんともしまらぬ話で返り討ちにあったのである。
男たちにして幸運だったのは一行が旅の途中であったために命までは取られなかった事だろう。
声を掛けた秋葉太夫が始めに駕篭に乗ると残りの二人も駕篭に乗り込んで次の宿場を目指して出発する。
その大名行列よろしく粛々と揺られながら遠ざかる三つの駕篭を見つめる鋭い眼差しがあった。
その眼に湛えられているのは溢れんばかりの獣性である、己の赴くままに食い犯し寝るそんな獣の眼差しを持つ巨漢がぬうと立ち上がった。

「あれほどの女丈夫を好きに出来るとは堪らんのう」

下卑た笑みを浮かべるとその巨体に似合わぬ軽い足取りと動きでもって何の音も立てずにその姿を消した。


宿場の宿の中でも上等の宿屋を取ると秋葉太夫の一行は酒と料理を堪能した、美味しい山の幸を食べた梢は昼間の文句も忘れて舌鼓を打ち、酒豪で鳴らした桔梗は既に一升空けている。
食事も終わり、一服つけた所で宿の温泉に浸かろうと三人で湯殿に向かう、着物を肌蹴て湯に浸かればそこに現れたるのは三者三様の、そのどれもが美の化身といって過言ではない裸身である。
先ずは勢い良く湯殿に飛び出した梢である、薄く膨らみかけた乳房と腰が少女と女の間の僅かな期間だけに許された中性的な魅力と倒錯さを振りまいて魅せる。
次に現れたのはその細い腰と不釣合いな巨大な胸をこれでもかと見せつける桔梗である、湯船に持ってきた酒のお銚子を浮かべてクイと煽る仕草と酒の所為かはたまた湯の熱さによってか頬に朱が刺すその風情は振るい突きたくなる色香を周囲に放っている。
最後に現れたのは先の二人に勝る事はあっても劣る事はない秋葉太夫の裸身である。
女として膏の乗ったしなやかな肢体は湯を弾き、伸ばされた白い肌には染み一つなく、お椀型の乳房の先に在る朱鷺色の突起はツンと上向いて自己主張しており、細い、しかし細すぎない腰から伸びる丸みを帯びた水蜜桃のような尻の曲線は地獄の鬼すら篭絡するであろうという淫靡さをかもし出している。
夜の帳のような髪と春の若草のような股間の繁みは艶を受けて輝き、天界の聖女と魔界の淫婦が同居するような清廉さと淫猥さを併せ持っている。
その三人の美女がのんびりとお湯に浸かって談笑していると不意に秋太夫が口を閉ざした、残りの二人に目配せを送って脱衣所まで下がらせると、自身の真正面にある竹林へと鋭い声を掛ける。

「お前さん、何時までただ見を決め込んでおる。いい加減に出て来やしゃんせ」

腰から上を惜しげも無く湯の上に出して、その形の良い胸を張りながら誰何の声を上げる秋葉太夫。
その声に応じたものか、竹林の中から地獄の鬼も裸足で逃げ出そうというような狂相を浮かべた八尺二寸の巨躯と巌のような顔に傷をもった髭面の僧兵がのっそりと姿を現した。

「ぐはは、これは済まんかったのう。余りの美しさについ見惚れてしもうたわ」
「あら、そう言ってくれるのは嬉しいでありんすが、こちとら体が資本でねぇ、御代は見てのお帰りたぁいかないんですよ お坊様」
「なあに気にするな、これから御主ら三人拙僧が極楽往生させてやろう、線香代はそれでどうじゃ。ん?」
「おや、そいつは一体どう意味で?」

対峙する二人の間に剣呑な空気が醸成されてゆく、既に辺りに聞こえていた虫の声は鳴りを潜め、風が吹いて湯を揺らし雲が月を隠した。
後に残るのは暗闇と膨れ上がる鬼気、ざあっという一際強い風が吹いて月が再び姿を見せた瞬間、月光の中に現れたのは巨影に飛び掛る二羽の猛禽。

「やああっ!!」

鋭い声を発しながら襲いかかったのは肌襦袢を身に纏っただけの梢と桔梗の二人、短刀を片手に矢継ぎ早に巨漢を攻め立てる。
腕を振るうたびにはためく襦袢の裾から伸びる足の瑞々しさに鼻の下を伸ばす、巨漢の僧兵だが眼差しは底冷えのする光を湛えて己に襲い掛かってくる二人の実力を推し量る。
常人ならばこの二人に掛かれば数合のうちに倒されるだろう、しかし自分に比べれば可愛い雛も同然と余裕の笑みを浮かべて反撃に移るべくその巨体に似合わぬ身の軽さで攻撃の手を捌くと袖口から取り出した錫杖を頭の上で一回転させて地面に柄尻を立てた。
辺りに錫杖頭部の輪形に付けられた遊環(ゆかん)が立てるシャランという音が響いた。

「一応名乗っとこうかい、儂は破巌坊、おのれ等の主になる者よ」

名乗ると同時に太い足を湯船の中に一歩を踏み出す、湯船に張った湯がその震脚によって間欠泉のように爆発した。
水幕が二人の視界を塞ぎ、その驚愕で動きを止める。そこに幕の奥から一直線に伸びてきた錫杖に打擲されて吹き飛ぶ梢と桔梗、水が静まり元の静けさを取り戻すと仁王立ちに立っている破巌坊と折り重なって倒れる梢と桔梗。
吹き飛ばされたお蔭で濡れた襦袢が肌蹴た二人は白い肌を顕にして蹲っている、痛みによって口から漏れる呼気が情事のそれと重なり扇情的ですらあった。

「ぐふふ、主らの格好も何とも言えずに色っぽいがやはり着物は邪魔かのう」

その様子を見て嫌らしい笑い声を上げながらドスドスと二人に迫る破巌坊の足元にカンと音を立てて突き立った簪がある。
飛んできた方向をみれば何時の間にか着替えを終えた秋葉太夫が、のんびりとキセルを燻らせていた。

「ぐっ、すみません太夫」
「ご免なさい」
「気にする事などありゃあせん、あんた達は妹なんだからね」

その泰然とした姿を見た二人は這い蹲りながらも口々に謝罪の言葉を告げる、そんな二人に対して悠然と微笑みかけて優しい声をかけて下がらせると、その可愛い妹たちを地面に這い蹲らせた巨漢を睨みつけて低い声で語りかける。

「さて、わっちの可愛い妹達をいたぶってくれた礼はきちんと返さなきゃあならんねえ」
「ほ、言いよるわ自分が支度を整えるのにその可愛い妹を使ったんだろうが」
「可愛い子には苦労させろっていうもんでねぇ、でもわっちが苦労を掛けるのは構いやせんがわっちの者を他人に良い様にされるのは我慢ならんもんじゃろ?」

秋葉太夫の余りに勝手な言い分に、自他共に認める自己中心的な思考の持ち主である破巌坊もしばしあっけに取られると顔を手で覆って高らかに笑い始めた。

「ぐわっはっはっは、流石に良い女は言うことが違うわい。ならお前さんを儂のものにすればそこの二人もいい様にして良いという事かな」
「好きにしやしゃんせ、もっともわっちを如何にか出来るって時点で大きな間違いじゃがのう」

ことさらにゆっくりと立ち上がると着物の袖から両手に鉄扇を取り出す秋葉太夫、その太夫から立ち上る鬼気に目を細めて傷だらけの顔を喜悦に歪ませると錫杖を構え直す破巌坊。
片や破壊の権化と言っても過言ではない巨大な鬼を思わせる無骨な僧兵、それに対峙するのは傾国の美女とは斯くやというべき妖気を発する女丈夫。
月下の湯殿に現れた二つの妖異は静に対峙する、風が吹いて雲が月を隠し再び姿を現した月光が破巌坊の目に微かに刺さった瞬間に秋葉太夫は宙に舞っていた。
着物の裾をはためかせて迫る秋葉太夫の両の手に握られた扇が月光を反射して煌めき、破巌坊に迫る、咄嗟に掲げられた鋼鉄の錫杖と噛み合って火花を散らす。
一撃を受けられた秋葉太夫が着地した所に破巌坊が振り下ろした錫杖が迫る、扇を畳んで交差させると頭上から落ちてくる一撃を受け止めるが秋葉太夫の足元が衝撃で陥没し腕に衝撃が走った。
その威力に眉を顰める秋葉太夫は力で押し込んでくる破巌坊の錫杖を受け流すと、破巌坊の巨体を足場に見立てて蹴りつけると距離を開けるために飛び離れる。
片膝をついて着地した秋葉太夫の着物の裾が大きく割れて白い太股が剥き出しになっていた、その瑞々しい脚線に好色な笑みを深める破巌坊、それを気にもせずすうと立ち上がると再び扇を構える秋葉太夫。

「なんじゃ、まだやる気かい」
「おや? 今のでわっちを知った気になってもらっちゃあ困りんす」
「心配せんでもこれから奥の奥まで知ってやるわい」

破巌坊は嬉々として言うと同時に無造作に歩を進めると一撃を繰り出した、その岩をも穿つ威力を秘めた攻撃を二撃、三撃と連続で繰り出して秋葉太夫のその身を這い蹲らせようと襲い掛かる。
受ける秋葉太夫は優雅に舞う、その突きの雨を踊るようにかわし扇を広げて迫る錫杖を捌く様は舞踏のそれだ、着物の裾は翻さず動きは柳の如きたおやかさ月下の中で舞うその美しさに傍で見ていた梢と桔梗、さらに攻め立てている破巌坊までが息を呑む。
勿論見惚れたからといって攻め手が止まる事は無いがほんの瞬きの間攻撃の手に鋭さが消えた。
その一撃を見切って秋葉太夫が攻勢に転じる、受け流した錫杖を払って破巌坊の懐に飛び込むと手に持った扇を一閃させた。

自分が女に見惚れるなどと思っても居なかった破巌坊は動揺した、物心付いたころには既に僧門へ入れられており、更にその図体と面相から色恋などとは縁が無かった。
そして戦場へ出た破巌坊は死の恐怖から逃れる為に初めて女を襲い肉の虜になったのだ、故に破巌坊にとって女とは蹂躙し己の肉欲を満たす為だけの玩具に過ぎない、精々が使い心地が良いか悪いかの違いしかなかった。
しかしこの女は違うと思う、今の今まで一度たりとも女を美しいなど思った事は無い自分が見惚れる女、ならばこの女こそ自分にとって唯一の女になるかも知れぬ。
頭をよぎったその思いが僅かに錫杖を操る腕を鈍らせた、その一瞬の間に懐に飛び込んできた女の一撃が自分の命を刈り取ろうと顎下から頭頂部へと振るわれる。
もしも秋葉太夫の武器が鉄扇でなく、短刀であったならこの隙は破巌坊の体に刃を食い込ませる事が出来たであろう。
しかし鉄扇は斬り叩く事は出来ても突き刺す事は出来ない、その差がこの一瞬の攻防において破巌坊の命を救った。
もっとも秋葉太夫の鋭い一撃を完全にかわすことなどできずに傷だらけの顔に新たな傷を刻むことと相成ったが、咄嗟に体ごとのけぞったことで致命の一撃をかわし遂せた。

のけぞった勢いのままに後ろ回りに転がると片膝をついて態勢を立て直す、無論そんな好機を逃がす秋葉太夫ではない。
流れるような動きで追撃を繰り出す、振り上げた扇をそのままに反対の手に持った扇を繰り出し、それが防がれればまた次の斬撃に繋げる。
クルクルと回転しながら上下左右から襲い掛かかり攻め立てる、竜巻に飛ばされた銀杏の葉が身を切るかの如き連斬の嵐、さしもの破巌坊もその身に次々と傷を負い己が流す血で全身を朱に染める。
しかしその刃の嵐の中で破巌坊は笑う、眼に湛えた獣欲は禍々しさを増し恐相は凶相へと変化する。
そして如何な秋葉太夫とはいえど無限に舞い続けられるわけではない、呼気を弛めた瞬間に今度は破巌坊が反撃に移る。
振るわれた錫杖は蛇の如くのたうち秋葉太夫の捌きを越えてその足に絡みついた。

「なにっ?!」

足を捕られその膂力によって宙へと放り投げられた秋葉太夫の眼前に再び錫杖が迫る、空中では満足に攻撃を受け止める事もできずに無様にその一撃を喰らって地面に叩きつけられた。
咄嗟に受身だけはとったものの背中から突き抜けた衝撃で眼が眩み、痛みが全身を襲う。

「ぐ、ごほっ」
「太夫!」

咽の奥からせり上がってきた塊を吐き出せば先程呑んだ酒と一緒に赤い血が混じっていた、その光景を見て梢が悲鳴を上げたのを片手を上げて制すると傍らに転がっていた銚子から残った酒を口中に流し込み口を濯いで吐き出した。

「やってくれるね、そんな隠し玉があったとは、油断したよ」

破巌坊のもつ錫杖は何時の間にかその姿を変えていた、真の姿は八つの節と九つの胴を持つ武具九節棍である。
多節棍はその節が増えるほどに扱いが難しくなるのは周知の通りである、ならば九節棍を自在に操る破巌坊の技量は如何ほどの物であるのか、そして立ち上る気配は先程よりも強く激しくなっている。
それを察した秋葉太夫の口調も先程までの余裕のある廓言葉ではなく、本来の伝法なものに知らずなっていた。

「改めて名乗ろう儂の名は破巌坊、御主を冥土に送るものだ」
「わっちは葉桜組七代目、羅刹女の秋葉太夫」

破巌坊と秋葉太夫の間に再び闘気の糸が絡まり始める、空気が重くなり側で見ていた梢と桔梗の咽がからからと渇いてゆく。
静寂を破ったのは秋葉太夫であった、身を捻ると振り向きざまに簪を投げ放つ、拍と飛ぶ簪を九節棍が打ち払うがその動きこそ秋葉太夫の狙いである。
九節棍が脅威であるなら使えなくすれば良い、斬鉄が可能なら棍を繋ぐ鎖を切り離せば脅威は格段に減るのは道理である。
鎌首を上げた蛇が踊るように簪を払った、九節棍を繋ぐ鎖を断ち切らんと振るわれた鉄扇であったが、その狙いを瞬時に悟った破巌坊の手によって一本に戻された錫杖と打ち合うに留まる。
食い合った状態では膂力に勝る己が有利とばかりに破巌坊が力任せに錫杖を振りぬく、その勢いに逆らわずに跳ぶ秋葉太夫の着地点に蛇腹を晒した九節棍が吸い込まれるように牙を向く。
それを咄嗟に払い落として跳躍すると伸びきった九節棍の上に飛び乗り敵の武器を足場に変えて一気に迫る。
首を落とそうと広げた扇を鶴が羽ばたくように大きく振るが引き戻された九節棍がその刃をまたしても阻む。

「ちいっ厄介だね」
「儂の奥の手を此処まで凌ぐか」

聞いたことはあるが見るのは初めての獲物を前にして知らず秋葉太夫の口から悪態が漏れるが闘志が衰えることはない。
また破巌坊も己の力を十全に発揮しながらも相手を捕らえきれぬ事に素直に驚いていた。
破巌坊の九節棍は杖と鞭とに変幻し秋葉太夫を追い詰めその顎に瑞々しい肉を捕らえんとし、秋葉太夫の鉄扇は相手の血を欲してその爪を閃かせる。
既に何度も攻守を変えながらいつ果てるとも知れぬ打ち合いが続く、互いに決め手を欠いたまま十数合を打ち合った時に遂に均衡が崩れた。
秋葉太夫が湯に足を捕られて僅かに滑らせたのだ、巨体ゆえにどっしりと構えた破巌坊に対して撹乱と回避の為に動き回った差が出た瞬間であった。

「もらった!」
「しまった?!」

隙とも呼べぬ程の僅かな隙を見逃さずに振るわれた九節棍は狙い違わずに秋葉太夫の体を打擲してその身を木に叩きつける事に成功する。
武器である扇を取り落とし受身も取れずに背中から叩きつけられた秋葉太夫はずるずると崩れると僅かに目を細めた後でカクリと首を垂れた。
形の良い胸が着物の隙間からまろび出ており、白皙のような足も力なく投げ出されている、微かに胸が上下しているところを見ると死んではおらず、気を失っただけのようだ。
その様子を見た破巌坊は己の中に再び情欲が燃え上がるのを感じた、先程までの互いに打ち合っていた時は目の前の敵を全霊を持って葬る事しか頭に無かったがこうして無防備な姿を見せられれば己の性分からも止めを刺す前に楽しみたいという欲求に駆られる。
しかも相手は自分を散々に苦しめた稀代の美丈夫となればその興奮は如何ほどのものかと興奮し火照った体がこの女を欲しがっている。
その証拠に褌の中で今までに無いほど魔羅が屹立しており痛い程だ、のしのしと歩を進める破巌坊に鋭い声が叩きつけられた。

「やらせるかっ!」
「この糞坊主!」

色香に迷ったと見えた破巌坊の後ろから秋葉太夫を救おうと襲い掛かった梢と桔梗の二人である。
しかし残念ながらこの二人と破巌坊では地力が違う、鞭の如く振るわれた九節棍の一撃で初めと同様に吹き飛ばされて地を這った。

「己らは後でちゃんと相手してやるわ、しばしそこで待っておれ」

破巌坊は倒れ伏した二人の方を見もせずに告げると僧衣を解いて褌の中から幼い子供の腕ほども在る巨大な一物を取り出して唾を塗りたくり、気を失った秋葉太夫の足の間に入り込んで腰をぐいと前に突き出す。

「うおおっ、これは凄い!」

腰を進ませ魔羅を女の中心へと突き入れた破巌坊は今までに味わったことの無い、感覚に思わず声を上げていた。
痛い程の締め付け同時に胎の中に何かを飼っているかのように蠕動する肉壁の感触が身を包み、百を越える女を味わってきた破巌坊にさえ未知の快楽を与えている。
その快楽に導かれるように懸命に腰を動かす破巌坊だが余りの快楽に早々限界が訪れた。

「ぐっ……ぐああああ!」

息を吐き、己の情欲をその美しい裸身の奥に吐き出そうとした瞬間、凄まじい痛みが破巌坊の体を襲った。
慌ててみれば下を見れば秋葉太夫の中に納まった一物がどんなに力を入れても動かない、否動かそうと力を入れれば入れるほどそれが痛みになって返ってくる。

「な、なんじゃ?」
「くくく、ただ乗りなんぞ遊女のわっちがさせる訳無いじゃろ」

何時の間に気が付いていたものか、それとも気を失ったのがそもそもの偽りであったか、破巌坊に組み敷かれた秋葉太夫はその身を起こして艶然と笑っていた。
驚きに眼を見開いた破巌坊の目の前でその身を翻して立ち上がる秋葉太夫、一つ大きく跳躍して距離をとると自分右手を股座に突っ込み何かを取り出して足元に投げ捨てる。
びちゃりと音を立てて放られたそれは先端が膨らんだ肉の棒であった。
その肉塊を秋葉太夫は踏みにじる、ぐしゃりという嫌な音を立てて潰れたそれは破巌坊の一物であった。

「う、ううおおおお! 魔羅が儂の魔羅があああ!」

股間から流れる血を抑えながら絶叫する破巌坊の様子を眺めながら、秋葉太夫は言葉を連ねる。

「わっちに断り無く入り込んだんじゃから魔羅の一つも安いもんじゃろ、それに今の一瞬まで天上の快楽を味わったんじゃ、これより先に今以上のものなどありんせんからな充分にお役目は果したじゃろうよ」

くつくつと笑いながら世の男が聞いたなら驚愕で顎を外さんばかりの台詞を痛みの中で聞かされた破巌坊の怒りは如何ほどのものであろうか。
左手で股間からあふれ出る血を抑えながら右手一本で九節棍を操り、秋葉太夫に襲い掛かる。
凄まじい勢いで振るわれた九節棍に対して武器を持たぬ秋葉太夫は如何に受けるか、その腕で受けようものなら肉は爆ぜ骨は砕かれよう、かわすにしても縦横無尽に振るわれる錫杖から何時までも逃げ切れるものではないのは先程の攻防からも明らかだ。
眼前に迫る九節棍の穂先は既に避けられる距離と間ではない、それを承知か秋葉太夫は両手を背に回す。
次の瞬間秋葉太夫の目の前にはその半身をすっぽりと覆う円形の盾が出現していた、否盾では無い、広げた長さが三尺に及ぼうかという巨大な鉄の扇、大鉄扇が二挿し秋葉太夫の両手に握られていた。
弾き返された九節棍を手に収めて秋葉太夫を睨みつける破巌坊と広げていた扇を畳んで戻すと破巌坊を睥睨する秋葉太夫、互いの双眸は相手の一挙一動に向けられている。

「気を失っておったのは芝居か」
「満更芝居って訳でもありんせん、流石にああも見事にやられては気も遣ろうというものよ、あそこで止めを刺しておればお主の勝ちじゃったろうがあの子達のお陰でわっちを抱く気になったんじゃろ」

秋葉太夫にそう告げられると視線だけをまだ倒れたままの二人に飛ばす、実の所破巌坊は気を抜けぬ相手である秋葉太夫には早々止めを刺して、残った二人を慰みにする腹積もりであった。
しかし、気を失ったと見えた秋葉太夫を助けようと己の力量も弁えずに飛び込んできた二人を見た時に、秋葉太夫は真に動けぬと勝手に判断してしまった、そして一度そう判断すればこれ程の女の味を一度なりと味わってみたいという欲求に抗えなかったのだ。

「ぬぐぐ、してやられたわ、まっこと儘成らんものよ」
「気にするこたあ無いじゃろ、良い女に騙されるのは男の常じゃ」

ぬうと立ち上がった破巌坊の股間からは赤い血が止めど無く溢れているが、それを気にせずに錫杖を構え直して素早い動きで叩きつけてくるのを迎え撃った秋葉太夫は折り畳んだ大鉄扇で受け止めた。
先程までなら力で押し切られていた場面だが、今の一撃は前腕までを利用してはいるが片手で錫杖を受け止める事に成功する。
秋葉太夫はその大鉄扇を自在に操る事からも分かるとおり実はかなりの力自慢である、それも当然で普段から着ている着物の重量は普通の太夫が着ているもので精々が五貫、しかも御付に裾を持たせてゆっくりと動くのがやっとであるのを、秋葉太夫は八貫に及ぶ豪奢な代物を着て共も連れずに其処彼処を軽い足取りでうろちょろとしている。
それだけの下地があってこそ振るえる大鉄扇の頑丈さと重さを持ってようやく受け止めることが出来た破巌坊の振るう錫杖の一撃だが、この一撃は明らかに先程までよりも威力が無い、理由は単純で一物を切り取られた為に丹田に気を入れることが出来ないのだ。
本来丹田に力を込めて振るわれるべき一撃だが、丹田に力を込めれば込めるほど流れる血の量が増す、故に込められる力は通常の七割が精々である。

「わっちの勝ちじゃ」
「ぐぬうっ!」

双方ともに実力は十二分、生きる事に対する執念もまた互角、故に生きる為に全力で振るわれる力と生き残る為に及び腰となった力では差が生じる。
片手で錫杖を受け止められるならばもう一方は攻め手に使える。振り上げた鉄扇を広げて斬り下ろされた一撃を長物では捌けないと見て、九節に変化させた錫杖で受け止める、しかし次に繰り出されたもう一方の鉄扇の刃が棍を繋ぐ鎖を断ち切った。
破巌坊は鎖が切られた事でバラバラに成る九節棍、使い物に成らなくなった錫杖を投げ捨てると直ぐ間にいる秋葉太夫に掴みかかる。
捕まえさせすれば、腕力にものを言わせて締め上げ息の根を止めてくれると差し出された両腕であったが秋葉太夫を掴む直前で鉄扇が翻り鋭い刃が丸太のように太い両腕の手首から先を切り落とす。
両の掌がボトリと地に落ちたのと同時に手首の切断面から鮮血が噴き出して前にいた秋葉太夫の全身を朱に染める。

「があっ、ぎっざまあっ!」
「往生しな」

全身を鮮血に染めた秋葉太夫の顔に浮かんだ表情は、まるで死出の旅に出る亡者を送る地蔵菩薩のような薄い微笑である。
その表情を垣間見た破巌坊の脳裏に何故か記憶に無い女の泣きそうな顔がよぎった、自分の頭を埋めた女の顔と喉に食い込む鋼の刃の感触を最後に味わって、破巌坊は涅槃へと旅立っていった。

「極・楽・往・生」

その顔は何故か満足そうな笑みに彩られていた。

破巌坊の首を飛ばした秋葉太夫は片膝付いて荒い息を吐いていた、何とか勝利を捥ぎ取ったとはいえ、打撲に擦過傷は数知れず、動くたびにずきずきと痛む胸部の感覚から肋骨の何本かには確実に皹が入っている。

「太夫、お怪我は」
「姐さん、傷はどうですか」
「そんな情け無い声だすんじゃないよ、それよりあんた達こそ無事だろうね、無事なら換えの着物を持っといで、あと掃除屋も一緒に連れておいでよ。 ったく商売物の珠の肌にこんなに傷つけちまって如何すんだい」

心配そうに声を掛けてくる妹分の声に対して気丈な声で返事を返して、返り血で真赤に染まった着物を投げ捨てて、こちらも流された血が流れ込んだことで血の池のように赤く染まった湯船に浸かる。
いつも通りの秋葉太夫の様子に安堵の息を吐くと言われた事を片付けに走り出す梢と桔梗を見送って二人の気配が離れたのを確認して漸く息を吐いて肩まで湯に浸かると正面に転がったままの破巌坊の体の脇に転がっている物が目に入った。
良く目を凝らしてみれば、それは志津に集めるように言われた割符と同じものであった。

「はっ、手練が持ってるとは聞いとったが、確かに一筋縄じゃいかんような連中の手にあるようじゃな」

滔々と流れる源泉が何時の間にか湯船の湯を透明に戻していた、湯の中でやれやれとばかりに全身を伸ばした秋葉太夫の朱に染まった体も月光も恥じ入るような美しく白い裸身に返っていた。
月光の中に浮かぶその表情は激闘を辛うじて制したとは思えぬほどに澄みながらも、自らが追う化け物を想ってか瞳だけが剣呑に蒼く輝いていた。



破巌坊 対 秋葉太夫

勝者 立川流扇闘術 秋葉太夫



[13895] 第二幕 第四闘
Name: 小話◆be027227 ID:b35051a3
Date: 2010/02/02 01:17
「そこへ直れぇ!」

町の飯屋で一人もそもそとメザシを食んでいた若い男の耳に行き成り怒声が飛び込んできた。
何事かと飯屋の戸口まで出て顔を覗かせると、道の真ん中で男が二人刀を抜いており、白髪混じりの頭に村の庄屋のような格好をした四十を過ぎたと見える男と睨みあっている。
尤も睨まれているその男は決して庄屋などでは無かろう、なぜなら背に槍を背負っておりその眼光は見るものを射竦めるほどの強い光を放っている。
刀を抜いた男二人もその迫力に及び腰になっているようで仕掛ける様子は見受けられない。
何故こんな状況になっているのかと首を傾げて周りに居る野次馬から途切れ途切れに聞こえてくる会話に耳をすませば、どうやら男二人がなんらかの口論になり双方共に引けなくなった所で槍を背負った男が仲裁に入ったのだが、頭に血が上った男二人が邪魔立てするなと仲裁に男に向かって刀を抜いたと言う事らしい。
その話の通りに年配の男が若い二人に向かって声を掛けた。

「まあ待て、話は聞かせてもらったがそんなくだらん事で腰の物を抜くなど家名の恥になるぞ、此処は双方一旦引いてだな」
「五月蝿い! 邪魔だてするなら貴様から成敗してやろうか糞爺」
「そうだ、これは我等二人の面子の問題だ、関係無い爺が口を挟むな!」

折角仲裁に入ったというのに双方から爺呼ばわりされて渋い顔になった男が尚も諌めようとして口を開きかけたが、その泰然自若とした態度がよほど癇に障ったのだろう揉めていた男の一人が刀を振り上げて斬りかかる。
斬りかかられた男はその一撃を軽く避けると擦れ違いざまに背負った槍を素早く動かすとその柄尻を相手の足に掻けて転ばせる。
槍を背中からおろしもしないで見事に掛かっていった男を転ばせた技量に周囲から歓声が上がるが、それを見たもう一人の若侍は馬鹿にされたと先の転ばされた男よりも更に激昂して槍を背負った初老の男の後ろから斬りかかろうと刀を振り上げる。
その光景を飯屋の入り口からのほほんと見ていた男であったが流石に往来での刃傷沙汰など御免こうむりたい所だ、もっとも今のやり取りを見たところでは年配の男と二人の若侍の間には月と鼈ほどの実力の違いはあるだろう。
そうとはいうものの流石にこれは見て見ぬ振りも出来まいと考えた若い男は、刀を振り上げた若侍の後ろに音も無く忍び寄り自分の腰の刀の柄を背中に当てて語りかけた。

「お前らじゃ相手にならんぞ、悪い事は言わんから此処は大人しく引いておけ。 恥の上塗りはしたくなかろう?」

若い男はそう告げるとそのまま相手の背中を軽く小突いて、先に倒れていた若侍の上に転ばせた。
折り重なって倒れた男達はいがみ合っていたのも忘れて、共に闖入者である初老と若い男の二人を振り返って睨みつける。

「くそっ!」
「貴様ら!」

地面に座る自分達を睥睨するかのように両脇に立つ年配の男と自分達と変わらぬ歳の男を見て矜持が傷つけられたのか悪態を吐きながら起き上がろうとした、しかし肩膝着いた所に若い男が腰から抜いた刀を突きつけてられてその動きがぴたりと止まる。

「往来での刃傷沙汰は迷惑だ、やるなら何処か別の場所でやれ、それなら誰も文句は言わん」

咽元に刀を突きつけられた若侍二人が冷や汗を流しながらコクコクと頷くのを見ると刀を鞘に収めてさっさと行けと顎で指し示すと周りで見ていた野次馬からやんやと喝采が上った、流石に若侍二人も居た堪れなくなったようで捨て台詞も残さずに脱兎の如く走り去って行く。
走り去る男達をやれやれといった風情で見送ってから刀を納めた男に、此方も槍を背負い直した年配の男から声が掛けられた。

「お見事! 若いのにたいした腕だ」
「いえ、余計なお世話を致しました」
「そんな事は無い、それに先程の堂々たる態度、拙者感服つかまつった、名乗りが遅れて申し訳ない某の名は加納清十郎と申す」
「いや此方こそ目上の方に先に名乗らせた不調法をご容赦願いたい、拙者松平信之助と申します」

強者は引き合うのか加納清十郎と松平信之助はこうして互いに割符を持つ身と知らずに出会うことになった。
飯屋に戻ろうとした信之助の後をついて清十郎も店に入る、助勢の礼と一献差し出す清十郎に何もしていないのに興じる訳にはいかないと固辞するが、それなら目上の者の施しを受けられないのかと言い返す。
そうした遣り取りを経た上で共に酒を酌み交わす事となって、基本的に善人の部類に入る二人は夕闇が迫る頃にはすっかり意気投合していた。

「そうですか、主家復興の為に旅をなされておいでとは清十郎殿こそ忠義の鏡でござる」
「なんの信之助こそ友の仇討ちとは、この義無き世になんと立派な志よ」

酒のつまみにと各々が旅の理由を語りそれに其々が感嘆している。親子ほども歳の離れた二人だが互いが互いを認め合っていた。
夜も更けた頃になって看板となった飯屋を追い出された二人は、今夜の宿を決めようと街路を連れ立って歩いていた。

「おい、居たぞ!」

そこへ大声が上がると二人の周囲を囲むように現れた一団があった、その集団の中から出てきたのは昼間に二人が追い立てた二人であった。

「昼はよくも恥を掻かせてくれたな、お礼参りに来てやったぞ」

情けない事を言い切った男たちは一斉に獲物を抜くと二人に向かって襲い掛かる、それを見ていた二人は申し合わせた訳でもないのに同時に前後に動いていた。
清十郎の槍が翻り石突が男達を次々と打擲して行く、信之助は相手の刀を一本奪い取ると刃を返して峰打ちで倒してゆく、多少の酒が入った所で二人にとって徒党を組まねば自分達に掛かって来られない様な輩は敵にも値しない。
僅かな時間で昼間の二人以外の人間を打ち倒すと、其々面と向かって掛かって来いと挑発する。
その挑発に乗った二人が掛かってくるのを他の連中を倒したのと同様に一蹴する清十郎と信之助だが、その際信之助の懐から転げ出た物があった。

「信之助、何か落としたぞ」

信之助の懐から落ちた物を拾い上げて渡そうとした清十郎の動きがピタリと止まる、それを訝しげに見た信之助に清十郎から途轍もない剣気が叩きつけられた。
その剣気に反応し手にしていた刀の刃を返して正眼に構える信之助とその信之助を見ながら手に持った割符を握り締める清十郎。

「信之助、御主どうしてこの割符を持っておる?」
「清十郎殿? 何を……」
「答えよ、何故この割符を持っておる!」
「その割符こそ我が友の仇に通じる唯一の手掛かりですゆえ、彼方こそ何故その割符を気にするのです?」
「そうか、ならばこの割符の意味も知っておるな?」

此処まで聞いて信之助は清十郎が言おうとしている事に気が付いた、割符を受け取った際に聞いた、九枚全ての割符を集めればどんな願いも叶えようという使者の言葉を思い出す。

「清十郎殿もその割符を持っているという事ですか」

逆に問われた清十郎も己の懐に手を入れて同じ割符を取り出すと並べてみせた、それは確かに一枚の意匠を九つに割った割符の一枚であった。
清十郎は悲願である主家の再興をこの割符に託し、信之助は友の仇に繋がる手掛かりとしてこの割符を欲していた。
互いに譲れぬ思いの元この修羅の道に足を踏み入れた以上は己の意思を貫き通さねばならない。
その意思が二人の間に無言の静寂を生み出した、二人の間にある空気が凍るような静けさの中でその後ろからそっと迫る影があった。
今しがた叩きのめされた男二人が睨みあいを始めた清十郎と信之助を討とうと襲い掛かったのである。

「死ねえ!」

異口同音に叫ぶ二人の男であったが次の瞬間一人は心臓を一突きにされ、いま一人は腹から上下に両断された。
それをやってのけた二人の視線は死んだ人間に向けられる事は無く互いの一挙一動に油断無く注がれており、相対した二人の体から何か得体の知れ無い圧力が周囲に放射されていた。
僅かな刻が流れて清十郎の体から剣気が抜ける、ほうと息を吐くと信之助が持っていた方の割符を投げ返して静かに口を開く、その口から漏れた声音は冬の雪原を渡る風のように鋭く冷たいものであった。

「明日の夕刻、河原の刑場で待つ」
「どうあっても引けませんか?」
「引けん! お主が引かぬならばこれより先は問答無用、儂が生き残るかお主が生き残るかの勝負と心得よ!」
「承知申した、某にも引けぬ理由がある以上はこれも天命と存ずる」

互いに引けぬ武士の意地と願いがあるのなら、そしてその願いの前に立てるが唯一人ならば武人として雌雄を決する以外に道は無い、その覚悟を決めた上は何を置いても全力を持って勝利する気概をもって相対するのみ、死合を申し合わせて歩み去る二人の背中が遠ざかり闇へと消える。
そして目の前であっさりと人が死ぬ光景を見た上に二人から発せられる殺気に金縛りになっていた他の男達は、二人の姿が消えると同時に悲鳴を上げながらほうほうの体で逃げ出した。
後に残ったのは月光に照らされた二つの骸と濃厚な血の臭い、そして硬質に冷えた空気だけであった。


あくる日の夕刻、町の側を流れる河原に据えられた刑場に二つの影があった、片や鎧兜に身を固め手には朱塗りの豪槍を握り締めた加納清十郎。
今一方は普段どおりの着流しに今回ばかりは伽半を履いて腰に大小の愛刀を挿した松平信之助。
二人は刑場に設えられていた獄門台に自分の持っていた割符を乗せると五間の間をとって対峙した。
清十郎は朱槍を中段左半身前構えにとり、信之助は右手に太刀、左手に小太刀を抜いて両手を自然に下げた両下段構えに構える。

「大膳流槍術、加納清十郎、参る!」
「天真神刀流、松平信之助、望むところ!」

相手に敬意を払っても遠慮は無用、互いを対等の敵と認め合った上で己の勝利に邁進すると心を定めて立ち会うのみ。
名乗り上げた瞬間先に動いたのは清十郎であった、声を上げると同時に一足を踏み出し家伝の朱槍を突き出す、風を捲いて襲い来る槍の穂先は狙い違わず信之助の心臓を刺し貫くべく一直線に刺し出された。
その穂先が体に吸い込まれようとした直前、信之助の左手に握られた小太刀が翻り軌道を逸らされる、狙いを逸れた槍は信之助の左肩の着物を僅かに裂くに留まった、清十郎の一撃を迎え撃った信之助は此方の番とばかりに右の太刀を逆袈裟の軌道で槍を持つ腕を狙って斬り上げる。
小指の一本、腱の一筋も断ち切れれば如何に得意の武器とてその扱いは途端に難しくなるだろう、互いの腕前が拮抗しているなら優位を築くには有効な一手だろう。
空気を断ち切りながら繰り出されたその一刀は、しかして篭手の表面を浅く傷つけるに留まった、瞬時に狙いを看破した清十郎が腕を捻って切っ先を篭手で受け流したのである。
双方共に地を蹴って再び間合いを取って睨みあう、清十郎の構えは変わらずだが新之助は左半身になり左正眼、右脇構えに構えをとった。
信之助のこの構えは踏み込みに併せて左の小太刀で清十郎の槍を裁き右の太刀で斬り込む事を目的とした自ら攻め込む為の構えである、正しこれでも間合いの違いから先に攻撃を仕掛けられるのは清十郎である事は疑いない、いわば相手に攻撃を仕掛けさせる為の構えといえよう。


清十郎は背中に冷や汗を掻いていた、二刀流事態が珍しい事もあるが本来刀は二腕一刀をもって振るうものである、それを一腕一刀で自在に操るには常人に倍する腕力とそれ以上の技量を持っていなくてはならない。
そして目の前の敵は双方を間違い無く備えている兵である、その驚嘆すべき剣技の一旦は今一瞬の攻防において身を持って知った、己の全力を以ってなお勝利を危ぶむのは実に久方振りの感覚であった。
一方の信之助もまた驚愕に心を震わせていた、対峙した時より否昨日の遣り取りから清十郎の技量を推し量ってはいたものの実際に打ち合ってみた実力は己の推測を遙に凌駕する、清十郎が必殺の攻手を繰り出した瞬間の僅かな隙を狙って後の先を取ったはずの一撃が、無論のこと初手で決着が付くなど考えても居なかったが、それでも手傷の一つは負わせられると踏んでいた一撃が僅かに篭手を傷つけただけで易々とかわされたのはつまりそういう事だ。
こうして再び対峙すれば相手の姿が一回り大きくなったように感じる、双方共に同じ感覚を持ち同様に額から一筋の汗を零した。
二人共に対峙した状態からすり足で僅かに間合いを詰める、当然槍と刀では槍のほうが間合いは広い、武術とは突き詰めればこの間合いの取り合いといっても過言ではないだろう、如何に自分の得意な間合いで有利に立ち会うかを競うといっても良い。
そして二人の眼には互いの間合いがまるで球体のように見えていた、その端と端がほんの僅かに重なった瞬間まるで弾かれた様に双方共に地を蹴った。

「いえええいっ!」

清十郎の攻撃は刹那の間に眉間、咽、鳩尾、両肩を狙った五連突き、突いて引く動作を繰り返しながらその穂先はほぼ同時に突き込まれたと見える速さとその一撃一撃に十二分な威力が乗っている。
初手の眉間突きは首を振ってかわし、次手の咽突きを体ごと捻ってかわす、三手の鳩尾突きに左の小太刀を合わせて軌道を逸らし、四手の左肩は更に一歩を踏み込むことで狙いを外し、五手の右肩は右の太刀を持って受ける。
五連突きを受けきった信之助は左の小太刀を閃かせて清十郎の鎧の隙間を狙って突きを繰り出した。
必殺の意志を込めて放った五連突きを受けきられた清十郎ではあったが既に驚愕は無い、なぜなら先程の攻防から信之助の技量を推し量ったならば、五手全てをかわしきるのも驚くに値せず、こうして反撃の一手を放ってくるのも寧ろ当然と考えていた。
故に自分もこの反撃の一手は見切っている、槍を突いた姿勢から手首を返してその手を中心に槍の軌道が円を描くように操り、自分に迫る小太刀を半回転させた槍の柄で打ち払うとそのまま石突を下方に突きいれる。
槍といえば穂先に注意が行きがちだが実体は棍と同じ長柄武器だ、両端を含めた全体が一つの槍という武器なのだ。
突き込んだ小太刀が払われた瞬間に信之助の背中に怖気が走った、目の前の槍は自分の小太刀を払ったお蔭で立てられている。次の一手は振り下ろしか横薙ぎと見ていたが石突を足の甲へと突き下ろしてきた。
踏み込んだばかりの足は到底その一撃をかわせない、そして石突とはいえど足の甲を突き破り骨を砕く威力がある。
そうなれば新之助の敗北は確定である、動けぬとは云わないが動きに支障が出るのは間違いない。
互いに互角と思えばこそ相手に対して少しでも有利になるようにと信之助が清十郎の指を狙ったように、清十郎は信之助の足を狙ったのだ。

「ちいっ!」

清十郎が足を狙うなら信之助は腕だ。
これはかわせぬと悟った信之助は足を持っていかれる代わりとばかりに、小太刀が弾かれた勢いを利用して右手に持っていた太刀を強引に清十郎の左腕を切り落とそうと叩きつける。
この反撃は二刀使いだからこそ出来た攻め手であろう、一刀を弾かれたならばその弾かれた一刀を持って次の攻め手にしなければならないが二刀流ならば弾かれた隙を反対の一刀で補える。
足の甲と腕一本では釣り合わぬと見て取った清十郎は突き入れる速度は変わらず、それでいて自分の左側から迫る太刀を受ける為に突き下ろす槍の軌道を僅かに逸らせた、刀の鍔元を抑えて攻撃を封じながらも突き込んできた石突が信之助の足に捲いた伽半を千切り脛の皮を抉り取って血を噴出させる。
信之助の一撃は清十郎の左腕を斬ることは敵わずに槍に受け止められた、それでも確かに届いた刃は着こんでいた鎧の袖を断ち割り腕に浅い傷を負わすことには成功する。
じわりと滲み出る血が着物を濡らすがこの程度の痛みなど何の支障も無いとばかりに槍を回転させて信之助の足元を掬う、流石にこれをかわす事は出来ずに足を掬われて回転する信之助、そのまま地面に落下した身体に槍の穂先を突き立てようとするが信之助はそのままごろごろと地面を転がりその一刺しから辛うじて逃げ延びる。
すぐさま追撃を繰り出すがこれもギリギリで当たらず身体を掠めたに過ぎない、回転の勢いを利用して立ち上がった信之助ではあったが全身は土で汚れ、致命傷になるような傷ではないが流石にあの態勢で攻撃をかわしきるのは不可能で脇腹や胸の脇あたりの着物が裂けて血が流れている。
間合いを取り直して再び対峙する二人であったがそれも一瞬のこと、全身を撓ませた清十郎が一足飛びで突き込んできた。
身体そのものを一本の矢とかしたが如き鋭い突きであったが、この突きは易々と見切られてかわされた、しかし突きの態勢から槍が弧を描き石突が横薙ぎに信之助を襲う。
この薙ぎを受けた信之助が反撃に移ろうとするが、そこに頭上から穂先が斬り下ろされる。
咄嗟に刀を交差して切り下ろしを受けることに成功するが、次の瞬間には石突が足元から振り上げられて股間を狙っていた、それも交差したままの両刀を持って受け止める。
そして受け止めた槍を払おうとするが、その瞬間には穂先が横から迫っていた。
清十郎は自分の身体の中心に支点をおいて槍の両端を自在に変化させての左右からの薙ぎ、上からの斬り下ろしと下からの斬り上げ、これに斜めの動きも加わえた八方からの乱撃を繰り出した、しかも一撃一撃が必殺の威力を持った攻撃が次々に信之助を襲う。

「くっ!」

息も吐かせぬ連続攻撃を両腕に構えた二刀を持ってして尽く捌くが防御するだけで手一杯になってしまい反撃に繋げる事が出来ない、手数ならば二腕を以って振るう信之助の方が優位のはずがそれを覆すだけの鋭さと速さ、それに伴う弧円を描く槍捌きの凄まじさよ。

「かああっつ!」

共に気合の声を上げながら打ち込む清十郎と受ける信之助。
一方的に攻め続けていると見える清十郎であったが驚嘆の念を禁じえない、この技は戦場を行く清十郎が多対一を覆す為に編み出した奥の手といってよい技であった、その技を相手に既に数十合を斬り結び乱撃を凌ぐ信之助の技量もまた尋常ではない。
互いに譲らぬ攻防を続ける二人だが、千日手となるかも知れぬと仕切り直しを頭の片隅に思い浮かべた清十郎が微かな違和感を覚えた。
先程まで清十郎の攻撃は二刀を持って受け、捌いていた信之助が何時の間に一刀で捌き始めていたのだ。
まだまだ攻勢に出られる程の余裕は無いが、それでもこの短時間で順応し対処し始めている、つまりこの戦いの最中に措いて力を増しているという事だ。
このことが清十郎の焦りを生んだ、時が過ぎればすでに老境に差しかかった自分よりも二十は若い信之助の方が体力的には優位、更に此処に来て此方の攻撃に対応を始めている以上はこのまま打ち合えば何れ自分を凌駕するのは間違い無い、ならば今此処でこのまま決着を付けねばならぬと最後の技を繰り出した。

「いぇ鋭っ!!」

最後の技は突きである、今迄の乱撃は須らく周囲から襲い掛かる円弧を描く線の攻撃である、これに慣らせておいて点の攻撃である突きを繰り出す。
無論、突きの構えなど取らずに横薙ぎを払われたその軌道を利用して腰の後ろで水平に持ち替えた槍を身体を捻ると同時に背中越し突き出す、正に乱撃の線の中での一点である隠し技のこの突きに対応出来る人間は居ない、突き出された槍は狙い違わず信之助の腹に突き刺さった。

「がああっ!」

否突き刺さるはずだった、腹に深々と突き刺さるはずの穂先は三分を突き込んだ所で斬り飛ばされたのだ。
それは正に一瞬の閃きであった、清十郎が最後の一撃である突きを見舞おうとした考えた時に放たれた横薙ぎを受けた瞬間に信之助の中に微かな違和感が走った、それはその一撃が今迄の攻撃よりも僅かに、そうほんの僅かに軽かった事だった。
この乱撃の中一撃の威力は増しこそすれども弱まる事は無かったのがこの一撃だけが違う、ならば次に来るのは今までに無い一撃と本能が告げた、それに従って無意識のうちに身体が反応する、八方から迫る攻撃以外の攻撃それ即ち中心を貫く一点の突きと山を張りその軌道に小太刀を振り下ろした、これは正しく己の感を信じた一か八かの賭けであった。
迅雷の如く突き込まれた槍の穂先はその速さゆえに信之助の腹に傷を刻んだ、しかしその切先が腸に到達する寸前で振るわれた小太刀に柄の部分を切り落とされて威力を減じてしまう。
信之助は賭けに勝ったことを知る、これをまともに受ければ腹を貫かれて終わっていたはずが僅かな傷で済んだ上に反撃の好機を齎せてくれた。
当然その好機を逃すわけにはいかない、槍の柄を切り飛ばすと同時に横に振るわれた太刀が清十郎の胴鎧を斬り裂き胸部に一文字の傷を刻んだ、そして穂先を失った槍はそのまま突き出されて信之助の胸を打って弾き飛ばした。
再び両者の間合いが広がる、信之助の腹に刺さった穂先は飛ばされた時の衝撃で抜け落ち赤い血が流れ出しており、打ち付けられた胸はズキズキと痛む、恐らくは肋骨に皹が入ったのだろうが動く事には支障無い。
片や清十郎は断ち切られた胴鎧は最早無用の長物として脱ぎ捨てると穂先を失った槍を構えた。

「まさか勝負あったなどとは言うまい?」
「無論」

双方共に戦える以上武器や鎧の有無などなんの意味も無い、しかし次の攻防が最後になるであろう事も二人は悟っていた。
清十郎は上段に、信之助は両手を前にした両正眼に構えた、双方共に攻める為の構えである。
力を込めて信之助が地を蹴って迫る、迫る勢いに合わせて清十郎の槍が上段から突き出されたのを右の太刀で叩き落し更に一歩を踏み込み左の小太刀を振るう。
清十郎は叩かれた槍を回して小太刀を防ぐと、再び弧円の陣を繰り出したが今度は初めから一撃を一刀で凌がれる、これを見た清十郎は信之助が確かに腕を上げているとの考えを強めた。
だが腕を上げたというのは正確ではない、正しくは対応が可能になったという事でこれは信之助の基本戦闘が二刀流であることが理由に挙げられる、二刀流は両腕に持った二刀をそれぞれ攻防において縦横に使いこなす柔軟な姿勢と思考が必要である、故に信之助の即応能力は並の強者と比べても高かったのだ。
つまり清十郎の動きに慣れてきたといっていい、これに加えてもう一つの理由として此処に来て年齢による体力の差が現れた、傷を負っているのは信之助だが年齢による衰えからくるものは誤魔化せない。
並の相手ならばそのような衰えを感じる間も無く叩き伏せる事が出来る、しかし自分と互角に戦える人間を相手にした時の身体と心の疲れは凄まじいものがある。
無論信之助も同様に己をすり減らしてはいる、しかしさっきの攻防で勝負を決める積もりだった清十郎は一気に気を吐いた事で自分でも気付かぬうちに己の身を削っていたのだ、それ故に僅かではあるが槍を振るうその腕から鋭さと覇気が減少していた。
この二つの要因が重なったことで出来た微かな勝機を信之助は見逃さなかった、数合を切り結んだ所で振るわれた槍の一撃を信之介は更に一歩を踏み出して間合いを潰すことで力の乗る先端ではなく根元近くを態と受け止めることで威力を殺すと共に反撃に出た、槍の動きが一瞬止まった、その瞬間に信之助は清十郎の咽と腹を狙って双突きを見舞う。
これを見て取った清十郎は飛び退こうとするが、槍を持ったままではその槍が退く動きの邪魔になり刃から逃れられぬと判断して咄嗟に槍を捨てて飛び退く、それと同時に追撃を警戒して腰の脇差を抜いて構えた。

この瞬間に勝敗が決した。

勿論、清十郎とて脇差の扱いは心得ている、雑兵の十人や二十人なら脇差一本あれば問題無く倒せる技量はあるだろう。
しかし目の前に立つのは当代一流の二刀使いである、好機を逃すまいと風を捲いて迫った信之助の小太刀が清十郎の右肩を貫き血飛沫が舞い散らせる。
腕の一本は安いものとばかりに同時に清十郎が振るった脇差であったが、その攻撃が信之助の身体に到達すると見えた寸前に翻った太刀が左肩を切り裂いて付け根から腕を落とす。
切り落とされた腕に握られた脇差は信之助の脇腹を抉ったが、それは致命の一撃とはならなかった。
信之助は返す刀で清十郎の腹を十字に斬り分けて二刀を腰の鞘に収める。
キンという鍔鳴りの音が響くと同時に清十郎はそのまま両足を折った。
己の腹から流れる血と臓物をその目にしながらも清十郎は毅然とした声を上げて信之助に告げる。

「見事、この身は既に鬼籍に逝くのみだが介錯を願いたい」
「承知、何かありますか」」

小太刀を収め清十郎の後ろに立った信之助は太刀を上段に構えると末期の言葉を問いかける、それに対する返答は何とも潔いものであった。

「無い、敗者は全てを失うは世の理よ」
「然らば……御免!」

言葉と共に振り下ろされた刃が首に刃を立てた瞬間、清十郎の脳裏に焼け落ちる城を落ち延びた日から今日までの記憶がまざまざと蘇った。
幼い若君を守り育てそして御家再興を夢見てこの戦いに参加した、しかしそれは実の所滅びた主家の為などではない、ただ愛しい我が子の為に命を賭けただけの行いではないか、己の命が終わる刻に漸くその事に気がついた清十郎は最後にポツリと呟いた。

「若、爺はこれまでですがどうぞお幸せに……」

落とされた首は最後に何かを呟いたようだが、その声は茜色の空へと吸い込まれて誰の耳にも届くことはなかった。



武士の子弟が十五の歳を数えることにより元服して一人前の成人として扱われる、今日のこの日に一人の男子が元服式を執り行った。
尤も元服式は言うものの武士でありながら烏帽子親も居らぬ寂しい式ではあった、しかしその若者は気にも留めない。
自分が生涯の目標とするのは自分を此処まで育ててくれた養い親と義姉である、故に己の為に精一杯に用意してくれた式に不満など有ろう筈が無い。
ならばこそ自分が名乗る名には実の親と養父の名から一文字を貰って自ら決めた。

「義母上、義姉上、私は今日より名を加納清愁と改めまする」

旅に出た養父に成り代わり加納の家紋と家族を守るのが己の務めと定め、その姓を継ぐ事を決めた男の新たな門出であった。



加納清十郎 対 松平信之助

勝者 天真神刀流 松平信之助



[13895] 第二幕 第伍闘
Name: 小話◆be027227 ID:b35051a3
Date: 2010/03/07 16:07
女三人の一行が京を目指して旅を続けていた、三人が三人とも京の都にもそうは居ない美女ばかりである、当然のように人目を引くであろう一行は遊郭桜花楼の遊女、秋葉太夫と御付の梢、桔梗の三人である、もっとも現在この眼福に与っているのは残念な事に当の本人たちだけである。
秋葉太夫と並んで歩く桔梗とその一歩先を行く梢の三人は若葉萌える新緑の中を周りの景色を楽しみながら、小鳥の唄と虫の囁きを先導にして川縁の道をのんびりと歩いて行く。
暫くの旅の道行を楽しんでいると一行の前方に一人の老人が重そうな荷物を背負ってヨタヨタと歩いているのが目に入って来た、覚束ない足取りでえっちらおっちらと歩く姿を見た梢が足早に寄って声を掛ける。

「お爺さん荷物重いでしょ? 支えてあげる」
「お? おおこりゃご親切にどうも、支えてくれるのはありがたいがそれよりもこいつは如何かな」

声を掛けられた老人はどうやら行商人らしく驚いた顔をして礼をいうと背負っていた行李を下ろして道端で荷物を広げてみせた、その行李の中には色とりどりの簪や櫛などの装飾品が納められており、見事な輝きを放っている。
それを見た梢が眼を丸くして驚いていると、後からやってきた秋葉太夫と桔梗もその荷に驚いてしげしげと眺め見る。

「さあさあ、そちらの別嬪さん方もどうだい、こりゃ一寸した細工物だよ」

好々爺とした物腰で盛んに商品を進めてくる老人とその老人の態度に対して苦笑いを浮かべつつも近寄ると道端に広げられた装飾品の数々を覗き込んであれこれと話し出す三人。
幾つかの品物を手にとってみると並べられた装飾品は全て見事な作りの物であると知れる、赤黒の漆が塗られたもの、鼈甲の細工物、無垢作りでありながら細やかな装飾が施された物等、秋葉太夫が桜花楼で身に着けている簪一本で一両を超える様な高級品と比べても遜色無い品揃えである。
流石にこんな場所でこれほど見事な装飾品に出会えるとは思っても見なかった三人は色々と見比べてみる、特に梢などは大はしゃぎだ。

「こりゃまた見事な品物じゃのう」
「京に売りに行く途中でさ、お公家様にも御用を言い付かる職人のもんで」

しげしげと商品を眺めた秋葉太夫が銀の台に翡翠の飾りが美しい簪を手にすると、行商人が買ってくれるようにと促してくる、値段を聞けば驚くほどとは言わないが市価の八割程で売るという。
この話を聞いた梢と桔梗は既に漆塗りの櫛やら組紐やらを手にとって巾着を取り出そうというのか着物の袂に手を入れていた、その姿を見て顔に苦笑いを浮かべる秋葉太夫。

「其方様もお一つどうですかな?」
「そうさね、一つ貰おうかの」

老人が薦めていた銀の簪とその手前にあった白甲の簪も手に取って秋葉太夫はにこやかに微笑みながら他の二人と同じように袂に手を入れる。

「それじゃあこいつが代金……じゃ!」

鋭い声と共に袂から出された腕には金子の代わりに鉄扇が握られていた、びょうという風切り音とともに老人の首目掛けて振るわれた鉄扇は狙い違わずにその首を圧し折った。
ごきりという嫌な音が響き笑顔を貼り付けたままの頭を乗せた首があらぬ方向に曲がってくたりと力無く垂れ下がる。
秋葉太夫が暴挙に出た瞬間に梢と桔梗の二人も懐から短刀を抜いて老人の身体へ突き立てた、更に追い討ちとばかりに首を折った鉄扇を広げた秋葉太夫は行商人の骸を二つにしようと切り掛かる。
振るわれた鉄扇の刃が行商人の身体を二つに裂こうとした時、既に動かぬはずの老人の身体が蜻蛉を切って宙へと飛び上がり河の中に突き出た岩の上に着地すると大声を上げた。

「なんと酷い事を御主ら追いはぎの類だったかい!」

骨が折れたことで支えを失った老人の首が胸の前でぶらぶらと揺れながらも罵りの言葉を口にする光景を見て驚愕する梢と桔梗をよそに秋葉太夫は毅然として言い返す。

「おふざけも程々にしときんす、そんな匂いを纏わりつかせて本気で気がつかれないと思った訳でもないじゃろ?」
「……血の匂いは消した筈だったがな」
「血の匂いは消せても、体に染み付いた死臭は消せんよ」
「クカカカ成る程な、それに気が付くお前も俺と同類か」

声の調子が変わった老人の身体が岩の上で音も無く立ち上がる、すると其処に現れたのは先程の老人とはまるで違う上半身は肩から指の先までを布を捲いただけの格好で軽衫を穿いたざんばら髪の男、朧丸であった。
朧丸の手には笑顔のままの行商人の首が乗せられており、まるで女童がお手玉でも楽しむようにくるくると弄んでいる。
朧丸を見た瞬間秋葉太夫は全身に雷が落ちたような衝撃を味わっていた、目の前にいるこの男こそ自分の村を滅ぼしたあの化け物である。
確かに一夜の間の僅かな記憶しかないが、仇敵たるこの化け物を見間違えることなど有りはしない、何故なら自分が此処まで生きてきた理由そのものが今目の前にいる怨敵を討ち滅ぼすことであるからだ。
そして今対峙してみてあの遠い日のあの真紅の光景がまざまざと脳裏に蘇り恐怖が浮かぶと同時に、この男の姿を前にして遂に仇を討てる機会を得た歓喜もまた全身に湧き上がり秋葉太夫は笑いながら叫んでいた。

「あっははは漸く会えたねえ、この化け物が!」
「ん、俺を知っているのか?」

漸く会えたと叫ぶ秋葉太夫に対して朧丸は首を傾げた、およそ自分を知っているような人間には見えなかったからである。
自分を知っている者など同じ里の人間か、さもなければ自分と同様の忍びなら噂ぐらいは耳にしたこともあるかも知れない、しかし目の前の女を見る限り確かに腕は立つようだが身のこなしから忍びでは無いと判断できる。
そうなると自分を知っている理由に皆目検討がつかないのだが、どうせ此処で朽ち果てる命に過ぎぬ以上は気に掛ける意味も無い。

「まあ如何でもいい、どうせお前は此処で死ぬ」
「はっ忘れてるってんなら思い出させてやる、わっちの村を滅ぼした化け物が!」

この台詞でどうやら昔手慰みに滅ぼした村の生き残りのようだと検討がついた、皆殺しにしたつもりだったがどうやら生き残っていた人間が居たらしいと思い至る。
実際には朧丸自身が態と見逃したのだが、それも単なる気まぐれに過ぎなかったので覚えてもいないのだろう。

「カカ、喰い残しが健気にも仇討ちとでも言うか? 滑稽よな折角拾った命なら脅えながら生き長らえておれば良かろうに」
「はん! 冗談をお言いじゃあないよ、わっちはあんたを殺す為に生きてきたんじゃ此処で退く道理はありんせん」

二人の間で見る見るうちに殺気と緊張が高まってゆく、すでに周囲の気配は氷の如く冷たく凝固し先程まで生命の賛歌を歌っていた鳥や虫は息を潜めて静まりかえっている。
小川の音だけがさらさらと流れる中で一陣の風が木の葉を舞い落とした。
新緑の葉が二人の間にひらりと舞って千切れて消える、朧丸の鉄杭と秋葉太夫の簪が一枚の木の葉によって出来た僅かな死角から相手を襲うべく同時に放たれたのだ。
全くの同時、同速で打ち出された鉄杭と簪は僅かな軌道の違いをもって空中で咬みあう事無く相手に襲い掛かる、しかしこんな小手試しの投具など双方共にかわすまでも無い、秋葉太夫は閉じた扇で叩き落し朧丸は裏拳で打ち払う。
同時に朧丸が岩の上から跳躍する、その軌道は低く水面を渡る風のような速度で秋葉太夫の眼前まで一気に迫ると鳩尾目掛けて下から拳を突き上げた。
秋葉太夫は鳩尾に迫る拳を広げた扇で受け流すと、簪を投げた後に取り出していたもう一本の鉄扇で目の前に居る朧丸に斬りかかる。
自分の拳が相手の鉄扇に阻まれるのは予想していた、しかし相手の舞うような動きはその一つ上を行き受けられた拳が脇へと流される、そして受け流した相手は己の脇に滑り込んで一撃を与えようと鉄扇を振り下ろしてきていた、扇の縁が鋭い刃になっている鉄扇をその身に受ければ腕の一本など簡単に地に落ちよう、それならばと此処は流された態勢をそのまま利用して一気に脇を駆け抜けて背後に回る朧丸、その両腕には鉄杭が握られていた。
首を切り落としてやろうと振るった鉄扇であったが、その一撃は虚しく空をきった、その直後自分の背後に殺気が膨れ上がるのを感じた秋葉太夫は振り下ろした勢いそのままに着物の裾を割ると陽光に白く反射する艶かしい大腿部を惜しげも無く晒して真後ろに蹴りを放つ、鈍い音がすると同時に足に壁を蹴ったときに似た感触があって秋葉太夫の体は前方に大きく跳び出した、その飛び出した瞬間に垣間見えたのは両腕を十字に組んだ朧丸が一歩下がった所であった。
秋葉太夫の後ろに回った朧丸は両手に持った鉄杭を相手の身体に突き立てる積もりであったが、思いのほか反応の良い秋葉太夫が咄嗟に前方へと身体を投げ出して此方を蹴りつけてきた
その蹴り足を咄嗟に腕を十字に組んで防いでそのまま鉄杭を飛ばして串刺しにしてやろうかと目論んだが、華奢な見た目に反して中々に重い一撃であった為に思わず一歩蹈鞴を踏んで下がってしまった、並みの武芸者の感性ならば女に一撃を貰って後退するなど屈辱を覚えるかも知れぬが朧丸はそんな感覚には縁が無い。
単純に自分と相手の力の差を測る目安にするだけだ、そして今の咄嗟に放ったにしては存外に重い一撃を考えれば全身が発条のように鍛え上げられているのだろうと推察出来る。
見目麗しい小鳥を狩ろうかとちょっかいを掛けてみれば意外や、この女は己という毒蛇を喰らう孔雀かも知れないと朧丸は秋葉太夫を油断のならぬ相手ではあると評価した。
朧丸から距離を取った秋葉太夫は自分の蹴りで朧丸が蹈鞴を踏んだのを好機と見て体勢を整えるのも惜しいとばかりに開いた間合いを猫科の猛獣が獲物に刈り取るような跳躍でもって襲い掛かる。
空中で回転しながら両手に持った鉄扇で相手を切り刻もうと繰り出される、その竜巻のような連続攻撃に晒された朧丸はその斬撃を尽くかわす、かわすがしかし次々に繰り出される攻撃に遂にかわしきれずに腕での防御を強いられた。

「貰ったよ!」

かわしきれずに腕でもって一撃で止めようする姿に己の鉄扇ならば腕の一本など軽く両断することが出来ると叫び斬り付けた瞬間、朧丸の腕に吸い込まれた鉄扇が金属音を打ち鳴らして止められた。

「なんじゃと?!」
「カカ!」

哂う朧丸の腕から鉄杭が放たれる、至近で放たれたそれは流石にかわしきれないが袂の袖を翻して絡めて落とす、打ち振った袖を収めた瞬間に鈍色の軌跡が迸る、咄嗟に後ろに跳んで難を逃れるが左の袖がざっくりと切り裂かれて地に落ちた。
対峙する秋葉太夫と朧丸、秋葉太夫は切られた右袖を肩口から千切ると投げ捨て、朧丸は左腕に巻きつけられた布がパラリと解けて地に落ちる。
双方共に身を覆っていたものを失った形だが白い生肌を晒した秋葉太夫に対して朧丸の腕には陽光を反射する鋼の篭手が備わっていた。
その篭手を朧丸が嘗て殺した男から奪ったものだと知るのは当人以外には誰も居ない、その篭手のお蔭で腕を一本貰い損ねたと舌打ちする秋葉太夫。

「カカカカカ、やはりやるか」
「ち、化け物が」

この攻防を見ていた梢と桔梗は背中に冷たい汗をかいていた、何故なら二人はこの一瞬の攻防に追いついていけなかったからだ、遠間からなら何とか眼で追えるが秋葉太夫と同じように肉薄した状態からはおそらく、いや完全に追いつけないだろう。
しかし二人もまた秋葉太夫には及ばぬものの自分の腕を頼りに渡世を生きてきた一端の女傑である、このまま手を拱いているなど自分達の矜持が許さない。

「太夫!」
「助太刀します!」

震える気持ちに叱咤を加えて秋葉太夫に横に進み出ようとする二人であったが、歩を進めるその眼前に鉄扇を突き出して止めたのは他ならぬ秋葉太夫であった。

「こいつの相手はわっち以外じゃ務まらん、下がっといで」
「でも!」
「わっちは邪魔じゃと言うとるんじゃ」

秋葉太夫の力になりたいというその気持ちを知って尚秋葉太夫は二人に邪魔だと告げる、酷な様だが当の秋葉太夫に邪魔と言われては従うしかない、それでも油断無く構えながら後ろに下がる二人をクツクツと哂いながら見逃す朧丸。

「いいのか? 三対一ならまだ勝つ見込みが在るかもしれんぞ」
「はっ、お前如きの相手はわっち一人で十分ということじゃ」

嘲笑う朧丸の言葉に強気の言葉を返す秋葉太夫であるが、実際のところは今の手合わせから自分でも五体満足で勝てるような相手ではないと骨身に染みたのだ、そんな化け物相手では梢たちに助太刀されても逆に二人の安否にまで気を割かねばならない事になる、そして当然そんな状況で勝てる道理はあるまい。
もっとも二人を贄に差し出せば朧丸の首級を上げる事も叶うだろう、だがそれは己のために二人の命を使う事に相違無い、敵には幾らでも非情になれるが身内にはやはり情が湧く、口では何とでも言う秋葉太夫であるがこれまで共に暮らして来た家族を犠牲にするのは躊躇われるが故に二人を下がらせた。
己が敗北すれば残る二人もまた殺される、ならば何としてでも勝利、否自分の身が朽ち果てようともこの男を殺すと覚悟を決めて、すうと一息吸い込んでから秋葉太夫は左の袂から色取り取りの扇を広げて朧丸に向かって投擲する。
投擲された扇が回転しながら無軌道に宙を舞って朧丸へと襲い掛かる、その扇の縁には鋭い刃が仕込まれており軽く触れただけで皮膚を裂き、肉を抉るだろう。
その数実に八、そして秋葉太夫もまた扇が舞い踊る中へ背中から引き抜いた大鉄扇を両手に構えて踊りこんでいった。

自身を囲むように飛び回り次々と襲い掛かる扇の群れから危なげなく身をかわす朧丸に向かって周りを飛び回る様々な色の扇よりも大きな大鉄扇を構えた秋葉太夫が飛びこんでくる。
秋葉太夫は先ずは頭頂から続いて横薙ぎの十字切りを放ってきたがそれを見切ってかわす、しかしかわしたその場所へ周りを飛び回る扇が三つめの斬撃となって飛び込んできて髪の毛を僅かに切り取った。
其処へ秋葉太夫が更に両手の鉄線をもって攻撃を仕掛けてくる、畳んだ扇で咽元を突きにきたのを鋼の篭手で打ち払えばやはり其処へと宙を舞う扇がその身を刻もうと迫る。
周辺を飛び回る刃と自身の両腕から繰り出される連携で相手を追い詰めて仕留めるこの技が、秋葉太夫が青葉太夫から伝えられた奥の手、飛び回る扇を風に舞う木の葉に見立てた技、名を落葉(らくよう)と称する。

「カカ、子供騙しだな」

どの様な技かを看破した朧丸は呵呵と哂うと腕の布を解いて振るい、飛び回る扇を次々と打ち払おうとするが打たれた扇は二つに分かれて飛び回る数を増し、打たれぬ扇はその攻撃を寸前で軽やかにかわす。
何時の間にか朧丸の周囲を巡る扇の数は三十を数えていた、反撃に出ようにも絶えず周囲を飛び回る刃が邪魔をするばかりか、秋葉太夫の持つ大鉄扇で扇がれた扇はまるで生き物の如くに動きを変化させて襲い掛かってくる。
それどころか弾き地に落ちようとしている扇までが一扇ぎでまた空中へと舞い上がり、それと同時に秋葉太夫自らも振るう鉄扇が朧丸を攻め立てる。

「無駄さね、木枯らしに舞う落ち葉からは逃げられん」

自らを人の身を切る寒風と称する秋葉太夫が操り次々と襲い掛かる扇の群れの中で朧丸は全身を駆使して猛攻を凌いでいた、両腕に握った白布を縦横に操り扇を迎撃し、白布の間をすり抜けるものは手甲をもって打ち払い、その隙をついて襲い掛かる秋葉太夫の一撃を受け止める。
受け止めた時に反撃に出ようとするが、秋葉太夫は早々に飛び退いて追撃を許さない、その攻防の末に幾つかの宙を舞う扇の刃が朧丸の防御をすり抜けて身体の彼方此方に傷を刻んでゆく、確かに致命傷には程遠い傷ではあるがこのままでは何時か致命の一撃をその身に刻むことになるかも知れない。

「捉えられぬならば、吹き散らす」

舞い踊る刃の中心で両腕に白布を持ったまま回転を始める朧丸、回転によって白布が身体の周囲を覆いまるで卵か繭の様に見えるがその布が一陣の風を巻き起こす。
一瞬の突風を生み出した事で風の中で舞う扇を吹き散らして僅かな隙間を作り出すと回転した状態のままでその隙間に飛び込んで舞い踊る扇の包囲網を抜け出ると同時に秋葉太夫に白布を叩きつけて両腕を絡めとり、そのまま力任せに秋葉太夫の体を振り回して地面に向けて叩きつけようとする。
宙に浮かされた秋葉太夫は手首だけを返して自分の腕に絡まった白布を鉄扇で寸断して呪縛から逃れて着地するが、直後に伸びてきたもう一枚の白布に足を捕られて転倒させられる。
地面に転がった秋葉太夫に向かって撃ち出された鉄杭をそのまま転がり続ける事で何とかやり過ごし足に巻きついた白布を切って立ち上がった、しかしその身にはやり過ごしたはずの鉄杭が二本その身に突き刺さっていたばかりか掠ったのであろう着物の彼方此方が裂けて白い肌と滲む血が見える。
右の腿と左の二の腕に刺さった杭が灼熱の痛みを齎すが、秋葉太夫は視線を朧丸から外さずに一気に杭を引き抜いて地面に捨てると同時に声を上げながら秋葉は走り出していた。

「逃がしゃしないよ!」
「カカカ威勢は良いがな」

朧丸の前へ飛び出すと身体の痛みを無視して攻撃を繰り出す、時に柔らかく時に激しく両腕に握られた扇の描く直線と曲線の美しい対比が朧丸を攻め立てる。
秋葉太夫の猛攻は舞踊のそれである、流れる動きの中で相手をその踊りに巻き込み必殺の一撃を見舞う、それを受ける朧丸は白布と両腕の手甲で全ての攻撃を捌いてゆく。
横に振るわれた扇は身を沈めてかわし足を掬おうと蹴りを放つ、その蹴り足を跳んでかわすと眼下に居る相手に簪を撃つ、撃ち放たれた簪を手甲で打ち払い白布を刃に見立てて斬撃を見舞う。
下から迫る刃に扇の刃を併せて相殺すると体重を乗せた一撃を大上段から振り下ろす、振り下ろされた一撃を横飛びでかわすと同時に鉄杭を投げて牽制を掛けると鋼に覆われた手刀を相手の身体に一直線に突き込む。
胸に迫る手刀を身体を捻ってかわすとその腕を切り落とそうと斬撃を繰り出す、その斬撃によって腕の肉を浅く切られて血を噴出しながらも独楽のように回転して脇腹を蹴り飛ばす。
脇腹に走る衝撃に顔を顰めながらも叩きつけられた足を抱えこみ遠心力を加えて放り投げて距離を取ると広げた大鉄扇を打ち振り、風を巻き起こして宙に漂っていた扇を操って殺到させる、放り投げられて着地した所に一斉に襲い掛かってくる扇の群れに対して二本の白布を操って迎撃する。
秋葉太夫と朧丸の死合いは輪舞のように続いて行く。

梢と桔梗の二人の眼前で繰り広げられる輪舞の中で白布を操り襲い掛かる刃の群れを相手取る背中が見えた、目まぐるしい攻防の末に動き回ったことで傍から見ていた二人の前方僅か二間という場所に朧丸が無防備に背中を晒していたのであった。
その背中を見た瞬間に傍観者でしかなかった梢が飛び出していた。

「覚悟おっ!」

秋葉太夫と朧丸の戦いを見ていた梢の中には焦燥が芽生えていた、自分は秋葉太夫に選ばれて旅の同行者となった、それは自分が期待されている事だと思っていた。
秋葉太夫の旅の力になれるとそう考えていた、それなのに今のこの状況はなんだと言うのだろうか、宿で襲ってきた巨漢にもこの幽鬼のような男にも自分は何の役にも立っていないではないか、精々が雲助の相手をしたくらいであり、その程度なら自分より腕の劣る人間でも務まることではないか。
梢にとって秋葉太夫は憧れの存在であり、その人に付いてこいと言われた事が単純に嬉しいが故に何とかして力になりたいと強く思っていた、その焦燥が梢に一歩を踏み出させた、踏み出させてしまっていた。

自らに襲い掛かる扇の群れを裁きながらも朧丸の背後から突如として襲いかかったと見える梢であるが実の所は奇襲にもなっていなかった。
朧丸ははっきりと狂人である、他者を苦しめる事を最も楽しみ、他者を虐げる事を最も喜び、他者を絶望させる事を最も好み、他者の命を奪う事をこそ己の糧とするおよそまともとは言いがたい人間である。
だからといってその行動が狂っている訳では決して無い、自分が楽しむために整然と効率良く人間を殺戮するのが朧丸である、故に手ごわいとみた秋葉太夫と存分に楽しむ為に必要なのは不確定要素になる可能性のある二人、梢と桔梗の存在を常に念頭に置いていたのである。
更に言えば秋葉太夫という強敵と戦っている上は全ての神経が研ぎ澄まされている、ならば例え奇襲といえども朧丸ほどの手練が察知出来ぬ訳が無い、当然の如くに梢が走り出す前から後方から剣呑な気配が立ち上がるのに気が付いていたが、目の前の強敵に対峙するほうを優先していただけだ、しかし後ろから迫る者を放置すれば要らぬ一撃を受けることは違いなく、それは朧丸にとって楽しい話ではない。

「邪魔だ」

北の大地にある決して溶けることの無い永久凍土の氷のような冷たい言葉が朧丸の口から毀れると襲い掛かる相手に振り返ることもせずに一本の白布を後ろに向けて突き出した、真っ直ぐに伸びた白布は刃となって女の胸を貫き紅く染まった。

梢は目の前が赤く染まるのを呆然と見ていた、男の背中目掛けて走りだしあと一歩のところで横から突き飛ばされたのだ、地面に倒れた梢が振り返って見た光景は衝撃をもたらした。
そこには胸の中心を真紅に染まった布に貫かれた桔梗の姿があった、此方を振り返りもしない男の腕が動いて布が引き抜かれると同時に傷口から鮮血が溢れ出る。
辺りに血を撒き散らしながら崩れ落ちる桔梗の身体を受け止めた梢の全身が朱に染まる、ゆっくりとだが確実に冷たくなってゆく桔梗の体を抱きしめた梢の絶叫が辺りに響き渡った。

「桔梗姐さん! なんでっ?!」

桔梗は冷静にこの戦いを観察していた、そして朧丸の実力を自分達では対抗出来ないと判断を下した、少し前に戦った破戒僧も自分達の実力では相手にもならない強者ではあったが、その裏に透かして見えたのは色欲であった為に付け入る隙が見出せた、事実破戒僧は自分と梢を打ちはしたが止めを刺そうとはしていなかった。
しかしこの男は完全に此方を殺しに掛かっている、ならばこの戦いに加わった所で自分達に出来る事は何もない、ただ秋葉太夫が自分達を守ろうとする事で要らぬ迷惑を掛けるだけだろう。
今は二人ともに自分達という存在に僅かなりといえ気を回している、朧丸は機会があれば殺そうと秋葉太夫はそれを阻止する為にだ、自分の身を犠牲にする事も考えたがそれで上手く行く保証は無く、またそんな事をすれば絶対に秋葉太夫は己を許すまい。
それがこの世界に足を踏み入れた時から共に生きてきた、秋葉太夫が若頭に襲名したことで上下関係が出来たもののお葉が紅葉と名を変えた時からの長い付き合いであり自他共に親友であると認めている女の心底だ。
なら自分に出来る事は秋葉太夫の勝利を信じて梢を連れて此処から離れる事しかない、そう結論付けて梢に下がるように言おうと眼を向けた時に梢が走り出していた。
それを見た桔梗は一拍遅れて飛び出してその背中を追う、しかし追う桔梗の目には梢に迫る白布が見えていた、その瞬間にこのまま梢を犠牲にして朧丸の攻撃を封じる事が出来るかも知れないと頭の冷静な部分は訴えかけていた。
だが桔梗の身体は極自然に梢の身体を突き飛ばしていた、突き飛ばした事で梢に迫っていた白布が自分の胸に潜り込むのを感じながら桔梗は崩れ落ちた。

梢に抱き起こされた桔梗の胸の中心には一寸程の刺し傷が背中まで抜けており、絶え間なく鮮血が滴っている、全身を真っ赤に染めながら問いかける梢に対して桔梗は震える声で語りかける。

「無事ならお逃げなさい、私たちでは足手纏いになるだけ、此処に居る事が太夫の邪魔になるわ」
「でも、桔梗姐さん!」
「良い子だから言うことを聞きなさい」

抱きしめた体がどんどんと冷たくなってゆく、死出の旅へ向かう桔梗を必死に繋ぎとめようとするかに叫び続ける梢の耳に朧丸と戦い続ける秋葉太夫の叱咤の声が響く。

「なにやってんだい、さっさと桔梗を連れていきな!」

声に釣られて梢が秋葉太夫の方を見れば朧丸の手から伸びる白布を手に持った大鉄扇で半ばから切り飛ばした所であり、気丈に背筋を伸ばして見得を切って対峙すると背中越しに梢に向かって諭すように告げる。

「しっかりおし、桔梗はあんたに任せるから頼んだよ」
「太夫」

その凛とした声に気を奮い立たせると、梢は桔梗を背負って走りだした。
瀕死の桔梗を連れて懸命に走るその姿を黙って見送った朧丸が嘲弄する。

「クカカカ、任せるも何もあの女はもう死ぬぞ」
「黙りな、わっちの姉妹に手え出した以上は楽に死ねると思わんことじゃ」
「ククク何を今更、元より互いに楽に殺そうなどとは考えてもいなかろう」

哂う朧丸と全ての表情を消した秋葉太夫は余人の消えた場所で睨みあう、秋葉太夫がその場で扇を一閃させれば巻き起こる風によって地に落ちていた扇が空中へと飛翔する。
それを見た朧丸は残った白布を全て解くと地に垂らして向かえ撃たんと身構える、ほんの一時の静寂のあと二人は弾かれたように同時に地を蹴って互いに襲いかかった。
秋葉太夫が走りながら打ち振った鉄扇は風を起こし、その風に操られた扇がその身に抱えた刃をもって敵を切り刻もうと襲い掛かる。
朧丸は殺到する刃の群れに対して白布を以て打ち払い鋼の手刀を白い柔肌に突き立てようと迫る、互いに振るわれた腕と鉄扇は咬み合って火花を散らす。
喰いあった鈍色の拳と見事な装飾の施された大鉄扇が軋みをあげるなか、秋葉太夫は身を翻して拳を払うと反対の手に持っていた大鉄扇で斬り付ける。
拳を打ち払われた朧丸はそのままの勢いで体を反転させて斬り付けられた鉄扇をかわすと同時に飛び上段蹴りを秋葉太夫へと見舞う。
その蹴りを広げた鉄扇で受け止めるが勢いまでは殺せずに弾き飛ばされる、体勢を崩した秋葉太夫に追いすがり追い撃ちをかけようとする朧丸であったが、弾かれながらも振るわれた鉄扇の一閃で宙に舞っている扇が走る朧丸へと襲い掛かる。
四方から迫る扇の群れを前にして急制動をかけてやり過ごすと秋葉太夫が持つ鉄扇を打とうと白布を飛ばす、それを察した秋葉太夫は扇を閉じると伸びてきた白布を態と巻きつかせると奪い取ろうと見掛けに合わぬ力で引き上げる。
朧丸は白布が引かれる力に逆らわずに逆に相手の懐に飛び込もうと跳躍する、それを当然のように待ち受けた秋葉太夫は逆の手の扇を広げて迫る朧丸を二つに下ろそうと迎え撃つ。
朧丸とて迎撃があるのは承知している、飛び込んだ勢いそのままに回し蹴りを繰り出し迎え撃つ鉄扇に合わせる、その両足にはやはり奪い取った鋼の足甲をはめており鉄扇と激しく咬み合い硬く澄んだ音を響かせた。
跳んだ勢いを利用しての一撃に鉄扇を弾き飛ばされた秋葉太夫は着物の帯留めを外して振るう、先端に錘を付けた帯留めは朧丸が操る白布と同じ種類の武具の一種で流星錘という、迫る流星錘に自分の白布でもって防ぐが双方複雑に絡み合い武器の体を成さなくなる。
使えなくなった白布と流星錘を投げ捨てると朧丸は腰の後ろから短刀を秋葉太夫は頭に刺してあった簪を引き抜いて逆手に構えて対峙する、秋葉太夫は右に鉄扇、左に簪を朧丸は右に短刀、左に白布という出で立ちだ。
此処まではほぼ互角に戦いを繰り広げたが朧丸は傷を負っているとはいえ皮を切ったに過ぎず、対する秋葉太夫は幾本かの鉄杭でその身を貫かれていた。
如何に練磨の秋葉太夫といえども流れ出る血による力の喪失は拭いきれない、今のままで闘いが推移すれば先に動けなるのは自分の方だと気が逸る。
一方朧丸の傷は闘いの中で既に塞がりかかっており、肉を抉ったはずの腕の傷でさえ最早血は流れていない。

「ち、本当に化け物だね」

異様な風体や卓越した技量の持ち主は幾らでもいるだろう、しかし闘いの中で受けた傷がその闘い最中に治ってゆくこの生命力、回復力の高さこそが数年を洞穴に捕らわれながらも生き長らえた朧丸の秘密であった。

「クカカカ、そろそろ終いにするか? この後は逃げた小娘を片付けねばならんしなあ」
「寝言は寝てから、違うねあの世で言いなぁ!」

気丈にも言い放つと右の鉄扇を大きく振るう、その動きに呼応して朧丸の四方から色取り取りの扇が一斉に襲い掛かった。

「中々に面白い見世物だったぞ」

迫る刃の群れの中で口角を吊り上げて哂うと朧丸は群れの中に自ら飛び込んだ、宙に浮く扇の表に手を付いて倒立すると腕一本で跳ねると違う扇の上に着地して、さらにその扇を足場にして高く跳躍する。
扇の群れの上空まで飛び上がった朧丸は下方に見える扇の全て向かって鉄杭をばら撒く、その鉄杭は五月雨となって宙を飛ぶ扇を地面に縫い止めた。

「なんじゃと?!」
「舞い飛ぶ落ち葉は雨に濡れ落ちる」

己が必勝と信じる業がおよそ信じられぬ業を以て破られる、その光景を前に驚愕した隙を逃がすような朧丸ではない、その僅かな隙を突いて空中から伸ばされた白布が残った鉄扇を弾き飛ばす。
扇を失った秋葉太夫は咄嗟に左手の簪を空中にいる朧丸に撃ち出すが、その簪は短刀によって弾かれ防がれた。
焦燥が気を逸らせるのを、無理矢理に押さえ込み左袖の中から残った鉄扇を引き抜こうとするが一瞬早く放たれた鉄杭が秋葉太夫を襲う、眼前に迫った鉄杭をかわせないと判断して右手を犠牲にして受け止める。

「ぐっ!」

秋葉太夫の右掌に焼けるような痛みが走り、思わず悲鳴を上げかけるがそれを無理矢理に飲み込むと同時に引き抜いていた鉄扇を着地した朧丸に向かって投擲する。
朧丸は地に降りたと同時に襲いかかってきた鉄扇を掻い潜ると地に伏せた姿勢から神速をもって迫り、低い位置から繰り出した蹴りが秋葉太夫の足を刈りとって地面に転がした。
転倒した秋葉太夫が受身を取って素早く立ち上がろうとするが朧丸の方が一瞬早く立ち上がっており、右掌に突き立った鉄杭をその足で踏みつける。

「うああっ!」

抉りこまれた鉄杭が右手と地面を縫いつける痛みに今度こそ悲鳴が秋葉太夫の口を突いて出る、その悲鳴と同時に朧丸の膝が秋葉太夫の腹に落とされた、腹に響く衝撃と共に咽に込み上げてきた塊を自分の上に乗る朧丸に吐き掛ける。
赤い血が混じった吐瀉物を顔面に受けた朧丸だが全く怯みもせずに右手に持った短刀を高々と振り上げた。

「クカカ、終わりだな」
「あんたがね」

秋葉太夫の言葉が終らぬうちに朧丸の後方から先程投擲した鉄扇がその首を刈り取ろうと弧を描いて戻ってきていた、ニヤリと笑う秋葉太夫の顔その瞳に映りこんだ光景を見た朧丸は咄嗟に首を横へと倒し飛来した鉄扇をやり過ごそうとするが鮮血が飛沫を上げて秋葉太夫を濡らした。

「畜生!」

罵声を浴びせたのは秋葉太夫のほうであった確かに朧丸から血が噴出てはいる、だが起死回生の一撃と見えたそれは左の耳を切り飛ばしたに過ぎなかった。

「中々に肝を冷やしたぞ、このまま楽しみたい所だが貴様は少々剣呑過ぎるようだ」

朧丸はそう告げると、尚気丈にも自分の下から此方を睨みつけてくる秋葉太夫の左腕と両足の甲を鉄杭で縫い付ける。
これで両手両足を地面に縫い付けられた秋葉太夫に成す術はない、女を使った色仕掛けもこの男に通用しないことは明白である。
決して脅え竦むことも涙を流すことも無いが仇に敗北した悔しさだけは自然と顔に浮かぶのを止められない、その顔をみた朧丸は満足げに哂うと落ちた耳から溢れる血を抑えもせずに再び短刀を翳す。

「では疾く死ね」

そして陽光に煌く短刀の刃を秋葉太夫の胸へと振り下ろした。



[13895] 第二幕 第六闘
Name: 小話◆be027227 ID:b35051a3
Date: 2010/03/07 16:25
京へ至る道を歩く着流しに大小の太刀を佩いた若い侍がいた、その男の鼻に良く知った鉄錆の臭い、即ち人間の血の臭いが纏わりつく。
夜盗か山賊にでも襲われたか、それとも獣の餌食にでも成り果てたかこの戦国の世の中ではそれほど珍しい臭いでもないが昼日中からというのは稀ではある。
しかし見回した限りでは辺りに臭いの本に成る様な骸は見当たらず悲鳴の一つも聞こえない、ならば既に事は終った後と見るのがだとうだが、それでも今この時に襲われている最中かも知れぬ。
尤も誰が襲われていようとも男にとっては関係の無い話ではある、しかしそれを黙って見過ごせるほどこの男は薄情ではなかった。
一縷の望みを賭けて漂ってくる血の匂いを追って足早に道を駆けてゆくと、前方に若い女の影が見えた、その影に急いで近寄ると十五、六の少女に二十も半ばと見える女が背負われていた、それだけでは無くその女二人は共に着物を朱に染めている、男はその姿を認めると声を張り上げて駆け寄って声をかける。

「大丈夫か御主たち、怪我の具合は如何ほどか?」

突然現れた得体の知れない男に声をかけられた少女は、声をかけてきた男の姿を認めると背中の女を気にしながらも懐から短刀を引き抜いて男に対して身構える、男を睨みつけるその顔には涙の後がくっきりと刻まれていたが、その表情は大切な人を守り抜こうとする意志に溢れていた。

「待て、妖しい者ではない、拙者は松平信之助という素浪人だ、見れば連れは怪我をしている様子何か出来る事があるか」

信之助は此方を警戒している少女に向かって自分が無害であり何か力になれる事は無いかと話し掛ける、すると背負われている女が少女の耳元に擦れた声で何事かを呟いた。
それを聞いて驚いた表情を浮かべた少女だが、背中の女を丁寧に下ろすと信之助に向かって声を張り上げて口上を陳べる。

「私は梢と申します、これにあるは我が姐桔梗にございます、お侍様にあって姐からお頼みがあるとの由、何卒お聞き届け下さいますよう」

その口上を聞いた信之助は横になった女に近寄って様子を伺うと遠間からは判らなかったが近寄ってみれば胸に刀を突き刺されたような傷があり背中まで抜けていた、医者ならぬ身の信之助は勿論として本職の医師でさえ彼女を救う事は不可能と断じるであろう。
いま生きていることさえ奇跡といえるかもしれない、そんな女が薄っすらと瞳を開き信之助をみると震える手を差し出して語り始めた。

「私は葉桜組の代貸で桔梗と申します、信之助様は見たところ武芸者で在られます様で、ならば不躾ながら一つお願いが御座います、この先の川縁にて我が姐秋葉太夫が狂賊と相対しております、それにどうぞ御助勢を」
「承知した、此処で妹御と待っておられよ、傷も程無く塞がろう」

信之助は己の命が消えようとしている瞬間に己が身の助けを請うではなく、姐の身を一心に案じて血を吐きながらも切々と訴えてくる女の願いを無碍に出来るような男ではない。
震える手を握り締めて承諾の意を述べると指し示された場へと駆け出していった。

桔梗は梢に背負われている時に不意に前に現れた男に強い気配を覚えた、その気配を言い表すならば虎か獅子かという感覚だ、何故そう感じたのかは桔梗自身にも判らない、しかし何故かこの男に頼んでみようと思った。
それは死を目の前にした女の勘としか言い表せないものであったろう、だからこそその勘を頼りにして頼みを口にした。
その頼みに対しての何と小気味良い返事を返すのか、理由も何も問わずに直ぐに救援へと走り出す、しかも最早助からぬと一目で気がついたろうに自分に対しても気休めとはいえどもあんな台詞を残して行くなんて良い男じゃないかと感じる。

「生きてりゃ、線香代は私が払っても良いんだけどね」

走り出した男の背中を見送りながら、死の床に突きながらも艶を忘れぬ桔梗の呟きが風に溶けて消えた、最後に残された力強い言葉に桔梗は安堵の息を漏らして笑顔を浮かべると涅槃へ旅立った。

「姐さん、桔梗姐さん」

声をかけれども返事は返って来ない、それを確認すると梢は桔梗の顔に付いた汚れを拭い取るその顔は何故か菩薩のように穏やかな笑顔だった、桔梗は今走り去った男に全てを託していったのだと気が付いて梢また少し悲しくなったが涙を零す事はなかった、ただ桔梗は秋葉太夫の無事を桔梗の亡骸を抱いて共に祈ることにした。


信之助が走り抜けたそこで見たのは幽鬼のようざんばら髪の男が傷だらけのそれでも凛とした美しさを損なわない美女に短刀を突き立てようとした瞬間であった。
このままでは合わないとみた信之助は走りながら男に向かって小太刀を抜いて投げつける、唸りをあげて飛翔する小太刀を察知したざんばら髪の男、朧丸は組み敷いた女に突き立てようとしていた短刀を持って飛来する小太刀を弾き飛ばした。

「邪魔を!」

朧丸の意識がほんの一瞬新たに表れた信之助に向いた隙を逃すような秋葉太夫ではない、鉄杭で縫い付けられた右掌を強引に引き抜くと脇に落ちていた鉄扇を拾って朧丸の首を刈り取るべく振るが、その時には朧丸はすでに後方に跳び下がっており、その一撃は虚しく空を切っただけであった。
しかし自分の上から朧丸を引き剥がす事が出来た秋葉太夫は左腕と両足の甲に突き立てられた鉄杭を引き抜いて、震える足に活を入れて何とか立ち上がり再び鉄扇を構えようとする、そんな秋葉太夫の前に立ち塞がる背中があった。
前に立つ背中は今しがた自分の窮地を救ってくれた若侍のものである、助けられた事に若干の屈辱を感じるが感謝もする、しかし朧丸との戦いを邪魔される事は秋葉太夫にとっては余計な世話である、その微妙な思いがつい口を突いて出た。

「助けて貰ったのに感謝はするが、わっちの邪魔をおしじゃないよ」
「そうは往かん、お前さんが秋葉太夫で間違いないならお主の妹の今際の際の願いを無下にはできん」
「そうかい桔梗が逝ったかい……」

その言葉を聞いた秋葉太夫の顔に僅かばかりの悔恨が浮かぶ、殺した朧丸に対する怒りと桔梗を守れなかった自分への不甲斐無さ故にだ。
勿論あの傷では助かる見込みなど無いに等しいと覚悟はしていたが、それでも他人の口からはっきりと桔梗が死んだと聞いたからには余計に引き下がる訳にはいかない、それに今の言い分から察するに桔梗が自分を助けてくれるように願ったらしいが、こうなっては桔梗の仇ともなった男を自らの手で殺さねば収まりがつかない。

「それを聞かされちゃ益々退けないね、門外漢は引っ込んどきな、さもなきゃあんたも打ちのめすよ!」

自分の流した血でぬかるんだ地面に落ちていた扇を拾い上げると気丈にも信之助に向かって退けと言い放つ秋葉太夫、その姿は痛々しさと同時に怒りと悲しみを内包する夜叉を想起させる。
だが信之助とて此処までの日々において戦を枕にしながら生きてきた生粋の武人だ、多少凄まれた所で己の意を曲げる事は無い。

「その身体では無駄死にするだけだ、御主こそ下がっておれ」
「何時まで下らん話を続ける」

視線を朧丸から僅かに外して秋葉太夫を諭そうとした信之助の耳に不意に聞こえて来た声と共に閃く銀光が迫っていた。
左袈裟に振るわれた短刀の一閃を見て信之助は左足を後ろへ滑らす事でかろうじて避けると、居合いの要領で太刀を抜刀し同時に一刀を見舞う。
閃く刀の軌跡が陽光を反射して銀影を表すその一撃を、朧丸は後ろへ軽く跳躍することで回避し着地と同時に再び襲い掛かる。
それに併せて太刀を振るって朧丸に切り込ませない信之助は先程同じように後方へと跳躍した朧丸を追って駆け横薙ぎに太刀を振るう。
着地を狙われた朧丸は横薙ぎの一閃を短刀で受けるとその勢いのままに横へと飛んだ、これで信之助と秋葉太夫に対して二等辺三角形の頂点に位置する場所へと動く事に成功した。
着地した場所で軽く跳ぶと大型の肉食獣が獲物を狙うように全身を撓ませて一気に迫る、信之助を目掛けて一歩を踏み出し、二歩で加速し、三歩を踏み出した所で方向を変える。
朧丸の標的は突如現れた侍、信之助と見せかけて実は怪我のおかげで既に満足に動く事もきついはずの秋葉太夫である。
その動きを油断無く見ていた秋葉太夫は向かってくる朧丸に対して、構えていた鉄扇を振るおうとするが、四肢に負った傷の所為で速度も威力もまるで出ていない、思わず舌打ちをするが、この身を贄にして朧丸を倒せるならばそれも本望と現在の自分の身体で出来る最高の一撃を持って迎え撃つ。

「カカ、遅いわ」

しかし命を賭した秋葉太夫の一撃は朧丸の身を捉える事は叶わずに虚しく空をきる、秋葉太夫の一撃をかわした朧丸が手にした短刀を閃かせる。

「く、畜生!」

自分の首を刈り取ろうと迫る青白い刃を瞳に写した秋葉太夫は己の一撃が届かなかったことに歯噛みし、次の瞬間に訪れるであろう感触に覚悟を決めたその時、横合いから振るわれた銀光が秋葉太夫の首に食い込むはずの刃を弾き飛ばした。

「ち、どうあっても邪魔をするか」
「やらせんと言ったはずだ」

再び自分を守るように前に立つ男の背中を見た秋葉太夫は、今ここでは動けぬ自分こそが邪魔者であると知る、この男の力量は未だ測りかねるが二度において朧丸から自分の身を守ったことから見てそれなりの腕はあるだろう。
それに態々桔梗が今際の際に寄越したのならば、せめて自分が満足に動けるくらいになるまでは、信じてみるのも一興と考えを改める。

「は、わっちが傷の手当てを終えるまで持たしてくりゃよい、いいな」
「それは約束できんな、遅ければ俺が片付ける」
「勝手にせい」

自分の虚勢を見透かしたような言動に腹が立つが、今の自分の様を見れば致し方ないとして足を引きずりながらも闘いの場から踵を返して背を向けると離れた場所に胡坐をかいて座り込みもろ肌を脱いで上半身を日の中に晒すと傷の手当てを始める。
全身に青痣を作り、彼方此方から血を流すその姿すら痛ましさより扇情を醸し出すのはその類稀な美しさ故か、そして扇情よりも苛烈な炎をその身に幻視させるのは内に秘めたる秋葉太夫の気性の激しさか。
無防備に肌を晒して傷の治療を行なうのはこの男の力を信じての事だ、事実秋葉太夫が離れるまで、朧丸と対峙して牽制をかけていた、それが有るからこそ秋葉太夫こうして居られる。

「そういや、わっちが閨以外で男に背中を晒すなんざ初めてかの?」

傷を千切った着物で作った布で巻きながら、我知らずに口を突いて出たのはそんな呟きであった。

秋葉太夫が離れてゆくのを朧丸は黙って見逃した訳ではない、その背中に向けて攻撃を加えようと虎視眈々と狙っていた。
しかし目の前の男がそれをさせなかった、鉄杭を放とうとしても男を放って秋葉太夫に向かおうとしても絶えずこの男はその邪魔が出来る場所、そして朧丸に一撃を加えられる場所へとその身を置いていた。
つまり秋葉太夫を殺したいならこの男を殺してからではなくてはならないという事である、その事実は実のところ朧丸には如何でもいい、邪魔をするなら殺すだけというのがこの男の思考である。
既に秋葉太夫の力量は測り終えた、五体満足なら己が敗北に一部の可能性があるかも知れぬが傷の手当てをした所で今の状態なら左程の脅威にはならないと判断を下す、そして朧丸の頭は自分の邪魔をした信之助を如何にして殺すかという思考に占められてゆく。
信之助は朧丸を油断無く見ながら、つと目線を自らが投げた小太刀へと向かわせる、対峙するこの男の力は未だに測りかねている、出来るなら二刀を持って迎え撃ちたいが小太刀は最初に投げた時に弾かれて当の朧丸の後方に突き立っていた。
この僅かな睨み合いの間に信之助は駆けつけて上がった息を整え、朧丸は四肢を軽く振って体の状態を確認すれば多少の疲れはあるがこの程度なら問題には成らない、また何時の間にか失った左耳から流れていた血も止まっていた。
信之助が一刀を正眼に構えれば、朧丸は逆手に持った小太刀を自身の背に隠した構えをみせて対峙する、刺すような空気の中で不意に朧丸が信之助に向かって声を掛ける。

「カ、カカカ、良かろうお前の四肢を落として動けぬようにしてからその女を殺す、自分の力の無さを噛み締めて逝け」
「出来るものならやってみろ」

向き合った二人は言葉が終ると同時に動いていた。
朧丸の右手がしなり横合いからの信之助に向かって短刀が抜かれる、それに併せて朧丸の腕を斬り落とそうと振るわれた信之助の一刀であったが、この一撃は何時の間にか持ち替えられていた短刀の鞘に依るものでその鞘を切るに留まる。
切り落とされた鞘が地面に落ちる前に反対側から伸びる左手に握られた短刀が閃き、信之助の顔面を襲う、目の前に迫る刃を見て上半身を無理矢理に捻ることで辛うじてかわすが頬に一筋の傷を刻まれた。
信之助は頬に熱い感触を味わいながらも鞘を切った刀の刃を返すと、今度は此方の番と左切り上げに刀を振るう、しかしその攻撃は短刀を振るった直後に飛び退いていた朧丸を捉える事は出来なかった。
さらに朧丸が信之助の一撃をかわして跳んだ先には、先程の闘いで秋葉太夫の操る流星錘と咬み合って捨てた白布が落ちていた、一刀をかわす動作を己の武器を回収する為の動きを交えて跳んでいたのである、空中で短刀を腰に納めながら着地と同時に足元に蟠って落ちている白布を拾い上げようと屈みこんだ。
信之助は朧丸が跳んだ先に何かが落ちているのは当然目に入っていた、なら攻撃をかわす動作に併せて態と其方に跳んだならば恐らくは何がしかの道具である事は予想するまでも無いが、ならばそれを使われる前に倒せば済む事と白布を拾おうと朧丸が身を屈めたときには地を蹴って朧丸へと迫っていた、太刀を肩の高さに引いて踏み込みと同時に胸の中央へと突きを見舞う。

「はあっ!」

瞬という空気を切り裂く音と共に朧丸の身体を貫くはずの一刀であったが、その刀身に巻き付いた白布に由って僅かに切先が胸を抉った所で食い止められる。
自らが放った突きが止められた信之助はそのまま半歩を踏み出して間合いを詰めてピンと張った布に僅かな弛みを作りだすと刀を引いて三段突きを繰り出した、狙うは咽、鳩尾、臍の三点である。
朧丸が握る布の長さ分である一尺程度しか勢いを付けられないが急所狙いなら二寸も突き込めば充分に人を殺せる、それが判っているからのこの近い間合いでの連突きである。
咽を狙った一突き目を首を振ってかわすと同時に白布を広げて再び後方へと脱する朧丸、その体があった場所に二の突き三の突きが振るわれ、その二つの突きによって刀身に巻かれていた布が切り散らされてハラハラと地に落ちた。
三連突きはあわよくば相手を倒す事を、最低でも絡め取られた太刀の自由を取り戻すという策であった。

「ちいっ!」

後方へと跳んだ朧丸は空中で舌打ちすると同時に鉄杭を投げ放ち着地と同時に左右の腕から白布を伸ばして信之助を絡め取ろうとする。
信之助は飛来する鉄杭を避けられるものは避け避けきれないものは打ち払い左右から襲い来る白布は右から迫る一方を切って道を作りだし其方へ身体を逃がしてなんとか凌ぐ。
朧丸は左手に握られた白布が切られたのを見て其処へ信之助が逃げてくると看破した、左手の白布は切られて短くなったと同時に放り捨てて矢のように駆けるとその鋼で覆われた手刀を繰り出した。
絡め取ろうとする白布から何とか脱した信之助の眼前に迫る朧丸が繰り出す鋼の腕に一刀を合わせる。
鋼と鋼が打ち合う音が響き双方の牙が咬み合ってその動きを止めるが、この密着した間合いならば朧丸の方が優位。
下から突き上げるように膝を飛ばして信之助の腹を狙う、その気配を察したのか信之助は柄から咄嗟に左腕を離すと鳩尾を庇った、庇った左腕の上から構うことなく膝が突き刺さる。
鈍い音が響き左腕に激痛が走る、顔を顰める信之助に対して攻め手を休めずに更なる攻撃を加えようと腰の後ろから引き抜いた短刀を脇腹へと刺し込もうとする。
閃く銀の光が刃と知った信之助は痛む左手をそのまま朧丸の腕に併せて振り、着物の袖をもって短刀の刃を絡め取ると同時に額を朧丸の額に打ちつける。
侍然とした信之助からまさか頭突きが来るとは思わなかった朧丸はこの攻撃を受け損ねて蹈鞴を踏んで一歩後退する。
信之助はこの好機を逃すわけにはいかないと右手に持った太刀を上段から振り下ろす、元々が二刀使いの信之助である、片手であっても威力が足りないという事は無い。
しかし唐竹割に振り下ろされた一刀はさらに一歩を下がった朧丸の額と胸から腹の皮を一枚斬るに留まった。

「くっ逃がしたか」
「カカカ、早々簡単には行かんな」

互いに一足離れて相手を睨みつける、この僅かな睨みあいの間が息を整え次の一手を思案する時間である。
先に動いたのは朧丸であった、対峙しているのは川縁である長い風雨と流れる川で磨かれた砂利を蹴飛ばして飛礫として使うと同時に、白布を回収した時に一緒に手に入れていた流星錘を投擲する。
蹴り上げられた礫には然程の威力は無く一種の眼晦ましに過ぎないと見てとった信之助は、身体に当たる砂利を無視してその後方から迫ってくるはずの攻撃に備えた、その陰に隠れて放たれた流星錘が巻き上げられた砂利を蹴散らせて信之助に迫る。
眉間に向かって飛来する流星錘の軌道を見切って太刀を振る、狙い違わずに先端の錘部分を弾き、返す刀で組紐を切ろうと太刀を振るう。
その瞬間組紐が波をうち螺旋を描くと太刀を持つ右腕に絡みついた、そのまま腕を引かれた信之助と朧丸が綱引き状態に陥る。

「クカカカ、殺ったぞ」

朧丸の真の狙いは信之助が右手に持つ太刀の動きを止める事であったのだ、朧丸が叫び白布を天高く振り上げると大上段から振り下ろした、すると空中で布が解けて無数の糸へと姿を変える。
この白布はその縦横の糸の半分程が鍛えられた鋼糸で織り込まれていた、無論鋼とはいえその一本一本は恐ろしく細い、故に只の布よりは余程頑丈だが刀剣の類で切れぬ程ではない。
しかし細いとはいえども鋼は鋼、人間の肉を切り刻むのに何の不都合があろうか、空中で広がった鋼の糸に因って作られた投網は大きく広がり既に体捌きでは逃げられぬ大きさになっている、また網を切って窮地を脱しようにも右の太刀は流星錘によって捕らわれて満足に振るえない。
頭上から襲い掛かる死の網に捕らわれたが最後、後はその身を千々に刻まれるのを待つしか信之助に残されてはいないのか。

「ぬうっ?!」

勝利を確信した朧丸であったが次の瞬間驚愕に眼を開いた、信之助の左手が閃き今まさにその五体を引き裂こうしていた死の網を切り裂いたのだ。
鋼の網を切り裂いて頭上に掲げられた左腕には先程の攻防で朧丸が信之助によって絡め取られた短刀が輝いていた。
信之助は返す刀で己の右腕を絡め取っている流星錘の組紐も切断すると、朧丸に対して右半身になると奪い取った短刀を左脇携えに、右の太刀を正眼に構えて言い放つ。

「そう簡単には殺られん」

朧丸は武器である白布を失う事で使用できる必殺の技を破られながらも表情を変えずに先がほどけた布を横に打ち振るう、幾条もの鋼と絹の糸に分かれた刃が日の光に煌き、一種幻想的ともいえる光の帯を作り出す。
信之助へ迫る光刃の束であったが、右手に持った太刀が閃くや刃の奔流は風に吹き散らされる只の糸屑へと成り果てた。

「二刀使いか」

二刀流はその習得の困難から世に広まってはいない、精々が幾つかの流派でしかも一刀流の修行の過程で納める程度だ、だが信之助の構えを見た朧丸はその洗練された構えから二刀は虚仮脅しではないと直感した。
その直感を信じて腕試しを兼ねた鉄杭を無造作に撃ち出してみれば両腕が華麗に閃き、その場を一歩たりとも動かずに全てを叩き落された。
尤もこれは思慮の内であり朧丸は鉄杭を投げると同時に、手に残った二尺ほどの役に立たない糸の塊に成り下がった布の切れ端を放り捨てると、残った流星錘の紐をあらぬ方向へと振った。
紐が振られた場所に在ったのは初めに信之助が投じた小太刀である、ほうられた紐は地面に突き立った小太刀に絡みつきその刀身を朧丸の手中へと誘う。

「させん!」

飛来する鉄杭を両手に持った二刀をもって尽く叩き落した信之助は朧丸のほうった紐が地面に突き立ったままの小太刀に伸びるを見て駆け出したが、初めに撃ち出された鉄杭の迎撃に使った分だけ飛び出すのが遅れてしまった、一瞬遅く目の前の小太刀は引き寄せられてそのまま朧丸の手に納まった。
ならばとばかりに飛び出した勢いのままに斬り込んだはいいが、太刀は逆手に構えられた小太刀によって受け止められ、受けられたと同時に突き出した短刀は鋼の手甲でもって受け流されてその表面に浅い傷を付けるに留まる。
太刀を押さえ、短刀を受け流した朧丸は足を撥ね上げて顎を狙った蹴りを放つ、視界の下から飛び込んできたその蹴りを飛び退いてかわす信之助、二人は今一度距離を置いて睨みあった。


傷の手当てをしながら二人の戦いを見ていた秋葉太夫は舌を巻いていた、自分が殺されそうになったあの化け物を向うに回して引けを取らないその技量に対しては瞠目に値する。
しかし今の動きの中で左腕の動きに僅かな違和感が見て取れた、そしてそれが負傷に因る物であるのは明らかだ。
恐らくは鳩尾を庇った時に受けた膝で傷め、鋼刃の投網を切った事で更に悪化させたのだろう。
それはあの化け物に対しては致命的な弱みとなる、何故ならあの化け物はその身に受けた傷の治りが著しく早いが信之助はそうはいかないからだ、腕は互角でも蓄積してゆく損傷に置いて時が立つほど差が出てくるという事になる。
ならその差が出る前に片を付けなければならないだろうが、自分の手で朧丸を葬りたいのはやまやまだが応急手当を終えたものの巻いた布の下にある手足の傷は手当てを終えたとはいえ巻いた布が血で赤く染まっている。
手足に宿る力は僅かであり、今の状態で二人の戦いに介入しても信之助の足を引っ張るだけなのは火を見るよりも明らかである。

「なら今のわっちに出来るのは……」

それでも己が何事を成すために戦い続ける二人の動きを欠片も見逃さないようにと睨みつける秋葉太夫の瞳は剣呑な光を湛えていた。
そして秋葉太夫は一世一代の賭けに出る。


朧丸は今互いに交わした攻防を冷静に分析していた、自分が投げた鉄杭を弾きすぐさま斬り込んできたが、左腕で振るわれた一刀には力が乗っていなかった。
朧丸の膝には信之助の腕を折った感触は残っていたが鋼の網を切り殺到する鉄杭を叩き落とす時にも縦横に振るっていた様を見ていた為に一応万が一を考えて警戒をしてはいた、
しかし今の攻防では化勁を使って受け流したが最悪手甲は断ち切られ肉を削ぐ事まで視野には入れていた、もっとも己の肉を削がれれば代わりに骨を砕く心算でいた左の突きには警戒していた程の威力は無かったのである。
どうやら左腕を圧し折った感触は間違いではなかったようだ、それにも拘らずに態々傷めた左腕を殊更に使って見せたのは、使えない事を悟らせぬための虚栄であろう。
勿論油断などする心算は全く無いが、これで一つ様子を見ながら追い詰めてやろうと心の底で哂うと左へと走り出した。

信之助は自分から見て右方向へと回り込む朧丸の姿を見て歯をぎしりと鳴らせた、それは今の自分の状態、左腕では満足な攻撃を出来ないという状態をほぼ正確に見られたということだろう。
二刀流は一刀流と違い両腕で二刀を操るものである、正面から打ちかかられれば左右どちらの腕でも自在に操るが、脇から掛かってこられれば左右の腕一本で対処する事になる。
そして自分の右側に回るということは左腕の損傷を確信してのことだろう、即ち受けに右腕を使うなら返しの攻撃は左腕にならざるを得ない、しかしその左腕に自身を害するだけの力が無いのならそれは猫が鼠を甚振るような一方的なものになるだろう。
だからといって右からの攻撃を態々左手で受けては腕が交差する分、攻防に遅れが出るのは否めず、それでは朧丸の動きを捉えきれないのは今迄の闘いで思い知っている。
だからこそ信之助としては左腕の負傷をそれと悟られぬように、響く痛みを無視して飛来する鉄杭を打ち落として見せた訳だが今となっては意味が無い、その証拠に朧丸は嬉々として信之助に打ちかかってきたではないか。
だが左腕を動かしてみての判断は骨が折れているようだがずれてはいない、痛みを我慢すれば充分に動くと判った、元より命を懸けて相対している以上は痛みがあるから使わない等という馬鹿な話はありえない。
残った問題は相手を倒すために充分な威力を持った一撃を繰り出させるかどうかであったが、それも一度か二度なら何とか出来そうである、ならばそれで倒せば良いのだ。
縦横に振るわれ襲い掛かってくる小太刀は右腕の太刀で払い、合間に繰り出される打撃は体捌きでかわし、かわせぬものは打点をずらして受ける、時たま投げてくる鉄杭は怪我をおして左腕で弾くのを繰り返しながら、それでも何かの拍子に転がり込んでくるかも知れない僅かな勝機に賭けて今はこの猛攻を凌ぐことに専念する。
否凌ぐだけでは何時か此方が敗北する、攻め手を欠いては勝利など覚束ないのは当然だ。
故に此方からも攻撃と防御の合間、防御と攻撃の隙間に攻め手を混ぜて立ち回る。
お互いに決め手には欠けるが頬が切れ腕を裂き足に傷がはしり血が噴出す、それでも止まぬ朧丸の猛攻に信之助の額から汗が伝った、何故ならこの攻防で傷めた左腕が益々悪くなって行くのが実感できていたからだ。
今はまだ充分に動かせるがこのままでは、いずれ動きが悪くなり朧丸の攻撃を捌ききれなくなるだろう事は想像に難くない。
ならば左腕が動くうちに起死回生の一撃を敵に見舞わねばなるまい、意を決すると信之助は朧丸の蹴りをわざと受けてその威力をもって距離を取ると両腕を上段に構える。

「はああっ!」

気合の声と共に全ての体重を乗せた上での大上段から振るわれた太刀の一撃は流石の朧丸も両手を持って受けるしかない、太刀と小太刀が咬み合って双方の動きが一瞬止まる。
その瞬間を狙い済ました信之助の左手に握られた短刀が朧丸の胸に吸い込まれてゆく、この一刀が入ればそれでこの死闘に決着が着いたであろう。

「甘いわ!」
「ぐあっ!」

しかし既に限界に近かった左腕はその切先を朧丸の胸に突き立てる前に下方より伸びた膝の一撃を受けてあらぬ場所から折れ曲がり、短刀を取り落としてしまった。

「クカカカカカカカ」

朧丸は片腕が殆んど役に立たんというのに自分の攻撃を捌くのみならず反撃を加えてくる信之助の技量と力に瞠目した、おかげで双方共に体の彼方此方に傷が増えてゆき、その度に少しずつ動きが鈍くなる。
しかし自分の傷は治りが早いのに加えて信之助の左腕は折れている事から己の勝利は疑わなかった、相手に残されたのは余力がある内に此方を殺せるだけの攻撃を繰り出すことだろう。
ならば逆にそれを誘い出すのも一興、来ると判れば如何に強力な攻撃であろうと受けきってみせる、そしてその時にこの男は一体どんな表情を浮かべるか楽しみで仕方が無い。
その様子を眺めるのが朧丸の楽しみであった、闘いを続けながらも自分の力が及ばぬと理解した相手の絶望と落胆、そして死の恐怖の感情を貼り付けた顔こそ尤も美しい。
そして思惑通りに起死回生に出た信之助の一撃を受けとめて左腕を完全に潰した、これで最早己の勝利は揺るがないと確信した朧丸はさらに速度を増した攻撃を繰り出す。
左右から小太刀を切りつけ、払われれば体を回転させて蹴りを放ち、受けられれば手刀を突き込む、息を吐く暇さえない連続攻撃の嵐を前にして遂に信之助の防御が崩れ右手の太刀が手から零れ落ち決定的な隙を晒す。
その隙を逃す朧丸では無い、左胸の一点にできた隙目掛けて小太刀を突き出した、肉を裂く感触が朧丸の腕に伝わる。

「ぐうあっ!」

信之助の命の灯を消すはず朧丸から振るわれた一刀をかわすのは不可能、しかし既に役に立たぬ左の腕を犠牲にすれば受け止める事は出きると折れた左腕に小太刀に晒す信之助。
朧丸はそのまま信之助の左腕に深々と突き刺さってそれ以上は動かなくなった小太刀をそのままにして、すかさず左の手刀を信之助の腹へ抉り込み四指が脇腹の肉を引き裂こうとするのを辛うじて信之助の右腕が止める。

「クカカカ、中々楽しめたが後が残っているからなそろそろ死ね」

更に抉り込もうとする左腕と深々と突き立った小太刀から伝わる痛みに悲鳴が上がりそうになったが、なんとか歯を食いしばって耐えながらも信之助は朧丸の左手を離さない、それどころかその顔には凄みのある笑みを浮かべていた。
その表情に何かを感じた朧丸は一旦距離を置こうとした、しかしその動きは信之助の腹を抉ろうとした左手を掴んだままの信之助の右手によって阻まれた、その邪魔な腕を小太刀で切り離そうとするがそれも折れたままの左腕を捻ることによって阻まれる。
次の瞬間信之助が声高に叫んでいた。

「お前がなあっ!」
「はあっ!」

信之助の声と時を同じくして裂帛の気合が響いた、その声に驚愕して後ろを振り返ろうとした朧丸の首が宙に舞う、朧丸の首を刈り取った一撃を放ったのは誰あろう秋葉太夫であった。


押され始めた信之助の姿を見た秋葉太夫は朧丸に気取られぬようにすうと音も無く立ち上がった、寝ている客を起こす事無く自然に部屋を後にするのも遊女としての嗜みである。
それを応用すれば如何に気配に敏感な朧丸といえども信之助という強敵を前にして些か集中している今の状況ならば気付かれる事無く行動を起こす事は可能だ。
もっとも僅かなりと殺気を滲ませれば直ぐに気がつかれるだろう、ならば自分の復讐心を一時の間完全に忘れ去る事にする、女は嘘を吐く生き物だ、特に秋葉太夫はどれほど嫌な男でも肌を重ねる事もある遊女である、その程度には自分を律してみせよう。
一世一代の穏形をもってするすると忍び寄った秋葉太夫は一足の間合いをもって動きを止めた、二人の闘いの凄まじさゆえに手も足も挟めずにいた訳ではない。
二人の戦いからこの後に訪れる絶好の機会を決して逃がさぬために力を溜めていたのだ。
しかしてその瞬間が訪れる、決定的な隙を晒した信之助が自分の息の根を止めようと振るわれた刃を前に己の身を投げ出して作り出した機会を逃さずに渾身の力を持って振るった鉄扇の一閃が怨敵である男の首を綺麗に刈り取った。


朧丸と信之助の二人は秋葉太夫の気配が消えたのには気がついていた、二人の間に差があったとすれば朧丸は秋葉太夫に背を向けていたという事だけだ。
自分対してあれほどまでの憎しみと殺気をぶつけていた女の気配が消えればそれは死んだか逃げたかと判断してしまった。
今まで、そうして逃げ出した者は幾らでも存在したし、向かってくる者には必ず気配があった、気配が希薄な者は忍びならば何人かは存在したがそれでも朧丸の鋭敏な感覚は必ずその僅かな気配を感じ取る事が出来たのである。
尤もこれが信之助ほどの手練を相手にしていなければ、微かな気配を察知する事も可能であったろうし、そもそも秋葉太夫をそのまま生かしておくなどという事も無かったはずだ。
この場所に朧丸、秋葉太夫、信之助という三人の類まれなる武芸者が揃ったそう偶然と必然が作用したが故に気配を消した秋葉太夫が背後に幽霊の如く立ったのを朧丸は気が付かず、その姿を見た信之助は彼女が何を行なおうとしているのか察する事が出来たのだ。
そして秋葉太夫には一度勝利しているという油断が、気配を感じ取れなくなった秋葉太夫の姿を確認せずに信之助を殺す事に集中してしまうという、己の力に対する自信、否強者を前にして勝利に酔った過信が朧丸という魔物の只一つの弱点となったのだ。
宙に舞った朧丸の首は自分が己の身体を見下ろしていることに気が付いた、そしてなんとも言いようが無い、あえて例えるのなら何処までも落ちてゆく、若しくは凍てついてゆく始めて味わう感覚に対して心の底から笑いが込み上げる。

「ク、クカカカカカカカカカカカカカははっはっはははははははははははぁ」

そしてその衝動のままに朧丸は始めて笑った。


どっと地に落ちた首が僅かの間けたたましい笑い声を上げるのを呆然とした表情で見つめる信之助と秋葉太夫の二人。
有り体に言えば今の二人にはこれ以上戦う事は無理だろう、信之助は左腕が使い物にならず、体の彼方此方には裂傷と打撲が多数存在する、もっとも酷い右脇腹の傷からは絶え間なく血が溢れ刻一刻と命の灯火を削ってゆく。
秋葉太夫は一応の怪我の手当ては終えているものの、流した血の量から顔面は蒼白でありまた朧丸の背後に回るために極度に意識を集中し、尚且つ最後の一撃を決める為に残っていた力の全てを振り絞ったような状況であった。

「冗談はよしとくれ、まさか本当に魔物の類だとでも言うんじゃ……」

秋葉太夫の口から弱音と取れる言葉が紡がれたとき、首の哄笑が止みその首を失った体がどうと倒れた。
しばし構えを解かずに見つめる二つの視線の先に在る首と体がピクリとも動かないのを確認すると漸く二人の体から力が抜ける。

「どうやら死んだらしいねえ、全くわっちもあんたも其れなりに腕に自信があるだろうに本当にこいつは化け物だね」

ほうと一息吐いて傍らにいる信之助に対して話しかけるが返答は返ってこなかった、訝しげに視線を向けるとそこには立ったまま気絶している一人の男。
それでも自分より一歩朧丸に近い場所に立っているのに感心するやら呆れるやらである。

「やれやれ……」

そうごちるとふらつきながらも秋葉太夫は信之助に近づいていった。



信之助が眼を覚ましたのは己の知らない場所であった、思わず飛び起きようとして全身に走った痛みに我知らず苦鳴が上がった、ただし己の身体を見てみれば左腕には添え木がなされ、右の脇腹は縫ってあり体の傷と言う傷には薬が塗られ包帯が巻かれている。
どうやら誰かが助けてくれたらしい、誰かというよりはあの場所にいたもう一人だろうことは想像に難くない、ふとんから上半身だけをゆるゆると起こして辺りを見回す。

「知らん部屋だな」

どうやら療養所ではないよう窓の外からは威勢の良い声と喧騒が聞こえてくる、となるなら旅籠の一室なのかも知れない。
そんな事をぼんやりと考えていると障子がすっと開いた、咄嗟に刀を探るがこの部屋にはない、しまったという思いが頭によぎったとき廊下から声がかけられた。

「ようやくお目覚めかい、全く良い女を待たせるなんて良い男とは言えんよ、特にわっちみたいな美女を待たせるなんざ無粋の極みでありんす」

廊下に正座で座っていたのは誰あろう秋葉太夫であった、信之助に対して嫌味たらしく言葉を投げかけるが、言葉の字面ほどには棘は無く、ころころと笑っているのが口調から理解る。。
すっと立ち上がった秋葉太夫とその後ろではやり正座でかしこまって座っていた梢が部屋の中へ入って障子をしめると途端に真面目な表情を作り三つ指を突いて頭を下げた。

「まずは御礼を申し上げる、名乗りが遅れて申し訳ありんせん。 わっちは遊郭桜花楼の太夫で秋葉と申します、後ろに控えるのはわっちの義妹で梢でありんす」
「梢で御座います、此度は亡き義姉桔梗の願いである秋葉への御助勢をお聞き届け下さり、真に有り難う御座います、桔梗に成り代わり御礼申し上げます」
「いや某は義によってした事ゆえ礼など無用に願いたい、それに結果をみれば拙者が秋葉殿に助けられたのだ」
「そうは申されても、わっちが助かったのも……、そういえばまだ名前も伺っとらんねえ」
「ん、そうだったか? 拙者は松平信之助という浪人だ、故あって在る目的のために旅をしておる」

口調を砕けたものに戻した秋葉太夫の眼がある目的と聞いて妖しく光る、そして楚々とした動作で懐から二枚の割符を取り出し信之助の前に差し出した、それは信之助が元々持っていた割符である。

「悪いとは思ったが怪我の手当ての時に預からせて貰っとった、信之助様…… 信さんの目的ってのはこいつに関係あるのかい?」
「ああ」
「そうかい、それならほら」

信之助の返答を聞くと更に四枚の割符を懐から取り出して前に並べる秋葉太夫、行き成り取り出された割符に信之助が眼を丸くして驚いていると鈴の音がなるようなころころという笑い声が耳に入ってきた。

「そのうち二枚はわっちが持っとった、後の二枚はあいつの骸から転がり出てきたものじゃ」
「御主もこれを集めていたという事か、ならどうする俺と戦うか」
「冗談でも言って良い事と悪い事があるよ、わっちは遊女だが任侠葉桜組の七代目、羅刹女の秋葉太夫でもある、義理を欠いた事はしやせん」
「ならどうする?」
「あげるよ、どうせもう必要ないしねえ」

いやにさばさばとした調子で告げる顔をまじまじと見つめる信之助とその視線を真っ向から受け止めて艶然と微笑み返す秋葉太夫。
それでもこの割符を求めたからには何か望みがあるのではないのかと聞いてくる信之助に対して微笑を崩さないままに

「わっちの目的はのうなったからな、無用の長物になっただけさね」

ほんの短い間二人の間で視線が交錯する、それはともすれば視線での戦いであったかも知れぬ、先に眼を逸らしたのは信之助であった、満足に動かぬ身体を折って頭を下げる。

「謹んで頂戴いたす」
「あいよ」

その後十日ほどを経て信之助と秋葉太夫の二人の傷が完治に近い状態にまで戻った所で秋葉太夫と梢は桜花楼に戻るために、信之助は旅を続ける為に宿を発つこととあいなった。

「信さん、近くまで来たら店に寄っとくれ歓迎するよ」
「止めておく、俺の懐では酒の一合で吹っ飛びそうだ」
「おやまあ、けち臭いことをお言いでないよ」
「そうですよ、男振りが下がります」

互いに軽口を叩くとそのまま背中合わせに歩き出す、双方ともに振り返ることは無い、縁があればまた会える、無ければそれまでという事だ。
洋々と歩を進める三人の胸中に去来するものは各々違うだろう、秋葉太夫と大きな喪失感と共に何か憑き物が落ちたような感覚を、梢もまた悲しみと共に自分の目指すべき漠然とした何かを、そして信之助はこの先にあるはずの過酷な闘いに思いを馳せていた。



朧丸 対 秋葉太夫 松平信之助

勝者 立川流扇闘術 秋葉太夫



秋葉太夫 対 松平信之助

不戦勝 天真神刀流 松平信之助



[13895] 幕間
Name: 小話◆be027227 ID:b35051a3
Date: 2010/03/07 16:29
京の町に存在する東屋の中に猿、狐、狸、蛇の四匹の獣を模った面を被った四人の人間が集っている。
世の影に潜みしものか、それとも影の闇に住まうものか。
何れにしろ尋常の者達で無いのは明白であろう。
その内の一人蛇の面を被った者から言葉が紡がれる。

「企ては順調か?」
「残るは二人と相成り申した」
「後は何れが公に挑むかを決するのみと」
「それだがな、安土より公が出立するとの沙汰があった、更に道中京において会合を開くとの由、この好機は逃せん」

膝元であり堅牢たる安土城には如何にこの四人であろうとも手が届く事はない。
しかし備中高松城攻めに難航していた秀吉が信長に出陣して欲しいと要請してきたのだ、尤もこの要請は秀吉が一人で処理できる段階に来ていたにも関わらず、信長に対して高松城陥落の功を信長に譲る為に呼んだに過ぎないのだが、それを知りつつも信長自ら備中へと出立するとの下知が出された。
しかも途中で堺の豪商たちとの会談を設けているために本隊に先んじて僅かな供回りを連れての京入りである、これは信長の絶対の自信ではなく油断の表れと四人の目に映った。

「確かに、この好機を逃せば次に機会が訪れるのは何時になるか」
「上手くすれば嫡男である信忠すら討ち果たすことも可能」
「ならば二人共に送り込んでみるか」
「ふむ、そうなると舞台は何処が適当か?」

四人の真ん中にたった一つだけ灯された蝋燭の薄明かりの中で、ぼうと浮かび上がった四つの面が口々に語る姿は正しく魑魅魍魎の集いと見える。
事実語られる言葉は欲に満ちている、しかし是こそが戦国の世の縮図に相違ないこともまた事実。

「ではその様に」
「異議なし」

夜も白んでこようという刻限になり全てが決し四つ魍魎の姿が消え失せる、後に残されたのは溶けた蝋の臭いだけであった。



明けて天正十年六月一日、織田信長は京に滞在するにおいて常宿としている本能寺に居た、この本能寺は法華宗本門流寺院でありながら周りに堀と土塀が張り巡らされ一種の平城になっている。
その本能寺に設えた部屋で正室である帰蝶と夕餉を取りながら信長は背骨から這い上がるチリチリとした感覚に昂っていた。
これは桶狭間、姉川、比叡山、長篠など己の帰趨ともいえる時に相対したときに感じるものに相違ない、この勘を信じるならばこれより己が運命を決する何事かが起こるだろう。

「是非におよばず」

その予感を心地よいものと感じて泰然とした不敵な笑みを湛えて帰蝶が注いだ杯を呷った。



京の鴨川の畔を歩いていた紅林左近の下に一人の女が姿を見せた、その女は左近に割符を託した女に相違ない。
女は左近の前に膝を折って傅くと左近に何事かを告げて去ってゆく。
その言葉を聞いた左近は口の端に笑みを浮かべるとただ一言を呟いてその歩みを再開させた。

秋葉太夫と別れてから数日後京の町に居た、松平信之助の前に網笠を被った男が訪れた、その男は何も語らずにただ一通の書状を置いて去ってゆく。
信之助は置いてゆかれた書状に目を通すと、その瞳を爛と輝かせて言葉を紡いだ。

秀吉救援に赴く信長の先触れとして進発した明智十兵衛光秀は嵯峨野を出て衣笠山の麓に陣取ると配下の武将を全て呼び集めて号令を発した。

奇しくも三人の男から異口同音の覇気に満ちた言葉が発せられた。

「敵は本能寺に在り」



[13895] 最終幕の壱 本能寺
Name: 小話◆be027227 ID:b35051a3
Date: 2010/05/04 15:02
天正十年六月一日の亥の刻も半場を過ぎた頃、京の六角大宮の西、四条坊門に建っている法華宗本門流の寺社、本能寺の門前に一人の男がふらりと現れた。
長髪を後ろに撫で付けた羽織袴姿のその男は正面の門に立つと一枚の割符を取り出すと門の両側に立っている門番へと声をかける。

「此処にこれと同じ割符を持つものが居ると聞いて参った、取次ぎを願おう」

名乗りもせずに要件だけを告げる男に対して当然のように警戒感を顕にする門兵たち、それも当然の事で現在この本能寺には天下人に一番近いといわれる戦国の覇者、織田信長が逗留しているのだ。
無論この門兵たちも織田兵の一員である、「はい、そうですか」という訳にはいかない。

「お主が何者か知らんが、この本能寺には織田の大殿様が逗留しておる、用向きならば後日改めて来るがよい」
「そうもいかん、俺の用人は今この中に居るらしいのでな、邪魔するならば押し通る事になるが?」

自らの職務を果そうとする門兵に対して男は不遜な態度を崩す事もなくさっさと門を開けろと言い放つ、その言動を受けて門番は当然の如く不埒な輩を叩きのめそうと槍を構えて恫喝する。

「痴れ者め、多少は痛い目をみんと分からんようだな!」

己の身も弁えぬ男に対して叩きのめしてやろうと槍をふるう門番であったが、次の瞬間にはその槍が中ほどからぽとりと地に落ちるのを眼を丸くして見つめる破目となった。

「取り次がぬと言うなら次は腕を落とす」

淡々と言葉を続ける男に対してその言葉が真実であると確信した門番であるが己の裁量でこんな怪しい人間を通すことは出来ない、もし通してしまえば打ち首になるのは間違いなく、かといって拒めば今目の前の男が言ったように自分の腕が落とされるだろう。
門番が進退に窮しているとその態度に焦れた男が一歩を踏み出した、もはやこれまでと侍らしく切り死にを覚悟した門番たちであったが直後門内より声がかけられた。

「構わん、通せ」

その言葉と共に閉ざされた門がゆるゆるとその口を開いてゆく、途端その門の内より剣気が男に叩きつけられる、傍らにいた門番などその気に圧されて地面にへたり込んでしまうほどだ。
それほどの気を受けながら男は顔に笑みを浮かべると歩を進める、天空より冴え冴えと降り注ぐ蒼い月光の中を進むと境内には年の頃なら十八か十九の艶やかな着物を纏った、そして何よりその顔立ちの美しさは女もかくやと言わざるを得ぬ美丈夫の若武者が一人立っていた。

「某の名は森蘭丸成利、そこもとの名を聞こう」
「総州浪人、紅林左近、お前が割符の持ち主か?」
「確かに割符は某が持っている、だがこれは我が主君織田信長公より預かったもの、誰であろうと渡すわけにはいかん」
「割符そのものには用など無い、だが公が持ち主と言うなら戦わねばならん」
「理由は?」
「俺が最強足る為に」
「そうか確かに男子の本懐ではある、がしかし大殿を害そうと言うならばこの蘭丸容赦せん!」

その返答を聞いた蘭丸は端正な顔に怒気を現して背に負っていた武器を取り出すと両手で持って構えをとる。
その武器は一見すると薙刀に良く似ていたが薙刀にしては柄が短く刃が長い、およそ太刀の刃を持ち柄の長さが刃とほぼ同等にあつらえられたその独特の形状をして長巻と呼ばれる武器である。
蘭丸が構えをとるのに併せて左近の周りに一斉に兵たちが現れた、各々の手には槍や刀が握られて左近へ向けられており、じりじりと包囲の輪を縮めてゆくとその中から一人の兵が左近に向かって襲い掛かった。

「鋭っ!」
「邪魔だ」

左近は襲い掛かってくる雑兵を一瞥すると左近の腰で一度だけキンという鍔鳴りの音が響いた、その音は決して大きな音では無いが周囲に居る者たちの耳に届き、次いで襲い掛かろうとしていた足軽の動きが止まり上半身と下半身がずれ落ちる。
両断された体から夥しい血液が流れ出し白砂を赤く染めると境内に濃密な血の匂いが立ち込める、その光景を目の当たりにした兵が動揺を表すなか蘭丸から鋭い声が飛んだ。

「下がれ、これは森の戦である、そなた等は手出し無用!」

蘭丸の声を受けた兵たちはその声でもって何とか平静を取り戻すと、左近と蘭丸の二人を中心にして人垣で輪を作る、兵たちが見守る中での二人の戦いが始まった。
先程の兵が切り倒されたのを見て左近の技が居合いと見て取った蘭丸が先ず先手を取って討ちかかる、薙刀や槍に比べれば短いとはいえ普通の刀に比べれば広い間合いを持つ長巻の利を活用して左近の間合いの外から上段の一撃を振るう。
左近は蘭丸の切り下ろしの終りに併せて切り込むべく腰を落として身構えると真っ向から唐竹割りに振るわれた一撃を見切ってかわすと腰から刃を走らせる。
振り下ろした長巻がかわされた直後に自分に向かって迸る銀光を咄嗟に立てた柄で受け止めた蘭丸はその鋭い一撃を受け止めると同時に柄を捻ってその刃を折ろうと企てた。
しかし左近の居合いは神速の域に達している、捻られる前に既に鞘へと納刀しており、直後に蘭丸を切り倒すべく続けて二の太刀を抜刀した。
続けざまに振るわれた二の太刀を後ろへ跳ぶことでかわす蘭丸、続けざまの一刀をかわされても顔色一つ変えずに泰然と佇む左近。

「満更、雑魚ということもないようだな」

左近がそう嘯くと蘭丸の袴の裾が僅かに切れて裂け目を晒す、跳んでかわしたはずの一刀によって切られたものだ。

「どちらの台詞かな、それは」

油断無く長巻を構えたまま蘭丸も言い返す、すると左近の着ている羽織にも切れ目が現れた。
その切れ目は完全に見切ったと思っていた最初の唐竹割りによって付けられたものであるのは間違いが無い。
この一連の攻防は周りで見ている人間たちからすればただ蘭丸が打ちかかり後方へと飛んだとしか見えなかった、しかし互いに紡がれた言葉から判断すれば先程の攻防は互いに相手の実力を測るためだけに振るわれたものだと言外に語っている、つまり今からが真の戦いの幕開きである。
その事実に周りを囲んだ兵たちは今此処で対峙する二人がおのれ等とは違う生き物であると実感し、その肌を総毛立たせながら勝負の行方を固唾をのんで見守るしかなかった。

左近はじりと詰めよって一足の間合いに蘭丸を捕らえると同時に地を蹴った、強く踏み出した右足と腰から迸る刃に全ての力を乗せて真一文字に抜き放つ。
その抜き打ちを再び後方へと跳躍することでかわした蘭丸は本堂の縁側に作られた欄干に着地すると、そのまま欄干を蹴って宙高く飛び上がり体ごと回転しながら左近へと刃を叩きつける。
轟という音と共に叩きつけられる一撃は蘭丸の華奢な外見に見合わない剛剣である、左近といえども真正面からぶつかれば両断されてしまうだろう。
だが如何に威力があろうともこんな見え見えの攻撃が通用するはずはない、僅かに横へと移動し攻撃の隙を縫って首や腕の一本も斬り落とせば勝敗は決する。
しかし蘭丸の一撃は左近をしてその威力を見誤らせた、刃自体はかわすに支障は無かったのだがかわした刃が地面を叩くとその威力によって土砂が巻き上がったのだ。
まるで火薬を爆発させたような衝撃音が鳴り響き、巻き上がった土砂が礫となって左近の全身に降り注ぐ。
その礫そのものでは怪我をするほどの威力は無いが剣先を鈍らせることにはなった、その証拠に左近が繰り出した一刀は蘭丸の身体に触れることができなかったのである。
蘭丸は長巻を地面に叩きつけ巻き上げた土砂を目眩しにするとすぐさま後ろへ飛び退いて左近の刀をかわしていたのだ。

「ち」

左近は一つ小さく舌打ちをすると刀を腰溜めに構えたまま追撃へと移る、一足飛びに蘭丸へと迫ると気合の声とともに再び跳んでは逃がさぬと斬り上げの一刀を抜き放つ。
その居合いの一刀を蘭丸は右へと、左近からみれば左へと素早く移動することで左の腰から刀を抜くという居合いの攻撃範囲から身をかわし、かわしざまに広い間合いを生かした突きを撃ちはなつ。
左近は眼前に迫る長巻の切先を返す刀で弾くとそのまま鞘へと納刀し再び剣を振る、正し今回は直接胴や首を薙ぎにはゆかずに蘭丸の体の中で一番左近に近い場所すなわち右小手を切り落しにかかった、相対した相手の殆どを一刀の下に降してきた左近からすれば蘭丸を己と対等に戦う事のできる武士と認めての一閃である。
そして蘭丸もその評価に答える、己の腕を切り落さんと迫る刃に対し咄嗟に長巻を放して腕を捻ることで薄皮一枚を裂くに留めた、さらに放した長巻が地に落ちる寸前足にて蹴り上げると左手で掴み取り片手で横へ一閃させる。
ギンという鋼が打ち合う音をもって左近と蘭丸の動きが止まり鍔迫り合いになる。

「ふ、色小姓かと思えば中々どうして一端の武士であったか」
「そこもとこそ浪人にしておくのは惜しい腕よ、大殿に仕えるというなら目こぼししてやるが」
「要らぬ世話よ、俺は誰の下にも就かん」
「ならば死ね」

渾身の力を込めて左近を押し退けると同時に一歩下がった蘭丸は柄を左近へと向けた下段右脇構えから左切り上げに長巻を振るう、長巻の刃が地面を切り裂き敷き詰められた白砂を巻き上げてその刃の軌道を覆い隠す地擦りの一撃。
蘭丸はその華奢な外見に反した強力と見かけ通りの俊敏さを持っている、この一撃はその両方を合わせた自身必殺の得意技であった。

「甘い!」

しかしその一撃を左近は捕らえていた、無論目でそれを見ていた訳ではないだが今日まで幾人もの相手と死合ってきた経験から蘭丸の構えをしてその攻撃を読み取らせていた。
土煙の中から飛び出した長巻の刃を掻い潜ると再び居合いの一閃が月光を反射して三日月を描く。
その銀光が再び左近の腰へ納まったとき蘭丸の腕に一筋の傷が刻まれていた。

「くっ」

蘭丸は歯噛みして傷から流れる血を舐め取ると左半身の構えを取りながら左近に対峙するが左近は無情に告げる。

「既に技前は見切った、お前では俺には勝てん、が言って引く男でもあるまいな、潔く死ね」

左近はつまらぬハッタリを言うような男ではない、ならばその口から出る言葉は疑いない真実であろう。
それは剣を合わせた蘭丸自身が分かっている、恐らくは左近を十とすれば自分の力量は七か八といった所であろう。
試合であれば五本に一本は取れるかも知れぬがこの場においてはこの力の差は致命的であろう、しかし蘭丸には焦りの色は無い。

「侮るなよ、これよりが森の戦いの真髄よ」

蘭丸は左近の周囲を円を描くように回り始めると速度が乗った所で飛び上がり縁側の欄干に飛び移ると欄干を再び蹴って宙へ舞う。

「同じ手が!」

先程と同様の斬撃が来るかと待ち構える左近だが蘭丸はその頭上を飛び越えて背後に回ると横殴りの一撃を繰り出す。
だがその攻撃を左近は危なげなくかわすと蘭丸に向かって切り込もうとする、しかし蘭丸は自分の一刀がかわされるのは承知の上であったのか、長巻が空をきると同時に蜻蛉をきって空中へと逃げ延びていた。
この身の軽さが蘭丸のいう真髄であるならば落胆したものであろう、確かに驚くほどの身のこなしではあるが是だけでは奇をてらっただけの大道芸と大差は無い。

「跳ねるだけなら蛙と変わらぬ!」

蘭丸は着地を狙って斬り付ける左近の一刀を長巻で受けるとその威力をもって大きく飛び退き人垣の陰へと消えた、その後を追って地を蹴って走る左近の横から襲いかかってくる影が在った、その影へ振り向きざまに一刀を打つ左近だが、襲撃してきた者の顔をみて驚きの表情を浮かべる。

「なに?」

その顔は確かに今対峙している森蘭丸のものであった、しかし今目の前の人垣に消えた蘭丸が左近の横から襲いかかるには時が足りない、確かに身の軽さはかなりものであったが消えたと同時に横から斬りかかってくるのは幾らなんでも速すぎる。

「小癪な!」

自らの一刀をかわされ逆に襲い掛かってくる蘭丸の長巻から身をかわすと再び腰に納めた刀を抜き放つ。
蘭丸はその美しい顔に笑みを浮かべるとまたも大きく跳躍し人垣の影へとその身を隠した、今度は逃がさぬと先程に倍する勢いで走る左近だが、今度は背後から強襲された。
その鋭い一撃に横っ飛びに地を転がってよけると方膝をついて体勢を立て直すと襲い掛かってきた相手が何者かと視線を飛ばせば、その顔は森蘭丸であった。
蘭丸は一つ笑うと再び人垣へとその姿を消し、消したと思えばその影を追う左近の横や背後からすぐさま蘭丸が姿を現し一撃だけを切りつけて再び身を隠す。
同じ攻防が三度繰り返されて左近は蘭丸を黙って見送ると左右へと鋭い眼差しを飛ばす。

「つまらん小細工だ」

全身を張り詰めて蘭丸の出現に備える左近を中心に空気が張り詰めていき初夏というのに回りにいる兵たちの肌が粟立つ。
誰も言葉を発せず身動ぎもしないその僅かな間をもって風が吹いて雲が月光を覆い隠した瞬間、左近の左側から蘭丸が飛び出した。

「お覚悟!」

裂帛の気合をもって切りかかる蘭丸に対して左近は後ろへ一歩跳躍してかわすと、右側へと剣を走らせる。
甲高い刃鉄と刃鉄が咬み合う音が周囲に木霊する、そして再び月明かりが境内を照らし出したとき左近の一刀を受ける男とその男の背後に居るもう一人の男が浮かび上がった、その目の前に並ぶ二つの顔は同じ森蘭丸の顔であった。

「兄弟か」

左近は蘭丸が姿を消してから初めに襲い掛かって来た男に対して僅かな違和感を覚えたのだ、それが確信となったのは襲い掛かってくる蘭丸の腕に左近がつけた傷がある者とない者が居たのを見て取ったからだ。
もっとも普通の人間であればその差異を見極める間も無く、否この二人目が手を下すめでもなく蘭丸に倒されるだろう。

「気付かれたか、存外早かったな」
「だが、まさか卑怯卑劣とは言うまい?」
「無論だ、俺の邪魔をするなら立ち塞がる者は全て平らげるのみよ、なんなら周りの連中にも助力を請うか?」

蘭丸ともう一人の若武者を前にして傲岸不遜に言い募る左近、その左近に対して蘭丸は涼やかな笑みを浮かべて返答を返す。

「某も武士、これは森の戦と言ったからには我等以外に手は出させん」

そう言うと蘭丸と新たに現れた男は鏡に映したような左右対称の構えを取って左近に対峙する。

「参る!」
「けああっ!」

雄叫びを上げて正面から迫る二人に対して左近は横薙ぎに刀を振るった、その残撃の軌道は右回りに弧を描き周囲を一回転する、その銀光から飛び退いた三つの人影がある。
その影を再び睥睨し左近が口を開いた。

「やはり三人か……」

左近は次々と襲い掛かってきた蘭丸たちの攻撃、その鋭さを比べれば僅かながらに感じ取れる剣筋の僅かな差異から三人目の存在をうっすらと感じていた。
もっとも左近にして三人目の存在に確信はなかった、あくまでももう一人居る可能性があると思っていただけだ、しかし二人が態々正面からかかって来た時にその疑念は確信へと変わっていた、故に背後から襲い掛かる最後の一人の存在に対する事ができたのだ。
三人はゆっくりと歩み、左近の前に並んで立つ、対する左近はその手練三人を前にしてなおその態度に些かの変わりも無く、対する三人もそれを不思議とも思わない。
互いにそれだけの実力の持ち主と認めているのだ。

「改めて名乗ろう、森可成が三男、蘭丸成利」
「同じく四男、坊丸長隆」
「五男、力丸長氏」

蘭丸、坊丸、力丸、三人の顔は流石に兄弟だけあって良く似ている、こうして並んで立てば僅かな差異が分かるが、入れ替わり立ち代わりに動かれては余程慣れ親しんだ者でなければ誰が誰やら判断がつくまい。
寧ろこの三人はそれすら考えに入れて手も持つ武器も同じ拵えの長巻であり、着ている着物の柄も揃え、男子であるにも係わらずその顔に化粧を施して同じ顔へと変えているようだ、その徹底ぶりは感嘆に値しよう。

「我等森三兄弟があるかぎり、何人たりとも信長様へ害を零させはせぬ」

言うが早いか蘭丸、坊丸、力丸の三人が縦に並んで左近へと迫る、正面から迫る蘭丸へ左近の居合いが振るわれ、その一刀を抑えた長巻が咬み合った。
その瞬間に蘭丸の陰から坊丸と力丸が左右へと現れて左近の両側から突きを見舞う、咄嗟に後方へと跳んで突きをかわすが再び一人の陰に他の二人が消えて左近へと迫る。
先頭に立つ力丸が左近の眼前で跳躍し上空からその刃を振り下ろす、その一撃にあわせて中にいた蘭丸が左近の居合いを封じるべく小手を狙って切りかかり、その隙を縫うように後ろに居た坊丸が胸に向かって必殺の突きを繰り出す。
力丸の一撃は横へかわし、小手を狙った蘭丸の長巻はそれより早い居合いにて迎撃、胸に突きこまれた坊丸の一刀も返す刀で打ち払う。
その立ち位置を千変万化させて攻め立てる森兄弟に防戦一方に追い込まれる左近、それでも一撃を受けずにかわしきるのに、攻める森兄弟も驚愕を禁じえないが、数度の攻防を経て遂に蘭丸の放った一刀が左近の頬を切り裂いた。

「ここまで森の技を受けて立っていたのは貴様が始めてよ、だがそれも是まで次で必ず倒す」
「そうだな、是までとしよう」

蘭丸の口からこれが最後と発した言葉を聞いて、左近は頬を流れる血を拭い取ると三人を見ながらその言葉に応じた。
互いに是までと言葉を紡いだ以上、三人は一気に勝負をつけるべく左近へと走り、左近は先程までよりも前傾姿勢になると再び居合いの構えを取って迎え撃つ。
正面から迫る三人は左近の眼前で蘭丸と坊丸が挟み込むように別れ、その背後にいた力丸が兄の肩を足場にして跳躍し頭上から襲い掛かった。
左近は腰溜めに構えたまま身動ぎ一つしない、三人の長巻が左右と上の三方から迫り、その軌跡が重なる。
同時に振るわれる三振りの刃が左近を牢獄に閉じ込めるが如き軌跡を描いて迫る、その森兄弟から振るわれた三条の刃の間に一筋の銀光が閃いた。
すれ違い様に左近の左腕と右脇腹から血飛沫が飛び、力丸の片足が膝下から切り飛ばされた。
片足を失った力丸が着地に失敗し倒れ伏す、その足からは鮮血が溢れ出し白砂を真赤に染めた。

「うああっ!」
「力丸?!」

苦鳴を上げる末弟に蘭丸と坊丸の声が一つに重なってかけられる、そのほんの僅かに動きを止めた瞬間を見逃さずに振り向き、再び抜刀し横一文字に斬りつける左近。

「くっ」
「あがっ!」

振り向きざまの一刀を飛び退く事でかわす蘭丸と坊丸であったが、左近が一拍置いて太刀を納め鍔鳴りの音を響かせる、その残響が消えると同時に坊丸の右腕が二の腕からぽとりと地に落ちる。
刀を納めると同時に低い姿勢で走った左近は蘭丸へと迫ると居合いを放つ、その斬り上げの一刀は跳んでかわすが返す刀で真っ向から斬り下ろした刃に胸を切り裂かれた。
四者四様に手傷を負ったが、左近の傷は浅くは無いが動くのに支障は無い、それに比べれば森兄弟の傷は深い、対等以上の腕を持つ左近が相手となっては最早是までであろう。

「我等の技を見切ったというか?!」
「大した技だが見せすぎたな、もっとも完全には見切れなんだ、お蔭で無傷で勝つのは諦めざるを得なかったぞ」

左腕と右脇腹から溢れ出る血も抑えずに淡々と告げる左近の口調には敬意とも取れる響きが乗せられている。
片足を失った力丸は動けず、片腕を落とされた坊丸では敵足り得ない、唯一四肢が無事な蘭丸といえども胸を裂かれて傷から血潮が溢れるのを止められない。
それでも力丸は膝を引きずりながらも獲物を弓に持ち替え、坊丸も長巻を捨てて太刀を抜き、蘭丸も長巻を正眼に構えて立ち向かう。

「二人とも引け、その傷では何もならん」
「兄者の盾にはなれる、俺が斬られるうちに彼奴を討てればよい」
「そうです、動けずとも援護くらいはできます、兄上は奴を討つことのみに専心下さい」

弟二人に下がるように言う蘭丸であったが、坊丸も力丸も引き下がる心算は無いと訴えかけてくる、その表情を見た蘭丸は語るだけ無駄と得心して再び左近へと向き直った。

「今生の別れは済んだか」
「お情けかたじけない、しかし死出の旅にはそこもとにも付き合ってもらう」

兄弟とのやり取りを黙って見ていた左近の行動を情けと知る蘭丸は、礼を述べると最後の決着をつけるべく決死の一撃の為に気息を整える、その蘭丸の前に立つのは片腕を失いながらも太刀を握り兄の為に盾となろうとする坊丸、さらに後ろには矢をつがえた力丸がせめてもの牽制にと狙いをつけている。
周囲を囲む者たちも遂にこの死闘も最後と固唾を飲んで見守るなか、一切の音が消えて是までに無いほど圧力が高まる。
左近の腰が沈み蘭丸と力丸が地を蹴って走った、双方がぶつかる瞬間三筋の刃の軌跡が虚空に閃き、一矢が空を貫いた。

「何者か!」

勝負を邪魔された蘭丸の怒声が木霊する中、三人が振るった刃は飛来した矢を切り払い、坊丸が放った矢は土塀を越えて進入しようとしていた人間の眉間を捉えていた。
途端に湧き上がる喊声と門を打ち付ける槌の音、そして土壁の上部からは篝火の明かりに照らされた中ではためく旗指物が覗いている。

「敵襲、敵襲ー!」
「うろたえるな、女は裏から逃がせ、われ等は賊を迎え撃つ!」
「妙覚寺の信忠様の元へ走れ!」
「門を押さえよ、一歩たりとも中へ入れるな!」
「あの紋は…… 明智の軍勢か?!」
「無粋な……」

左近と森兄弟が決闘を繰り広げていた本能寺の境内は一瞬にして合戦の場と相成った、翻る旗指物に刻まれた桔梗の紋は明智光秀のものに相違ない、しかし明智といえば織田の家臣でも重臣で通っていたはず、それが主家へと反旗を翻したとなれば戦乱の中で下克上と立身出世を体現していた信長にしては皮肉であるやも知れぬ。
各所で怒声と悲鳴が入り混じり遂に門を打ち破った明智の雑兵がなだれ込んでくる、その乱戦の中で手傷を負っている坊丸と力丸の二人に雑兵が襲い掛かった。

「その首貰った!」
「手柄首じゃあ!」

意気込んで剣を振り上げたその雑兵は一太刀を振り下ろすこと無くその首と胴を分かたれた、首から吹き上がる鮮血が夜空を染めて倒れ伏す雑兵の背後から姿を現したのは蘭丸であった。
以下に深手を負っても雑兵如きに遅れを取るような蘭丸ではない、その蘭丸より弟二人に言葉がかけられる。

「兄上」
「二人とも聞け、某は大殿の下へと参り落ち延びるように話してまいる」
「分かりました、我等二人はここで斬り死にいたします」
「……頼むぞ」

弟は兄に全てを語らせず、兄もまた弟に告げる言葉もない、視線だけで意志を交わすと三人は二手に別れた。
失った片足を欄干に乗せて矢継ぎ早に矢を射掛けて次々と雑兵を射抜き撃ち倒す力丸、その力丸の前に陣取って矢玉の隙から迫るものを片手に持った太刀で斬り倒す坊丸。
自らの流す血と返り血とで全身を朱に染めながらも尚、猛威を振るう二人の姿に味方は鼓舞され敵は恐れおののく中で二人は声を張り上げる。

「我は森可成が四男、森坊丸長隆なり、我こそと思わん者はかかってまいれ!」
「同じく森可成が末弟、森力丸長氏! この首獲って誉れとせよ」

後事を弟二人に託した蘭丸は主君である織田信長の下へ駆け出した、外の喧騒も届かぬ奥の間にたどり着くとここに居るべき男の姿が無いのを訝しむが、すでに迎撃に向かったか、それとも奥にいて主君の警護に当たっているのかと思い、襖の前に畏まって中へ声をかけた。

「大殿、謀反にございます」
「誰か?」

謀反の知らせを告げる蘭丸に対して一拍の間があってから中から声が発せられると同時に襖が開かれ、寝巻きである白襦袢に女物の内掛けを肩にかけた男が現れた。
蓬髪に茶筅髷を結った頭に面長で鋭い輪郭、太く力強い眉毛、大きく鋭い眼、鼻筋の通った高い鼻、引き締まった口に男らしくたくわえられた美髯を蓄えた精悍で勇壮な面の男こそ戦国の覇王にして自らを第六天魔王と嘯くもの、織田弾上忠信長である。
その身は四十九と既に老いが始まる年齢にも係わらず、なお凛とした覇気に満ちており肌艶からすれば三十半ばで通用しよう。
その後ろには三国一の美女と謳われた、信長の正室である帰蝶が付き従っている。

「紋は桔梗、明智光秀様と……」
「金柑頭だと?」 
「十兵衛様は賢いお方です、雑兵など幾人いようとも上総介様に傷を付けることなど叶わぬと分からぬ人ではありません、ならば隠し玉が居ると見るべきでしょう」

その帰蝶の言葉に蘭丸がはっとした表情を浮かべた、信長はその顔を見逃さずに面白そうに笑うと茶化すように言葉を連ねる。

「お濃、蘭には心当たりがあるようだぞ」
「まあ蘭丸、隠し事は感心しませんよ」
「は、それは……」
「俺のことのようだな」
「貴様!」

自らの宿舎を敵に囲まれても泰然自若とした態度を崩さぬ信長と帰蝶、そして主を逃すべく馳せ参じた蘭丸の前に左近が現れた。
その姿を認めた蘭丸は主君を守ろうと立ちふさがるが、信長は蘭丸を手で制すると前に進み出て目の前に現れた左近を見つめて目を細めると顎に手を当ててうっすらと笑みを浮かべた。

「ほう、中々の剣気だ、どうだこの信長に仕えぬか?」
「森にも同じことを聞かれたな」
「断ったのであろう、貴様はそういう男よ」
「それが分かって何故同じ問いを投げる?」
「それは信長が故よ、これが最後の機会ぞ」

何時の間にか帰蝶の手には一振りの朱鞘に白い柄の刀が持たれており、にこやかな笑みを浮かべながら信長へと差し出す。
差し出された柄を握り、ゆっくりと刀を抜くとその切先を左近へと向ける、その青白く輝く刀身からは信長が発する覇気に呼応したのかゆらゆらとした靄のようなものを発しているのが感じ取れる。

「断る」

左近が言葉を発した瞬間、信長はすうと刀を持ち上げて無造作に振るった、その一刀は欄間を両断し床を切り裂いた。
咄嗟に横へ跳んでその一刀をかわした左近だが、無造作に見えたその踏み込みと剣閃の一撃のなんと鋭いことか、来ると分かっていなければかわしきれなかったかも知れないと額に汗を掻く。
しかしここで引く事は己の矜持が許さない、腰を落とすと居合いに構える。

「ふ、ふははははは! 良いだろう信長の力その身体に刻んで逝け」
「お待ち下さい!」

笑う信長が左近との戦いに身を投じようとした時、蘭丸がその間に割ってはいる。

「なんの真似だ?」
「外には明智の軍勢が居ります、ここは私に任せて急ぎ脱出を」

懸命に訴えかける蘭丸だが胸の傷から流れる血は止まる事を知らず、すでにその顔は蒼白である。
しかしその瞳に宿る鬼気は蝋燭が燃え尽きようとする瞬間一際輝くように、是までに無いほど凄まじい。
既に自らの死を覚悟した漢の願いを無碍にするようでは主君たる資格はない、信長はその場で踵を返すと奥の部屋へと歩を進め、帰蝶がそれに付き従う。

「ここを逃せば公と戦える機会は巡ってこぬだろう、ならば逃がす訳にはいかん」
「その通りだ、ここで逃げられては困る」

信長の背中へ左近が声をかけ、同時に左近の後ろからもう一人の声が響いた、その声の主は血に染まった着流しを着て両手に血刀を下げた浪人風の男であった。

すでに月は中天を超え、日付は六月二日へと移り変わっていた。



[13895] 最終幕の弐 戦鬼
Name: 小話◆be027227 ID:b35051a3
Date: 2010/04/26 10:42
織田信長の側仕えの中に弥助という者がいる、弥助は商人の奴隷として働かされていたがその姿を見た信長が大いに気に入り、商人よりその身を譲り受けると自分の小姓として側に置いた。
食を与え、着物を着せ、言葉を教えて弥助という新しい名まで与えて面倒を見た、その恩義に報いようと弥助も良く働き次の戦で手柄の一つも立てれば旗本にも取り立てようとの話がでるほどであった。
それ故に戦場での手柄を上げようと奮い立っていた弥助は此度の信長の中国征伐に同道しており、今日は本能寺の奥の間にいる信長と正室である帰蝶(濃姫)の警護の任にあたっていた、
その弥助の下に伝令が駆け込んできたのは夜も更けた亥の刻も半場を過ぎた頃であった、正門に一人の浪人が現れて同僚である森蘭丸と戦っており、しかもその剣腕凄まじく小姓衆のみならず信長配下の武将の中でも抜きん出た実力を持つ蘭丸を攻め立てているという。
それを耳にした所でこの奥の間の警護を放り出して行くわけにはいかないが同じ信長の側仕えとして仕える身、しかも蘭丸は出自の卑しい自分にも分け隔てなく接してくれた数少ない友人である、その友人の危機を見過ごすことも出来ない。
しかしながら蘭丸も名を馳せた武人である、ここで下手に助太刀に入るなど彼の矜持が許すまいがさりとて気にならぬ訳はない、どうすれば良いのかと弥助の中で葛藤が渦巻いていると奥の間から静かな声が掛かった。

「弥助、あなたの思うとおりになさい」

かかる声は奥方である帰蝶のものであった、弥助はその落ち着き払った声に突き動かされるようにして部屋を後にして蘭丸の元へ走りだす。
しかし結果として弥助は蘭丸の元へは到達することは無かった、部屋を出て正門へと向かう道で二人の足軽が走っているのを見かけたのである。
弥助の記憶が確かならその二人は裏門の番人であった、幾ら騒動が起こっているとはいえ勝手に持ち場を離れた事を咎めようと二人に向かって声を張り上げると、その声と弥助の姿に驚いた門兵二人は一目散に逃亡してしまった。
弥助はそれを見てこれはしまったと顔を覆ったが既に事はなってしまった後である、確かに蘭丸の勝負の行方は気になるが、さりとて裏門を放っておくわけにはいかない、しかたなく弥助は舌打ちをすると蘭丸の無事を祈りながら裏門へと向かう。
程無くして弥助が裏門へ到達したとき浪人姿の侍が一人、門をくぐって本能寺の中へと足を踏み入れた瞬間であった、確か蘭丸と対峙しているのも浪人であり、誰も居ない裏門から進入するもう一人の浪人、しかもその佇まいから判断すればかなりの手練であるとわかる。
つまりこの男こそが信長を狙う刺客と見て間違いあるまいと弥助は判断して自らの武器をその男に向かって投擲した。
そして天正十年六月一日子の刻、本能寺の裏門においてもう一つの戦いの幕が上がった。


本能寺に正面から乗り込んだ左近が森蘭丸と対峙している頃、表の騒ぎを尻目に本能寺に裏門へと姿を現した男があった総髪に髷を結った着流し姿の浪人である、その腰には大小の太刀が佩かれておりただ立っているだけでありながら凛とした空気をまとっている。
袂に入れられた左手に自ら集め、また託された六枚の割符を感じながら歩みを進めると門の前に立って声を上げる。

「拙者は松平信之助と申す、所用があってまかりこした、開門願いたい」

青い月明かりの中で声を上げる信之助ではあったが返答は無い、それもそのはずこの裏門には本来居るはずの門番の姿が見えないのである。
訝しげに辺りを窺うがやはり返答はなく人影も無い、確かに真夜中に訪れたのは些か礼を失する行為ではあるが此方も急いで赴いてようやくこの時間に本能寺へと到達したのだ、手ぶらで帰るというのも業腹ではある。
それでも誰も居ないのなら仕方が無いかと軽く門に手を置くと閉ざされていた門が軋みを上げながらその口を開いた。
余にも無用心なそれに寧ろ警戒感を抱いた信之助が開いた門の内側に声をかけても応える姿も声も無い、しかし折角門が開いたのだからと境内に足を踏み入れた信之助に闇の中から飛来する物がある。
咄嗟に腰の刀を抜いて打ち払い、地面に落ちたそれに視線を向ければ二尺ほどの鋭い角であった。

「誰だ!」

誰何の声を上げるが応える者はない、それでいながら明確な殺意だけが澱のように地を這って信之助に纏わりつく。
しばしの沈黙のあと闇の中から姿を現したのは縦長の巨大な顔であった、楕円を描く輪郭は三尺に及び顔の半分を占める吊り上がった目の周りは赤く彩られ、耳まで裂けた口からは鋭い牙が覗いている。

「物の怪か?!」

その顔を見た信之助が驚きで目を丸くする、その声には応えずに信之助へと向かって迫る物の怪は信じられない速度で一気に距離を詰めてくる。
信之助は己に迫る巨大な顔面に向かって構えた太刀を斬り付ける、相手の顔面を切り裂くはずの太刀はその硬い顔に一筋の傷を刻むに留まった。
しかも確かに傷を与えたにも係わらず、血の一滴すらも流さない、それどころか全く怯む様子も見せずに顔の横から鋭い角が突き出された。

「くっ!」

突き出された角と迎え撃つ太刀が咬み合い激しい火花が散る、二度三度と襲い掛かる角の攻撃を尽く退けると化け物は後ろへ跳躍して間合いを広げた。
間が開いたのを好機として油断無く右手に持った太刀を物の怪へと向けながら、左手を腰の小太刀へ伸ばして鯉口を切って次の襲撃に備える信之助に声が掛かった。

「オ主強イナ」
「ほう、人の言葉を操るか」
「HOO―RORORORORORORO!」

化け物から発せられたのはどこか歪な響きがあるが確かに人の言葉である、その言葉が終るやいなや化け物は奇怪な叫び声を上げながら信之助へと迫る。
それを真っ向から迎え撃つ信之助、繰り出される角を太刀で受けると同時に引き抜いた小太刀を巨大な顔、その見開かれた目へと渾身の力を持って突き入れる。
如何に頑丈な皮膚を持っていようとも目玉は違うのではと思っての一撃である、その突きは確かに化け物の瞳を貫いた、しかし化け物は何の痛痒も見せずに角を振るう。

「ちい!」

舌打ちとともに咄嗟に飛び退く信之助は角を避けきれずに腕を浅い傷を負った、しかし信之助の顔には笑みが浮かんでいた、構えた太刀の切先を物の怪へと突きつけて口を開く。

「正体見たり枯れ尾花とはよく言ったものだ、最早こけおどしは通用せん」

信之助は今までの手応えから相手は盾に物の怪の顔を描いてその背後に身を隠しており、振るわれる角は恐らくは牛か何かの角を加工した手槍と看破した。
夜の闇に浮かび上がる巨大な顔に誤魔化されたが判ってみれば単純な事である。

「コケオドシデハ無イ、コレガ某ノ戦イ方ダ」

相手は正体を見破られたにも係わらずに辿々しい言葉を返してきた、のみならずに盾を下げて己の姿を信之助に晒す。

「な……鬼か?」

その姿を見た信之助は呆然と呟いた、盾の陰より現れたのは七尺余の巨体で動くたびに躍動する引き締った筋肉は恐ろしい程の膂力と速さを同居させていると思わせる。
上半身は裸で赤や白、黄などの色取り取りの刺青を施し、縮れて渦を巻く髪の毛の中からは額に巻いた鉢金の角が突き出しており、月光に照らし出された黒曜石が如き漆黒の肌とその中でギラギラと白く輝く双眸、真っ赤な口腔の中に見え隠れする乱杭歯が見る者の畏怖を誘う。
その姿はまごうことなき漆黒の鬼であった。

「まさか鬼と戦う事になるとはな」
「某ノ名ハ弥助ト言ウ」

黒鬼の正体はバテレン商人に奴隷として連れて来られた黒人である、その黒人奴隷を目に止めた信長が従者として弥助という名を与えたのだ。
その弥助は左手に持った盾を掲げ、右手に持ったニ尺程の短い手槍を構えて立ちはだかり、信之助は両手に持った大小の太刀を構えて相対する。

「某ヲ鬼ト呼ブノハ構ワヌガ、大殿ニ仇ナス者ハ全テ殺ス」
「鬼か何かは知らぬが引く気は無さそうだな、ならば源頼光に肖って鬼退治といこう」
「酒呑童子ト同ジ様ニハイカヌゾ!」

弥助は声を上げると盾を翳して飛び込むと右手に持った手槍を突き出す、信之助はその突きを小太刀で払うと隙を狙って太刀を振り下ろした。
しかしその斬り下ろしは盾に受け止められてしまう、太刀を受けた盾を力任せに押し込んでくる弥助に信之助も応じるが力比べは弥助に軍配が上がる。

「ぐっ」
「HORORORORO!」

二の腕の筋肉が盛り上がり押し込まれた信之助が体勢を崩した所へ手槍が突き出されたのを小太刀で防ぎながら弾き飛ばされるように後方へと下がった新之助が蹈鞴を踏む、そこに雄叫びを上げながら追撃をかける弥助。
二度三度と連続で突き出される手槍をかわし、払いながら弥助の隙を窺う信之助は攻撃の手が緩んだ一瞬を見逃さずに反撃に移る。
手槍をかわすのに併せて体を回転させると勢いに任せて両手の刀を首と胴を弥助の右側から薙ぎにゆく。
弥助は盾とは反対方向から迫る二振りの刃を前方へと身を投げ出すことで回避すると二度三度と転がって距離をとり体勢を立て直す。
回転しながらの横薙ぎをかわされた信之助は更に半回転して振り向くと地面を転がっている弥助に向かって走ると叩きつけるような一撃を放つ。
信之助の攻撃を弥助は盾を翳して受け止めた、すぐさま反撃に手槍を突き出すがその突きは体捌きでかわされ反対に手槍を持った腕に小太刀が降ってくる。
太刀の一撃を受け止められた信之助に反撃の手槍が突き出される、その突きを体を捻る事でいなすと盾の陰から伸びている手槍を持った腕を切り落とそうとかわすことの出来ないだろう瞬間を狙って小太刀を振るった。

「もらった!」
「HOU!」

その一刀は弥助の腕を切り落とす事はなかった、弥助はかわせないと見るや否や腕をねじって槍の柄で刃を受けた。
信之助の技量ならば柄ごと腕を切り落すのも可能であるが、柄にあたり僅かに剣速が鈍った瞬間に弥助は信之助を蹴り飛ばしていた。
信之助は腕を切り飛ばしたと考えた瞬間に視界がぶれるのを自覚した、脇腹に鈍い痛みが走り己が弾き飛ばされたと知る。
地面に僅かな溝を掘りながら二間の距離を離された信之助は相手が追撃をしてこないのを見て小太刀を鞘に収めると一刀を両手で握り大上段に構えた。
柄を切り落されて短くなった手槍と浅く切られた二の腕から流れる血を見て弥助は舌を巻いていた。
嘗て相対した相手は自分の事を鬼や妖怪と呼び恐れその実力を充分に発揮出来ない者が大半であった、まれにその鬼の首を取ろうと奮闘するものも居たが部族において勇者と呼ばれた自分に匹敵するような者は存在しなかった。
しかし今対峙している相手は間違いなく自分と同等以上の勇者である、背筋に寒気にも似た感覚が上るのは故郷の原野で獅子と対峙した時以来のことである、流れる血を舐め摂ると獰猛な笑みを浮かべて渾身の力を持って手槍を投擲した。

「HO-A!」
「はああっ!」

弥助が槍を投擲した瞬間と同時に信之助も地を蹴っていた、真っ向から唸りを上げて飛来した手槍を首を傾げることでやり過ごすが僅かに掠めて頬に傷を刻む、流れた血が後方へ流れて赤い帯を作るのに構わず最後の一歩を踏みしめて大上段から切り込んだ。
投擲した槍は信之助に対して僅かな傷をつけるに留った、かわりに正面から振るわれた斬撃はそのままならば己の身を両断するだろう。
しかし弥助には今まで幾多の攻撃から弥助の身を守ってくれた盾がある、すかさず盾を翳して受け止めようとしたがその盾に一筋の銀光が刻まれた。
大上段から振り下ろされた刃が盾に切り込まれてその傷を深くしてゆく、裂帛の気合と共に振り抜かれた一刀は見事に弥助の盾を断ち切っていた。

「ちい、流石に真っ二つとはいかんか」
「コノ盾ヲ斬ルトハ、貴殿コソ化ケ物ノ類デハ無イノカ」

信之助は刀を振り下ろした姿勢のまま一呼吸吐くと弥助を視線で射抜きながらごちる。
それに対して弥助は盾に刃が食い込んだ瞬間に後ろへと飛び退いていた、そのお蔭で体には何の怪我も負っていない。
しかし今まで身を守ってくれていた自慢の盾が、その一部とはいえ切り飛ばされた事実に額に汗を浮かべながらもその表情には逆に笑みが浮かんでいた。

「某ガコレヲ使ウノハ久方ブリダ、貴殿ヲ勇者ト認メヨウ」

弥助の部族は平原を駆け抜けて獣を狩る事を生業としていた、そこへ白人たちが押しかけ物量と鉄砲という力を以てして弥助たちを狩りたてたのだ。
部族の戦士であった弥助は抵抗したが最後には全ての誇りを砕かれ白人に与するほか無かった。
だが弥助はこの日の本に来て信長に見出された事で再び戦士として立つ事ができた。
そして今自分に匹敵、もしくは凌駕する相手とめぐり合うことで部族の戦士としての己を取り戻した。
部族間の戦いでは倒した戦士の血肉を食むことでその戦士の力と魂を己に取り込むことで更なる強さを得る事が出来ると信じられている。

「勇者ヨ、ソノ力ノ源タル血肉ヲ捧ゲヨ」

一部を切り飛ばされた盾を放り捨てると両手を腰の後ろに回して二丁の手斧を引き出して唇を吊り上げて笑った。

「ふん、やはり鬼かよ、生憎だが生き胆はやらん!」

叫ぶ信之助は再び腰の小太刀を抜いて二刀を構えると先の先を取るために一足跳びで弥助へと迫り、瞬きする間に己の間合いへと飛び込むと左右の太刀を十文字に走らせる。
縦横に振るわれた太刀を地面へと這い蹲るようにして避けた弥助は下方から斧を振るう、足元から掬うようにして信之助の脇腹へと迫る斧刃は逆手に握られた小太刀によって弾かれた。
火花を散らしながら斧を弾いた信之助は太刀を突きこむがこれは逆に斧によって食い止められる。
一拍置いて先程弾いた斧が再び振るわれて襲い掛かるのを信之助も同じように小太刀で以て受け止めた。
四つに組んだ体勢になるが次の瞬間に下方より黒い丸太が信之助の顎を砕こうと迫る、視界の端に映ったそれを仰け反るようにかわして後方へと下がる。
黒い丸太と見えたのは弥助の足である、弥助は天高く突き上げた足をゆっくりと下ろすと両手を体の前にだらりと下げてゆらゆらと揺らし始めた。

「ん?」
「JYA! RARARARARARAA!!」

左半身に構えながらも訝しげに眉根を寄せた信之助にゆらゆらと揺れる腕から漆黒の鞭が振るわれた、否道鞭と見間違えるような撓りの効いた手わざである、両手をまるで鞭のようにしならせて上下左右から攻め立てる弥助と颶風を巻いて迫る斧を迎撃する信之助。
その信之助の口から自嘲ともつかない言葉が漏れる。

「ち、奴と戦っていなければ殺られていたかも知れんな!」

弥助の技は確かに脅威だ、それは定石とは無縁な自然より振るわれる自由自在な坑道に在る。
しかし信之助は先日荒唐無稽とも言える技の使い手と対峙していた、出鱈目具合から比較すれば弥助の技は一歩劣る、それ故に。

「見切ったあ!」

半歩を踏み出して右から振り下ろされる斧の柄を肩で受け止め、同時に左から横薙ぎに迫る斧刃を小太刀で絡め取る、同時に右肩で受けた斧が引かれて肩を切り裂いたが腱までは到達しない。
肩から噴出した血の飛沫が己の顔を朱に染めるのも構わず信之助は太刀を振り上げた。

「GUOOO!」

絶叫が夜の闇に木霊する、その獣の如き短い咆哮が終ると同時にドサリという音がする。
そこには二の腕から切り落された弥助の右腕が転がっていた、むろん是で終るとは双方ともに考えても居ない。
信之助は返す刀で首を薙ぎにゆき、弥助はその一刀をかわすと地面に沈み込むようにして足払いを仕掛ける。
丸太のような足が振るわれるのを跳躍して避けた信之助だが空中にて身動きが取れないところに下方から突き上げられた蹴りが胸板に突き刺さる。
空中に居たのが幸いしたか衝撃が背中へと突き抜けた事で骨にも内臓にも異常は無いが吹き飛ばされるのは止まられない、無様に背中から落下しその衝撃で息がつまり太刀を取り落としてしまう。
その好機を逃がす弥助ではない、右腕から鮮血が溢れるのも構わずに左手の斧を大きく振りかぶると地面に転がる信之助に目掛けて振り下した。
振り下ろされた斧刃は咳き込みながらも横へと転がって避けた信之助の腕を浅く斬り裂くに留まったが、地面に転がったままの信之助を目掛けて再び振り下ろされる。
眼前に迫る斧刃を小太刀の峰に手を添えて受け止めた信之助だが膂力で勝る弥助が体重をかけて押し込んでくるとじりじりと斧が迫り額に傷をつけて血が流れる。
押し込んでくる斧を堪えながら先程のお返しとばかりに上に乗る弥助を蹴り剥がそうとしたところ、その動きを察した弥助が後ろへと自ら跳んで逃れた。
その隙に立ち上がって小太刀を正眼に構える信之助と溢れる血を抑えもせずに片手で斧を構える弥助。
互いに肩で息をしながら対峙する二人であるが優劣は明らかである、片手を失った弥助とあちこちから血を流しながらも傷そのものは軽い信之助。

「コノ様デハドチラガ鬼カ分カラヌナ、ダガ刺シ違エテモ此処ハ通サヌゾ!」
「そうはいかん、是が非でも押し通るまで!」

既に己に勝機は無いと確信しながらも敬愛する主君である信長のために身を捨ててかかる弥助と、それを感じながらも己が意を通す為に進もうとする信之助。
信之助は正眼から小太刀を脇に引き絞り刺突の構えを取り、弥助は斧を大上段へと持ち上げる。
共に最後の一手を繰り出そうとしたその時、塀の外から雄叫びが上がり、開いたままの門から足軽がなだれ込んできた。
なだれ込んだ足軽たちは二人を取り囲むや否や襲い掛かってきた、しかしそこは二人共に尋常の者ではない、掛かってくる者達をたちまちのうちに何人か切り倒す。

「ちい、なんだ一体?!」
「コレハ明智ノ軍勢デハナイカ、マサカ謀反カ?!」

弥助は翻る旗印を見て先陣として備中へ向かったはずの明智勢が主君である織田信長の常宿である本能寺に攻め入ったことから光秀が謀反を起こしたと知って狼狽する。
確かにここ暫く信長と光秀の関係は良好とはいえないものになっていたのは確かだ、しかし光秀は浪人として流浪の身であったものを信長に見出されて大名にまで上り詰めたのだ、それをこの機において謀反を起こすとなれば間違いなく天下を睨んでの事に相違無い。

「オノレ光秀メ裏切ッタカ!!」

怒髪天をつくが如き怒りを顕にした弥助だが頭の中では冷静に事を考えている、確かに本能寺に常駐している者は自分も含めて手練が多いが所詮は百名余に過ぎない、対して明智の手勢は進発した者達が加担したならば一万は下るまい。
周囲を明智の軍勢に囲まれながらも弥助の本能は信之助を排除する事を優先すべきだと告げているが周囲に溢れる雑兵は信之助にも襲い掛かっているようだ。
ならば信之助の始末は任せて自分は信長の護衛に戻るか、それとも妙覚寺に居るはずの信長の嫡男である信忠の下へ救援の伝令に走るかと僅かな間考えを巡らせる。
信長の脱出を手伝うにしても片腕を失った自分では太刀働きも満足に出来まい、しかし囲みを突破すれば自分に追いつける者など存在しない、なら此処は己を殺して走るべきだ。

「口惜シイガ、ココハ援軍ヲ連レテ戻ラネバ」

弥助は己の使命をそう決めると殺した足軽からたすきを奪い取って左腕に巻き止血をすると妙覚寺へ向かう為に猛然と門外へと突進する。
本物の悪鬼羅刹も逃げ出そうかという勢いで暴れまわる弥助の姿に恐れおののく明智兵だが多勢に無勢と槍襖を作り出して弥助を土塀の際へと追い込む。
追い込まれた弥助は全身をたわませて跳び蹴りを放ち敵兵の首を圧し折ると同時に、その頭を踏み台にして跳躍すると塀の上へと軽々と着地した。
そのまま屋根伝いに走り去ろうと踵を返した背中に声が掛かる。

「忘れ物だ!」

乱戦の只中に合って不思議と通るその声に反応した弥助が声に首だけを巡らせて相手を見据えれば発する気配に圧されて散発的に掛かってゆく兵卒を軽く小太刀でいなした信之助が自らの太刀を拾い上げた所であった。
そのついでか側に落ちていた自らが斬り落とした弥助の腕を拾い上げて弥助に向かって放り投げる。

「次ハ必ズヤ貴殿ノ心臓ヲ貰イ受ケル」

投げ渡された腕を掴んだ弥助は信之助へと鋭い眼光を飛ばして見据えると信之助にそう言い残すと腕を口に咥えて手斧を構えて踵を返して隣の屋根へと飛び移る、その後ろ姿を見送った信之助は不敵な笑みを浮かべてポツリと呟いた。

「腕を持って去るか、あれは茨木童子であったかよ」

去った相手には未練を残さずに大小の太刀を油断無く構えて明智の兵へ向きなおった信之助は、立ちふさがる明智の雑兵を打ちのめして道を開き弥助とは逆に本能寺の奥深くへと走りだした。
尤も本能寺の中など知らぬ信之助は何処へ向かえば目指す者が居るのかも見当がつかない、適当に知っている者を探そうにも戦場となった今ではそれも困難どころか不可能であろう、尋ねた瞬間に斬り合いにあるのは火を見るより明らかだ。
それでもこの千載一遇の好機を逃がすわけにはいかないと走り続けていると視界の端にふと映った影がある。
それが何かは判然としないがそれを追いかけろと本能が信之助を急き立てる、その心に従い影を追うと奥の部屋から声が聞こえてきた。

「なんの真似だ?」
「外には明智の軍勢が居ります、ここは私に任せて急ぎ脱出を」
「ここを逃せば信長公と戦える機会は巡ってこぬだろう、ならば逃がす訳にはいかん」

その声に誘われるが如くに向かった信之助の視線の先には羽織袴に長髪の男と、その男と対峙する胸から血を流している美丈夫、そしてその後ろにはたおやかながらも凛とした雰囲気をもった美女と蓬髪の男の四人が居た。
四人は全員が他の人間とは一線を隔す気配を放っているが、その中でも蓬髪の男からは圧倒的な気配を感じる事が出来る。
信之助はその姿を見ただけでこの男こそが戦国に覇を唱えるもの、覇王とも魔王とも呼ばれる戦国の麒麟児、織田弾上忠信長であると確信した。

「その通りだ、ここで逃げられては困る」

突如現れて信長の背中へと鋭い声を叩きつけた信之助に対して、先にこの場所に居た全員の視線が集る。
信之助はその視線を真っ向から受け止めて両手に持った血刀を握りしめた。



[13895] 最終幕の参 夢幻の如く
Name: 小話◆be027227 ID:b35051a3
Date: 2010/05/20 09:59
二人の来訪者を迎えて騒然としていた本能寺であったが、その喧騒を余所に周囲を取り囲む一団があった、鎧兜に身を固めたその一団の中に一際立派な装束を纏った男が居る。
男の名は明智十兵衛光秀、信長の配下において近江、丹波を支配し近畿地方一帯の織田軍における総指揮権を与えられる直臣である。
信長の窮地を知り救援に来たにしては、まるでこれから地獄へと赴こうかというような悲壮な表情がその顔に浮かんでいる、それもそのはず光秀が本能寺に軍と共に現れた理由は主君信長を誅するためであった。
光秀は朝倉に仕えてきた頃からの縁で将軍足利義昭と親しかったが為に朝廷と信長との間を取り持つ役目を負ってきたが、義昭はしだいに信長と対立するようになり京を追われて備後へと落ち延びる事になった。
これを境にして信長は朝廷や幕府を蔑ろにしていると考えた光秀は、しだいに信長と意見を違えるようになり確執が生まれてゆく、その後も様々な事が積み重なり今日という日を迎える事になったのだ。
衣笠山の麓にて兵馬を返した光秀が本能寺を囲んだまま身動ぎもせずにじっと目を伏せている。
事ここに至っても光秀の頭の中では未だ葛藤が渦巻いていた、思い出されるのは信長に仕えてよりの数々に出来事だ、確かに母を見殺しにされ饗応の席にて恥をかかされた事もある。
しかし流浪の身であった自分の才を買って此処まで引き上げてくれたのは信長であり、それどころか一時は君臣を越えて共に酒と花を楽しんだ、何より信長が楽しそうに語る日の本の行く末を自分も共に見たいと願ったのは紛れもない事実である。
しかし権力を握り天下人となった信長はいつしか変わってしまったと光秀は思う、それと同様に自分もまた変わったのだとも感じる。
故に共に歩む事は出来ないのだ、己の信じる理想のために、自分を信じてくれる者達のために自らが天下を睨み正道を取り戻す、そしてなにより信長と共に見た夢の跡を継ぐためにも戦国の世に生まれた武将として引き返す道は既に無い。
光秀が伏せていた顔を上げた時には先程まで何かに脅えていたように見えた瞳には野望に燃える戦国武将に相応しい炎が灯っていた。

「心しらぬ、人は何とも言はばいへ、身をも惜まじ、名をも惜まじ」

光秀は手に持った采配を高々と振り上げると一気に下ろして下知する。

「掛かれぇっ!」
「おおうっ!!」

総大将たる光秀の号令をもって旗に描かれた桔梗の紋が翻り、本能寺を囲んだ明智の軍勢が一斉に襲い掛かる。
鬨の声が響き渡り、怒号と喧騒が支配する中で采配を振るう光秀の背後で薄く笑った者が居る事に誰も気付かなかった。


戦国の覇王、織田信長
蓬髪に茶筅髷を結った頭に面長で鋭い輪郭、太く力強い眉毛の下には鋭い眼が覗き、眉間から流れる鼻梁に蓄えた美髯を持った精悍でありながら艶を感じさせる顔をした戦国の覇王にして自らを第六天魔王と嘯く者である。
尾張の国、古渡城の城主織田信秀の嫡男として生を受けた信長は天文二十年、急逝した信秀の後を受けて家督を相続すると当時うつけと謗られていた兄信長が家督を継ぐ事を不服とした弟信行(信勝)が起こした家督争いに勝利した後、国内の敵対勢力を瞬く間に制圧して尾張を統一する。
そして永禄三年、東海一の弓取りといわれ当時天下人にもっとも近いと目された今川義元の軍勢二万五千を桶狭間の戦いにおいて僅か二千の供廻りで撃破し世に勇名を轟かせた。
この桶狭間を契機として尾張という小国の主でしかなかった信長は天下布武を唱え覇道を歩んでゆく。
周辺の敵を尽く平らげ甲斐の武田信玄、越後の上杉謙信が亡くなった今、天下統一まであと僅かという所まで来ていた信長は、中国征伐に向った羽柴秀吉よりの援軍要請に応じて兵を差し向けると自らもまた備中へ向うべく出立、今夜は京における常宿である本能寺にて休息を取っていた。
夜半も過ぎた頃になって信長が本能寺の奥に設えた寝所で目を覚ますと外がなにやら騒がしいようであった。
何事かと思い起き上がると既に室である帰蝶(濃姫)が起きており、口元を裾で隠してくすりと笑っている、その表情を見た信長が尋ねる。

「どうした濃」
「ふと目が覚めてしまって、起こしてしまいましたか?」
「いや、何やら騒がしいようだな」
「恐らく喧嘩の類でございましょう、弥助を遣わしましたので程無く納まるかと」

帰蝶は楚として信長の近くによると肩に頭を預けてくる、その重みを受け止めながらも信長は神妙な顔を崩さないままだ、その様子を見た帰蝶は信長へ問いただす。

「上総介様?」
「見よ」

そう言うと信長は自らの腕を帰蝶の目の前に突き出す、その腕には鳥肌が浮かんでいた。

「これは」
「ふふ、この信長が鳥肌を立てるとは何時以来か、今宵は騒がしくなりそうだ」

これから何かが始まる、その確かな予感を胸にして信長は凶悪ともいえる笑みを浮かべる、その信長の顔を頼もしそうに見つめた帰蝶は静かに良人の胸に顔を伏せると段々と高鳴る心臓の鼓動をうっとりとして聴いていた。
一組の男女が蝋燭の明かりに照らされながら寄り添う姿は一枚の絵画のようである、その姿勢のまま幾ばくかの時が流れたころ襖の向うから小姓頭である森蘭丸の声が聞こえてきた。

「大殿、謀反にございます」
「誰か?」

謀反の知らせを告げる蘭丸に対して一拍の間を置いて問い質すと同時に寝白襦袢の肩に帰蝶の内掛け羽織って襖を開ける。

「紋は桔梗、明智光秀様と……」
「金柑だと?」 

信長の問いに対して襖を開けたところに畏まる蘭丸が襲ってきたものは明智光秀であると報告する、光秀の名を聞いた信長が首を捻ると後ろに控えていた帰蝶が注意を促してきた。

「十兵衛様は賢いお方です、雑兵など幾人いようとも上総介様に傷を付けることなど叶わぬと分からぬ人ではありません、ならば隠し玉が居ると見るべきでしょう」

帰蝶の言葉に対して思い当たる事があったのか蘭丸がはっとした表情を浮かべた、その顔を見逃さなかった信長は面白そうに笑って言葉を連ねる。

「お濃、蘭には心当たりがあるようだぞ」
「まあ蘭丸、隠し事は感心しませんよ」
「は、それは……」
「俺のことのようだな」

言いよどむ蘭丸が続きを話そうと口を開きかけた時、信長の視線の先にある暗闇から鋼のような声がかかり羽織袴姿の男が一人現れた。

「貴様!」

その声に反応した蘭丸が現れた男に振り向くや胸の傷から血が噴出すのも構わずに抜刀する、相対した表情と態度から察するに蘭丸の胸の傷をつけたのはこの男であると判る。
蘭丸とて相当の腕を持っている武人である、その蘭丸が是ほどまでに緊張を顕にするならば相応の実力を持っているのは疑いが無い、事実その長髪の男からは久しく感じた事の無いような気配が漂ってきている。
信長は今にも斬りかからんとする蘭丸を手で制して前に進み出ると目の前に立つ男を見つめて笑みを浮かべ楽しそうに笑う。

「ほう、中々の剣気だ、どうだこの信長に仕えぬか?」

手を顎に当てて目の前の男に告げる、前に立つ男は信長に放たれた刺客であろうことは蘭丸の態度から十二分に察せられるがそのような事は瑣末時とでも思っているのであろう口調である。
その申し出に対して男は苦笑を浮かべると以外に神妙な様子で応じた。

「森にも同じことを聞かれたな」
「断ったのであろう、貴様はそういう男よ」
「それが分かって何故同じ問いを投げる?」

無論信長とてこの申し出に男が乗るとは思っても居ない、ただ単純にこの男の腕を惜しいと感じたが故のことである。
詰まるところ返答など何でも構わないのだ、己欲したものをただ欲しいと告げたに過ぎない、手に入れば良し、入らぬならばそれもまた良し。
後ろに控えていた帰蝶から一振りの朱鞘に白い柄の刀が挿しだされ、振り向きもせずに白刃を鞘から引き抜くと切先を左近へと向けた。

「それは信長が故よ、これが最後の機会ぞ」
「断る」

男が拒絶の言葉を発すると信長はすうと刀を持ち上げて無造作に一閃させた、その一刀を男は咄嗟に横へと跳んでかわす、振り下ろされた刃は欄間を両断し床を切り裂いて止まる。

「ふ、ふははははは! 良かろう戦国の魔王の力その身体に刻んで逝け」
「お待ち下さい!」

己が振るった刃をかわした男を見据えると哄笑を上げて再び刀を向ける信長の眼前に蘭丸が間に割って入って待ったをかける。
両手を広げて押し止める蘭丸に対して、信長は子供が楽しい遊びを邪魔されたような渋面を作るとその真意を問いただす。

「なんの真似だ?」
「外には明智の軍勢がおります、ここは私に任せて急ぎ脱出を」

落ち延びるように諭す蘭丸の胸からはとめどなく血が溢れており顔面は蒼白になっている、それでも主君の身を案じて懸命に訴えかけてくる姿に感じるものがあったのか、信長がくるりと踵を返した背中に鋭い声がかかる。

「ここを逃せば公と戦える機会は巡ってこぬだろう、ならば逃がす訳にはいかん」
「その通りだ、ここで逃げられては困る」

かかる声には応じずに歩を進めようとした信長だが、そこにもう一つの声が上がった。
新たに上がった声に突き動かされて後ろに首を巡らせれば始めに現れた男の背後、開いた襖の向うに朱に染まった着流しを着て両手に血刀を下げた蓬髪の男が立っている、その男は太刀を鞘に収めて近寄ってくる。

「拙者は松平信之助と申す、これに心当たりがおありか」

そう言いながら懐から六枚の木片を取り出して床へと放った、乾いた音を立てて散らばった木片は分割された割符のようであり、その割符に目を落とした信長は呵呵と大笑する。

「答えてもら……」
「待て」

笑う信長に対して信之助が真意を問いただそうとした所、横手にいた長髪の男が待ったをかけて袖口から二枚の割符を取り出すと先に散らばる割符の上に投げ落とした。

「八枚か良く集めたものよ、蘭」

信長の声に従って蘭丸が一枚の割符を持ち出した、これで九枚全ての割符がここに揃ったことになる。

「この符を揃えた者には何でも願いを叶えてくれると聞いている、今の日の本でそれだけの力を持つのは信長公を置いて他におりますまい」
「ならば如何する」
「知れたこと、この茶番を仕組んだ者の名を答えてもらう!」

嘲る信長に対して思うところがあったのか信之助がニ刀を引き抜いて吼える、それを見た信長は顔に笑みを浮かべたまま手に持った刀を振るった。
横薙ぎに振るわれた刀はあまりにも無造作に過ぎる、しかしその剣閃の鋭さは信之助をして覚えが無いほどに逸い。
咽を切り裂かんとした一刀を反射的に持ち上げた太刀が辛うじて留めていたが、信之助の背中には冷や汗が噴き出していた。
自らが振るった刀を受け止められた信長は刃を引くと顎を撫でながら二人の男に向き直って笑う。

「よもや我が太刀を受けられる者が一夜に二人も現れるとはな、信之助とそっちの名は何といったか?」
「そういえば名乗っていなかったな、総洲浪人、紅林左近」
「信之助に左近か、面白い貴様ら二人我が下に参れ」

先程と変わらずに淡々と告げる目には嘘偽りは何も無い、しかし一刀を片手にしてただ立っているだけの信長から放たれる尋常ならざる気配に信之助と左近は戦慄を覚える。
しかし二人ともが数々の死地を越えてきた猛者である、そうそう気後れしてばかりではない。

「先程も言ったはずだ、断ると」
「生憎だが拙者も御免こうむる」

腰を落として柄に手をかける左近と左半身に二刀を構える信之助、そして二人の前に一刀を片手にして泰然と佇む信長。

「痴れ者が!」
「お待ちなさい」

相対する三人の様子に蘭丸が痛む身体に鞭打って飛び掛ろうとしたとき静かな声が部屋に響いた、信長の横に進み出ようとするのを止めたのは帰蝶である、

「蘭丸、上総介様の邪魔はなりません、それにその傷では足手纏いになるだけです、控えなさい」
「しかし!」
「私は控えなさいと申し付けました」

静かな、しかし有無を言わさぬその声に秘められた力は流石に信長の正室というべきか、下がれと命じられた蘭丸が大人しく下がると帰蝶は信長に向って微笑んで首を垂れる。

「ご存分に」
「ふ」

信長は一声かけたのちに下がって蘭丸の傷を見始めた帰蝶を視線だけで見送ると改めて二人を睥睨する、周囲を光秀の兵に囲まれ、二人の手練と対峙する状況に追い込まれたといってよい、しかし信長もまた戦場を駆ける武人この四面楚歌の状況でさえも心が躍るのを止められぬ。

「この信長に対しそれだけの口を叩いたのだ、覚悟はあろう」
「元より!」

叫んだ左近が踏み込むと同時に必殺の一撃を送る、鞘から抜刀された刃が身体に到達しようとする寸前になっても信長の顔には笑みが浮かんだままである。
そのまま振り抜かれれば間違いなく首を切り落していたはずの一刀が止められた、しかしこれを受け止めたのは信長ではなく信之助である。

「なんの積もりだ?」
「公には尋ねた事に答えてもらわねばならん、引っ込んでいてもらおう」
「邪魔をするなら御主から倒すまで」

視線を交錯した二人の間で火花が散る、しかし睨み合いも一瞬二人の間を引き裂くように銀光が風を纏って迫るのを左近と信之助は互いに後方へと跳んで刃から身をかわす。

「相手を違えるな、うぬらの相手はこの信長ぞ」

顔に笑みを浮かべたまま全身から鬼気を迸らせる信長は構えもせずにただ突っ立っているとしか見えぬ。
しかしながら佇まいは左近と信之助の二人をして躊躇させるだけの迫力がある、如何に天下に覇を唱える人物とはいえ只気迫のみで二人を抑える事は出来ない、それすなわち信長の武は魔人、鬼人と称されるこの二人に比肩、あるいは凌駕するものである事は疑う術が無い。
構えを解かぬままの互いに牽制する二人を見た信長は開いている手を顎にあてると悪戯を思いついた童子のような笑みを浮かべて言い放つ。

「うぬらの望み、この信長に勝てたなら叶えてやろう」
「我が望みは我が手で叶える、信長公にはその礎になっていただく!」
「承知した、ならばその口から全ての真実を語ってもらおう!」

信長の言に左近と信之助が吼えると同時に刃を振るう、その三つの刃が唸りをあげて信長の身に迫る、しかしその斬撃をただ一刀、たった一振りで弾き飛ばす信長。
己の振るった刃が相手の身に届かなかった二人はすぐさま構えを取り直すと再び斬りかかる。
先手を取った信之助が信長に向って刺突を放つがその突きは虚しく空をきった、突きをかわした信長はかわすと同時に下方から一刀を撥ね上げる。
その刃を小太刀で受け止めた信之助の腕に今まで感じた事のないような衝撃が走る、ただ鋭いだけの一撃ならばこれ以上のものも記憶にあるが力や技とは違う、陳腐な言葉で言い表すならば即ち格が違うと確信させる重い一撃である。

「ぐうっ」

ずしりとした重みを感じる信之助の背後にぞっとする剣気が膨れ上がり鋭い一撃が振るわれた、諸共に両断しようと振るわれた左近の横薙ぎの一閃である。
咄嗟に床へと転がって刃を掻い潜る信之助の上を銀光が掠める、きわどい所でその切先をかわした信之助が体勢を立て直した時に目にしたのは左近が投げ飛ばされたところであった。
二人まとめて斬り捨てようと繰り出した横薙ぎの一撃はその任をまっとう出来なかった、信長の死角から斬りつけた刀は鍔にてがっちりと止められ、その事実に驚愕に目を見開いた左近が一瞬動きを止めた瞬間、伸びてきた信長の腕が左近の襟を掴むと同時に横へと振るわれてそのまま投げ飛ばされる。
受身を取って無様に転がることを凌ぐとすぐに立ち上がり、立ち上がりざまに抜いたままの刀を納刀すると再び抜刀して上段から唐竹割りに斬り下ろす。
通常の居合い斬りはその構えからどうしても横薙ぎが基本であり刃の起動も限定される、しかし左近は修練の末に居合いの構えを取りながらも納刀した鞘の角度を手の内で変化させることでその斬撃軌道を上中下段の使い分ける事が出来るように鍛錬を積んでいる。
流石に逆撃は出来ないが只でさえ神速と謳われる左近の居合いに唐竹、袈裟、薙ぎ、切り上げの変化が加われば見切りは勿論の事かわすのさえ至難の業だろう。
信長も多分に漏れず手に持った刀を自身の右側においており、左近の居合いを防ぐ心算であったが正面からの斬り下ろしで来るとは意表を突かれたのか瞳に驚きの色を浮かべる。
しかしそれでも尚余裕を持って半歩だけ後ろへと下がることで鼻先三分の距離で左近の刃をかわす信長。
しかし左近にしても一刀で勝負が決するとは思ってもいない、何時の間にか両手で構えていた刀を切り下ろした瞬間に震脚を持って一歩を踏み出し突きへと変化させた、風を巻いて突き出された刃は信長の水月から背中へ貫こうと迫る。
左近の刃が信長を完全に捉えたと見えた瞬間に鋼が打ち合う音がして意図せずに刃が跳ね上がる、信之助の太刀が横から左近の突きを弾きそのまま小太刀を左近に対して振るうが、これは軽く避けられる。
その隙を見逃すほど信長も甘くは無い、信之助が左近へかかることで生じた隙を突いて一刀を振るう。
信長の一刀は避けられた小太刀を咄嗟に逆手に変えて食い止めることで刃が喰い合う、その一瞬に左近の居合いが閃いたが、信長と信之助は互いの刃を引くと後ろへ跳んで左近の一刀を避ける。

「ふうっ」
「はあっ」
「ふっふ」

息を突く左近と信之助に対し信長は肩に刀の峰を乗せると不敵に笑う、床の間の前に座す帰蝶と蘭丸の前に信長、信長を頂点として右に左近、左に信之助が陣取る。
三人が止まると同時にこの攻防の中に刃が掠ったのだろう燭台の柄が二つになり、蝋燭の炎が障子に燃え移った。
炎の爆ぜる音と共に周囲の喧騒は大きくなっているが三人の耳目に映り聞こえるのは互いの息づかいのみ、三人の呼吸が徐々に重なり同時に吸った息を止めた瞬間、全く同じように飛び出していた。

「りゃあっ!」
「づあっ!」
「むんっ!」

踏みしめる脚、薙ぎ払われる一閃、打ち下ろされる一刀、交差する刃、突き込まれる鋼、払いのける腕、咆哮する喉、食いしばる歯牙、爛々と輝く双眸、回転する胴、飛翔する影、閃く銀、そして舞う真紅。
寸毫切り結んだ攻防は常人の目には留まらず、三人の立ち居地は左近と信之助の居た場所を逆にして止まる。
振り向いて再び対峙する三人の姿が炎の中に照らし出される、信長は肩に掛けていた着物を落としたがその顔に久方ぶりに浮かぶ表情は喜悦、対して左近の信之助の双方は浅いとはいえ幾ばくかの傷を身に刻み顔に浮かぶのは驚愕である。

「たいした者よ、この信長の着物を剥がすか」
「お褒めに与りと言いたいが、未だ本気でもあるまいに」
「強者と戦えるのは嬉しいが……これ程とは」

信長が余裕を持って語るのを左近と信之助は額に汗を浮かべながら聞いていた、この二人とて天賦の才を持ち研鑽を積んできた人間である。
その二人を持ってして尚上回る信長の天凛とは如何ほどのものであるのか、だが信長の真の恐ろしさは才に在らず、既存に捕らわれない柔軟な思考とそれを実現させる実行力そして周囲の人間を圧倒するその才を昇華させた努力にこそあろう。
幼い頃より「たわけ」「うつけ」と呼ばれた子供は、実のところその才能故に理解されなかった、その才を只一人理解していた平手政秀が腐りそうになっていた信長に対して己の死を持って忠言したからこそ努力を惜しまずに日々を過ごした結果として現在の信長が存在するのだ。
確かに信長の剣腕は傍から見れば出鱈目に見える、しかし対峙してみればその技は積み上げられた確かな技巧に裏打ちされたものであり、知性と本能という二律背反するものが渾然一体となった正に天衣無縫の極みと成っている。
三つ巴だからこそこの程度で済んでいるが一対一ならば良くて数合、悪ければ一瞬で勝敗は決するだろう。

「ふっふ、戦場はこうでなくてはな」

周囲を見渡して僅かな間に障子から燃え広がった炎が天井まで到達したのを確認した信長が何気なく放った言葉と共に一気に気勢が膨れ上がる、その気は何処までも蒼く凄烈にして相手を絡め取るかのような迫力醸し出している、その気を受けた左近と信之助の視線が互いに動き一瞬交錯した。
次の瞬間二人は当面の相手を信長と見定めて踏み出した、これは信長に対して全力を振るわねば僅かな勝機も無いと悟ったが故の行動で、けっして共闘とは呼べぬものであり生物としての恐怖に突き動かされたようなものである。

「けあっ!」
「せいっ!」

気合の声と共に振るわれる三振りの刃を迎え撃つのは只一刀、駆け抜けざまに鞘から引き抜かれる刀の柄頭を足で押し止めると共に蹴り飛ばす。
蹈鞴を踏んだ左近の背の影から現れた信之助が交差した刃を切り抜く、十文字に軌跡を描く軌道を半身で流すとだらりと下げた一刀を無造作に切り上げる。
眼前を振り抜かれた刃から身体を捻って身をかわすが振り抜かれたはずの刃が頭上から降ってくる、切り下ろされた刀を交差させた刀で受け止めるが衝撃に方膝を着く信之助。
その信之助の顔面に信長の蹴りがまともに決まり後方へと吹き飛んだ。
吹き飛んだ信之助を追いかけようとする信長の真横から炎を照り返した刃が衝き込まれた、突き込まれた刀を屈み込んでかわすと左近の胴を薙ぐ、左近は横薙ぎの斬撃を皮一枚でかわすと喉、胸、腹、両肩を狙って五連突きを放った。
左近の五連突きを見た信長は右半身に変わると刀を持った右手を肩の高さに合わせて柔らかく握ると更に倍する速度で突きを繰り出した。
鋼が打ち合う音が五度響き渡り六度目の輝きは喉へと迫る、その突きをかわせぬと悟った左近は咄嗟に身体を左半身に捻って左肩でその刃を受けた。
引き抜かれた刀が七度目の牙を向けたとき信長の後方から両腕を大きく広げた信之助が迫る、左右から僅かにずれた軌道を持って振るわれる二刀は逃げ場を奪う必殺の一撃。
しかし信長の技は必殺を覆す、その場で振り返ると迫る太刀に自らの刃を絡めて捻り自分の刀諸共に撥ね上げる、同時に小太刀を白刃取りして信之助ごと投げ飛ばす。
信之助を投げた隙を見逃さずに再び居合いを持って斬りかかる左近、刃が信長の首を飛ばそうと翻るが、共に撥ね上げた刀が落ちてくる場に移動していた信長は落下してきた刀を後ろ手に逆手に取ると切先を合わせて左近の居合いを首の僅か一寸手前で止めていた。

「惜しい」
「ちいっ!」

飛び退く左近に向かって逆手のまま下から上へと斬撃を飛ばす、これは袴の裾を切り裂くに留まった直後、信之助が左近の後ろから地擦りの一刀を振り上げる。
下段からの地擦りであったが信長は瞬時に逆手で切り上げた刀を順手に持ち替えて振り下ろし切り上げてくる太刀を打ち落とす、しかし打ち落とされるのは信之助の思考の範疇であった。
右手の太刀を払われると同時に左逆手でもって袖の影に隔していた小太刀を突きこむ、虚を衝いたはずの突きであったが信長は自らの袖を振ると小太刀に絡めて突きを防ぐや振り下ろしていた刀を引き戻して逆に信之助目掛けて突き込んだ。

「がっ!」

咄嗟に飛び退いた信之助だが避けきれずに右目を刺し貫かれた、再び始めと同じ位置に戻った三人だが、左近は左肩に裂傷を負い、信之助は右の眼を失った。
轟々と燃える炎が照らし出すなかで相対する三人、左近と信之助の二人の負った傷も戦闘不能になる程のものでは無いが、泰然と立つ信長と肩で息を吐く二人の実力の間には見た目以上の開きがあることは本人たちが一番実感している。

「さて、そろそろ戯れも終いにするか」

周囲はすでに炎に巻かれて脱出することも困難であろうが、信長の口調は本当に遊戯を終らせる程度にしか聞こえない。
もっとも常在戦場がその身に染み渡っている以上はどのような窮地であれ取り乱す事は無い、これは左近や信之助は元より蘭丸や帰蝶ですら戦場に立つ者として当然の心構えである。
だが真紅の炎が燃え盛る中で二人を見据える信長の眼は今まで以上に鋭さを増していた、その瞳に映る火は辺りを燃やし尽くそうとする炎より尚熱く、冷たい蒼い炎である。
すうと刀を持ち上げた信長はこの戦いが始まってより初めて構えをとった、攻撃に優れその一撃は鬼神ですら両断すると謳われる八双の構えである。
初めて構えを取った信長から更に倍する気迫が辺りに放散される、その気を受けた左近と信之助もこの攻防が最後と覚悟を決めた。

「奥義は基本の中に在り」

腰を低く落としやや前傾の姿勢を採ると左手を鍔にあてて鯉口をきる左近の構えには二心は無い、ただ己の最高最強の一刀を振るうのみ。

「死中に活を拾うが如く」

左足をやや前に出すと両手を左右に広げて体の中心で太刀を並行させた構えを採った信之助、こちらは普段とさして変わらぬ構えだがそれ故に気が充実した今ならば普段の己を凌駕すると信じての構えに相違ない。

「覇あっ!」

獅子もかくやという咆哮をあげて信長が八双から一刀を振り下ろす、その一撃を左の小太刀で受け流そうとした信之助だがまるで紙を切るように受けた小太刀が切り飛ばされ、胸から腹にかけて浅くない傷を刻む。

「がふっ」

傷から鮮血を噴き上げて崩れ落ちる信之助、その崩折れる後ろから左近が迫る。
震脚をもって一足を踏みしめると足のつま先から頭頂に至る全ての力を右腕に集約して自身最速の一刀を振るった。
信長は振り下ろされた刀を立て直しては左近の一刀を受けることは出来ないと判断し体を回転させて刃の軌道から身をかわす。

「ぐうっ」

振りぬいた左近の右腕はあまりの速度と力によって毛細血管が破裂して肘から先の皮が剥がれて朱に染まったところへ回転した信長の横殴りの一撃が襲う。
刃が左近の首を斬り飛ばそうとした瞬間、倒れ伏したはずの信之助が下方から太刀を真上に斬り上げた。
その一刀すら身をかわした信長は信之助を蹴り飛ばすと同時に左近へ刃を突き立てる、その一撃は床に転がることで何とか避ける左近だがかわしきれなかった刃が脇腹を傷つけていた。
二人ともに立ち上がると再び構えを採るが、双方ともに自らの血で着物を濡らしている。

「ち、今のは生涯最高の一刀だったのだがな」
「これだけ差があるといっそ気分が良い」

すでに全力を超えている二人の口から出るのも虚勢に他ならないが、すでに二人は死をも超越した何かによって突き動かされていた。

「見事」

正真正銘の最後の力をもって信長に挑み掛かろうとした瞬間、二人の血で染まった血刀を下げた信長は顔にふと笑みを浮かべると一言呟いてから踵を返すと帰蝶に顔を向けて命じる。

「濃、鼓を持て」

信長が命じると帰蝶は傍らに置いてあった鼓を肩にして打ち鳴らす、踊る炎と舞い散る火の粉が周囲を彩る中で鼓の音に併せて信長が舞い始める。

「人間五十年
下天の内をくらぶれば
夢幻のごとくなり
一度生を得て滅せぬ者のあるべきか」

幸若舞は敦盛の一節を踊りきると体の正面に十文字の傷が現れて鮮血を吹き出す、流れ出た血は信長の体はもとより正面に座っていた帰蝶の全身も朱に染めあげる、左近と信之助の決死の一撃は信長の体に致命の傷を負わせていたのだ。
現在起こっていることが信じられぬ二人の眼前で当の信長は鼓を打っていた帰蝶に向かってゆっくりと倒れ伏す、その表情は背中を見つめる左近と信之助はもとより脇に控えていた蘭丸でさえ窺うことは出来なかった、ただ一人その末期の顔を見取ったのは正室の帰蝶のみである。
倒れ伏す信長を帰蝶は腕を開いて抱き留めると自らの胸の中へその顔を埋める。

「お帰りなさいませ」

腕の中で眠る良人に向けて子供を慈しむような、それとも初めて恋人を迎え入れた少女そのままのような幸せそうな笑顔は菩薩の如き見るもの全てに敬虔な思いを抱かせた。
もしかすると帰蝶は今日初めて信長という自分が愛した一人の男を抱きしめているのかもしれない。
この逢瀬を邪魔するような無粋な者は誰も居ない、そのまま誰も口を開かぬ無言の時が流れ、辺りには炎の爆ぜる音と遠く聞こえる鬨の声だけが響いていた。

「蘭丸、上総介様と私の首は余人に渡らぬように砕いて火にくべなさい」
「お方様、それは!」
「良いですね、くれぐれも違える事無きよう申し渡しましたよ」

その静寂を破ったのはやはり帰蝶であった、伏せた目を開けばそこに存在するのは戦国武将の奥である凛とした表情を見せている。
鈴が鳴るような声で蘭丸に後事を告げて言に反論しようとした蘭丸を視線だけ黙らせると残る二人に向き合って首を垂れる。

「お二方にお頼み申します、暫しの間この部屋に何者も入れないで欲しいのです」

自分の良人を殺めた者に頭を下げるなど並みの胆力で出来る芸当ではない、その真摯な願いを叶えねばこの先において武人を否、漢を名乗れまい。

「承知」
「存念無く」

左近と信之助はどちらともなく膝をついて畏まると承服の誓いを立てると炎に彩られた奥の間をあとにした。
二人が去るのを見届けた帰蝶は信長の手から刀を手に取り蘭丸へと渡す、そして自らは父斉藤道三より拝領した懐剣を抜くと刃を自らの咽喉にあて、その背後に信長の刀を構えた蘭丸が立って介錯を取る。

「上総介様」

奥の間を出た二人は信長の名を呼ぶ帰蝶の声と蘭丸の嗚咽が聞こえてくるのを耳にしながらも何も語らずにまるで忠実な門番のように部屋の前に立っていると、そこへ何人かの明智兵が集ってくる。
炎上する本能寺の中を態々彷徨っているのだから目的は明らかだ、手に刀を持った明智の雑兵は襖の前に立つ二人に対して声を荒げた。

「見つけたぞ! その首ちょ」

しかし兵が口上を陳べる間も無く首が宙に飛ぶ、鮮血が吹き上がり周りに居た者たちの鎧を朱に染めた、有象無象には動いたとも見えぬ左近の神速の居合いである。

「ひ……いっ?!」

突如として首が舞った事実に怯んだ兵が悲鳴を上げる間もなく袈裟懸けに両断されて崩おれる、こちらは信之助の手によるものだ。
崩れ落ちる兵の腰から脇差を引き抜いて二刀を構えると目の前に居る雑兵に告げる。

「ここより先に道は無い」
「三途の川を渡りたい者はかかってまいれ」

静かにしかし傲然と言い放つ二人に竦む明智兵だが、良く見れば二人共に全身に傷を負い、その身を朱に染めている。
さらに相手はいかに腕が立とうとも周りを囲んだ数の利を持って押し切れば何とでもなろうと考えた者達が一斉に襲いかかった。
だが気勢を上げてかかるものの尽くが息を吐く間も無く、たった二人の男によって撫で斬りにされて骸を晒す。
事ここに至ってようやく明智兵たちは今眼前に居るものが自分達とはかけ離れた存在だと理解すると武器を放り出して脱兎の如く逃げ出した。
全ての兵が視界より消え失せたあとも二人はそこに立ち続けていた、そして背後にある襖の中にあった最後の気配が消えたのを感じると信之助が一歩を踏み出した。

「待て、信之助と言ったな俺と仕合って行け」

歩み去ろうとする信之助に左近が声をかける、足を止めた信之助は振り返らずに聞き返す。

「理由は察する、故に断るのは無粋であろうな」

炎の爆ぜる音が続く中で兵を撃退した二人の側に梁が一本落ちた。
左近は腰を落として刀の柄に右手を伸ばす
信之助もまた両手の太刀を十字に組んで受けて立つ

「改めて名乗ろう、紅林流抜刀術、紅林左近」
「正真神刀流、松平信之助」
「いざ」
「尋常に」
「「勝負!!」」

対峙した二人が同時に床を蹴って迫る、刃が交錯した瞬間、轟音を立てて社殿が崩れ去り全てが炎の中へと消え去った。





未明まで燃え続けた本能寺跡を隈なく捜索した明智勢であったが焼け跡からは信長は元より正室帰蝶、小姓頭、森蘭丸の遺体も発見されなかった。

天正十年六月二日に起こったこの事件は後の世に「本能寺の変」と伝わる。

信長を討った明智光秀も天正六月十三日、山崎の戦いにて羽柴秀吉に敗北、坂本城へと落ちの延びる際に小栗栖の山道にて落ち武者狩りに会いその生涯を終えた。
その光秀の遺体の側には焼け焦げた九枚の木片が転がっていたが、それは誰にも顧みられることは無かった。





[13895] 後書き
Name: 小話◆be027227 ID:b35051a3
Date: 2010/05/20 10:08
ども小話です。
このたび本作を無事? 完結させる事が出来ました。
拙い作品を飽きもせずに読んでくださった方々には本当に感謝しております。

取り立てて書くような事も無いので以下は登場人物の解説をつらつらと書いてみようと思います。
多分に本文のネタバレに成りますので、できれば一読されてからお読み下さい。


登場人物一覧

1 松平信之助
着流し、総髪の二刀流、性格は義理人情に厚く律儀、友の死の理由を追いかけて参戦する。
当初から主役の一人として設計したものの設定が二転三転しました、初期設定では徳川家康の嫡男である松平信康(岡崎三郎信康)で当然参戦理由も違ったのですが結局まとめきれずに只の浪人になりました、名前に名残が残るのみです(笑)
モデルは三匹が斬るの矢坂平四郎、もしくは長七郎江戸日記の松平長七郎。
イメージの役者は要潤、声優は鳥海浩輔

2 紅林左近
羽織袴、長髪で居合いの達人、性格は冷静冷徹、自分の強さを証明するのが目的で参加する。
一番初めに出来上がったキャラクターです。主役の一人でライバルでもあるというのを目指して設定したので二枚目、天才、ニヒルといったテンプレてんこ盛りに仕上がったのではないかと思います。
モデルは侍魂の橘右京もしくはルパン三世の石川五右衛門なのですが、この二人は他人の為に動きますが左近は徹頭徹尾、自分の為にしか動かないことにしました。
イメージの役者は玉木宏、声優は井上和彦

3 加納清十郎
鎧に月代の武士スタイル、槍の使い手。 性格は誠実で豪胆、没落した主家のお家再興をかけて戦う。
おっさんキャラを出したいという欲求から生まれました。
モデルは特になし、というか鎧武者というのが先にあったので鎧がモデルなのかな?
イメージの役者は大森南朋、声優は石井安嗣

4 秋葉太夫
豪華な着物を着ている、大鉄扇、簪、色仕掛けなどを武器にする、姉御肌で面倒見が良い 幼い頃に家族を殺されておりその敵討ちのために参加する。
モデルは花魁という職業から持ってきているので、扇子を使うからと言って決して不知火舞ではない(笑)
というか当時の女性の武器だとどうしても短刀か薙刀という固定観念みたいなもの自分の中にあるので使いたくなかった、そこで他に女性が持っていてもおかしくない物を武器にしようと考えたのが始まりでした。
初期は三味線やバチ、仕込み杖などを使っていましたが、紆余曲折のあげく扇に落ち着きました。
イメージの役者は比嘉愛未、声優は田中理恵

5 破巌坊
袈裟、禿頭の巨漢の破戒僧、杓杖(九節棍)を武器にする。好色で粗暴、女と金に目が無く目的はそれ以外に無いという典型的な悪役を書いてみようとして出来たキャラクターですが、もっと下品でも良かったかもしれない。
モデルはKOFのチャン・コーハン
イメージの役者は元極楽とんぼの山本圭一の顔にアンドレ・ザ・ジャイアントの体、声優は玄田哲章

6 儀介
毛皮を羽織ったマタギ服に銀杏頭の猟師 弓矢を主に使うが罠なども使用する 寡黙で実直であり、ほとんど喋らない 娘の治療費を稼ぐ為に参加する。
昔かたぎの頑固親父を目指して作ったが単に口数が少ないだけになってしまった、もっと描写を入れれば良かったのかもしれないが無口という設定なのに喋るのも変なような気もする、難しい。
モデルは俳優の田中要次、イメージの役者も当然田中要次、声優というか声も田中要次で、というか田中要次さんが始めにありきで生まれたキャラクターです。

7 政
半そで短パンの変形着物、短髪のごろつき、喧嘩拳法の使い手で鉄の手甲、足甲を使う。性格は直情怪行、熱血漢だが短慮 無実の罪を着せられた妹を救う為に参加する。
モデルはるろうに剣心の相楽左之助、これはもう直ぐに分かる人続出だと思うのでなるべく性格が被らないようにしようとしたら単なるチンピラになってしまった、もうちょっとなんとかならんかったものだろうか?
役者は山本太郎、声優は田中一成

8 朧丸
上半身裸の忍び装束、散切り頭の抜け忍 忍法を使う 残忍な快楽殺人者で自らの欲求を満たす為に参加する。
自分の中では一番気に入っているキャラクター、よくキャラクターが勝手に動くという話を聞きますが書いていてそれを体感しました、本当に好き勝手に動く奴で途中退場が決まっているにも係わらずドンドンと強くなっていってしまった為に最後はご都合主義の力技で退場してもらいました。
実際あのまま戦闘シーンを書いていたら、間違いなく信之助と秋葉は死んでいます。
モデルはFate/stay nightの真アサシン
イメージの役者は中村獅童、声優は宮野真守

9 織田信長
戦国の覇王、刀を使う、勇猛果敢にして冷酷 ラスボスなので他の誰よりも強い。
モデルも何もそのまま織田信長、武将の中では一番好きなので戦国無双やBASARAでは速攻でLVがMAXまで上がります、でも信長の野望シリーズは暫くやってないです(笑)
コーエー版の精悍なイメージが強いです。
役者は真田広之、声優は小杉十郎太

10 森蘭丸
艶やかな着物、女顔の美少年で長巻を使う、信長への忠義で立ちふさがる中ボス1。
モデル以前にまんま森蘭丸、ちなみに名前は乱丸が正しいらしく美少年でもなかったらしいが一般的なイメージとして本作ではこうなった。
坊丸、力丸は三つ子ではないのですが演出上同じ顔を出したかった、というより単純にジェット・ストリーム・アタックをやりたかったので勝手に同じ顔にしています。
役者は滝沢秀明、声優は保志総一郎

11 弥助
袴のみ穿いた黒人、二丁手斧を使う、信長への忠義で立ちふさがる中ボス2。
モデルとか言う前に弥助は実在の人物で信長が宣教師から譲り受けて小姓にした黒人、本来はこの時本能寺ではなく二条城に居たらしく本能寺の変のあと生き残りはしたが以後の消息は不明だそうなので本作ではこうなった。
信長公記などでは身長は六尺二寸(約187cm)とあるが巨体を協調したかったのでちょっと増量しました。
モデルは自分の中に在るアフリカの戦士を意識したものです。
イメージの役者はボビー・オロゴン、声優は三宅健太

12 その他の人たち
帰蝶(濃姫)
信長の正室、斉藤道三の娘、信長公記でもあまり書かれていないので逆につつがなく無く奥向きの事は仕切っていた才女だと思っています。信長との間に子供が出来なかったり、光秀とは従姉だったりしたのと没年が不明なので色々な説があるようですが、本作ではああなりました。
イメージの役者は奥菜恵、声優は日野由利香

志津
桜花楼の先代、イメージは極妻の姐さん、役者は高島礼子、声優は進藤尚美
桔梗
秋葉の付き人1、イメージはおっとり姉さん、役者は広末涼子、声優は遠藤綾

秋葉の付き人2、イメージは元気娘、役者は堀北真希、声優は後藤沙緒里

獣面の四人
獣面の四人は光秀、秀吉、家康の家臣の中でも謀臣と言われる斉藤利三、黒田官兵衛、本多正信の三人と朝廷からは吉田兼和(兼見)を想定して書いています、当然四人共に実在の人物です。
斉藤利三、役者は伊武雅刀、声優は千葉繁
黒田官兵衛、役者は柄本明、声優は麦人
本多正信、役者は緒形拳、声優は大友龍三郎
吉田兼和(兼見)役者は宮迫博之、声優は大塚芳忠

以上となります。

では改めて御礼申し上げます。
ありがとうございました。

PS、【転生者BLACK】をオリジナル板に【マシンロボ漫遊記】というネタをチラ裏に投稿させて頂いております、興味があれば一読宜しくお願いします。


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