So-net無料ブログ作成
検索選択

2009-05-19 [スズムシ日記]

犯罪の裏にある孤独

訪タイ日記が続いた。あと2日分残っているけれど、少々一休み。時代の風に当たってもらおう。

標題は毎日新聞特集記事「時代の風」(4月19日付)に掲載された斎藤 環(たまき)の論考。斎藤は度々時代の風に登場する精神科医。現代の病理を分析的に捉え、僕をして魅惑の人であるという幻想を斎藤は抱かせてくれる。
 「人ぐすり」が今回のキーワードだ。それでは漏れなく提出してみよう。

 3月11日、ドイツ何部のシュツットガルト近郊の小さな町、ウィンネンデンで銃乱射事件が起こった。日本でも大きく報じられたので、ご記憶の方も多いだろう。
 容疑者である17歳の少年は、母校である中等学校に侵入し、わずか10分ほどの間に生徒9人と教師3人を拳銃で次々と射殺した。すぐに警官隊が駆け付けたが、少年はかつて通院していた精神科病院に逃げ込み、そこで1人を殺害する。運転手を人質にしてさらに逃走し、自動車のショールームで2人を殺害して警官隊と銃撃戦になり、最後に自らの頭を撃って自殺している。
 まずは事件で犠牲となった15人の方々の冥福を祈りたい。たとえ容疑者にいかなる事情があろうと、この種の犯罪が許し難いものであることは論をまたない。
 今回の事件は、昨年わが国で連続した通り魔事件と、きわめて共通する部分が多いように思われる。
 まず、動機が不明な無差別殺人であるということ。ドイツでは2002年にも「エアフルト事件」と呼ばれる銃乱射事件で17人が亡くなっているが、犯人の動機は自分を退学にした学校への怨みと報じられた。しかし今回の事件では、そうした動機もはっきりしない。
 容疑者の背景については後述するが、彼は事件前に、インターネット上で犯行を予告していたという(誤報説もある)。そのことが報じられるや、ヨーロッパ各国でネット上の犯行予告を書き込むいたずらが相次ぎ、逮捕者が続出した。昨年の秋葉原での通り魔事件でも、事件後ネット上に犯行予告が大量に書き込まれたことは記憶に新しい。
 ご多分に漏れずと言うべきか、この容疑者も熱心なゲームファンで、銃を乱射するようなシューティングゲームを愛好していた。このためメディア上ではゲーム規制論者が息を吹き返したが、これもわが国での反応と同様だ。
 秋葉原事件の加藤智大被告と、少年の最大の違いは、その家庭環境である。ドイツの週刊誌シュピーゲルの報ずるところによれば、容疑者はベンツを乗り回すブルジョア実業家の子息であり、彼の寝室には最新のコンピューターとゲーム機、さらに1ダースのエアガンのコレクションがあったという。
 しかしおそらく、経済的な要因はそれほど重要ではない。加藤被告と容疑者とつなぐもの、それは彼らの「孤独」である。
 容疑者を知る人々は「罪を犯すような子にはみえなかった」と証言していている。彼は優秀な卓球の選手であり、アームレスリングでも全国大会レベルの成績を残しながら、おとなしく控えめで、ごく目立たない少年だった。シュピーゲル誌など、ムージルの小説のタイトルをもじって「特性のない少年」と報じているほどだ。
 しかし容疑者は、対人関係で少なからぬ困難を抱えていたらしい。友人関係に乏しく、ガールフレンドともうまくつきあえない。ビルト紙によれば、彼は金を使って友人を作ろうとしたことすらあったが、うまくいかなかったという。
 あるウェブサイトの、彼のものとされるプロフィルには、次のように書かれていた。「自分の好きなところ:なし。嫌いなところ:なし」。あるいはまた、彼が書いたとされる犯行予告文には、次のようなくだりがあったという。「もうたくさんだ。こんな無意味な生活はうんざりした。いつものことさ。みんなが僕を笑いものにする。誰も僕のほんとうの才能を理解しようとしない……」。秋葉原事件の加藤被告もまた、ネット上に自分のことを「嫌われ者」「不細工」と書きつらねていたとされる。
 秋葉原事件では過敏に反応したわが国メディアが、ほとんど相似形とも言うべきこの事件に無関心なのは奇妙なことだ。もっとも、海外の報道も謎めいている点を強調するばかりで、納得のゆく解釈は乏しい。しかし、ここにははっきりと、ひとつの傾向が見て取れるのではないだろうか。
 若者が犯罪に走る環境要因のひとつとして、「孤独」の地位が「貧困」や「虐待」なみに高まってきたということ。ここで、「孤独」とは、同世代のコミュニケーション・サークルから疎外されることを意味している。同様の孤独を背景にして起こったとおぼしい事件に、2007年に起きたバージニア工科大学銃乱射事件がある。32人を射殺して自殺したチョ・スンヒ容疑者もまた、学内で孤立した学生だった。
 あくまでもイメージの問題として言うのだが、いまや「貧困」も「戦争」も地獄ではない。あるいは「病気」や「不運」すらも。むしろ「孤独」こそが地獄なのだ。わが精神科においても「人ぐすり」の比重は、急速に高まりつつある。しかし、医療(=システム)はそれを与えられない。ただ出会いと関係の偶有性のみが「人ぐすり」を調合するだろう。「孤独」をいやす「人ぐすり」をいかにして調達するか。その処方箋を求める声が、これほど高まった時代はかつてない。
(鈴石:たとえば、小学校でのこと。少子化現象で、1学年1クラスしかない学校が珍しくない。1年生から6年生まで、同じクラスの友達とつきあうことになるが、そこで疎外された子どもの「孤独」の感情はぬぐえないまま増幅している。まさに「地獄」をみたのだろうと思えた子どもを何人か目撃してきた。担任でない図工の先生の限界を思い知ったことでもあった)


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感