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■1 『土屋武士さんからの返信』
2010年4月18日、「RACING VIEWS」のブログ版である「日々是FN」のコメント欄に、読者のkoさんから次のような書き込みがありました。
《以前、土屋武士さんがモタスポ観戦塾という媒体のネトラジで「フォーミュラ・ニッポンは頼まれてももう出たくない。」って言っていました。それはパワステが無い過酷なレースでかなりの準備をしなければいけないのに無給な為、参加する意味があまり感じられない、といった感じでした。国内トップカテゴリーなのにそこで走りたくないと言われてしまうのが今のFポンの現状だと思います。主催者はどういったレースカテゴリーを目指していて、参加チームはそこに何を見いだしているのでしょうか? またドライバーの本音は? 独自のレースカテゴリーを目指すとJRP(編集部注釈:JRP=株式会社日本レースプロモーション。全日本選手権フォーミュラ・ニッポンの運営会社)は言っていますが全く「軸」が見えません。その辺の本音が知りたいのです。》
この書き込みを受けて私たちは、全日本選手権フォーミュラ・ニッポン開幕戦が開催されている鈴鹿サーキットに仕事で顔を見せていた土屋武士さんに趣旨を説明し、返答をいただく協力を取り付けました。この場を借りて、あらためて土屋さんには御礼申し上げます。以下、土屋さんに執筆いただいた原稿を紹介します。(「RACING VIEWS」編集部)
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(質問内容をみて)こうして文字にするとトーンやニュアンスが伝わりにくく、本意が見えてこない危険性がありますね。少し長くなりますが、僕のフォーミュラ・ニッポン(FN)への想いをお話ししましょう。
僕にとってFNは青春でした。前身のF2、F3000時代からサーキットで星野一義さんや高橋国光さんを観て、僕もここで勝ちたいと思い、レースを始めました。なかなかシートにありつけず、2000年に自費でスポット参戦した時は、「FNに出られないならレーサーやっている意味がない」と思って、子供の頃から目指していたFNに出て、先が開けないならレーサーを辞めて次のステージへ行こうと本気で思っていました。気持ちの区切りをつけたかったんですね。
運良く、翌2001年からフル参戦のシートを獲得できたので、ここから僕の日本一への挑戦が始まりました。「FNで勝てば日本一だ!」と、とにかく自分の目標に対して、一回もブレることなく、引退する2008年の最終戦まで全力を出し切りました。非常に体力的に厳しく、FNに参戦していた期間は、何よりもトレーニング・体調管理にプライオリティを置いて、とにかく悔いの残らないように、全力を捧げてきました。
引退を決意したのは、優勝するには、今の自分では足りない物があると悟ったからです。それは体力です。色んな競技を見ても分るように、持って生まれたモノというのは、変えることができません。僕は健康な身体ですが、筋力などの部分では子供の頃から人並み以下でした。腕相撲は全く弱いし、垂直跳び幅跳びは全国平均以下。走ることも苦手でした。
しかし、人並み以上に頑張るという点で、努力で何とかなるということを中学時代に実感することができました。同時に、人並み以上に頑張らないと太刀打ちできないということも理解しました。そういった自分が日本一になるためには、やらなければならないことは明確で……しかし35歳にもなると、30歳前後にやっていたトレーニングがこなせなくなってきました。自分の中で、「これをこなせれば全周プッシュして走れる」というトレーニングについていけなくなったのです。
基本、レースよりも辛いトレーニングをやっていたので、まだまだレースで体力が足りないといったことはなかったのですが、それでも自分の体力では、翌2009年は厳しいだろうということがありました。それが車両の変更です。翌2009年のFN09のスペックを見て、今以上に体力的にきつくなるのではないかと思いました。それまでのローラは、以前のレイナードに比べて高速コーナーでは限界が低く、ステアリングは重いのですがコーナーは楽でした。しかし、FN09はダウンフォースが増え、トレッドが広がり高速コーナーが速くなることは明白でした。それは体力的に更に厳しくなることを意味します。そして自分の年齢と体力のことを考えたとき、20歳台中盤から後半の選手に対して、明らかにビハインドを背負ってしまうという結論に達した時、自分のFNへの挑戦を辞める決意をしました。
僕は日本一になるためにFNに参戦していたわけで、自分の努力で超えられない物があると感じた時点で、日本一には挑戦できません。茂木や富士といった、体力的・筋力的に楽なサーキットもあるのですが、菅生や鈴鹿といったサーキットでは厳しいと感じた時点で終了です。それにシート数が少なくなってきた昨今、沢山の若いドライバーがいる中で、「自分が乗ってもいいものなのか?」という疑問にぶち当たっていたこともあります。そしてFNに全てを捧げていたことで、沢山のことを犠牲にしていた部分もあり、これまでのように全てを注げる環境に自分がいないと感じたことも、引退を決意した理由の一つです。
僕の中で「もう出たくない」と言った理由としては、"やりきった"からです。どんな条件が提示されても、僕の中でFNは"日本一への挑戦"なんです。生半可な気持ちじゃ乗れません。非常に危険なことだし、覚悟がなければ乗れません。実際にほとんど対価はありませんでしたが、僕にとってそれは乗らないという理由にはなりませんでした。ここで勝つことの意味を知っているからこそ、FNに挑戦するのです。
乗せてもらった7シーズンはどれも素晴らしい時間でした。自分のスタイルを貫くことができ、仲間も沢山できて、沢山のことを勉強させてもらったし、成長させてくれました。今僕にできることの一つとして、色んなメディアでFNのことを話させてもらっています。僕の視点からの解説ですが、こんな僕の価値観を理解していただければ嬉しいなと思います。特に、ドライバーがなぜFNに乗るのか? という観点に関しては、普通に考えたら理解に苦しむかもしれませんが、頭で考えることが全てではなく、心のままに行動してしまうことの一つとして捉えていただければいいかな、とも思います。
今年のドライバーラインナップは非常に面白いと思っています。誰もが優勝しないと満足できないメンバーだからです。そして30歳台が井出有治の一人ということも、過去の日本のトップフォーミュラには無かったことです。しかし、必然的だとも思っています。
個人的には、今年のメンバーなら問題ないと思いますが、これから"これが日本のトップフォーミュラだ!"というものを築いていくためにも、パワーステアリングの導入を検討していただきたいと思っています。というのは、現状は体力的にいい状況の選手が主でいるので問題になりにくいのですが、数年後には年齢的なピークを過ぎてしまうことは免れません。
やはりF2時代、星野一義さん、中嶋悟さん、松本恵二さんのBS(ブリヂストン)三羽烏、高橋国光さん、和田孝夫さん、ジェフ・リースやステファン・ヨハンソンのADVAN勢、長谷見昌弘さんやロス・チーバー、F1を目指した鈴木亜久里さん、片山右京さんといった沢山の役者が揃ってこそ、色んなドラマや白熱したバトルが、観客にとってさらに面白い物になるということがあるように、小暮卓史を中心に、これからを背負って立つドライバーが30歳台前半でFNを降りることがないようにして欲しいのです。
パワーステアリングは確実に選手生命を伸ばします。今のステアリングの重さは、息を止めて力を入れなければ切れないくらい重いのです。色んな競技に体重によって階級があるように、今のFNは持って生まれた体格が、成績に影響を及ぼしていると言わざるをえません。純粋に競技として考えると、この辺は改善すべきところではないかなと思って、昨年はFRDA(編集部注釈:フォーミュラ・レーシング・ドライバー・アソシエーション。関係団体と協調を図りながら、ドライバーの立場からモータースポーツの振興と安全に関して活動する任意団体)として動いていました。
今年も裏方として動いていきますが、まずは今シーズン、ドライバーのプライドのぶつかり合いを楽しみたいと思っています。今の彼らはステアリングの重さ云々言っている場合ではありません。すでに始まっている戦いを制さなければ、未来は切り開かれないのですから。日本一を懸けた彼らの熱い戦いを、皆さんも楽しんでいただきたいと思います。(土屋武士)
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土屋武士(つちや たけし) 1972年11月4日生まれ、神奈川県出身。1989年にカートレース・デビュー、FJ1600レース参戦などを経て、1994年には全日本F3選手権へステップアップした。その後、全日本GT選手権へ参戦しながら、国内トップフォーミュラ参戦を狙った。2000年に念願が叶い、KONDO RACINGやノバ・エンジニアリングなどの協力を得て、全日本選手権フォーミュラ・ニッポンにスポット参戦を果たした。その走りが認められ、2001年にはARTAのレギュラー・ドライバーに迎えられた。2002年にはTeam Lemansでシリーズ4位に就けた。2007年はFN参戦を見送ったものの、2008年にはDoCoMo TEAM DAMNDELION RACINGでFNに復帰。同年限りでFNからの引退を決意した。現在は株式会社サムライ(www.t-samurai.com)で代表取締役社長を務めるほか、各種媒体でモータースポーツ振興のため解説を担当し、ファンだけでなく関係者からも好評を得ている。レーシングドライバーとしても現役で、2010年はスーパー耐久シリーズに参戦している。
■2 『石浦が問われた違反から、FN09のセッティング傾向を考える』
鈴鹿サーキットの予選で起きた石浦宏明選手のペナルティ騒動だが、実はこの事件は現在のフォーミュラ・ニッポンの状況を如実に示した事態だっただろう。現在、フォーミュラ・ニッポンで用いられるFN09はウイングカーとして大きなグラウンドエフェクトを発生する車両だが、このダウンフォースをどのように利用するか、メカニカルグリップとどのようにバランスさせるかというセッティングが、各チームにとっての課題になっているらしいのだ。
まず、石浦の問題を思い返してみよう。走行中に車高が下がりすぎてスキッドブロックが規定以上に削れてしまったことが違反に問われたのだった。このとき石井レポートによれば、チームは首を傾げていたという。というのもバンプラバーがあって車高はそこまで下がらないように規制されるはずだからだ。だが、そのバンプラバーが破損したために車高が下がってしまったことが後でわかったという。
この仕組みを、もう一度基本から確かめてみよう。サスペンションは、スプリングとダンパーによって車体を浮遊状態で支える仕組みになっている。走行時の条件によってスプリングとダンパーは伸縮し、車体姿勢を最適な状態に保つ。もちろんこの場合の「最適」に「正解」は存在せず、エンジニアやドライバーの考え方によって、微調整が行われ、各車に性能差が生じることになる。これが「セッティング」である。
スプリングダンパーが「伸縮し」と書いたが、もし大きなロールをしてサスペンションが縮みきってしまったらどうなるか。路面からの衝撃は直接車体に伝わってしまい、突然操縦性が変わったり周辺部品の破損が起きることがある。そこで、バンプラバーというゴム製のパーツがスプリングダンパーとボディの間に挟まっており、最終的にはこのゴムが衝撃を受け止める仕組みになっている。量産車などでは当初からバンプラバーをサスペンションの一部と考え、大人数乗車時に車体が沈み込んだときなどは、当初からスプリングダンパーの一部として働いたり、ロール時のサスペンション特性を変化させたりする設計になっているケースも珍しくはない。
一般にフォーミュラ・ニッポンクラスのレーシングカーでは、バンプラバーが働くほどにサスペンションをフルストロークさせることは珍しかった。だが、ダウンフォースが増えるに従って走行中の車高変化量が増え、車高管理が非常に大きな意味をもつようになって少々状況は変わってきた。
80年台半ば、ターボ過給エンジン全盛期のF1がストレートで派手な火花を飛ばして走行していたのを覚えているだろうか。これは、巨大なウイングが発生するダウンフォースもさることながらターボ過給エンジンが発生する強大なトルクによってボディ後部が沈み込んでリヤサスペンションがフルストロークしてしまい、当然バンプラバーも働いていただろうがそれでは足りずに車体下部が路面に接触したために生じた火花であった。チームは機能部品が路面に接触して破損するのを嫌い、金属の摺板を車体底面に取り付けたので、火花はこの摺板がすり減りながら飛び散っていたのである。
だがその後、車体底面に適度な空気を高速で流すことによってグラウンドエフェクトを稼ぐという考え方が一般化し、底面が路面に接触するほど車体を沈み込ませるセッティングは避けられるようになった。もし車体後部が路面に接触すればそこで車体下面の空気の流れが阻害され(チョーキング)、ダウンフォースが抜けてしまうからだ。そこで、バンプラバーに加えてパッカーというより硬質のスペーサーを挟み込み、強引にサスペンションの縮みを規制し、一定の車高を維持するセッティングが生まれた。
当時、F1に乗っていた鈴木亜久里は、「スピードが上がってダウンフォースが出て車体が沈み込むと、パッカーがガツンと当たるのがわかった」と言っている。ちなみに、この頃使われていたパッカーは確か金属製で、強大なダウンフォースに対抗してまさに車高を正確に規制してしまうようなしろものだったはずだ。現代、チューニングカーレベルで使われるパッカーは、「固いバンプラバー」と言われることもあるようにある程度の弾性を持つ樹脂製が多い。その後F1ではアクティブサスペンションが普及して状況は一変するが、アクティブサスペンションが禁止されてからは、サスペンションの基本構造は元に戻っている。
さて話をフォーミュラ・ニッポンに戻そう。どうやら現在FN09のセッティングにおいては、ウイングカー化によって発生する巨大なグラウンドエフェクトをどのように受け止めるか、サスペンション本来のメカニカルグリップとどのようにバランスさせるかで、セッティングに二つの傾向が生まれている模様だ。
ひとつは、メカニカルグリップとダウンフォースの最大値は分けて考え、ダウンフォース最大になって車高が下がった場合は、パッカーで強引に食い止めてしまう方法。もうひとつは、ダウンフォースが最大になるまでの車高変化を継続的に考慮して、基本的にはスプリングダンパーで支えるサスペンションで車高変化を車速全域で受け止める方法である。
理想を語るならば、レーシングカーのセッティングとしては後者が正統で、あるベテランエンジニアは、「サスペンションは、できるだけスプリングとダンパーでセットアップし、最後のファインチューニングでパッカーに頼ると言うのが理想だと思います。経験的にはサーキット1周でせいぜい2、3回タッチするくらいがよい状態かと」と語った。
正直なところまだ取材不足で果たしてFN09にどちらが適しているのか結論を導くことはできていないが、少なくとも走行機会が極端に少ないフォーミュラ・ニッポンでは、サスペンションのセッティングを熟成する時間がないのは事実で、前者もこの時間不足に対応するための有効な解決策であると言うことも出来るだろう。最大ダウンフォース発生時の姿勢から想像するに、開幕戦で優勝した小暮卓史の所属するNAKAJIMA勢は後者、小暮を追いかけたジャン・パオロ・オリベイラの所属するIMPUL勢は前者と、異なるセッティングを選んでいるように見える。そしてこの2車は拮抗した速さを見せた。
石浦のケースは、ダウンフォースをバンプラバー(あるいはパッカー)で受け止めるIMPUL式のセッティングを選んだため、ダウンフォースの負荷に耐えられなかったバンプラバー(あるいはパッカー)が破損したのではないかとも考えられるが、これは勝手な想像だ。ただ、チームが当初原因がわからず首を傾げたというところを見ると、これで説明がつくのではないかという気もしている。FN09のセッティングがどちらへ向かって進化して行くのか、収束していくのかには注目して、今後の取材を進めたいと思っている。(大串 信)
■3 『変節の人』
わたしたちライターが取り憑かれやすいのは、自分が書いた原稿はファンを含む関係者全員が読んでくれている、という幻想である。ああだこうだと好きなことを主張しているわたしではあるが、その原稿を様々な媒体にバラバラに発表してしまうことがある。その場合、一貫した主張をしている限りは特に問題は出ないけれども、媒体をまたいで少しずつ自分の意見が変化したときなど、その過程をすべて読んでいただいていれば意見の変化の理由もご理解いただけたりするが、一定の媒体のみにしか目を通していただいていないと、いきなり逆転した意見を言い始めたように見えて、その変節を非難されることもままある。
たとえばわたしは2000年頃まで、かなり急進的な国内トップフォーミュラワンメイク化論者であった。だが考え方はどんどん変わり、2010年を迎えた今は、基本部分はワンメイクとしてコストを抑制するべきではあるが、改造範囲を広げていく方が、国内トップフォーミュラとしては望ましい道なのだろうなあ、と考えている。以下は、そんなわたしがFNワンメイク化が行われる前年、2002年シーズン半ばに書き、レーシングオン誌に掲載した原稿である。(一部加筆、削除、訂正)
つい先日まで、わたしはフォーミュラニッポンのワンメイク化に賛成だった。賛成か反対かと問われたら迷わず「賛成」と答えた。99年、JRPが車両規則を一新し、レイナード、Gフォース、ローラの3車種を導入したとき、実はローラから(抜け駆けのように)JRPに対しワンメイク化の打診が行われている。
その条件は今から思えば破格で、確かFNをローラのワンメイクにしてくれるならば車両価格を引き下げたうえ、さらになにがしかの協賛金をFNに対して支払う、というようなものではなかったか。決して安いから良いなどと短絡していたわけではない。当時のわたしはワンメイク化によって、ドライバーの個性が浮かび上がるはずと信じていたから、こんなにすてきな話はない、と思ったものだ。
結果的にあの年のローラの品質はきわめて低かった。ワンメイク化した国際F3000用に低コストの車体を作って商売は成り立たせ、それをさらに日本にも売ろうとしていたわけだから当然で、マジに日本で競争させようとレイナードやGフォースが作ったシャシーには歯が立たなかったわけだが、全く曲がろうとしない劣悪な操縦性は、ワンメイクという条件の中であればドライバーの腕を試すひとつの試練になったはずだとは思う。
例えばあのシーズン、ローラの操縦性に苦しんだあるチームは、サスペンションのジオメトリを改良したがその結果、ステアリングが破滅的に重くなったという。するとドライバーはそのステアリングを操るために筋力トレーニングに励み、自分の筋肉を使ってクルマを曲げて走らせた。一方、筋力のないドライバーは、重いステアリングを操りきれず、結局敢えてステアリング径を増やすという対処をしたと聞いた。(IRLでその後、ダニカ・パトリックが同様の「セッティング」をしている)
どちらにしてもなかなか興味深いエピソードだが、もし99年にFNがローラのワンメイクレースになっていたら、こうしたドラマには事欠かなかったに違いない。(そういう意味で、わたしは2010年現在も続くパワーステアリング導入の是非論については「パワステ不要」と考えている)
そんなこともあって、わたしはしばらく後になるまで00年にFNが複数コンストラクターのマシンを導入してしまったことを残念に思い続けた。あるときFNの現場で「ああ、ローラワンメイクで雨のレースが見たかった」とつぶやいたら、ローラに苦しみ、いつどこに飛んでいくかわからない状態で疾走を続けたある選手に「冗談じゃないですよ!」と苦笑混じりに叱られた。でも、それがプロのレースというものではないだろうか? だからわたしはその選手の走りに深い感銘を覚えたのだ。
それはともかく、結局提案が時期的に遅かったこともあって、00年のローラワンメイクは実現しなかった。それ以前に、参加チームの大多数がワンメイクはカテゴリーの衰退につながると批判的だったし、JRP自体FNのミニF1化の夢を追いかけようとしている頃で、ワンメイク案は鼻から選択肢として検討されることもなかっただろう。
わたしはと言えば、持論のワンメイク指向に同意してくれる友人知人もないまま、いじいじとワンメイクFNに対する未練を引きずり続けた。だが、マイナーカテゴリーならともかく、いやしくも国内トップフォーミュラに位置づけられるカテゴリーをワンメイク化するのはやはりあまりにも危険に過ぎ、あまりにも夢想的だったという気が徐々にしてきたのも事実だ。
ワンメイクレースの理想形は、車両を運営サイドで一括管理するフォーミュラドリーム(FD。99年から05年まで実施されたホンダの育成カテゴリー)だが、これをトップカテゴリーレベルで実現するのはおそらくは無理だ。しかし、それでなければ、本当の意味のワンメイク化の意味はない。とはいえそれをやったところで、車両性能の単体差を完全に消し去ることはできない。だからこそFDではさらにイベント毎に車両のクジ引き配車を行っている。これはこれで非常に興味深いシステムだと思うが、果たしてトップフォーミュラに導入すべきか、そしてそれが成立するかと考えると、首をひねらざるをえなくなる。
と首をひねり続けていたら、先日とある取材先でとある技術者が語った言葉で目がさめた。彼は、技術が高レベルになればなるほど同じ機械を同じ性能に揃えるのは難しくなる、それよりも違う機械を一定の規則の中で競争させて技術的な限界に近づいた方が良い意味での「イコールコンディション」になると言うのだ。さらに、現在エンジン、シャシーともにワンメイク制を採る国際F30000やFニッサンがそれなりにイコールコンディションを保っているように見えるのは、参加者にフレッシュマンが多くて、機械の差より腕の差が大きく機械のせいにする前に自分の腕を見直すからではないか、と指摘した。実に説得力のある分析である。
がちがちのワンメイクレースの場合、車両規則では管理しきれないわずかな個体差が決定的な性能差を生み出してしまうことを、その後自分自身がワンメイクレースに出場することによって実際に経験し思い知ったこともあって、わたしはこの分析に、より深く納得することになる。
だとするならば、高レベルのテクニックを持ちしかも国内サーキットを走り込んできた選手が集うFNでは、生半可なワンメイク化による名前だけのイコールコンディションは通用するまい。というわけで、わたしは国内トップフォーミュラのワンメイク論の旗をこっそり下ろし始めようかいなと旗竿に手を伸ばしかかっている今日この頃だ。
今のわたしとしては、できうるならば早い時期に、ウワサのトヨタエンジンが登場し、それに対抗するための新エンジンをホンダが作ってくれたりして、さらに国内コンストラクターが将来的な参戦へ向けて動き出してくれて、それをJRPが受け入れてくれたりすると嬉しい。事態を見守るわたしの姿勢は3年前とは大違い、変節の人としての面目躍如だと他人様に言われる前に自分で言っておくことにする。(大串 信)
■4 『フォーミュラカーの操り方』
昨年、かつて全日本F3選手権に参戦、現在はレースから引退して関連業界で活躍中の、とある人物に会って話を聞く機会があった。インタビューのテーマは別にあったのだが、その途中で彼がF3引退を決めたきっかけに話が及び、短いながらきわめて興味深い証言を得た。残念ながら本来のテーマから外れていたので、編集部に納めた原稿には盛り込めなかったが、その話がわたしの頭にこびりついて離れない。というわけで、ここに紹介する。
彼が出走したのは、マカオグランプリから旧富士スピードウェイに転戦して開催されたインターF3リーグで、身か。ハッキネンをマカオで打ち破ったばかりのミハエル・シューマッハーはもちろん、ハッキネンやミカ・サロら、そうそうたるメンバーが出走していた。確か全出走台数は70台を超えていたはずだ。
彼は練習の時、当時のAコーナーでシューマッハーに抜かれたという。彼はレコードラインを走っており、シューマッハーはそのアウトから仕掛けてきた。彼はシューマッハーはそのままコースを飛び出すと思った。
ところがシューマッハーは真横を向いて彼の前に出てきて、姿勢を立て直すと、100Rへ立ち上がっていった。「すごいな、こいつ」とおもっtかれはシューマッハーの直後について100Rに進入する。すると彼は二度目の驚異的光景を目撃する。
シューマッハーは、富士仕様のセッティング、つまりリヤウイングをとりはずすという強引な状態で高速コーナーにさしかかっている。彼は利湯イングをつけていたから、100Rでは有利のはずだ。ところがシューマッハーはみるみる離れていくのだ。よくよく見ると種マッハ-歯ステアリングを小刻みに動かしている。つまりマシンはグリップを失って飛び出す寸前の状態なのに、シューマッハーはそれをステアリングさばきで押さえ込んでいる。
コースにとどまるためだけの修正舵ならば走行抵抗が増えてスピードはおちるはずなのにシューマッハーのスピードは落ちない.よくよく後ろから見ると、シューマッハーのマシンのリヤタイヤ、つまり駆動輪はきっちりとラインに乗ったまま余分なスリップアングルを付けずに回転している。そしてシューマッハーはアクセルを全開にしたまま100Rを通り抜けていった。
このワザを見て、彼はF3引退を決意したという。いわゆるカウンターステアは、滑り出した後輪を止めるために切るもの(言い換えればドリフトを制御するもの)と思われがちだが、このときのシューマッハーは、後輪を「滑らせないため、つまりクルマは滑る前に」あらかじめカウンターを当てていた。後輪は、滑った瞬間に駆動力が逃げてタイムをロスする。シューマッハーはアクセルを全開にしたまま、余分なドリフトを食い止めて駆動ロスを未然に防ぎマシンから最大の性能を引き出して走っていたのだ。是を見た彼は、「ああ、クルマのドライビングがうまいというのはどういうことなのか、よくわかった」と思ったという。そして自分にそれが出来るとは到底思えないのでF3引退を決意した。
F1に復帰した現在のシューマッハーをどう評価するかは難しいところだが、このエピソードはトップレーシングドライバーのテクニックのレベルを見事に物語っている。フォーミュラ・ニッポン第2戦を観戦するファンは、こうしたテクニックも頭に置いてクルマの動きを眺めてみていただきたい。(大串 信)
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