コンピュータは創造力を刺激する 奥一穂さん [okyuu.com]

こんにちは ゲスト さん | ログイン | ヘルプ | okyuu.com

総合トップ / 特集 / コンピュータは創造力を刺激する 奥一穂さん
okyuu.comは、2010年9月21日正午をもってサービス終了とさせていただきます。また、2010年6月21日正午以降の投稿およびコメント、回答ができなくなりますのでご注意ください。

コンピュータは創造力を刺激する
奥一穂さんのエンジニアライフ(1/2)

「コンピュータは自分の考えをダイレクトに試せる」――天才エンジニアとして国際的な評価も高いサイボウズ・ラボの奥一穂さんは笑顔で語る。世間からのスマートだとの評価には「自分は広く浅くだから」とさらり。
この企画はokyuu.com編集部が現在のエンジニア像をリレー形式で追っていくものです。 (取材・文=編集部)

奥一穂(おくかずほ)
1977年2月21日生 32歳 サイボウズ・ラボ
【略歴】
1997年 Palm OS 用Webブラウザ「Palmscape」開発
1999年 東京大学中退、株式会社イリンクス入社
2002年 M.I.T. Technology Review誌のTR100に選出
2003年 株式会社モビラス 代表取締役就任
2004年 IPA「未踏ソフトウェア創造事業」採択
2005年 IPAにより「天才プログラマー/スーパークリエータ」に認定、サイボウズ・ラボ入社

サイボウズ・ラボ 奥一穂さん

サイボウズ・ラボ
奥一穂さん

――奥さんは国際的な評価も高く華麗な経歴をお持ちですね。そもそもコンピュータとの出会いやITエンジニアになったきっかけは何だったのでしょうか?

奥 最初にコンピュータに触れたのは小学2年生のとき。オーストラリアのメルボルンに住んでいたのですが、地元の小学校で教育用プログラミング言語LOGOを使って図形を書きました。90ピクセル進んで、右に曲がって、それを4回繰り返すと四角形が書けるとか、円を書くなら1ピクセル進んで1度曲がって、と。

 当時流行っていたBASICは、円を描く場合、座標の何ドット目から半径をとって書くという発想だけど、LOGOはあくまでカーソルが動いて書いている。いま振り返るとカーソルを使って円を描く方が自然。こういった視点で最初にプログラミングを始められたのは良かったと思います。

 それからは中学生になるまでコンピュータに触ることはありませんでした。音楽関係の仕事をしている母がMacを買ったので、「HyperCard」でオーサリングに近いことをしていました。「PC-9801」でもHyperCardに近いことをできるようにしたいと、少しCを書いたこともありました。

――四六時中プログラミングに熱中しているような少年ではなかった?

奥 部活では室内楽をやっていたし、特別コンピュータにのめり込んではいませんでしたね。

 むしろ、都市計画や建築に興味がありました。自分は京都で生まれ育ったので、オーストラリアとは街の作られ方がまったく違いましたから。道路の車線も多いし、都市が計画的にどんどん作られていく。メルボルンはオーストラリアの中では古い街ですが、それでも100年程度の歴史しかない。すごく違うな、と。

――そうでしたか。ITのエンジニアになったのは?

奥 結果的に、という感じです。大学に入って初めてインターネットに触ったんですが、システムはあるけどソフトが整備されていないと感じて、コードを書き始めました。

 95年で「テレホーダイ」も始まってないころだったから、学生はみんな実習室に集まってネットをしていた。でも、友達と一緒にご飯を食べに行きたくてもどこに座っているか分からない。そこで、誰がどこに座っているのか、情報を集めて自習室の座席表にマッピングして配信するソフトを作っていました。

 すると、計算機センターの先生から管理を頼まれたり、アルバイトの口を紹介されるようになった。それからWebアプリを書き始めるようになったんです。

評価の裏での苦労

――Palm用のWebブラウザ「Palmscape」を作られたのも確か在学中ですよね。

奥 ええ。そうこうしていると、「PalmPilot」が登場してきた。モデムは売り出したけど、メールもないしブラウザもないという状況。だから、自分でWebブラウザを作ってみたんです。HTMLは、ハイパーリンクでつながっていってMacのHyperCardのオーサリング的な発想とも近かったし。

 当時Palmでネットにつないでいる人は少なかったのですが、海外のPalm用のモデムメーカーがバンドルしたいとか、Palm関係のブラウザを作っている海外のベンチャーから電話がかかってきたり、大変でした。

――海外での反響が大きかったんですね。そういう体験は実際どんなものですか?

奥 うれしいんです、でも自分の場合、大変という方が大きかった。モデムは設定が難しいこともあって、問い合わせの9割ぐらいが「つながらない」というもの。会社やコミュニティに発展させられればよかったかもしれませんが、当時はそこまで気がまわらなかった。「タダで配っているのに、そんなこと聞かれても……」という心境でした。

 引きこもりに近い状態になって、高校の先輩の会社に転がり込んだんです。「このブラウザどうしよう」と思っていたら、ちょうどIBMが日本でPHSを内蔵したフィールド用のPalm端末を出したいのでブラウザを探しているという。それで会社の仕事になった。ちょうどインターネットバブルのころで、「次はPDAだ」と意気軒昂のころですね。

――すべての問い合わせに対応されていたんですか?

奥 返事しなかったものもあったと思います。すると、どんどんたまっていってしまう。今でもこういう事務処理は苦手でして……。

 会社でやるようになってから事務的な面はずっと楽になりましたが、PDA自体がはやらなかったこともあって、ビジネスはそれほど上手くいかなかった。

――PDAははやりそうではやりませんでした。何が悪かったのでしょう?

奥 結局、携帯電話はみんなが持つし、パソコンは必要な人は持っているし、というところなんだと思います。

 それに、ネットにつながらなかったというのは大きいでしょうね。海外だったら「BlackBerry」は今でも頑張っていますから。自分たちの会社でも、ネットにつながらないことを前提にしていました。複数のHTMLページをひとまとめの電子書籍のような形にして、提供できるシステムを作っていましたから。結局、この方法で上手くいったところは日本にも海外にもありませんでしたが。

 ブラウザは、デファクトを取れなければビジネスにはならないんですよね。

――未踏のスーパークリエイタにも選ばれていますね。

奥 PDAビジネスは上手くいかなかったんですが、顧客はいたのでサポートをやらなければならなかった。サポートはそれだけで食べていかれる側面もありますから、別の会社を作って次のビジネスに向けた研究開発をしていた。時間はありましたから、未踏ならお金ももらえるし、面白いことができるんじゃないか、と。

次のページ»クラウドの研究者はWebアプリの問題を分かっていない

新着質問

0
0
回答
0
2
回答
(2010/05/17 19:19)