一陣の風が吹き、一条の光が頬を照らしている。
あらゆる戦機への超克を期して放たれた己の『魔剣』は、同質たる対手の『魔剣』を捉えることなく、その対価として己の身肉を食い破る。
糸を切られたかのように力を失った身体は、当然の帰結として地へと倒れ伏した。
石造りの床はいかにも不承不承というように、硬く、冷たく、己の身体を抱きとめる。鼓膜を震わすその音は、どこか遠くの世界で響いているかのような心地がした。
視線が、宙を仰ぐ。
奇妙な図というべきだろう。たった今、こうして敗北したのは己であり、勝敗はかつての夜の間逆である。
けれども、倒れた身体はかつての夜と同一のもの。
それが、どうにもおかしなことであるように思えた。
急速に力を失いつつある身体をどうにか動かし、あるかなしかの小さな笑みを浮かべる。
「どうだよ。……満足、したのか」
相手は、こくりと首を頷かせた。――馬鹿者め。
その不器用さをいとおしく思いながらも、笑みと共に罵った。
「嘘つけ。馬鹿……不満たらたらなんだろうが。
そりゃそうさ。結局のところ、おれは紛い物のおれだからな。
ほんもののおれじゃない」
図星だったのだろう。
わずかに眉をしかませた相手は、何も口にはしなかったけれども、表情を見るまでもなくその言葉が正しいのだと分かっている。
所詮、己は限りなく真物に近いだけの偽物に過ぎない。であれば、この敗北もまた偽のもの。
「……ち。まったく、手のかかる野郎だ」
舌を打つ。
言葉は罵るように、だがその中には愉快さを込めて。
「ほんとのおれとやり合いたいなら、いつまでもそんなとこに突っ立ってんじゃねぇ。さっさと行くところに行きやがれ。
どのみちもう時間だ。この街も、もう終わる」
その光景が、目に映ったわけではない。
だが、己の身体が血を失いつつあるのとはまた違った所以で、うっすらと消えつつあるのを実感していたし、何より、この都は現世にはあらざる不条理の亡都である。
ならば、その象徴を失った時点で、夜闇に散っていくのは道理であったことだろう。
不死の都は、こうして終わりを迎えるのだ。
そのことをわずかに惜しいとは思ったが、悔やむほどには至らない。さして執着を抱くでもなく、そっと手を伸ばした。
「ほら」
差し伸べた手が握られる。
ほんの刹那、絡んだ手と手は、無数の光へと解けていった。
かつて、はるか昔に振り捨てたはずの郷愁が、今の光景にそっと重なる。
だが、今はそれに浸るよりもまず、相手へと釘を差してやっておくべきだろう。なにしろ、相手ときたら馬鹿者で不器用者なのだ、あるいはまた黄泉路を迷うやもしれない。
まぁ、それもまた一興かもしれなかったが。
「今度は間違えんなよ? うろうろ迷ってると、またぞろ変なインチキで引き戻されちまうぞ。もう知らねえからなおれは。
この先に何があるのか知らねえけどさ……ま、運が良けりゃなんかあるんじゃねえの? なんかあればおれもいるだろ、好きなだけ遊んでもらえよ。
何もなかったら何もないで、もう悩むこともないってこったから、そう悪くもないんじゃねえ?」
そう。ただ、それだけの事。
その程度のことを見つけるために、相手は短くもない旅を続けてきたのである。
穏やかな相手の表情に、己の意が伝わったことを察すると、消えゆく身体にそっと身を任せる。
薄れていく視界の中、唯一無二の友の姿を最後に見収め、すっと意識を手放した。
『聖夜続幕』
上質な天鵞絨を敷いたかのような夜空に、冴え冴えと浮かぶ一輪の月。
煌く星はさながら硝子を散らしたかのように空に彩りを加え、見上げる者の目を楽しませる。
彼が目を開けてまず目にした光景はそれであり、それは同時に、彼の心に無形の感動を呼び起こさせた。
その感動が何に起因するのかは知らぬ。だが、美しい物を見た人間がそれに対してただ美しいと感じるように、その感動は自然と彼の心にすべり込んできたのだ。
彼は暫しの間、ただ静寂のみを友としてその夜空を楽しむ。
やがて、四肢に力が戻り始め、頭に血が通い始めたころ。
彼は唐突に目を覚ました。
彼――武田赤音が目覚めた刹那、抱いた感情はそう複雑なものではなかった。
言葉に起こすならば、せいぜいが二文字で事足りよう。すなわち、『呆れ』という名の感情である。
(伊烏にはああ言っちゃあみたが……まさか本当に次があるとは、思わねぇだろ、普通)
身体を包む草の匂いに、頬を撫でる夜気。
視線の先で、木立の中にぽかりと浮かぶ輪の中に夜空が映っているところを見ると、自分はどうやら倒れ伏しているらしい。
それも、街中というわけではないだろう。
夜空に浮かぶ星の煌きは街中では拝めないほどに強かったし、何より耳に届くのは虫の音を除いて他にはなかったからだ。とするなら、東京のどこか……という可能性は零ではないにしろ、かなり低いものとみて相違あるまい。
要するに、自分がどこにいるのかも分からず、どこに行けばよいのかも分からないということである。
とはいえ、目覚めたものは仕方なく、そして自分がこうしてここにいるのだから、為さねばならないことがあるのも事実だった。
少なくとも、ここでただ倒れ伏していれば自分の目的が叶う――などと言うことはあるまいし、従って、何もしないという判断は非生産的に過ぎるというものだろう。
赤音は口元からわずかに呼気を洩らし、勢いをつけて起き上がる。
その際に、ちらりと視界の隅を見覚えのある薄茶色の影がよぎった。手にとって見れば、それはよく見慣れた己の髪房である。
はた、と思って自分の身体を見下ろすと、そこには着崩したワイシャツと黒い長穿、女物の朱い小袖を纏った姿があった。どうやら、身体は本来の己のものであるらしい。
惜しむらくはその腰に、いや、身体のどこにも己が一部となった差料の重みが見当たらぬことであった。周囲を見回した限りでは、草に木立ちという、森の中という言葉が実によく似合う光景以外は何も見当たりそうにない。
残念なことではあったが、無いものねだりは詮無いことである。首をくくった破産者から金を取り立てようとする暇があるなら、別のことに目を向けたほうがまだしもましというものだろう。
(しっかしまあ……本当、森の中だなこりゃ)
鬱蒼と生い茂る木の群れが月の光を覆い隠している……などということはなく、それなりに見晴らしは悪くない。
とはいえ、森は森に変わりなく、その名前すら知らないとあっては、人里に下りる術など分かろうはずもなかった。
見当もなく歩き回った結果、森の中で朽ち果てて躯を晒す。などということになっては、自分はともかく、どこかにいるであろう伊烏があまりに不憫である。
となれば、まずは生きてこの森から抜け出さねばならないのだが……。
(右も左も分からないってんじゃな。
てか、熊やら狼やらが出たりしねえだろうな?)
刀ひとつで熊を制した剣豪の話を聞いたことはあったが、自分の剣は人殺のためのものある。獣に通じぬとは言わないが、流石に熊や狼を相手取った経験などないから、過信すべきではないだろう。
そもそも、今の自分の手元には獲物の一つさえないのだから、戦うなどという選択ははなから慮外のことであるのだが。
つまり、遭遇即撤退である。それが叶うかどうかは置くとしても。
そして、赤音は獣と駆け比べをして勝るなどという自信は、これっぽっちも持ち合わせはいなかった。
要するに、苦境である。
だが、そんな苦境に置かれながらも、赤音はさほど真剣に己が身を案じていなかった。
別段、自分の命に対する執着がないというのもあったが、最たる理由はそれではない。己がここにいる以上、また伊烏も何処かにあり、そして自分達がいる以上、やがて戦いの場に立つことは決まりきったことである。
何がしかの誓約を交わしたわけではない。だが、それはすでに定まった運命であり、であるならば、こんなところで己が朽ちるわけがないのだから。
理屈ではない、余人が聞けば一笑に付すだろう。だが、それは間違いのない事実であるという確信が赤音にはあった。
「さて」
小さく、口の中で呟く。
とりあえず、待っていても道案内が現れる様子はなかったので、赤音は自分から歩き出すことにした。
問題はどこに向かうのかということだったが――まあ、どこでも構うまい。
空を見上げる。月は今もそこにあり、やや自分から左手の方に浮かんでいた。
「んじゃま、あっちに月が掛かってるから、あっちの方に歩いてみるか」
「いや、いやいやいや! どうなのさその理由?!」
不意に、背後の方から慌てたような、やかましい声が上がる。
その声は高く、女のものである――という思考を抱く前に、赤音は咄嗟に前方へ飛翔。縮地は得意分野ではないが、それでも5mほどの距離を一息で稼ぎ、くるりと地面を一転。視線を己の背後へと向ける。
気を抜いていたとはいえ、自分の背後を取った相手である。油断と共に迎えていいような相手では、断じてなかった。
どのような達人、魔人の類か、あるいは――と、赤音の脳裏に一人の女の姿が思い浮かべられたが、結果は、赤音の予想の外。
そこには、驚きの表情を浮かべた見知らぬ少女が立っていた。