フリーメーソン日本史 |
(最新見直し2007.4.25日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
「阿修羅」の SP' 氏の2001.4.24日付「第三章 日本フリーメーソンの内幕(赤間剛『フリーメーソンの秘密』三一書房)」、「フリーメーソン」、「ヘブライの館」、「フリーメーソン」、村山有・氏の「終戦のころ・思い出の人々」(時事通信社刊)、“フリーメーソン・ライブラリー”所蔵の「日本のフリーメーソン百年史」(日本グランド・ロッジ編)、「人間と世界の改造者(楽園を創るフリーメーソン物語)」(仙石太郎)、エンセン氏の2003.12.25日付投稿「メ-ソンの二大ドンが練る日本支配総戦略計画」(http://www.asyura2.com/0311/idletalk6/msg/650.html )、太田龍・氏の「ユダヤ世界帝国の日本侵攻戦略」、「合気揚げの基礎知識について」、「ユダヤ人基礎講座・補講(4)」、「グラバーと坂本龍馬は、本当にフリーメーソンだったのか」その他を参照する。 2006.1.3日 れんだいこ拝 |
【日本の著名メーソンその1、最初期】 |
幕末から明治維新の激動の背後にあったロスチャイルド派ユダヤの動きを見ないと事態の真相に近づけない。日本が長い鎖国から解かれて開港したと聞くや、諸外国からメーソンがどっと流れ込んでいた。そして明治維新の大きな原動力となった。幕末、日本を支配しようとしていたのはロスチャイルド派フリーメーソン即ちイルミナティーだった。倒幕派を操作したのが英国系フリーメーソン・イルミナティーであり、幕府側に食い込んでいったのがフランス系フリーメーソン・イルミナティーというようにユダヤ特有の両建て戦略に基づき日本攻略作戦を発動していた。彼らは、それぞれ幕府と薩長をけしかけ、日本を泥沼の内戦に持ち込み、内戦で弱体化したのち植民地にしようとしていた。
フランスの全権大使として江戸に赴任したレオン・ロッシュは、「グランド・オリエント」(大東社)を代表し、幕府を援助した。横須賀製鉄所を開かせ、幕府の軍制改革に助力している。倒幕側についたのが、イギリスのメーソン(スコティシュ)のトーマス・ブレイク・グラバーである。グラバーが来日した時には、既に多くのメーソンが入り込み、幾つかの商会が存在していた。彼は長崎の大浦海岸にグラバー商会を設立し、日本茶の輸出から商売に取りかかったが、次第に倒幕諸藩への武器弾薬、艦船の販売へと手を広げ、成功を収めていった。先住の商人達が幕府と密接な取引をしていた為、入り込める余地がなかったからであった。そこで倒幕諸藩に絞った。それが功を奏して、彼はわずか数年で長崎随一の商人となる。(「グラバー考(「明治維新とグラバー」考)」) |
【幕末日本にフリーメーソンロッジが次々と設立される】 |
アメリカ独立、フランス革命、イタリア統一、ロシア革命など、歴史の潮流の裏には必ずメーソンが絡んでいた。日本の近代化もその例外ではなかった。1842年の阿片戦争。この戦争によって英国領となった香港に、メーソンの極東ロッジが創立され、アジア進出の拠点となった。その香港から横浜の居留地警備の為に派遣されたのが、英国陸軍第20連隊だった。この連隊には、軍人結社スフィンクスがあった。アイルランド系の移動式ロッジで、駐屯地でメーソンの儀式を行った。アメリカ、カナダの植民地時代も、こうした軍隊の移動式結社が各地で展開され、その地にメーソンが浸透していった。スフィンクスのメンバーは、やがてメーソンの英外交官や貿易商と共に移動式ではなく、本格的なロッジを望む様になり、1865年、本国に新ロッジの設立を申請している。 幕末に横浜の居留地に英国が持ち込み、続いて神戸、長崎の開港地に英米系のフリーメーソンが生まれた。1866年、明治維新の2年前、それが認可され、日本の横浜にメーソンのロッジが初めて設立された。最初のロッジは横浜に作られた(「日本初のメーソンロッジは1866年、横浜で創立」)。第1回集会には、スコティシュ系メーソンの西インド地区の前副棟梁カートライトが出席し、初代ロッジ長にはウィリアム・モタ、二代目ロッジ長には英国近衛連隊将校G・M・スマイスが任命されている。こうして正式のロッジが横浜に設立されてからというもの、日本各地にい次々とロッジが開設された。 例えば、1869年に「オテントウサマ・ロッジ」(横浜)、1870年に「ロッジ・ヒューゴ・アンド・オオサカ」(兵庫・大阪)、1872年に「ライジング・サン・ロッジ」、こうした各地のロッジを統括する為、1873年、「日本グランド・ロッジ」が横浜に設立され、その初代グランド・マスターにチャールズ・ヘンリー・ダラスが就任している。 |
【幕末日本の最初のフリーメーソン入会者・西、津田】 |
1862(文久2)年、徳川慶喜の政治顧問の西周(にし・あまね)が、津田真道、榎本武揚らとともに幕命でオランダ留学し、法学や哲学、国際法などを学ぶ。1864.10月、西はライデン大学のフィッセリング教授から推薦を受け(入会には、会員の推薦を必要とする)、オランダのライデン市のフリーメーソン・ロッジ「ラ・ベルトゥ・ロッジNo7」に入会している。ライデン大学に西周の入会のサインが残されている。こうして、西が、日本のフリーメーソンの先駆けとなった。 phirosophyを「哲学」という翻訳語にしたのは西周といわれる。他にも「芸術」、「科学」、「技術」、「理性」、「権利」、「義務」、「文学」、「心理」、「科学」となど西洋の抽象概念を次々に日本語に訳出し造語している。西は、かな漢字廃止論者でもあった。五箇条の御誓文も西が草案を書いたし、軍人勅諭も彼の起草と云われている。 津田真道(つだ・まみち、法学博士、衆議院副議長)も然り。西と共にライデン大学に学び、1864.11月、フリーメーソンに入会している。 薩摩藩士五代友厚らもこの頃欧州留学している。五代友厚の「廻国日記(かいこくにっき)」は、五代がパリ滞在中12日間に亙って連日、幕生西・津田両人と面会し共にパリ見物や料理屋通いもしていたことなどを書き記している。西もパリで出逢っている。 1865.12月、西と津田が帰国。1867年、津田真道が「泰西国法論」を発表。1868年の明治維新後、西と津田は、フランス系メーソン人脈の福沢諭吉らと明六社を作り、文明開化に貢献した。他にも英語学校を開いた神田乃武(YMCAの創設者)も然り。 |
【長州藩士の伊藤、井上らがロンドンへ密航】 |
グラバーは倒幕派であり、長州と薩摩に「ヨーロッパの現実」を見せるべく、密航留学を斡旋する。 1863(文久3).5.7日(6.22日)、海外渡航が国禁のところグラバーの手引きで、長州藩士の井上馨(聞多)、伊藤博文(俊輔)、山尾庸三、井上勝(野村弥吉)、遠藤謹助が、ロンドンへ密航するために、英国領事の紹介で英国商船ジャーディン・マディソン商会の船に乗って横浜を出発した。 一行は、上海などを経て英国に到着すると、ロンドン市内に下宿し、ロンドン大学で物理・化学などを学んだ。英国の新聞で「長州ファイブ」と紹介されている。井上と伊藤は、1864(元治元)年.4月の四国艦隊の下関砲撃計画を知って途中帰国したが、残りの3名は数年間学業を続けた。 |
【薩摩藩士の五代友厚、森有礼、寺島宗則らがロンドンへ密航】 |
1865.4月、同じくグラバーの手引きで、薩摩藩の五代友厚、森有礼、寺島宗則など17名がイギリスに密航留学。 |
【徳川慶喜の対抗戦略】 |
徳川最後の将軍となった慶喜は、英国系とフランス系フリーメーソンの日本を内戦に誘いこむ意図を見抜き対抗した。持久戦に持ち込めば幕府に充分勝ち目があったにも拘らず、あっさり大政奉還し、薩長に降伏した。これによりフリーメーソンの目算が外れた。フリーメーソンの手のうちにあって操られていた岩倉具視や木戸孝允が、慶喜にしきりにケンカを売ったが、慶喜は忍の一字で耐えた。慶喜が倒幕派の誘いに乗り、フランスの軍事援助を受けていたら、戊辰戦争は注文通りに長期化したはずである。慶喜は腰抜けと罵倒されることを覚悟しつつあえて政権委譲に応じた。フリーメーソンの企図の対抗上次善の方策だったといえるのかもしれない。 この流れにつき、勝海舟と龍馬が慶喜の大政奉還を建策したことが知られている。これにより、フリーメーソンは倒幕軍を動かすことも、全国を内戦に導くこともできなくなった。「龍馬の裏切り」がフリーメーソンの怒りを呼び、龍馬を暗殺したという説もある。 |
【御雇い外人の動き】 | ||
明治維新後、日本は西洋崇拝の教育となっていた。明治初年頃、数百名の御雇い外国人が来日し、英米独仏等の国籍に分かれていたが、大部分ユダヤ人でありフリーメーソンであった。彼らは、日本をインドや東南アジアのようにユダヤ人の奴隷国とする目的で「近代化」という名のユダヤ属国化に精出し始めていた。 英国公使パークス初め外国大使の多くもユダヤ人であった。彼らは英米独仏などの国籍を以て偽装し、東京帝国大学など高等教育機関をわが物とし法律、経済、哲学などユダヤ人の都合のよいもののみを以て固めた。日本の大学をまだ物心つかない赤ん坊の時代からユダヤの奴隷学問の府としてしまったのだ。 ユダヤ人どもは国立大学に巣食って、帝国大学はついにユダヤの秘密結社フリーメーソンの支部のような形になったと言われる。北大の前身札幌農学校の教頭クラークが(米国)マサチューセッツのフリーメーソンのグランド・マスターであった。 太田龍・氏の「ユダヤ世界帝国の日本侵攻戦略」は次のように記している。
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【伊藤博文ー林董系の動き】 |
明治維新後、伊藤博文が駐英公使の林董(はやし・ただす)にフリーメーソンの何たるかを知るために英国で秘かに入社させた。その結果、日本では外人のみに入社を認め、日本人の入会を禁じることになった。これにより、表向きは戦前には日本人のメーソンはいないことになっている。外国での入会は認められたので、外国のフリーメーソンに入社した日本人は千数百人と推定されている。 |
【小村外相のフリーメーソン加入禁止令】 |
日露戦争当時の外務大臣小村寿太郎は、1908年成立の第二次桂内閣の外務大臣に再任され、幕末以来の悲願の安政不平等条約の改正に着手し、1911年、通商航海条約を調印し関税自主権の回復を果たした。小村はただちに日本人のフリーメーソン加入を禁止し、監視体制をとった。外務大臣辞任後の同年11.26日、く死んでしまった(享年57歳)。 替わってフランス系フリーメースソンと言われる西園寺公望が首相になった。こうして、ユダヤ・フリーメーソンは国家中枢に入り込むことになった。 |
【日本の著名メーソンその2、戦前期】 | |||
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【第二次世界大戦期に於ける「日本解放会議」】 | |
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【日本の著名メーソンその3、戦後初期】 |
【GHQ占領行政による日本人フリーメーソンの組織化始まる】 | |
日帝敗戦によるGHQ占領行政の開始と共に、日本に於けるフリーメーソンの組織化が格段に進められていく事になった。日本にフリーメーソンを進出させたのは、米軍人が主であり、それを助けたのは占領軍の高官メーソンだった。戦後日本の占領政策を推進したGHQ内の軍人のうちいわゆるニューディール派はユダヤ人フリーメーソンであった。彼らは、戦後日本を「理想的未来社会」に改造せんとした。 戦後、日本にフリーメーソンを進出させたのは極東地域で唯一のグランド・ロッジを持っていたフィリピン(マニラ本部)のメーソンだった。フィリピンのフリーメーソンは中国の同胞を援助すると同時に、戦後すぐに日本にロッジを結成した。1947.9.23日、横須賀海軍マソニックロッジを設立、同年10.6日、ファーイーストロッジ(横浜)。
キリスト教をこのように崇めるのはフリーメーソン的ではない。思うに、マッカーサー元帥にあってはキリスト教とフリーメーソンが混在していたのではないかと思われる。米国大統領トルーマンの後釜を狙っていたマッカーサーのこの雑居精神がその後のマッカーサーの悲運を定めることになったように思われる。 |
【「ボーイスカウト運動によるスカウト」】 | |
「フリーメーソンはボーイスカウト運動と共に日本へやってきた」。次のように騙られている。
1947年、三島通陽氏 が参議院議員に当選、ボーイスカウト日本連盟総長となり、皇太子殿下を迎え、戦後初のラリー、キャンプ・ファイヤーが明治神宮外苑で催された。一九四九年、GHQの正式認可で財団法人・ボーイスカウト日本連盟が誕生、第一回通常総会でマッカーサー元帥を名誉総長に推挙、天皇・皇后の臨席で戦後初の全日本ボーイスカウト大会を皇居前広場で催し、郵政省から大会記念切手を発行した。このようにボーイスカウト運動は着々と進み、フリーメーソンとの協調も多かった。(フィリピンの例など人脈が大体メーソンである。) |
【フリーメーソンの宮中工作】 | ||||
マッカーサー元帥は、日本のフリーメーソンを発展させるため、まず皇族を入会させ、次に日本の指導層を獲得、最後に天皇を会員とする腹であった。
これによると、東久邇宮(天皇の叔父、戦後の首相)が皇室最初のフリーメーソン入会者であったことが判明する。プリンス・李垠(夫人は皇后のイトコ)がこれに続いたことになる。
幣原喜重郎氏も列席者として、次のように語っている。
ということである。芝金平氏、笠井重治氏の談話にも二度名前が出てくるマイク・リビイスト氏とは前出の天皇入会の宮中工作を担当していたメーソンの大物だ。一九四九年にアメリカからフリーメーソンの視察官として来日、マッカーサー元帥の腹心の軍人(大尉)であった。 天皇工作がなぜ実現しなかったかについて、次のような推測がある。
この事件とは『読売新聞』昭和二十九年九月十五日付の記事である。リビイスト氏がキャノン少佐帰米後の莫大な日本での“隠匿私財”の管理人、シヤタッタ軍曹を可愛がり、フリーメーソンの三十二位階にしたが、警察はリビイスト氏とシヤタッタ軍曹の関係を洗っているとの内容だ。その後、リビイスト氏はメーソン内部でも問題になり、沖縄に“追放”されたという。 |
【「大物政治家鳩山一郎の入会」】 | |
鳩山一郎氏は公職追放中だったが、マッカーサー元帥の肝入りでフリーメーソンの門戸が開いたと聞き、村山氏を訪ねて入会を希望、「フリーメーソンの精神を日本人にも大いに理解させなくてはいかん」と大変に力を入れた。やがて公職追放がとけ、総理大臣になるとメーソンの第三位階に昇進、水交社で二百人近いメーソン兄弟の祝福を受けた。そのとき鳩山氏は次のようにあいさつした。
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【「日本グランド・ロッジの創設、独立」】 |
マッカーサー元帥は、フィリピン管轄下の日本のフリーメーソン組織をフィリピン側の反対を押し切る形で独立させる働きをした。 「日本人にまかせるようにしなければいけない」と考え、そのため日本人フリーメーソンを「これこそ一晩で上級位階にする処置を取った」(芝金平氏。後述)。マッカーサー元帥(フィリピン系のロッジに属する)は、「日本はフィリピンを武力で征服したが、今度はフィリピンがメーソンの教えで日本を征服するのだ。それは日本人のイデオロギーを改めるだろう」と提案した。フリーメーソンの日本での発展は、「我々が占領していることに関係する民主化目標にとって根本である」とされた。 1950.4.5日、東京アメリカン・マソニックロッジ、スクウェアー・コンパスロッジ、同年同月、九州ロッジ、同年12月、トリイ・マソニックロッジ(名古屋)、1951.2.27日、京都ロッジ、同年10.17日、東京グランド・ハイツロッジと開設していき、独立に至るまで16のロッジを全国に拡大した。 1951.4.27日、グランド・ロッジから代表団が日本を初訪問したが、すでに日本では政府高官、実業界の大物たちが多数参加していた。 |
【「鳩山一郎、河合弥八の二階級昇進」】 |
1955.5.25日、鳩山一郎、河合弥八の二階級の昇進が行なわれた。河合は東京テンプルで午前八時、特別グランド・ロッジが作られ、私どもの代表団により組織された、選ばれた比国代表のグループと地区グランド・ロッジの四人の主だった役員、東京ロッジ、関東ロッジの主だった役員、そしてブラザー・ハル将軍、ブラザー・マックノートン将軍、ルースト将軍が特別ゲストとして出席。もう一方では、臨時に作られた祭壇がおかれている鳩山邸で午前九時から厳粛な儀式が始まった。 午後4時、ブラザー・河合と鳩山は日本のすべてのメーソンとその婦人と共に東京テンプルでのティー・パーティーに招待され、祝福された。特にマッカーサー元帥、ハリー・S・トルーマン前大統領のような著名なメーソンからの祝辞が披露された。ブラザー・鳩山はメーソンの兄弟愛に深く感動し、これからのどんな活動もフリーメーソンの教えに導かれるであろうと私たちに語った。ブラザー・河合も、同じく世界の平和を得ることが、唯一の人類の願いという私たちの友愛精神の崇高な意志を高く評価すると表明した。 5.28日、午前9時、私どもの代表団は司令部でブラザー・ハル将軍に迎えられた。そして、極東における共産主義の潮をくいとめることが、フリーメーソンの重要点であるとの見方を交した」。 |
【「日本グランド・ロッジの国際的承認」】 | |||||||
1957年、承認の方向で動いてくれたグランド・ロッジは、サウスカロライナ、ベネズエラ、イタリア、ミズリー、ジョージア、アラバマ、アーカンサス、ルイジアナ、カリフォルニアなどだった。15のフィリピン系ロッジが全会一致で日本グランド・ロッジの創設を決議した。東久邇宮は、「フリーメーソンの活動が日本の民主化と社会の道徳意識の向上を目ざすため促進せねばならない」と会議で演説した。
当時マッカーサー元帥は、アメリカのサウスカロライナのグランド・マスターだったが、ニューヨークのグランド・ロッジに対して次のような手紙を出している。
1958年、創設大会が挙行された。日本人メーソンの指導者、小松隆氏は次のように演説している。
フィリピンのグランド・ロッジは当時、次のように語っている。
笠井重治氏は山梨県出身で、戦前、シカゴ大政治学科、ハーバード大学院を卒業、親米派の人物である。だ。『マッカーサーの二千日』(袖井林二郎)によれば、笠井氏は戦後すぐGIIのウィロビー部長への有力な情報提供者であり、占領政策の「友好的日本人」と評価されていて、マッカーサー元帥とも知人であった。また、マッカーサーの記念館を作ろうとの運動を起した人物でもある。笠井氏は次のように証言している。
笠井重治氏は1950.1.7日、入会。No.2ロッジに属した。国際産業(株)社長、日米文化振興会会長、フィリピン協会理事などをしている。
日本人のフリーメーソン創設期の事情を知る一人に芝金平氏(朝日イブニングニュース社相談役)は次のように証言している。
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【「入会手法と審査・再審査」】 | |
「自由や平和、民主主義」運動体としてのフリーメーソンが宣伝され、「永久の平和は我々の教えが実行されるなら解決される」、「我々は世界で最も偉大な団体のメンバーである」と自画自賛された。具体的な行動として、「我々はフリーメーソンの教義を日常生活で実践する。一人一人が行動的なメーソンとなり、メーソンの教えを言行一致させる。具体的には、1・すべてのメーソンが兄弟としての連帯を図るためロッジ集会に出席する重要性を自覚する。2・十分練られたプログラムを通じて、メーソンの歴史、組織、活動をよく知る。3・すべてのメーソンはロッジ内外で、あらゆる人間関係を通じ、兄弟愛、救済、真実を伝える。こうしてメーソンの教義を広く世界に普及する」(同、小松隆氏の演説)が基準とされた。
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【フリーメーソン入会式の様子】 | ||
入会式の模様が次のように伝えられている。 1950.1.5日、佐藤尚武、植竹悦二郎、三島通陽、高橋龍太郎、芝金平(後述)らが加わり、荘重なフリーメーソンの入会式が行なわれた。GHQのウォーカー少将ほか多数の人が参列した。 4.6日、芝金平氏と筆者に、日本で最初のマスターメーソンになる栄誉が与えられ、その儀式は占領軍各国の高官など四百名以上が参列して盛大に行なわれ、マッカーサー元帥はとくに最高副官ハフ大佐を代理として出席させたほか、フィリピンからグランド・ロッジ代表ら二十余名も来日して参加した。 4.8日、参議院議員官舎でフリーメーソンのフィリピン代表の歓迎会が開かれ、日本の政財界の名士も多数集まった。席上、フィリピン代表の一人で後に国連大使や中南米、アフリカの大使として活躍し、教育家としても有名だったマウロ・バラディ氏が大演説した。
バラディ氏に対し、日本側から星島二郎氏が、次のように述べた。
星島氏は国会に謝罪決議案を提出、満場一致をもって可決され、それが直ちにフィリピン政府に打電された。これがフリーメーソンの日本でのひとつの働きであった。 |
【フリーメーソン入会の契機】 | ||
「フリーメーソン入会の契機」について、大日本製糖会長の藤山勝彦氏は次のように述べている。
TAC建築設計事務所の高橋真一郎氏は、次のように述べている。
高橋真一郎氏は、米陸軍技術本部日本司令部特殊顧問をへてDMJM設計事務所勤務、TAC建築設計事務所長。韓国大使館、韓国国連ビル、インドネシア、サウジアラビア、アブダビ石油プラントなどの設計キャリアを持っている。 |
【東京メソニック協会】 | |
港区虎の門の第六森ビル。 東京メソニック協会の述丈夫事務局長(32位階)は次のように述べている。
現在、日本グランド・ロッジに所属するメーソンは四千人で日本人は二百五十人と少数である。「外人メーソンの多くはアメリカの軍人であとは在日実業家、ほかはヨーロッパ、オーストラリア、ニュージーランド、フィリピン、韓国、台湾と世界中の人がいます」(述事務局長)。日本人メーソンはそれこそ職業の全分野にわたっているが、在日米軍の軍属二世が比較的多いのが特徴だろう。 |
【「日本フリーメーソン・ロッジ百周年記念」】 |
1966年、横浜のプリンスホテルで、「日本フリーメーソン・ロッジ百周年記念」式典が開かれた。出席者は約200人で、その内の2/3が在日外人だった。席上、直径5センチ程の銀の記念メダルが会員に贈呈されたが、そのメダルにはメーソンのマークと1866年~1966年という年代が刻まれていた。つまり、日本にメーソンのロッジが初めて設立されたのは、1866年。明治維新の2年前だ。横浜で記念パーティが開かれた様に、最初のロッジは横浜に作られている。 |
【日本グランド・ロッジ創設後の、グランド・マスター】 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
日本グランド・ロッジ創設後の、グランド・マスターは次の通りだ(註5)「日本のグランド・マスター」。
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【マスコミ】 | ||
芝金平 | (朝日イブニングニュース社相談役) | |
二宮順 | (朝日新聞記者、ボーイスカウト運動) | |
東ヶ崎潔 | 1950年入会、No.2。ジャパンタイムズ社長、ボーイスカウト運動に活躍、ロータリー・クラブ国際会長。1960年、日本のグランドマスター)。 |
【その他】 | |
植田優、吉井寿雄(貴族院議員吉井勇の息子、松本滝蔵の親族)、武田修、島内敏郎(外交官、サンフランシスコ講和会議の委員)、長田政次郎、北川正恵、小田春海、犬丸徹三(元帝国ホテル社長)、堀内貞一 (神奈川菱油取締役、新日本産業設立、社長。一九五九年日本のグランドマスター)、山本勝夫、増山吉成。 |
現在、日本には北海道から沖縄まで24箇所のロッジがあり、会員には2600人。その内日本人が250人である。意外と少ないように思われるが、政財界のトップクラス、宗教人、文化人、外務官僚、大蔵官僚など、社会的に大きな影響力を持つ人々によって占められている。 永井陽之助(青山学院大学教授)、船橋洋一(朝日新聞編集委員、元北京特派員)、行天豊雄(東京三菱銀行相談役、国際通貨研究所理事長)、八城政基(シティ銀行)、井上薫(第一勧業銀行名誉会長)、宮崎勇(大和総研特別顧問、村山改造内閣時元経済企画庁長官)、千野宜時(大和証券名誉会長)(日本証券協会会長)、西原正(防衛大学校社会科学教室教授)(防衛庁防衛研究所第一研究部長)、天谷直弘(電通総研所長)、永末英一(元民社党委員長、ハーバード大学に留学)、宮沢喜一(元総理大臣)、瀬島龍三(大本営陸軍参謀と大本営海軍参謀を兼務)、向坊隆(日本原子力産業会議会長 日本工業教育協会会長)、石川六郎(鹿島建設名誉会長、日本商工会議所名誉会頭、元・東京商工会議所会頭)、緒方貞子(国連難民高等弁務官 元・上智大学教授 元・国際基督教大学助教授)。 |
自民党の長期政権は、善きにつけ、悪しきにつけて、根回し、派閥、金権主義など、余りにも独特の政治機構だった。メーソンから見れば、これほど分かり難く、扱い難い日本独特の政治機構はなかった。 世界のメーソンの二大ドン、ロックフェラーとロスチャイルドが、遂に本格的な日本包囲網に乗り出したのだ--。 |
【フリーメーソンの慈善団体】 |
「フリーメーソンの慈善」その他を参照する。 フリーメーソンは慈善団体ではないが、日本ではグランド・ロッジや有志のロッジが寄金で作った「東京メソニック協会」を通じていろいろな慈善行為をしている。昭和五十三年度の同協会事業概況をみると次の通り。 1・各種養護施設への寄附。2・各種団体、機関を通ずる慈善寄附。3・災害被災者救援寄附。4・その他の公益に資する寄附。5・直接の慈善活動その他。 フリーメーソンは原則として慈善活動を隠れて行う。フリーメーソンの財政は、ふつうは各ロッジごとの会計で、グランド・ロッジへの寄金行為はあるがそれほど多くはない。裕福なロッジでは、余裕の資金を株や証券にして増収を図っている。 |
【「メーソンのメリット」】 |
「メーソンのメリット」その他を参照する。 メーソン同士の兄弟愛と相互扶助は、さまざまな形である。たとえば、代議士の植竹春彦氏(メーソン)は、「国際会議などでメーソンだとわかると急に親切にしてくれ、交渉がうまくいった」という。また、外国での話だが、戦場で敵味方となり、銃殺寸前のときメーソンとわかって助かった例などがあるそうだ。小さな話では、羽田税関にメーソンがいて、「メーソン同士だと楽に通してくれる」(日本のメーソン)といい、匿名となるともっとさまざまな便利さもあるらしい。 |
「それがメーソンの知恵なのです。ハイソサエティのエリートで占められている英国でさえ、チャーチル首相がメーソンであったと発表されたのは死後でした」 。
(私論.私見)