グーグルブックサーチより危険! 国立国会図書館「蔵書75万冊デジタル化計画」G25月20日(木) 14時10分配信 / テクノロジー - テクノロジー総合
グーグルのブックスキャン問題については、多くの方がご存知かと思います。インターネットの巨大企業であるグーグルが著者に無断で世界中の本をデジタル化し、それをデータベースとして利用しようという試みに対し、世界中の著作権者が著作権をめぐって訴訟を起こしました。一方、日本の国会図書館が所蔵データをデジタル化していることはあまり注目されていません。これは、一連のグーグル問題と同様に、いや、それ以上に出版の未来を大きく左右する大問題なのです。 今年1月1日、改正著作権法が施行され、国会図書館は収蔵データの保存のため、著作権者に無許諾で著作物をデジタル化できることになりました。これまでも、マイクロフィルムでの保存のように、収蔵図書を保存のために紙以外の形にすることは合法でした。しかし、今回の著作権法改正では、紙の蔵書に加え、デジタルを併用することが可能になったわけです。文化庁が「デジタル時代に初めて対応した大規模な改正」であると太鼓判を押すように、国会図書館が掲げた「デジタル図書館構想」は、むしろデジタルを積極的に利用しようというものでした。 そのうえで、国会図書館は今年度、例年予算の約100年分にあたる約127億円を割り当てられ、所蔵する75万冊のデジタル化に取り組んでいくことになった。自民党政権最後の大盤振る舞いで得た巨額予算は、昨年11月の民主党の事業仕分けの目もくぐり抜けることができました。これから国会図書館は、潤沢な予算を背景に、2年がかりで蔵書のスキャンを行うことになるようです。日本で出版された本がほぼ全てデジタル化される日は近いのです。 これほど大規模なことが、いとも簡単に決まった背景に、グーグルのブックスキャン問題があることは間違いありません。遅かれ早かれ、書籍のデジタル化に対応しなくてはいけないのならば、一民間企業ではなく国の機関がやるべきだという意識を政治家と官僚が共有したのではないでしょうか。 現在、国会図書館3館(東京本館、関西館、国際子ども図書館)と権利者団体との間では、デジタルデータの利用について「館内利用にとどめる」ということが合意事項になっています。 ところが、全国各地の公共図書館から、自分たちで所有していない蔵書に関して「国会図書館のデジタル化されたデータを使用したい」という話が出ています(現在でも資料原本の取寄せは可能です)。つまり、国会図書館のデジタル書籍のデータベースに地方の公共図書館がインターネット経由でアクセスしたいという要望です。今後、全国どこの図書館からでも、国会図書館の蔵書を見ることができるという状況が整備されていくでしょう。 そうなれば、もはや全国の公共図書館は新たに図書を買う必要はなくなってしまうということになりかねません。ある種の専門書の市場というのは、全国の図書館がその本を購入してくれるという前提で成り立っています。仮に地方の図書館が専門書を購入しなくなったら、その専門書市場は崩壊する可能性も出てくるのです。 国会図書館は建前として、「(所蔵データのデジタル化は)保存のため」と説明しています。しかし、一度デジタル化されてしまったら、その後、「技術的にも利用可能な状況なのに、なぜその利用を阻害するのか」という(予算を付けた国会、または利用者の)主張に版元が抗うことは、なかなか難しいのではないでしょうか。 話題の書『フリー』には「デジタルのものは、遅かれ早かれ無料になる」と書いてあります。その説が正しければ、デジタル化された国会図書館の蔵書は、タダになりたがるわけです。 これが本当にわれわれにとって良いことなのかどうか。真剣に議論しなければなりません。「安ければ安いほどいい、タダならもっといい」という発想は、かなり危険です。 グーテンベルクが活版印刷を発明して以降、新聞も含めた印刷物媒体は、常に経済行為性を持ちつつ拡大してきました。つまり、紙の媒体はおカネで取引されてきたという意味です。経済行為であるからこそ専業作家が生まれ、経済行為でもたらされたおカネのお陰で、さまざまな創作物が生み出されてきた。印刷物媒体の経済行為を否定することは、文化性や芸術性の成立を否定することにつながりかねません。 実際に、音楽も映画も含め現在の著作物は、産業構造の中で作品を再生産できる仕組みができているわけです。そのことによって、われわれは豊かな環境を享受しています。それを変えるような変化は、急激に起こってはいけません。 「日本国民の英知の結晶がデジタル化され、すべての日本国民が等しく使えるような環境になれば、我が国の知的生産能力が上がる」 このようなテーゼは抽象的にはその通りと言えるでしょう。しかし、実際にモノが生み出される過程は、営利産業のなかで維持されているわけです。そこを破壊するような政策は、コンテンツを生み出す土壌を破壊する行為であると考えます。 デジタル図書館構想は、さまざまな影響を及ぼします。たとえば、個人の閲覧履歴は確実にデータベースに蓄積されます。そうなると、かなりの個人データを国が握るということにもなるのです。 ■グーグルが計画する「閲覧権の販売」 ところで、国及び国会図書館が意識したであろうグーグルによるブックスキャン問題は、いまだ解決の糸口が見えていません。電子書籍がどのように利用されるのかということは、出版社にとっても非常に大きな問題だと思います。電子書籍における従来のサービスは、読者が自分のパソコンにデータを取り込む、ダウンロード型(ネット以前であればパッケージ型)と呼ばれるものでした。その場合は、データはクライアント(購読者)のパソコンにあるわけです。 実は、私は弁護士になる前には新潮社で編集者をしていました。その当時、私はパッケージ型の電子書籍「新潮社の100冊」やダウンロード型の電子書籍を作っていました。これらの電子本のデータは、買っていただいた読者のパソコンにダウンロードまたはインストールされ、保存されているわけです。 ところが、パソコンは通常2〜3年に一度買い換えますね。その度に本のデータを新しいパソコンに移行しなければなりません。これは煩雑な作業です。さらに、再生環境の問題もあります。電子書籍はデータに対応するビューアソフトがあって初めて再生できる。しかし、このビューアソフトが新しいパソコンのOSシステムとの相性が悪かったら、本を読むことができなくなってしまいます。 紙の本であれば普通に保管していたら10年でも20年でも本棚から出せば読めるでしょう。ダウンロード型の書籍は、わずか数年で読めなくなってしまう可能性があるわけです。 一方で、グーグルのサービスの骨格はそういったダウンロード型ではなく、いわゆるクラウド型になっています。常にサーバー側にデータを置き、必要なときにインターネット経由でアクセスして、再生ツールを含めて利用できるという形です。その場合、ユーザーは、パソコン環境の進歩を気にする必要はなく、閲覧権が生きている間はグーグルのサーバーにアクセスをすればいいわけです。つまり、グーグルは本のデータを売るのではなく、データにアクセスする「閲覧権の販売」をするつもりだと考えられます。 これは、グーグル側がかねてから言っている「クラウドコンピューティング」と親和性が高いのです。その都度、アクセスすればいいわけですから、手元にデータを置く意味はなくなるでしょう。グーグルは、自社のサーバーにおいて再生環境に応じた形でデータ送信ができるよう、メンテナンスをしておけばいい。利用者にとっても、ダウンロード型の場合にあるリスクを背負わなくていいということになります。 ダウンロード型は、一冊ごとに値段をつけるという発想と馴染みますが、閲覧型は、“パーソナルライブラリー”のような売り方ができます。一個人はそのような利用はあまりしないかもしれませんが、企業や研究機関は自分たちがターゲットにしている範疇の書籍数十万冊に、いつでもアクセスできる権利を年間いくらで購入するわけです。たとえば、医学書50万冊の閲覧権を1ヵ月1000ドルでグーグルは売ることになる。そうなると、自社で図書館を作る必要はなくなります。一番充実したライブラリーをスペース不要で持つことになるため、大幅なコストダウンになるでしょう。 大量の蔵書をデジタル化するのはグーグルのような一企業が行うべきか、あるいは国会図書館のような国が担当するべきか―。これはある意味、究極の選択です。国民的な議論が必要だと思います。 取材・構成/本山裕記 ■村瀬拓男(Takuo Murase) 1962年、大阪府生まれ。新潮社のパーソナル事業部次長を経て、退社。06年に弁護士登録。おもに知的財産権問題、企業法務一般を扱う 【関連記事】 ・ G2 Vol.3 萩野正昭「ノー・アマゾン、ノー・アップル、ノー・グーグル」
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